1. 名谷教会
  2. 2011/08/21:聖日礼拝(旧音源)
2011-08-21 58:39

2011/08/21:聖日礼拝(旧音源)

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2011/08/21 聖日礼拝(旧音源)


00:01
ご着書きください。本日の聖書をお読みいたします。
本日の聖書は、使徒の働き8章1節から8節までです。
新約聖書の242ページをお開きください。
それでは、お読みいたします。新約聖書242ページ、使徒の働き8章1節から8節まで。
サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。
その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、人たち以外の者は皆、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
警犬な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
他方、散らされた人たちは御言葉を述べながら巡り歩いた。
ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを述べ伝えた。
文集はピリポの話を聞き、その行っていた印を見て、皆揃って彼の語ることに耳を傾けた。
穢れた霊に疲れた多くの者たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中部の者や足のなえた者は治ったからである。
それでその町に大きな喜びが起こった。
以上でございます。
では聖火隊に賛美をしていただきます。
聖火隊の賛美は賛美歌463番です。
賛美に続きまして、内田牧志より、御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
03:37
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
御霊に導かれてと題してメッセージをしていただきます。
ご朝きをもってここに集っておりますから。
首相どうぞあなたの行ける御言葉と、
06:01
命を私たちに注いでくださるようにお願いをいたします。
また御言葉を通してあなたのメッセージと、
またあなたの身舟をそれぞれにお語りくださいますように。
そのためにも御言葉が必要でありますから、
きょう開かれているお言葉が私たちの心の糧となり、
の糧となりまたこれからの道しるべ となることができるようにあなたの
声をしっかりと聞くことができる ように私たちの例を整えてください
暑い中ここまで支えられました ことを心から感謝をいたします
きょうは恵みの雨をもってまた 潤してくださいますことを感謝
をいたします どうぞ首脳臨済が 一人一人の心にまた魂に潤いを
与えてまたこれからの生きる力 とまたあなたを主体求めてまた
あなたに奉仕する力をお与えください ますようにお願いをいたします
きょうまたここに集えたことを 心から感謝をいたしますいろいろな
事情がありまた弱さを覚えてここに 集えなかった兄弟姉妹方のうち
にもあなたが届いてくださいます ようにその場をあなたを覚える
ときと場所としてくださいます ようにお願いをいたします今から
の一時全てを委ねますしもべ聞 きます主よお語りくださいイエス
様の尊い皆によって委ねてお祈り いたしますアーメン 私が今まで
にいくつか奉仕させていただき ました協会の中に目の不自由な
方がおられる協会がありまして 本当に良き交わりをさせていただ
いたそのことをふと思い出したん ですがなぜかといいますと私たちは
目が見えるというこれは本当に 幸いなことだと思うんですねもし
見えなかったら不自由だろうな そういう世界ってどんなだろう
かそう思うんですが私たちが主 を覚えてそして時に賛美のとき
あるいはお祈りのときに目をつぶ りますよねそれはなぜかと考え
ますとやはり見えているものから 解き放たれてただただ心魂で主
を見るために一度目を閉じるそういう ことを自然にしているわけですね
もちろんつぶったままでは困る のでまた開くわけですがそういうこと
を思うときに私たちが目を閉じて そしてただただ主のみを拝して
09:07
