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西日本新聞鉄ガクの旅、ご乗車ありがとうございます。
この番組では、西日本新聞が誇るノリ鉄記者が、鉄道旅の魅力について、広く深くマニアックに語ってまいります。
ご案内します、車掌は私、宮下正太郎、旅人は中原岳さんです。中原さん、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いいたします。
今回はですね、前回に続いて、アメリカの博物館で保存されている長崎の路面電車があるという話だったと思うんですが。
はい、そうですね。私が今回も、2024年の9月に、夏休みとしてアメリカに行ったんですけど。
その最大の理由が、このアメリカのメイン州のケネバンクポート市というところのシーショアトロリーミュージアムという路面電車の博物館で保存されている長崎の路面電車を見に行くことだったんですね。
まずこの地理的なところでおさらいなんですけども、ケネバンクポートというところがメイン州にあるんですけど、
そのメイン州はどこかというと、アメリカの東海岸の一番北側ですね。ほぼカナダの国境に近いところなんですけども。
そこの、割と小さな町でケネバンクポートというところがあるんですが、そこにシーショアトロリーミュージアムという路面電車の博物館があります。
その路面電車の博物館にあるコレクションの一つが長崎から1960年、今から64年前に寄贈された路面電車なんですね。
現地では長崎No.134、134号ということで紹介されていました。
この電車は今の路面電車に比べるとちょっと小型でして、色でいうと上半分がクリーム色、下が深い緑色ということでなっています。
前面の方に窓が3つついてて、ヘッドライトが1個ちょこんとついてるような、そういう可愛らしいスタイルの電車なんですけども。
この電車に前から会いたくてですね、ずっとうずうずしてました。
というのも2020年の夏に行こうかなと思ってたんですけど、ちょうどその頃新型コロナウイルスが流行してまして、これはいけないなと思って。
ずっと構想は温めていたんですけど、ようやく行くことができるようになってですね、今回行ってまいりました。
アメリカに行くのが初めてなんですよね。
そうです。アメリカに行くのが初めてなんですけども、ニューヨークにも大谷選手にも目もくれず、メイン州のこの博物館に。
車両に会いに行ったっていう。
会いに行ったんですよ。この路面電車はなぜそもそもアメリカに行くことになったのかというところなんですけども。
先ほど言いましたように、1960年に現地の方に寄贈されているんですが、なんと当時の寄贈の様子が、西日本新聞の長崎版で取り上げられていました。
そうなのか。
当時ですね。もちろんモノクロというか、今見たらカラーじゃなくて白黒の紙面なんですけども。
1960年、昭和35年4月26日付けの西日本新聞長崎版にですね、電車134号、米国で陰居というですね、そういう出しで記事が載っておりました。
この当時というと、1960年、まさに戦争が終わって15年ぐらいの時代ですね。
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なのでこの時のですね、長崎県版を見るとですね、広告も懐かしくて、王と三人が広告に載ってたりとか、時代を感じさせるんですけども、
その同じページにこの電車134号、米国で陰居という記事が載っておりました。
この電車のことを改めて紹介すると、もともとですね、作られたのが明治時代の終わりの頃だったんですけども、最初はですね、大阪の方を走ってたんですね。
その後、福岡の西鉄の市内電車、福岡市内線の方に、路面電車の方に遺跡というかですね、人間で言えば転勤みたいな感じで移りまして、戦後になってですね、この車体部分は長崎の方に持ってこられたというところになります。
当時やっぱり長崎というと、原爆が投下されて町が壊滅したので、もちろんたくさん路面電車もですね、焼けてしまったんですけども、
そういった戦後復興の一環で、この電車は福岡から長崎の方に譲られたということなんですね。
その後、長崎でしばらく走ってたんですけれども、当時ですね、アメリカの方に博物館が、日本の路面電車を探しているという話があったらしくてですね。
もう一つですね、この記事によると、アメリカの新中軍の軍人の方が、電車に興味を持った方がいたらしくて、
この電車がですね、モーターや車台、台車のことだと思うんですけど、台車の歴史的存在にも目をつけて、圧戦して、この路面電車が選ばれて、アメリカに送られたそうなんですね。
そこからラブコールがあったわけですね。
そうですね。この新中軍の人が目をつけたというモーターや台車なんですけども、おそらくですね、このモーターや台車って調べてみると、どうもアメリカ製だったみたいなんですね。
やっぱり戦前の日本っていうのは、そこまで技術が発達してなかったので、初期の頃の路面電車って部品の一部がアメリカ製だったりするんですよ。
なので部品単位で見れば、この電車は里帰りしているという言い方もできるんですけども、そういったこともあってですね、
電車は長崎からアメリカの方に移動したんですけど、ただですね、この移動する時の様子が面白くて、
これも西日本新聞の当時の記事にも載っているんですけど、電車ごと折りに入れられたような。
そうなんです。今画面上に映っているんですけど、写真を見る限り車体というか車両は見えないなというふうに思っていたんですが、これはその電車そのものなんですか?
