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2013-03-31 55:07

2013/03/31:わたしはよみがえりであり、いのちである

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2013/03/31 聖日礼拝

尹善鎬牧師

コリント人への手紙第一 15:1-11


00:01
アーメン、感謝します。
今日はイースター礼拝です。イエス様が深よりよみがえられた日ですけれども、
今日はイースター礼拝ですからですね、よろしかったら、
右に来たり、前に来たりするような方と、イースターおめでとうございますと挨拶したいと思いますが、よろしくですか。
イースターおめでとうございます。周りの方とですね、挨拶したいと思います。
アーメン、感謝します。
今日、礼拝においでになった皆様、お祈り、お祈りの上に、
生きる神様の素晴らしい恵みとお守りと祝福が豊かにありますようにお祈り申します。
先週1週間ですね、この教会では、月曜日から土曜日まで、
想定6時、午前は10時半、夜は9時ですね、なんと1日3回も、
延べで言いますと、17、8人ぐらいの方々がですね、ある方は1日3回、ある方は2回、ある方は1回ですね、
家様の受難を覚えつく、共に御言葉をいただき、また共に祈る時が持たれました。
その中で、赤足もですね、いろいろありましたけれども、
本当に礼に燃やされて、また心が本当に喉に癒されること、
そして今までなかったような、礼に主の境界が満たされていることを本当に感じられます、
そういうお訳しもありました。
また、明日からですね、新年祝福待望祈祷会が持たれます。
どうか1人でも多く、1回でも多く、教会に来ていただいて、
共に祈って、共に恵みの時を待たせていただきたいと願っております。
私は今まで、信仰生活43年のものですが、
私たちが信じている神様は、人間が作り出した神ではない、
木や石を掘って作った神でもなく、生きえる誠の神である、
03:01
そして本当の唯一の神様であることを常に常に体験させていただき、
そしてたくさんの恵みを今日までいただいております。
私もこの教会に赴任したばかりですので、
少しですね、自分のお訳しとして、
神様がどういうふうに私たちの人生を真の神ではなく、
生きた神様をどういうふうに守って、また祝してくださるのか、
お訳しをしたいと思います。
私は大学で日本語を専門しました。
家はまずい家でしたので、
大学を入学してもですね、学費を払うのがなかなか難しい、
そういう家でした。
でも、私は祈ったんですね、
神様、入学も神様がしてくださるのなら、
学費もあなたが出していただきたいと、
お祈りしました。
私は頭がそんなに良くないものですけれども、
不思議な恵みでですね、
学校ですね、トップで入学しまして、
4年間も、なんと1年も学費を出したことがない。
4年間ずっと卒業もトップで卒業して、
奨学金をいただきました。
不思議な恵みなんですよ。
到底私の実力で、私のこの頭では、
そういうことはありえないことですけれども、
不思議な恵みで神様が、
祈ったとおりに神様が答えてくださった。
私の大学を入学するときの夢はですね、
日本に留学して、勉強して、
日本か韓国で大学教授になることが、
自分の先生になることが夢、夢だったんですね。
でも3年生のときに、
韓国の男性は軍隊に行くことですから、
その中で自分は日本選挙のビジョンをいただきました。
当たってきて福井の土手を鍛えました。
その後から自分の道は、
日本選挙史、日本で生きる神様の、
この聖書の御言葉を知らない方々に、
ここで使えることが自分の信頼でした。
この勉強をいただいてですね、
また一つのお願いがあった。
06:02
それはですね、神様は日本語も勉強しているし、
日本の選挙のビジョンも持っているんだけど、
まだ日本に一回も行ったことないんですよね、神様。
それですね、神様、私を日本に行かせてください。
生きることができるように助けてくださいと。
もうお金もないもんですから、
祈るしかなかったんですね。
祈りは私の唯一な武器でしたから、祈りました。
不審なことが次から次から起きたんですけれども、
そのことはですね、1994年1月に東京ドームで、
ビリグラム先生の大きなクルセイド大会が開かれたんですね。
その時にはこの集会に行けたらいいなと思っただけです。
でも不死身にですね、私の願いを神様が、
その時の青年会の先生の心に私のことを起こしてくださって、
確か先生にですね、その先生に言ったことないんです。
その先生がある日、日本に行かない?