いくそういうことが許されている それは本当に幸いなことであります
しそういう目の見えない方とお 交わりをさせていただいたときに
本当にそのことを実感させられた ことがあります不自由な中にも
そういう人たちは純粋に主のみ を見ている私たちが知らない世界
でありますから本当に神様を見ている その見方あるいは感じ方という
のも私たちとは違うんだなということ を感じたわけですねですから機会
あるごとに目を閉じて静かに神 様を仰ぐということをできたら
したいなと思うんですね皆さん も見言葉をいただくときに目を
つぶって聞いていただいてもいい ですしそのまま起きないで眠って
しまっているかもしれませんが それもまた幸いだと思うんですね
ある方が言いました先生きょう のメッセージありがとうございました先生
のメッセージのおかげで不眠症 が治りましたとおっしゃった方
がいますそれもまた恵みだと思います がきょうは使徒の働きの八章を
書いていただいております見言葉 一節から八節まで読んでいただき
ましたが八章全体を通して手の 言葉をいただきたいと思います
教会が迫害を受けていたということ が先週もそしてこの八章も書いて
いますエルサレムの教会に対する 激しい迫害が起こったということ
ですから教会の歴史を私たちが 学ぶときにそして日本の教会の
歴史もずっと勉強していきます ときにそこには迫害というもの
と切っては切れないということ がわかってきますいわゆる教会
というのは迫害によってまた成長 もしそして選挙も拡大していった
ということですね私たちにとって 教会に対する激しい迫害ここに
記されていますがこれはいわば 教会にとっての大変なピンチであります
しかしよく言われますようにピンチ をチャンスに変えるそういうこと
12:00
があるわけですね私たち人間という のはそういうふうにできている
のかもしれない平穏無事で平和 であるということはこれは一面
幸いなんですがそういう状態の 中に突然ピンチが襲ってくる嵐
が吹くようなあるいは窮地に追い 込まれるようなそういうときに
今まで働いていなかった細胞というん でしょうか神経がぴゅぴゅぴゅ
と働いて何かを一生懸命考えたり あるいは工夫をしたり何とかし
なければというようなそういう 思いがわっと湧いてきてそして
今まで思いつかなかったような 考えとかあるいは力が湧いてくる
というそういうことがあるわけ です皆さんの生きてこられた経験
の中でもそんなことがあったん じゃないかと思うんですねあるいは
スポーツなんかもしているときも そうだと思うんですねこのピンチ
のときに逆にそれがチャンスになって いくということが往々にしてある
わけです ここで一節のところでその迫害
によって使徒たち以外の者は皆 ユダヤとサマリアの諸地方に散ら
されたと書いています散らされた ここのところにはもう折れない
ということで皆がそれぞれちり じりばらばらにいろいろなところ
に行かざるを得なかったという 大変なピンチでありますしかし
そうして地方地方に散らされて いった人たちがその場その場で
その場所場所で四節多方散らされた 人たちは見言葉を述べながらめぐり
歩いたそしてそこからまた福音 の宣教が始まっていった中には
そこに教会ができていったもし エルサレムに皆がとどまっていて
そこで平和に平穏に無事皆が過ご せていたそれはそれで一つの幸い
ですねしかし迫害によって散ら されたというそのピンチが教会
の成長と福音宣教の拡大のその 働きをもたらしたということこれは
ピンチをチャンスに変えていった ということですねそういう中で
きょうはこのピリポという人の 働きを中心に見ていきたいとそう
思っております先週はステファノ という人が活躍し至っては遵教
15:07
したということを見てきました けれどもきょうはこのピリポという
人このピリポという人はどこに 出てくるのか最初どこに出てくる
のかといいますとステファノと 同じところ教会に一つの問題
が起こってそしてそれを解決する ために七人の人を選んだという
ところに信仰と精霊とに満ちた 人ステファノ及びピリポプロコロ
ニカノルこのピリポですねこの ピリポがサマリアとまたそれ以降
いろんなところに出ていてその 福音選挙の働きをしたということ
もう一つ大事なことは一節にありました 使徒たち以外の者は皆ユダヤと
サマリアの諸地方に散らされて それぞれに福音を述べ伝えて歩
いたといわゆる使徒たちはエルサレム に留まったわけですねやはりその
