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こんばんは、もとです。
最初に聞いていただいたのは、鐘の音。平和の鐘ですね。
鹿児島県のチランというところにある特攻平和会館にある鐘なんですね。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれないんですけど、
太平洋戦争の最後の方で沖縄にアメリカ軍が攻めてきた時に
特攻隊が飛び立った基地があったのがチランなんですね。
今日はそこに見学に行ってきました。
少し前に、横にある広場に遊びに来ていました。
ちょっと遅い花見という感じでしたけど、
その時に息子と話をしていて、横に戦争の平和会館があるから
今度はゆっくり見に来てみようかって話をしていたんですね。
それを今日行ってきました。
特攻は特別攻撃隊、特攻隊ということも私は知らなくて、
他にはですね、若い人が特攻隊に選ばれて
自らの命と共に突っ込んでいたというのは知っていたんですけど、
一番若い人だと17歳、それから20代の人たちが選ばれて、
もちろん燃料も少ないし、人も少ないし、戦闘機も少ない。
そんな中でどうやって戦っていこうかということで、
戦闘機ごと爆弾のような使い方ですよね。
突っ込んで行って攻撃しようということで。
しかも帰ってこない前提なので、息の燃料しか積んでいないとか、
あとは突っ込むだけなので練習用の戦闘機も使われていたとか、
そんな話がいろいろあってですね。
そしてこの平和会館には特攻していった人たちの顔写真であったり、
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衣装、あとは家族に向けて書いた手紙とか、
あとは身につけていたものなどが展示されていました。
あとは戦闘機の残っていたものであったり、
エンジントラブルで海に不時着したものを引き上げて残っていた部分だけが展示されていたり、
あとは三角兵舎といって、
突攻の出番が来るまでの間、みんなで寝泊まりしておく。
しかも敵に見つからないように屋根の裾の部分を長くして、
あとは屋根に木を乗せたりして、相手から見つからないような寝泊まりする場所ですね。
そういったものの模型というか、再現したものが展示してあったりですね。
そういったところになります。
私は鹿児島県に住んでいるので、こういったところがあるということは知っていたし、
子供の頃、一度学校の活動として行ったことはあるんですけど、
やっぱり記憶も薄れていきますし、
なんか展示してあったなとか、そういうことは覚えているんですけど、
太平洋戦争についてとか、衣装とか写真を見たときの受ける衝撃というか、
そういうものはちょっと忘れていたんですね。
久しぶりに、もう20年以上ぶりに行きまして、
やっぱりですね、すごく悲しいというか、いたたまれないというか、
戦争が起こってはいけないことなんだとか、そういう感情じゃなくて、
本当にですね、亡くなった方、特攻をしていった人たちの気持ちを想像してみると、
ものすごく気持ちが沈んでしまうというか、そういった感覚がありました。
自分が命を脅すことが分かっていてですね、ただ出番を待つだけ。
どんな気持ちだったんだろうって、想像しても想像しきれないですよね、おそらく。
10代とか20代なので、母親にあてた手紙が展示してあったりですね、
あとは寄せ書きでですね、万歳とか書かれているんですよ。
でも、本当に万歳って思っていたわけはないと思いますよね。
いくらお国のためとは言っても、納得できるわけはなくて、おそらく。
納得、無理矢理させて、納得したような気持ちになって、
自分を奮い立たせていたんじゃないかなと。
もうすごく昔の話、80年くらい前の話になるんですけど、
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全然駆け離れた時の話じゃなくて、
私の祖父のお兄さんという人が、実際特攻隊として飛び立って行ったらしいんですよね。
なので、そんな話もあったんですけど、
子供ってすごく感受性が高いみたいで、
息子も途中ですごく苦しくなったというか、怖くなってきたということで、
もう出たいっていうことだったんで、
30分くらいでしたかね、中を見学して回って、もう出てきました。
そしたら、お父さんが、
入り口の近くに、ちょっとお店というか、販売しているコーナーがあったので、
そこで本を買いました。
で、本を買った時に、
お父さんが、
お父さんが、
お父さんが、
お父さんが、
販売しているコーナーがあったので、そこで本を買いました。
2冊買いまして、
1冊が、特攻の町チラン、最前線基地を彩った日本人の生と死ということで、
これを買ってみました。
これは、亡くなった人であったり、生き残った人はいないかな、あとは残された人、
そういった人たちが、
どういった経緯で、
そういう道を辿ったのかとか、
そういう話ですかね、おそらく。まだちょっと読んでないんですけど。