それで、病気もですね、お越し会いも全部、
封筒をですね、いただいたんです。
その時にこれ夢か幻かですね、思ってですね、
初めて日本、東京の成り立たたかと思うんです。
着地した時に涙が出ました。
それは日本に来てよかったな、そういう涙より、
これから日本先生の夢が叶えられるんだろうと、
そういう本当に胸いっぱいになりました。
1週間、東京に泊まりながら、いろいろな活動をさせてもらったんですね。
帰ってきました。しばらく経ってから、またお願いで行ったんですね。
それは神様、考えてみたら、1週間はちょっと短くありませんか?
もうちょっと長く言わせてください。
神様のお金も、すべてのものは神様のものですし、
神様には、こんな一人を日本に送ってくださるのは、
なんと言うんですか、お茶の子最大でしょ、そういう意味ですね。
祈ったんですね。
そしたら、その夏ですね、日本文部省が世界で日本語を勉強している人々に、
スカラジックでですね、1ヶ月半かあるいは1年間のコースで、
拠点に来る、そういう制度が今もあるんですけれども、
そのところに教授から勧められて応募をやったんですね。
なんと不思議に、韓国では10人が合格したんですけど、
自分も入れてもらってですね、東京で1ヶ月半、
すべての一切の費用もお越し買いも、すべてのものをいただきながら、
09:01
研修をされてもらったことがあるんです。
私には確信が一つあります。
それは、私が信じている神様は生きておられます。
永遠から永遠まで生きておられます。
その神様は、その神様を愛し信じて、
祈るもののその祈りと願いを叶えてくださる、
応えてくださる主であることを、私には確信を持っております。
今日は、イエス様がよみがえられた復活の出会い。
イースターで、基督の教では、
このイエス様の復活、よみがえりを抜きにしては、
教会が成り立たない、一番重要な日であります。
イエス様のよみがえりを通して、
私たちが抱えている様々な問題が、
唯一のお答えになられるイエス様から、
答えていただいて、また解決をしていただく、
その恵みに、今日お集いの全ての方々が、
その恵みに預かっていただきたいと、そう願っております。
人類以来、すべての人々には、いくつかの悩みがあります。
悩みを抱えているんですね。
その中の一つは、孤独、寂しさ、ということだと思います。
皆さんも知っていますよね。
孤独もありますけれども、一人で生まれて、
またやっと一人で召されます。
すべての人間は、実は孤独を抱えて、寂しさを抱えています。
ただ、寂しくないふりをしていることです。
実は寂しいのに、寂しくないふりをしようとするから、
もっとひんどくて大変なんです。
現代人をさして、群一の中の孤独と言われます。
周りにたくさんの人々がいます。
家族もいます、隣の人もいるし、学校にいたらお友達もいるし、
会社にいたら仲間もいるし、たくさんいるんですよね。
12:03
でも寂しいです。
心の奥深いあるその悩みを、あるいは傷を、
あるいは本当の自分のその辛さを思い切り打ち上げて言える、
そして理解してもらう、
そういう関係がなかなかないのではありませんか。
結婚をしても、もちろん幸せでしょうけれども、
寂しいです。
現代人は皆さんの中でもペット、ワンちゃんとか猫ちゃんを掘っていらっしゃる方がいらっしゃると思うんですけれども、
アメリカの世論調査で、なぜワンちゃんとかペット、猫ちゃんとかを掘っているのか調査をしたことがあるんですね。
この応答の一番高い割合は、寂しいからと書いた人が一番多かったんです。
もちろんペットを飼うのが悪いこと、そういう意味ではあります。
でも皆さん、よくその調査にもありましたし、よく考えて覗いて、その真理をよく見ていたら、
そこには実は、気づいているかどうかわからないんですけれども、
実は人と関わりを持って関係を持つのが煩わしい、めんどくさい。
また理解してもらうのが大変です。
しかし、子犬とか猫ちゃんとかは、ちょっと餌だけやって、かわいがってやったら、
無条件についてくれるんですね。文句も言えないし、私が言った通りにしてくれるんです。