中心地として使徒たち以外の者 この人たちを弟子あるいは今で
いう神徒の人たちですねですから この初代教会において教会成長
あるいは選挙拡大の働きを成して いった主な人たちは神徒の人たち
であったということこのことは 非常に大事なことであります
今日の教会これはもう教会の歴史 もそうですが常に生き生きとした
働きをしている教会あるいは成長 している教会その教会の特徴の
一つは神徒の人たちが働いている 神徒の人たちが奉仕を喜びとして
なさっているということこれが 大きな特徴ですねもちろん使徒
と言われる人たちあるいは教師 教職者牧師それはそれぞれのそれぞれ
の務めをしているんですけれども 特に神徒の人たちが熱心に奉仕
しておったなぜかと言いますと 神徒の人たちというのはお家に
それぞれ帰りますそして使わされている 地域その地域社会でそれぞれ交わり
を持っておられるわけですね 時には地域のコミュニティの交わり
あるいは職場での交わりあるいは 子どもさんがおられたら学校の交わり
18:01
そういう中で福音を伝えていく そういうチャンスが多くあるということ
ですね 使徒たちあるいは勃開している 者たちはなかなかそういう機会
がないというどうしても見言葉 と祈りに専念しなければならない
とありましたようにそういうところ に時間をとられるですからその
部分を出ていってそして多くの 人たちと交わってそしてこの福音
を伝えていくというその働きは 神徒に多く委ねられてそしてその
人たちがそれぞれの置かれた場所 を場所でこの福音を伝えていく
これがステパナをはじめピリポ 神徒の人たちがしたことである
そのことをこの使徒の働き使徒 行伝で私たちは見ることができる
わけです このピリポもサマリア であるいは使わされたところで
彼は福音を述べ伝えていったということ そのことが書かれてあるわけです
そしてこのピリポがある一人の 人物に出会いますそれがエチオピア
人の人それが二十六節からのその ところに書いてありますこのところ
を読んでみたいと思います二十六 節からところが主の使いがピリポ
に向かってこう言った立って南へ 行きエルサレムからガザに下る
道に出て出なさいこのガザは今 荒れ果てているそこで彼は立って
出かけたするとそこにエチオピア 人の女王を勘だけの交換で女王
の財産全部を管理していた勘がん のエチオピア人がいた彼は礼拝
のためエルサレムに上り今帰る 途中であった彼は馬車に乗って
預言者イザヤの書を読んでいた 見たまがピリポに近寄ってあの
馬車と一緒に行きなさいと言われた そこでピリポが走っていくと預言者
イザヤの書を読んでいるのが聞こ えたのであなたは読んでいることが
わかりますかと言ったするとその 人は導く人がなければどうして
わかりましょうと言ったそして 馬車に乗って一緒に座るように
ピリポに頼んだ彼が読んでいた 聖書の箇所にはこう書いてあった
21:00
ほふり場に連れて行かれる羊のように また黙々として毛を刈る者の前に
立つ子羊のように彼は口を開かなかった 彼は癒しめられその裁きも取り上げ
られた彼の時代のことを誰が話す ことができようか彼の命は地上
から取り去られたのである 看官 はピリポに向かって行った預言者
は誰についてこう言っているの ですかどうか教えてください自分
についてですかそれとも誰か他の 人についてですかピリポは口を
開きこの聖句からはじめてイエス のことを彼に述べ伝えた道を進ん
で行くうちに水のあるところに 来たので看官は言ったごらんなさい
水があります私がバプテスマを 受けるのに何か差し支えがある
でしょうかそして馬車を止めさせ ピリポも看官も水の中へ降りて
行きピリポは看官にバプテスマ を授けた水から上がってきた時
主の霊がピリポを連れ去られた ので看官はそれから後彼を見なかった
が喜びながら帰って行ったそれから ピリポはアゾットに現れ全ての
町々を通って福音を述べ伝えカイザリア に行ったこのところに一人のこれは
救同者がいたということがわかり ますそしてこの救同者が救われた
という記事がここに書いてある わけですそのかかわりにピリポ
が入っているということなんです が皆さんはもう既に救いを受け
そしてバプテスマを受けられた 方だと思うんですがもし救同者
がおられたならばこの箇所は非常 に参考になりますあるいは皆さん
がこれから人を導くときのよい 参考になる箇所であります 要する
