西日本新聞Podcast 西日本新聞 鉄ガクの旅
ご乗車ありがとうございます。この番組では、西日本新聞のノリ鉄記者が、鉄道旅の魅力について広く深く、マニアックに語っていきます。
ご案内します。車掌は私、宮下正太郎。旅人は中原岳さんです。中原さん、今回もよろしくお願いします。はい、よろしくお願いします。
早速ですが、今回のテーマを教えてください。はい、今回はですね、西日本新聞の1月4日付、長官一面のトップでお伝えしたニュースについて話していこうと思います。
いましたよ。年明け早々、中原さん、ドーンと署名で書いてましたが、改めてどういう記事だったか教えていただいていいですか?
はい、その時の見出しがですね、長崎の被爆電車、米、つまりアメリカで再起、再び起きると書いて再起という大きい見出しが載ってた記事なんですけども、
そしてあとですね、現地博物館が修復、来館者のせ今かにも、酸化の記憶を伝え続けという見出しの記事を書きました。
この電車なんですけども、以前この哲学の大ポッドキャストでもご紹介しましたけども、私が2024年の9月にアメリカのメイン州というところに行って、そこにある電車博物館に行ったんですけども、
そのアメリカの博物館で保存されている134号という電車がこの記事の主人公です。
少し内容を言いますと、この路面電車はもともと長崎を走っていたんですけども、1960年に日米友好の証ということでアメリカの博物館の方に寄贈されまして、ずっと保存されていまして、
この電車が現在アメリカの方で修復中、再び走れるように修復中であることは、以前のこの番組の放送でもお話ししたんですけれども、実はその後も私この電車に興味を持って色々調べていたら、
どうやらこの電車は1945年8月9日、今から80年前の長崎への原爆投下で、どうやら被爆を経験したようなんですね。
ただ、ひとつ注釈というか注意点があって、このアメリカで保存されているこの134号全体が被爆したわけではないんですよ。
というのも、この電車なんですけれども、電車というのは大体ボディがある車体部分と、その下側の台車とかモーター、ざっくり言うと上下で分かれるような構造になっているんですけども、
この1月4日付けの記事の冒頭でもちょっと書きましたが、この電車で実際に被爆していると見られるのは、台車とかモーター、あまり目立たないんですけども、下の部分がどうやら被爆したようだということが分かったので、今回記事を書きました。
そうなんですね。この今動画をご覧の方は、今写真に実際に写っているんですけど、中原さんは実際に見て撮ってこられたっていうことですね。
中原 そうですね。これは2020年9月に私がアメリカのメイン州のC州アトラリーミュージアムというですね、路面電車の博物館に行ったときに実際に私が撮ったものですね。
今のお話を聞いたら納得するんですけど、被爆したと言われても、この車体部分、上の台部分が綺麗に残っているので本当かなと思ったんですけど、確かに下のモーターや台車の部分の話というと。
中原 はい、そうなんです。そこは少しややこしいんですけども、もう少し詳しく言いますと、この路面電車の車体部分、つまりボディの部分はですね、もともと大阪の方で走っていて、明治時代の終わり頃に作られたものなんですけども、大阪で走ってまして、その後ですね、このボディ部分に関しては福岡市を走っていた福博電車というですね、後に西鉄福岡市内線という福岡の路面電車の会社に譲渡されたという経緯がある車体なんですね。
一方でこの台車やモーターというのは、1912年に作られて、もともと大阪で活躍していた別の電車だったんですけども、1939年に長崎へ譲渡された。つまり太平洋戦争が始まる2年前には長崎に来ていて、1945年8月9日の長崎に原爆が投下された時は長崎にすでにいたんですね。
ただですね、この台車とかモーターの部分に関しては、もともと完全体の電車だったんですけども、その上半分の戦前に長崎に来た方の電車はですね、車体が老朽化してきまして、交換が必要になったんですね。
そんな時にこの台車やモーターを再利用しつつ、その日鉄からですね、車体部分をもらうことで、1953年に長崎で車体部分と台車とかモーター部分を全然違う経歴の電車をガッチャンコして、現在の134号が出来上がったということなんですね。
台車モーター部分って生きてたっていうか、その熱で変形していたりとか、そういうことはなかったんですか。 そうですね。長崎もですね、いわゆる爆心地がある浦上地区のあたりは、ほぼ焼け野原になってしまいの大きい被害を受けたんですけれども、少し離れた眼鏡橋とか、今西浜の町とか浜の町アーケードとかは、中心部の方はですね、比較的もちろん大きい被害が出たんですけれども、建物が全焼したところもあれば、残ったところもあったりとかして、
比較的ある程度元気をとどめた状態で生き残った路面電車も多くあったそうなんですね。なので、おそらく台車やモーター、もともと長崎に戦前からいて被爆したであろう、もともとの電車の方が被爆当時どこら辺にいたのかっていうのははっきりしないんですが、おそらく浦上地区ではなく眼鏡橋や西浜の町などがある、いわゆる繁華街の方にもともといたんじゃなかろうかと思われます。
一方で爆心地近くを走っていた電車は、台車ごと丸ごとバラバラになった写真も残ってますので、おそらくもともと爆心地付近を当時走っていたものではないのではないかと思われますが、いずれにしてもこの電車は、モーターや台車は修理して使えるぐらいの状態で生き残ったということになります。
これはもともとポートキャストでご案内していた、以前長崎で走ってた車両がアメリカの博物館に飾られているというところでも一つニュースだったと思うんですけど、それがさらに今回被爆もしていたっていうことがわかったというのは中原さんこれなかなかの得だねなんじゃないですか。
そうですね。というのもですね、もともとこの現地の博物館や65年前に西日本新聞が寄贈された時にも記事もあったんですけども、この電車は繰り返しますけどもともと大阪で走っていて、戦時中の頃は福岡を走っていて、戦後に長崎に来たという話が現地の博物館だとか、寄贈当時の西日本新聞の記事もそうだったんですけども、
一方でですね、もともとのこの路面電車を持っていた長崎電気軌道の社紙、会社の歴史をまとめた社紙を読むとちょっと違うことが書いてあって、そこでなぜ現地博物館と長崎電気軌道の社紙では説明がずれてるんだろうかってちょっと疑問に思ったんですよね。
で、いろいろと調べだとか長崎電気軌道の方に話を聞いたところ、どうやらこの台車やモーターに関しては戦前から、戦前と言いますか太平洋戦争が始まる2年前から長崎にいて原爆投下を経験して、戦後に福岡の日鉄からもらった車体とガッチャンコして現在の134号になったということなので、なので現地博物館の説明はあくまでも車体にフォーカスした話。
長崎電気軌道の社紙は台車とかモーターにフォーカスした話ということで、だから書いてある内容説明が違っていたということで謎が解けたということですね。
ですのでこの長崎電気軌道から送られたこの134号この台車部分は実は被爆していたということになるんですね。
しかもですね長崎電気軌道の路面電車に詳しい方にお話を聞くと長崎ではそもそもこの被爆電車っていうのが残ってなくて、この路面電車っていうのは廃車になった後も幼稚園とか公園とかで記念に保存されることもあるんですけど、