会社から仕事終わって帰ってきたら、本当に奥さんは家に寝て、何と言ってくれなくてもワンちゃんはワーッと来てくれるんです。
散歩されたら、本当に忠実な人間になる。
皆さん、実は私たちの無意識の中に寂しさ、孤独という大きな穴があるわけです。
それを気づいていないということでした。
15:01
この孤独、寂しさというものを、さまざまなものを持って、その穴を埋めようとする一つの手立てであるかもしれません。
この寂しさというものを唯一の答えを持って解決していただかない限り、
その寂しさ、孤独というものが召されるその日までくっついていく。
しかし皆さん、どんなことがあっても、いや、ひとり暮らしであっても寂しくない、孤独感がない、そういう道がある。
もう一つの、私たち人間が抱えている悩みがあります。
それは、むなしさということです。
聖書では、空、あるいはむなしという言葉でされていますけれども。
皆さん、ですね、ベルテル効果というものがあります。
ベルテルという人がそれを発見したことで、このアンキケースですね。
ベルテル効果と言うんですけれども。
例えば、スポーツ、有名なですね、スポーツ選手とかタレントとかなんとか、
そういう有名人が自分で自分の命を斬ってですね、自殺したらですね、
その年とか近い2、3年うちに、平均自殺率より約いきなりに600名の自殺率が増えるという統計があります。
それは韓国でもアメリカでもですね、日本でもそうなんです。
例えば、日本でも結構人気を得ていた、加入したパク・ヨガさんいるんですよね。
皆さん知ってますか。
彼が自殺した後、韓国と日本でですね、なんと694人が平均よりその年、その翌年、自殺しました。
皆さん、人間という我らは、この根本的な問題を、虚しさという問題を解決していただかない限り、
いくら有名な有名人だっても、いくら億万長者だっても、
この空というもの、虚しさというものを決して自分の内からは、自分の力では解決することができないんです。
皆さん、老人と海という本を、諸説と書いた平民にご存知ですか。
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彼はですね、その諸説と書いて、ノベル、文学書も受けたんですね。
すでにいきなり有名人になって、ものすごいお金を受けました。
でも彼は、自分の人生を悲観して、この虚しさのゆえに自殺して、亡くなったということなんです。
日本の統計もですね、ちょっと調べてみたら、有名人、政治家、多くの人々が、
自ら自分の命を貸し切ってしまうことが多かった。
もちろんその中には様々なですね、絡まっている複雑なですね、悩みや問題や、いろんなことがあるでしょう、確かに。
しかしその人間の内面の奥深いある、根本的なこの空、虚しさというものを、
お金を持ってでも、あるいは財産を持ってでも、あるいは性的な快楽を持ってでも、あるいは趣味とかスポーツとかを持ってでも、
それを満足させることは決してできないということであります。
聖書にですね、ソロモンという有名な王様がいるんですね。いろいろ一般の人にも結婚されているんですけれども、
そのソロモン王は、イスラエルの王国の歴史の中で一番大きな金持ちでした。
聖書をちょっと調べてみたとですね、彼の姉妹の王宮はですね、なんと日本円で今で換算してみたら、約6千億円くらい。
もうほとんどが金でできているんですね。
彼の毎年の収入は、多くのですね、金融の国々から見過ぎがあってですね、その収入がなんと1千億円くらい、毎年。
それはまた自分のものですよ。みんな自分のもの。
また彼にはですね、700人の王妃の妻がいたんですね。7人じゃありません。700人くらい。
そして300人の蕎麦がいました。自分の女の人が1000人いたんですね。
また彼は戦車がですね、1400台、今本にいれば電車が1400台あるわけです。
また騎兵が1万2000人も持っていました。すごいでしょ。
21:01
また彼もですね、1日の食料がですね、なんと超えた牛が何匹かと言いますと10匹。