に人が神様のもとに導かれてそして 神様がその救いの業をなしてその
人が信じて救われていくという その過程が本当にわかりやすく
示されているこういうことが救 われるということなんだなということ
それがわかります ですから今もう 一度自分が救われたことと重ね
合わせてこの箇所を見ることも 非常に大事なことだとそう思って
おります このエチオピアの人が 導かれてそして救いに至るまでに
この三つの導きがあったということ がここから見ることができます
一つは見たまの導きであります 私たちが主を信じてそして救われる
24:08
に至るまでにこの導きがあった ということ私たちが普段何気なく
じっとしておって何の関わりも なくそして突然のごとく私は救
われたという人はまずいないと思 うんですね何らかの導きそういう
ものがあって私たちは神様の救い をいただいたんだということを
改めて覚えるわけですね そのうちの 一つがこの見たまの導き神様の
お導きこれがなければ救いなんて 当然ないということはもう当然であります
けれどもここでもそのことが表 されているわけです まずこの
ピリポがそれぞれ使わされている ところで福音を伝えていったわけ
ですが二十六節主の使いがピリポ に向かってこう言った立って南へ
行きエルサレムからガザに下る 道に出なさいここにもう既に主
の使い主の使いがピリポにあそこ に行きなさいそこに行けばある
人と出会いますということですね ここに主のお導きがあります そして
二十九節見たまがピリポに近寄 ってあの馬車と一緒に行きなさい
と言われたここに見たまがピリポ に語りかけているピリポは何の
ことかただただ神様が精霊を通 して言われるそのお声に従って
行ったわけですねそこにこのエチオピア 人の女王カンダケノコウカンその
人物がいたわけです 私たちは救い を受けた側にいるとしてあのとき
の人が声をかけてくださったあるいは 教会に行きませんかと言ってくださった
あるいは何か困っているときに そのクリスチャンの人が祈りましょう
と言ってくださったそんなことが いろいろあったと思うんですね
でも私たちが導く側に立つとき に確かに何か後ろから押される
ようにあの人にちょっと声をかけて みなさいよとかあの人何か困っている
から一緒に祈ってあげなければ というような何かそういう種の
導きが確かにあったわけですね そういうことを通して人々が出会
ったりあるいはそこに主を中心 とした交わりがあったりそういう
27:02
のはみんな御霊の働き御霊が導 いておられるということそんな
ことを今更にして思うわけですね そういうことがなかったらおそら
く出会いもなかったでしょうし あるいはこれから私たちが導く
上でも御霊の導きというのは非常 に大事なことだそう思っております
ある正解例えばしおや正解でも いいんですが正解に求道者の人
が行くということがありますよね 私たちもそういうときがありました
し今年もあるいは来年も求道者 の方が正解に行こうとその行こう
と思われたその背後にもやはり 御霊の導きがあるということですね
その人自身は自分は何となく行きた くなったから来たんだと言います
けれどもそうじゃなくて御霊が 何か押し出すようにしおや正解
に行きなさいあるいは何なり正解 に行ってみようもうこのままで
はいけないというようなそういう 押し出しそれが御霊の導きですね
そしてこの正解で入れ替わり立ち 替わり講師の先生が御言葉を解
明されるそういう中で取扱いを 受けるということですねこれは
私に語られている講師は説教者 は全ての人に同じように語って
いるんですけれどもその求道者 は私に今神様は語っていてください
私の罪を今光を当ててくださって いるそんなことがあるわけですね
ある求道者はそれがどんどんどんどん 自分に迫ってきてそしてもうその
場に立ち寄せない座っています けれどももう座っていられない
ということであっと新学校の二階 のある片隅の部屋に閉じこもって
言葉が精霊が働いて息も怠惰に はっはっ苦しい今こそ自分はもう
この罪の悔い改めとそして今こそ もう信じなければ自分は滅んで
いってしまうそんなことを感じ られる求道者の方がおられるわけ
ですねもうそのときというのは その魂と御霊との一騎打ちのような
感じですね御霊が迫ってくるそして 自分はその罪の中にいたことの
悔い改めそして何とかこの主を 今日こそ自分の主として告白する