はい、そうなんですよ。動画でご覧いただいている方は見えていると思うんですけれども、電車そのものを運ぶ時は別にそのまま船に乗せちゃえばいいんですけど、
この電車は太平洋を横断しているわけですね。太平洋というとやっぱり沖の方にいると波が高くなるので、やっぱり電車を壊してはいけないと。
大切なものだからということで、わざわざ大事に専用の折りのような箱を作って、現地まで運ばれていったそうなんです。
そうなんですか。そもそも中田さん、よくこの記事を見つけましたね。
そうですね。この電車が長崎から米国に譲られたというのは前から知っていたので、日付さえ特定すれば当時の西日本新聞に載っているんじゃないかなと思って見てみたら、やっぱり載っていたという。見つけましたね。
すごい鉄ちゃんのやる気というかですね、モチベーションすごいなという。
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当時は記事に署名とかないので、どなたが書かれたかわからないんですけど、当時の西日本新聞の大先輩のこの記者の方には感謝しかない。
大事な記録ですよ。
そうですよね。
現地で長く保存されていて、この路面電車の博物館は実は敷地内に本物の線路があって、河川も敷かれてあるので走らせることができるんですね。
実際この長崎から送られたこの134号も現地の敷地内を走っていたらしいんですね。
今は車庫の中で動かない状態で保存されているんですけども、現地に行くとちょうど今まさにこの電車を修復する作業が進んでいたんですよ。
もちろん外側の、この電車は木造なので木でできているんですけども、木造の木の板とかにしっかりペンキで色を塗って、ほぼ新品同様に近いような形で。
傷んだところはその部分だけ新しい部材に取り替えるとか、大事に保存しようとしている姿勢が伺えて、先ほど電車を檻のようなものに入れて運んだその大切さを守った精神というのは今も生きているなというところなんですね。
しかも現在もこの電車の側面には長崎の路面電車の会社のマークが今も復刻されていたりとか、134というこの電車のナンバーもしっかり刻まれていまして、
車内の方も割と現形を留めていて、当時のコントローラーだとかそういったものもきちんと残っていまして。
一方でよく見ると、結構老朽化しているんですけども、ところどころ新しい木の板がはめられたりとかしていて、
現地のアメリカ人の方もアメリカ人の博物館のスタッフも当時のものを忠実に再現しようとしている、そういう姿勢が伺えました。
確かに剥げていたりするところはところどころにあるんですけど、全体としてはすごく綺麗に磨かれているということですね。
そうですね。なのでそれほどアメリカの方はこの134号を大事にして、今まさに修復しているというところで。
実際、中の方も見せてもらえたんですけども、この吊り革だとか当時の椅子でしょうかね、座席も残っていて、
本当に現地のあるいは長崎の路面電車へのリスペクトというのがよくわかるようになっていました。
この電車なんですけど、現地のアメリカ人のスタッフの方と、私はあまり英語ができないのでアプリを使って翻訳しながら聞いてたんですけど、
現地のある修復のスタッフの方が言われてあったのは、最近この路面電車のコントローラーを結ぶ線の一部から、
その線を覆っていた部材から、おそらくオリジナルの竹が出てきたという話があったんです。
つまり、ワイヤーのようなものを守るために、竹で代用して守っていたという、そういう部材が今頃になって出てきて、めっちゃ驚いたという話をアメリカのスタッフの人が聞き取れたんですよ。
ベリーサプライズドとか言ってたからですね。
そちらの方も驚いていたし、中原さんも結構感動しましたね。
まさに長崎とか福岡を走っていた頃の部材が、今になってまた見つかったというところなんですね。
これは車両の中にまで中原さんが入れたんですか?