そしてまた牧牧、牛が20マリ、羊が100マリ、他にいろんな鹿も、それ全部食べきれたかどうかわからないんですけれども。
それほど富と栄光ですね、もう味わった。
その王が晩年になって、彼が書いた聖書が、電動車の書というそれが聖書にありますけれども、
彼が最初にもう人類の中でそれほどですね、本当に豪華なものを味わった人がないほどのものを味わった彼の告白を聞いていてください。
彼はこういうふうに告白をしています。
食うの食う。全ては食う。
火の下でどんなに苦労しても、それが人に何の益になろう。
私は火の下で行われた全ての業を見たが、なんと全てが虚しいことよ。風を追うようなものだとあります。
なぜでしょうか。なことの神様にお会いしていない。
いや、あってはいるんですけれども、あまりにも世のものを追い続けてきた、その彼の結論なんです。
この虚しさ、この空というものを同じく自分の力でいろんなものを持ってもですね、その大きな穴を埋めることはできません。
しかし、一つの唯一の道が、もう一つの人間が抱えている一つの問題があります。
それは罪というものです。
私たちは普通ですね、罪とかと言われたら、犯罪、殺人とかゴーとか詐欺とかなんとか、そういうことを思い浮かぶんですよね。
しかし皆さん、この神様の御言葉である聖書は、私たちに罪というものが何なのか、明確に教えてくださっている。
罪というものが、言語の意味はですね、日本語で言えば的外れっぽいんです。
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的があるんですね。その外から外れている。
言い換えれば、方向が間違っている。
私たちは向かっていくべき方向があるんですね。
すべての方向があるんです。
いくら熱心に真面目に走っていても、方向が間違ったら、それは無駄になるでしょう。
例えば皆さん、私は苦手ですけど、水泳をどうするんですか。
水泳選手が試合をするんですね。自分のレインというレインがあるわけなんです。
いくら速くても、他の人のレインに入ったり、バクに行っちゃったりしたら、それはダメなんですね。
いくらポーズが素晴らしくても、世界一だとしても、また100mを1秒で泳げたとしても、方向が間違ったら、それは無駄なんです。
人間も同じなんです。
神様が決めてくださった一番良い道、一番良い方向があるわけなんです。
しかし、そこから皆外れているから、正しい道へ、本当の幸いの道へ、歩んでいなかったわけなんです。
全ての人は、神様に愛される、尊い、無限の価値として作られました。
神様を愛して、神様から愛していただく存在として作られたんですね。
しかし、この人間が、あざむぎない、好き勝手に生きるようになりました。
罪を犯してしまいました。
行くべき、向かうべき方向じゃなくて、自分が決めた方向に行ってしまったわけなんです。
だから、気づいていないんですけれども、その奥深く、内面には、あそこに行かなくてはならない、そういう不安や焦りがあるわけなんです。
皆さん、運転をされるときに、何か道に迷ったら、ちょっとイタイイタイするんです。焦るんですね。不安ですね。
こっちじゃないみたいで、そういう不安を感じるでしょう。同じなんです。
方向が間違っているから、不安を感じ、焦りを感じ、ムカつきを感じ、何か不安定な人生になる。
27:00
それで、実は方向を変えればいいのに、方向を変えられないままで、その不安や焦りや様々なものを、お金を持って、スポーツを持って、様々なものを持って、
その穴をまた埋めようとする。でも、埋めることはできない。安堵させることができないんですね。
ある人は静的な快楽を持って、ある人は権力を持って、ある人は何かの支配を持って、ある人は自分の仕事に本当にボッと落ちていくことで、その方向を変えるんじゃなくて、埋めようとする。
しかし、もう一度お話ししますが、罪の問題という大きな穴も、他のものを持っては埋めることができない。代わりにするものはありません。それはマジでしょうか。
最後に、最初に申しました孤独の問題、虚しさ、罪という大きな穴は、実は神様が自分と共におられないからできた穴なんですね。この穴を他のものを持って埋めることはできません。答えはただ一つしかありません。