30:03
んだあるいはそれを引き留めよう とするいろいろなさまざまなこと
との葛藤そういうものがその場 を包んでいるわけですねそれは
もう御霊とその魂とのぶつかり合い ですねそういう御霊の導きという
のは確かにあるわけですねそこに その求道者のお友達が心配になって
来たわけですねさっきまで隣で 所懸命聞いていたのに何か急に
立ち上がってどこかへ行ってしまった どこへ行ったんだろうと探し探し
いたところこんなところにいたん かそうすると部屋の隅にうずく
まってはははもう大変な息づかい ようで何か苦しんでいるようだ
それを見兼ねて何やさんどうした のと声をかけたその瞬間御霊は
さっと去っていかれるそういうこと があるわけですね御霊というのは
本当にデリケートなお方ですです から神様とその魂とが交わっている
そのところに何人もかかわってはいけない そういうひとときというのがある
わけですねですから決してその お友達が悪いというのではありません
けれどもそういう御霊が働いている ときにそこには何人も介入できない
してはならないそういう瞬間という のがあるわけですねまた別の機会
にその人はおそらくまた御霊の 導きと働きによって救いを確信
なさったと私は信じますけれども そういうことがあるわけですね
御霊の導きそれはこの救いをいただく 上で本当に大事な要素であります
これがなくして救いというものは あり得ないそう再確認するわけです
この御霊の導き私たちはこの精霊 の働きというものをこの首都行伝
を通しても見ていますけれども 私たちは信仰というのをいただ
いておりますこれが全て精霊の 働きと言ってもいいんですねそれ
じゃこの信仰を持っているあるいは 信仰をいただいているあるいは
御霊が働いているということと それじゃそうでない状態のとき
何が違うのかということを考え ますときに同じ一人の人として
33:06
私たちが何かをしますあるいは 何か言いますそういうときに信仰
がなければあるいは御霊の働き というのを無視するならば常に
私が何かをしたという表現になる わけですね私が中心で私がこれ
をしたんだしかし私たちがいただ いている信仰とあるいは精霊の
働きというものを覚えるときに 常に守護が神がというあるいは
御霊でもいいんですが神が私の 導きを通してしてくださったという
常に神が守護になっていくここが 大きな違いであると言えます
霊廃に来る私たちもきょう霊廃 に来たわけですけれども今ここ
にいますしかしもし信仰がなければ 表現としてこれを言ったから悪い
ということではないんですが思い の中に私は霊廃に来たんだという
のと神が導いてくださって私を 霊廃に送ってくれたんだということ
これが信仰告白でありまた御霊 の働きとそこに神様が導いていて
くださっているということの証 であるわけですね自分が何か成功
したというのと神様がいろいろな 導きとそして力を与えてくださって
私を成功へと導いてくださった それは大きな違いがあると思うん
ですね さっきも野球の話で盛り上がって
いましたが私がホームランを打 ったんだやったそれも一つの表現
ですでもホームランを打ったそして ベースを一周回って主を感謝します
あなたが私に力を与えてくださって このピンチのときに逆転のホームラン
を打たせてくださいました主を 感謝しますそういう気持ちですね
全てが主をあなたが導きを通して なしてくださったんだということ
ですから私たちも信仰告白あるいは 救いをいただくそれらは全て
御霊が導いていてくださっている からこそここまで来ることができ
たんだということをもう一度覚え たいと思うんです
36:00
二つ目にこの救同者が救いに至る その中に聖書の導きというもの
がありました彼は預言者イザヤ の書を読んでいたそしてピリポ
が走っていくと預言者イザヤの 書を読んでいるのが聞こえたので
あなたは読んでいることがわかり ますかと言った彼は一生懸命聖書
を読んでその中に神様を見出そう としていたわけですねこれは非常
に正しいことであります私たち が導かれそして救いに預かった
ことを思い出しても御言葉抜き に信仰を持ったあるいは御言葉
抜きに救いはあったかというと そうではなかったもう全てにおいて
御言葉御言葉御言葉御言葉が私たち の救いに大きくかかわっています
し御言葉がその救いの力となっている そういうふうに思うわけですし