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そうですね。この博物館に行く前から、今この車両どうなってますかという問い合わせを、英文のメールを博物館に送っていたら、
現地に行ったら、スタッフに聞いてくれたら案内しますよという返事があったので、現地の方に行って、中原さんに見せてほしいと言ったら、
まだ作業中だったんですけど、中に入れてくれって見せてくれました。
ちょうどこの電車の周りでは、スタッフの方がお掃除したりとか、足場のようなものを組んで修復している途中だったんですね。
この電車なんですけども、先ほど長崎から送られた電車というふうにお話ししたんですが、
長崎というと被爆地、原爆弾が落とされた地ということで、実は現地の博物館の建物の中でもこの電車がパネルで紹介されていたんですけども、
一応、長崎に原爆が投下された話については一言一応触れてはあったんですよ。
長崎に原爆が投下されて、その後戦後復興のためにこの電車は長崎にやってきたんだという話があってですね。
あと、現地でこういった修復プロジェクトの一環で、この電車のことを伝える版画のようなものを作ったらしいです。
現地の学生さんたちがですね。
その版画の中では、実際に原爆投下当時に運転手をしていた方のお話を元にした版画を作ったということも紹介されていて、
アメリカというと原爆を投下した国で、あんまりそういう原爆の歴史って触れたがらないというふうによく聞くんですよ。
例えば、最近公開されたオッペンハイマーという映画でも、あまり原爆の被害というのはそれほど重点的には取り上げられなくて、
ある意味観客の想像に任せるような描き方をされていたんですけども、
アメリカのこの博物館でも、それほど何人が亡くなったとか、なぜそういうことになったのかという説明は確かになかったんですが、
その長崎が被爆地であるというところは書かれていてですね。
長崎の戦後復興にこの電車は役に立ったんだという趣旨のことが紹介されていました。
ただ、この現地のアメリカ人のスタッフに拙い英語でですね、
長崎に原爆が落とされた歴史は知っているかと聞いたら、それはあまり知らないということだったんですね。
なので、この電車を修復しているのは別にそういった歴史を背負っているからというわけではなくて、
日本から送られた大事なコレクションだからという趣旨が強いんじゃないかなというふうに思いました。
この電車なんですけど、今こんな感じでピカピカにしているんですが、
現地で聞いたアメリカ人のスタッフの方によると、どうも来年の夏までにはこの修復作業を全部完了させて、
もしモーターを復活させることができれば、もう一回走らせるようにしたいということで。
そうなんですか。実際は展示のみということですか?
現在はこの車庫の中で展示しているだけなんですけども、
確かにこの展示してある線路はですね、外と繋がっているようなふうに見えまして、
もし来年の夏以降行ったら、動く姿が見れるかもしれません。
それはまたなかなかここまで行かなきゃいけないんじゃないですか。
そうですね。行きたいですね。どうでしょう。
でも10年後になるかもしれませんけど、やっぱり動いている姿はまた見てみたいなというふうに思います。
なるほど。
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ということで、今回はアメリカの北東部、メイン州で展示している、
メイン州の路面の植物館で展示されている、長崎から送られた路面電車のお話を重点的にしましたけれども、
今後もアメリカの旅というのはまだまだ続きますので、ぜひ次回も楽しみにしていただければと思います。
では次回もご乗車お待ちしております。