沖縄慰霊の日と沖縄戦の悲劇
はい、sasayukiです。
ながらキャストを始めます。 この番組は、自分大好き59歳の私、sasayukiの声のブログ、声の日記です。
通勤途中に歩きながら収録してますので、息がハァハァ上がったり、周りの雑音・騒音・風切音などが入ったりしますが、何卒ご容赦ください。
どうもやはり花粉なのかPM2.5なのかわかりませんが、目が痒かったり、鼻が出たりします。
この鼻をすする音がまあまあ入っちゃってますけど、ごめんなさい。お許しください。
曇ってますね。今日は気温は上がりそうなんですけど、 薄曇りっていう感じですね。
今朝、出かけに神さんから
布団畳んでないって指摘されまして、
ちょっとズルして、やらずに済まそうかなぁなんて思ってたんですが、
鋭く指摘されて、今布団をあげてやってまいりました。
本当はね、朝洗濯物を干すところまでやらなきゃいけないんですけどね、ちょっと最近
朝起きる時間が後ろに来ちゃってるんで、その辺がうまく回せてないですね。
ちょっとどうも、夜の方にシフトしちゃってますね。
寝る時間がだいたい12時回っちゃってるんで、
本当はね、11時過ぎたら寝るぐらいの感じがいいんですけどね。
ちょっとこれはなかなか直らない課題です。
今日はですね、ちょっと話は全然変わるんですけども、6月23日ということで、
沖縄慰霊の日という日なんですね。
それにちなんで、ちょっと そのことについてお話しようと思います。
僕が働いている店のブログで、定期的にこの日近辺に
上げている記事がありまして、それをね、ちょっと見ながらお話しようかなと思います。
6月23日は沖縄慰霊の日ということになっています。
これはですね、1945年のこの日、6月23日ですね。
6月22日という節もあるそうですけども、その日に日本軍の牛島司令官が自決して、
組織的戦闘が終結したという日なんですね。
この時に牛島司令官が、最終命令として最後まで戦えと命じて、それで自決したということで、
その最終司令、最終命令みたいなものだけが残ってしまって、
その後も、つまり一番偉い責任者がいない中で最後まで戦うっていうことを命じられた。
そのことで沖縄戦の悲劇っていうのが、より拡大してしまったっていう風に言う人もいます。
岩波ジュニア新書の中の一冊で、「悲鳴売りの沖縄戦」っていうのがあるんですけども、
そこに結構詳しく載っています。 そこをちょっと読んでみようかなと思います。
住民戦没者はなぜ多いか。 村上…
なんて読むのかな?
有無の有に慶は… あれですね…
有慶さんかな? 4月上旬から5月下旬までの主力攻防戦こそが沖縄戦でした。
日本軍の主力部隊の70%はこの攻防戦で死んだり傷ついたりしました。
中略。 5月28日、つまり1ヶ月前ですね。
第32軍は朱利の司令部を撤退し、南部のマブニエと司令部を移しました。
この時点で軍隊同士の戦争の勝負はついていました。 またこれで中略かな?
ところが日本軍は南部戦線で軍民、
要は軍人と民間人、軍民混在となって戦争を続けたのです。
このために死ななくてもいい多くの人たちが死んでいったのです。
中略。 朱利で沖縄戦を終えていれば半数以上が死なずに済んだのです。
ここで一旦ちょっと途切れます。
ひめゆりの沖縄戦という本、 岩波ジュニア新書の中からの引用を続けます。
ちょっとかぶりますけど、
ちょっと重ねますね、さっきの引用と。
ところが日本軍は南部戦線で軍民混在となって戦争を続けたのです。
このために死ななくてもいい多くの人たちが死んでいったのです。
中略。 朱利で沖縄戦を終えていれば半数以上が死なずに済んだのです。
そのチャンスは何度もありました。
米軍は牛島司令官に対して再三にわたって幸福勧告を伝えています。
でも牛島司令官は最後まで幸福をしなかったのです。
6月19日には最終命令を出しています。
ちょっとこれ読めないんだけど、各部隊は各局地における生存者中の上級者、これを指揮し、
最後まで戦闘し、有給の大義に行くべし、こういった内容だったようですね。
最後まで徹底抗戦し、玉砕せよと命じたのです。
6月22日の牛島自決後も、さらに8月15日のポツダム宣言受託以後も、
多くの軍人、住民が死んでいかざるを得なかった原因がここにありました。
姫入りの沖縄戦より。
とりあえずここまでにしますけども、この書いた方、この牛島司令官の判断が
より多くの人を巻き込んでしまったということで書いています。