その聖書自身がそのことを言っている わけです私たちは資源の中でこの
ように書いてあるのを皆さんも 知っていると思います資源の百
十九篇の百五篇あなたの御言葉 はこれは神様の御言葉は私の足
の灯火私の道の光ですこの御言葉 が私の行く道を照らしそしてその
御言葉が私が仰ぐべき光となって いつもそこに輝いていてくださる
私たちが目指すものは当然神様 の国でありまた救いでありそして
永遠の命しかしそれらは御言葉 の中に隠されている奥義なんですね
ですから御言葉を知らずして御言葉 をいただかずしてその光に到達
することはない御言葉なしに私たち が救いに導かれることはできない
あるいは同じ百三十節のところで 御言葉の戸が開くと光が差し込み
脇前のないものに悟りを与えます 聖書でいう光というのは神御自身
ですね御言葉が開かれるとそこに 光が差し込みそこに神様の臨在
があってそして脇前のない悟り の鈍いものそういうものにも先
39:03
ほど言いました何かわからない 神経があるいは魂の鼓動がどんどん
どんどん沸き上がってきて悟り を与えてくれるですからもちろん
聖書の言葉と一般に言われている 誰かさんが言った言葉と時々よく
似たような同じような言葉がある ことはあるんですねでも御言葉
というのは神様の権威によって 語られた言葉でありますしそこに
命が吹き込まれているですから この御言葉が私たちの救いを成し
遂げてくださるわけですヤコブ の手紙の中にも書いてあります
御言葉はあなた方の魂を救うことが できます御言葉が私たちを救う
それはそれこそピンチのときも そうですね窮地に陥ったときも
とにかく御言葉をいただくあるいは 悩んでいるとき苦しんでいるとき
あるいは慰めを必要とするとき あるいは誰かに力を与えてあげ
たい励ましを与えてあげたい癒 してあげたいそれは人間の言葉
として私たちが思い上がってくる 今まで得たそういう言葉を語る
それも一つだと思うんですねそれも いいことだと思いますがでも限界
がありますしかし自分の言葉ではない 神の言葉を添えてあげるということ
これは本当に力になります本当に 神様の慰めがその人に届きます
し神様のメッセージが御言葉を 通してその人に伝わるわけです
なぜかといいますと人間には霊 感というものがどんな人にもある
わけですね霊感を通してその人 たちは慰め励ましそして生きる
力を与えられるということ聖書 というのはそういう霊感を通して
書かれたものですから同じ人間 霊感を持っている人間はそのことが
わかるわけです 皆さんもたくさんの 御言葉を覚えられたと思うんですね
もちろん聞いてそしてその中の いくつかをいつも蓄えている
どれが一番好きな御言葉ですか と聞かれるとなかなか答えるのは
42:00
難しいんですが私が最初に覚え た御言葉は十字架の言葉は滅び
ゆく者には愚かであるが救いを 受ける私たちには神の力です
十字架の言葉それは福音の言葉 全てですけれども十字架の言葉
それはある人たちにとってはそんな もの必要ないしそんなことは愚かな
こと馬鹿げたことなかにはそんな ものは信用できないというわけ
ですがしかしこれを本当に心から 信じていただくときにそれは力
になるんだ御言葉が力になる私たち を支えそして導きそして幸いへ
と導いてくださるそれが聖書の 導きであります御言葉の力であります
このエチオピアの公館もこの聖書 を読んでいたというこれは彼に
与えられた霊感を通して悟って いたわけですねですから彼自身
がこの伊沢賞でありますけれども それを読んでいなかったらおそら
く救いには至らなかったであろう 三つ目の導きそれは人の導きここ
に三十一節にありますようにその 人は導く人がなければどうして
わかりましょうと言ったそして ピリポがその伊沢賞の解き明かし
をしたということですですから もちろん御言葉をいただくそれは
大事なことでありますがときには 御言葉がわからないときがあります
せっかく何か神様が御言葉を通 して語ってくださろうとしている
のにどうもよくわからないそういう ときに導く人がいてくれて初めて
そしてその御言葉に託された本当の 意味がわかったということですね
この場合ピリポがそれをしたわけ ですが私たちはこの聖書とそして
それを導く人そういう人を通して 神様のメッセージをいただくわけ
です この救いというものが私たちは
御言葉なしにはあり得ないということ をもう一度確認いたしましたが私たちの