もう1冊が、
ホタルカエルという本で、ちょっとこれはですね、タイトルからは想像しにくいと思うんですけど、
このチランの特攻基地の、
軍の指定食堂であったところのですね、経営していた鳥浜富さんという方。
割と鹿児島の中では有名な方なんですけど、少し前までですね、そのお店が残っていたんですね。
その方とその家族がですね、体験を交えて書かれたものになっています。
ちょっとこれを読んでみてですね、太平洋戦争に行き着くまでの世界の歴史的なところであったり、
あとは日本のですね、政治的な判断というか、
なぜ戦争が終わりかけの時期に特攻をするということになったのか、この作戦を始めることになったかとか、
そういったところを少し知りたくなってきましたね。
ただ、この戦争の終わる頃に特攻に至ったというのは、
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その時のその人たちは、戦争がもうすぐ終わるなんていうのは分かっていなかったかもしれないので、後付けかもしれないですけどね。
ただ、この何年に戦争が終わったとか、いつ頃から特攻作戦を始めたとか、
そういった記録だけ見ると、何でこの戦争の終わる頃にわざわざ命を落とすと分かっている作戦をしたんだろうかというのはすごく不思議に思うんですけど、
あとですね、この太平洋戦争の終わりの時期というのは、
この終わりの時期というのは沖縄にアメリカ軍が攻めてきていて、
本土の最南端の基地であったチランがですね、戦争の最前線ということで、ここからたくさんの人が飛び立っていったということなんですね。
439人が出撃して命を落としたということで、
本当にですね、それぐらいあった写真も手紙もたくさん残っていて、
あとですね、出撃までの間、この兵隊さんたちのお世話をすることになった女学生の人たちとか、
その人たちの視点からのコメントであったり、そういった記録もたくさん残っています。
なので、鹿児島に来る機会があったら一度来てみてほしいですね。
やっぱり歴史を学ぶところでは、こういったところって言葉でしか理解できていなくて、
やっぱり実物を見ると全然違って感じられることがあるので、
見たくない人もいるかもしれないですけど、こういったものが苦手な人もいるかもしれないんですけど、
一度は来てみるのもいいのかなと思います。
ちょっと暗い話になってしまいましたけどね。
ちょっと話題を変えていきますと、このチランというところはですね、鹿児島県でも有数のお茶の産地でもあります。
鹿児島のお茶はですね、静岡のお茶が全国的には有名なんですけど、その次ぐらいにランクインしていますね。
チランのお茶とか松本というお茶とかですね、いろいろあるんですけど、
ちょうど今新茶が出る時期なので、静岡のお茶と鹿児島のお茶とですね、
気候も違うので味も変わってくるとは思うんですけどね、飲み比べてみるというのも楽しいかもしれないですね。
で、お茶といったらですね、静岡のお茶といったら、トマジョダオの清水の茶農家ミッチャンという人がいまして、
この方はですね、静岡県のお茶農家さんなんですね。
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で、このトマジョダオというのは私が所属している農業系のコミュニティです。
ここでは農村日和という農家とつながれるというECサイトを運営しています。
で、毎月一人の農家をですね、推し農家ということで、みんなで宣伝していこうというそんな活動をしています。
で、5月はですね、ちょうど新茶のできる時期で、この清水の茶農家ミッチャンという人をですね、
みんなでプッシュプッシュ宣伝していこうということにしていますので、ちょっとお茶つながりということで話をしてみました。
この清水の茶農家ミッチャンのですね、お茶は、いま新茶がですね、ちょうど農村日和で販売が始まりましたね。
この新茶もすごく私は飲んでみたいんですけど、飲んでみた、飲んだことがあるお茶の中で、
一番おすすめしたいのは和紅茶ですね。
私はこのトマジョダオに入って初めて和紅茶って聞きまして、飲んでみたんですけど、すごくおいしいですね。
一種類の茶葉から作った和紅茶もありますし、このミッチャンはですね、
二種類の茶葉を独自のブレンドでしてですね、作り上げたブレンドの和紅茶もあります。
私はこのブレンドの方がお気に入りで、ドンピシャですね。
これはお湯で入れてもおいしいし、一晩水出しで入れたものもですね、すごくおいしいですね。
これから気温が上がってくる季節はですね、水分補給も兼ねて水出しでですね、
ごくごくミッチャンのお茶を楽しんでいただけたらいいかなと思います。
この放送の概要欄に農村日和のリンクを貼っておきますので、
一度ですね、農村日和というサイトを覗いていただいて、
このミッチャンのお茶以外にもですね、いろんな方が出品されていますので、
気になるものをチェックしていただけたらと思います。
長くなってしまいましたが、最後まで聞いていただきましてありがとうございました。