僕もこれを読んだ当時は、この牛島司令官に対してめちゃくちゃ、なんで降伏しなかったんだという思いがすごく強かったんですけども、
その人にはその人の立場があり、そうせざるを得なかったのかもしれないし、
牛島司令官の最終命令
ちょっとそれは何とも言えない、個人の責任に帰結しちゃっていいのかっていう気持ちもあるので、これは何とも言えなくて、あくまでも一つの視点だなとは思います。
もっと違う見解もあるでしょうからね。
ただ、これを読む限りは確かになと。沖縄戦の悲劇と呼ばれる部分、この後ですね、起こったっていうことはやっぱり認識しておいた方がいいかなとは思っています。
この後というのは、その牛島司令官が自決したこの6月22、23以降に、また多くの人々が死んでいったというところは、覚えておいた方がいいんじゃないかなとは思います。
先ほどはですね、ちょっとバランスをとるようなことをあえて言ってみたんですが、実はね、もう少しこの話は続いているんですね。
そうするとですね、いかにやはり司令官が残した言葉が悲劇を生んだかっていうことがわかると思います。
6月17日、米軍司令官バックナー中将が牛島中将に降伏の勧告をした時点では、姫売学徒の犠牲者は11名だった。
その翌18日、学徒隊は陸軍病院から解散を命じられた。
19日には現在の姫売の号でガス弾を放り込まれて職員生徒35名が無残な最後を遂げた。
その他多くは沖縄最南端の弾劾に追い詰められて命を絶ったのである。
姫売の塔に祀られている学徒は194名。
なんと悔しい思いか。牛島司令官は19日、最後の一兵まで戦えとの最終司令を出し、
22日、間舟で自決しました。
住民の命を守らない軍隊は民衆を巻き込み、
軍民混在となって南部へと戦争を引き延ばしたために、死ななくても良い人たちが死んでいったのです。
これも姫売の沖縄戦という本からの引用です。
姫売の沖縄戦とその後の影響
はい、そんなわけで今日は6月23日。
沖縄慰霊の日っていうことで、それにちなんで
岩波ジュニア新書の 姫売の沖縄戦という本
の中から ちょっとずつ引用しながらお話をしてきました。
まあ 今もうずいぶん
そこから時間が経ってしまって 姫売の生き残りの方たちも
かなり高齢化しているっていうことで、今朝のニュースでもやっていたんですけども
どんどん失われていってしまう 危険性、危機が迫っているなという気はしています。
とりあえずこの本はとってもおすすめなので、機会があったらぜひ読んでほしい。
実際に姫売にいた人の手記の 日記というかそういう形で書かれていて、その時の
怖さとか無誤さが 伝わってくるような
本ですね。 あいまいまにさっき読んだようなちょっと客観的な解説なんかも入っていて
ミクロな視点、つまりその現場にいた人ならではの リアリティとちょっとこう
後から俯瞰してみたマクロな視点という両方の目で 見ることができるっていうのがすごく
よくできているなぁと思います。 あとはですね、あの
千年画法のキョウマチコさん。 キョウはトゥデイのキョウで、マチコさんはマチがカタカナですね。
キョウマチコさんの漫画でコクーンっていうね COCONっていう漫画があります。
これもやはり沖縄をお舞台にした
若い女性の物語 なんですね。まあこれも
僕も買って 読んだんですけども
これもまああの 機会があったらぜひ読んでいただきたいなぁなんて
思います。
あえてそこを見る っていうのはね
勇気のいることなんですけども
何も知らないで いるよりは
こういったことがあったんだっていうのを知るっていうことは やっぱりすごく大事じゃないかなと思います。
それをね、この6月23日という日に思い出すっていうことも必要なんじゃないかなぁと思ったりします。
だからなんだと言われると
なんともね
言えないものがあるんですけども、やっぱりそういったことを
思い起こすことっていうのは
大事なことじゃないかなぁとは思っています。 まあちょっと今日ね、聞き取りづらかったかもしれません。もしかしたら申し訳なかったです。
ちょっとね、この自分が書いたブログの記事をうつむきながら読んでたんで、ちょっとね、あの
いい感じにはしゃべれなかったかな。 原稿もしくは台本があるとこんな感じになっちゃうんだよね。
なんか読むっていうのはちょっとやっぱり レベルが高いですね。難しいです。
はい、でも最後までお聞きいただきましてありがとうございました。 今日はここまでです。ではまたねー。
アリベレルチー!