救いというのは神学で救われる ということはありませんもちろん
神学というのは大切なことです この神学というのは神様のこと
45:07
あるいは聖書神学であるならば 聖書というのがどういうふうに
できてそれはどういうふうに系統 を立てて編纂されてというそういう
ことを理論で突き詰めていく学問 ですね
しかしいくら神学を極めたから といって救われるということとは
違うわけですね逆に言えば神学 を習得をしていなくても神学を
学んでいなくても御言葉の真髄 とそして御霊の働きとそしてちゃんと
それを解説しそして救いへと導 いてくださるそういう人がいた
ならばその人は間違いなく救わ れます
それではなぜ神学をするのかこれは 一つはやはり異端から守られる
というためには神学というのは 必要なんですこの当時もそうです
がいろいろなまどわしとか偽 予言者偽キリストが現れて御言葉
のほんの少し言葉の解釈とか少し 曲げて伝える聞いている人にとって
は全くわからないそしてどんどん どんどんこのまどわしに導いて
いくそういうことにきちっと 対処できるようにいやあなたが
こうこうおっしゃいますが聖書 ではこのように書かれています
あるいはこの聖書ができてこの 聖書はこういうことを言っている
のであなたが言っていることとは 少し違いますよねということを
きちっとその人に言えるように 説明できるようにそのための神学
というのができたわけであります が要は御言葉とそこに託されている
神様の御心あるいはそれを導いて くれる人そういういろいろな導き
によって私たちは神様の救いへ と導かれていくわけですね
一つの御言葉を何人かの人たち が解説をしたりメッセージを解
いたりするということがあるわけ ですしかし真理は一つです一つ
だから真理というんですが真理 は一つなんですがしかしその真理
というのは神のみぞ知るであります し私たちはその真理を間違いなく
誰もがそうだと一致するそういう こともありますところがときには
48:01
一つの御言葉をある人はこれはこういう ことをおっしゃっているのではない
だろうかしかし別の人はいやこの 御言葉はこういうことを言っている
んだそれじゃどちらが正しいのか あるいはどちらが間違っている
のかそうではないんです私たちは その一つの御言葉に対する人の
導きでいろいろな解釈とかがある ときにもちろん神様の導きあるいは
神様の御心とその聖書が言っている 私たちへの正しい聖書の接し方
そういうことから逸脱していない 限り二通りの見方解釈があるならば
どちらもいただきなさい三通り のそこにメッセージがあるならば
三つとも恵みとしていただきなさい そういうふうに私たちはしても
いいというふうに思われますそう でないとこちらがよくてこちら
がいけないとかこちらが間違っている とかこちらが正しいというそういう
議論になっていくわけですね私たち は御言葉を通して神様の恵みを
いただくあるいはそのことを通 して救いに至ることが最も大事な
ことでありますから決してその ことを通して議論するものではありません
このようにしてこのエチオピア の公館は救いへと導かれていた
わけです最後にこの人がここに 水がありますそして私がバプテスマ
を受けるのに何か差し支えがある でしょうかここにバプテスマということ
が出てきましたこれも私たちが すでに通ったことでありますし
これからこのバプテスマを受け なさる方が出てくるわけですが
もう一度このバプテスマという ものを確認しておく必要があろう
かと思うんですねこのエチオピア の人は御言葉にありましたように
口でイエスを主と告白しそして 心で神はイエスを使者の中から
よみがえらせてくださったと信じる ならあなたは救われるからです
人は心に信じて心に信じて義と 認められ口で告白して救われる
51:00
のです 彼はこのことをしたわけですね
ピリポの導きあるいは御言葉の 導きあるいはそこに精霊が働いて
彼は恐らくそれではこのイエス を私は私の神と主と信じて従って
いきますと真口告白をしたわけ ですそこに水がありますそれじゃ
この水でバプテスマを授けてください と皆さんはこのことをどう思わ
れますかあるいは自分がバプテスマ を受けたときのことを考えるときに
どう思われますか何かそんな簡単 でいいのというそれでいいんです
これが本当の真口告白とバプテスマ の関係なんです真口告白そして
信じたそして義と認められたその 確信それがあるならばもう即バプテスマ
なんです私たちはいかにこの洗礼 とかバプテスマということに対しての
何かしがらみとか何かバプテスマ を受けてしまったら何かもう別の
世界に行ってしまうんじゃない 別人になってしまうんじゃない
だろうあるいは家の人がバプテスマ を受けたんかということで何か
もうそれこそ感動されてしまうん じゃないかそんなことを思って
しまいますでもここを読む限り 真口をいただいた真口告白をした
自分は義と認められた救われた 即バプテスマなんですね私たちは
いかにバプテスマを恐れたりあるいは 何かそこにいろいろな思いを植え
付けられているそういう気がいた します真口をいただいた救われた
それとバプテスマはもう一体です あるいはこれはセットと言うん
でしょうかそういうことなんですね ですからあなた真口をいただき
ましたかはいいただきましたイエス 様をこれから信じて従っていきます
それじゃバプテスマを受けましょう ちょっとお待ちくださいともう
ちょっと二三日考え出してください その二三日が一カ月半年一年と
こうなるわけですがなぜそうなるん でしょうかということですね自分の
経験からもそんなことがありました あるいはバプテスマを受けたということ
バプテスマを受けたということ から見るとその人はもう信じて
54:01
真口を告白しイエス様を主と信じて 救われたということですよねこれは
セットですある人が何か私は実は バプテスマを受けたんですよ昔
にとこっそりと言われた人がいるん ですがでもなぜそうなるんでしょうか
バプテスマを受けたということ はもう救われて信じて主を告白
したということですよねですから その人は間違いなく救われている
ですからバプテスマを受けました けれどももう真口なんかもういい
ですわそんなことはとんでもない ことですよこれは一対ですから
ですからこのエチオピアのこの 人自分が信じて告白してそして
導きをいただいて信じた信じて そこに水があります私はバプテスマ
を受けますそして彼は喜びながら 帰っていった私たちが人を導く
ときに本当にこのようであったら いいのになと特に牧師はそう思
っています本当に導き導きもう 真口告白もうそこまで言っている
のにこのバプテスマを拒みなさる というそれは一体何だろうかそこ
にももっともっと私たちは勉強 もしないといけないですしその
人のうちにあるもの何かそれを とどめているものは何なのかあるいは
バプテスマということに対する 理解とか解釈がどこか間違って
はいないだろうかあるいは日本の 日本人が子供のころから学校で
教えられた何かそれこそ迫害の こととかそんなことばっかり教え
られていますから真口を持つの はいいんだけれどもバプテスマ
をもう受けてしまえばもうこれは 大変なことになるというような
そんな思いを抱かせているとする ならばこういうところにも私たちの
戦いがあるんだなそう思います しかし本当はこの人のように信仰
をいただいてそして自分もイエス 様を主と信じてそしてそのまま
すっとバプテスマを受けてそして 自分の確認とあるいは公の場で
皆さんにその戦慄をともに祝って いただきそして孔子ともにみんな
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がその魂の救いを喜んでそして それこそ家族の人も知人も友人も
みんながその魂が救われたことを 喜ぶというこれが最も幸いなこと
だと思うんですね 私たちはきょうこの御霊の導き
そのことをもう一度確認してこれから また進んでいきたいと思います
お祈りをいたします 霊があなた方 に下るときあなた方は力を受け
ます天の神様きょうも御言葉を 通してあなたの御旨を教えてくださり
ありがとうございます まだまだ勉強 また理解不足勉強の足りないところ
理解不足のところもございます けれどもどうぞ御言葉が私たち
の光であり力でありますからこの お言葉を通してこれからも私たち
を導いてくださいますようにまた その背後にあって働いてくださる
この御霊をいつも仰ぎながらそして 御霊の助けをいただいて私たちの
信仰生活を支えていてくださいます ようにまた滅びゆく魂のためにも
祈りとそしてその交わりとさせて くださいますようにイエス様の
尊い皆によってお祈りいたします アーメン
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