それは私たちの救い主、イエス・キリスト様なんです。このイエス・キリスト様にお会いすれば、すべての問題が、孤独の寂しさ、虚しさ、罪の問題も一気に解決していただけます。
穴がなくなるんです。宝庫が変えられました。
今日の聖書活ではイエス・キリスト様がこのようにおっしゃいました。
私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。まだ生きていて、私を信じる者は決して死ぬことがありませんとおっしゃいました。
この言葉を信じる方もいらっしゃるんですけど、なかなか信じられない方もいらっしゃるかもしれません。
ところで、今日の聖書、コリント第一の手紙には、そのイエス・キリスト様がよみがえられたことを表現している聖人たちが、この聖書が書かれた当時にいたんです。
30:00
コリント第一の手紙を開いていただけますか。新約聖書340ページのところを見ていただいて、私から読みます。
3節からです。私があなた方に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは聖書の示すとおりに私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書の示すとおりに三日目によみがえられたこと、このことをですね、5節。
またケパに現れ、死なれたイエス様がよみがえられて、そのよみがえられたイエス様にケパ、ペテロ様ですね、ペテロがお会いしました。
それから彼一人だけではなく、十二弟子に現れたんです。十二の弟子もよみがえられたイエス様にお会いしました。
見ました。変わりました。一緒に服着もしました。また、そしたら十三人ですね。十三人だけではありません。またあります。六節。
そのもし、キリストは五百人以上の教体たちに同時に現れました。
皆さん、五百人にですね、同時によみがえられたイエス様が現れたんです。これは幻想ではありません。夢でもありません。
五百人が同時に同じ一人様、イエス様に出会ったことは、これはですね、なんと本当の真実、事実なんです。その次をご覧ください。
その中の大多数のものは、今なおいつ残っている。この聖書が書かれたときがですね、
エイリアと五十三年から六年の間ですけれども、その当時に、死なれてよみがえられたイエス様にお会いして目撃した人が生きていたんですよ。
33:10
もしそれが嘘だったらですね、それをこういうふうに書くことができないんですよね。
その他にもヤコブに、他の人たちに、全部に現れました。そしてこの聖書を書いたパウルという人にも死はあってくださいました。
さあ、これですね、いくつか考えていただきたいことがあります。さあ皆さん、考えていただきたい。
この聖書を書いた福音書と言うんですけれども、マタイ、ルカ、マルコ、ユハネ、ストパウル、またペテロ、トマス、こういうデジタルがいるんです。実際に生きていた人です。
彼らがもしですね、イエス様がよみがえられたそのマタイが書いたマタイの福音書、マルコの福音書、ユハネの福音書、またルカの福音書、この使徒行事などにですね、彼らがもしですね、一緒に集まってですね、
たくらんで、こういうイエス様が実は死んだけど、よみがえられたと話しましょう。作り話だとしましょう。嘘だとしましょう。そしたら、自分たちが作り出した作り話、嘘のために自分の命を捨てることができる人がいるでしょうか。ないんですよね。
これも実は略、歴史を学んだ方はお分かりになるかと思うんですけれども、AD100年ぐらいに世界史を、特にヨーロッパの世界史に書かれたヨセフスという人がいるんですけれども、
ヨセフスの初期キリスト教歴史の中で、この特に十二の弟子がどういうふうにして殉教されたか、その記録から残っているんですよ。たった五十年後ですから、これは事実なんですよね。
私が紹介したいと思います。ペテロはローマで伝道していて、十字架で逆さまで殉教しました。アンデレはギリシアで、そのXの十字架にかけて、また殉教しました。
ヤコブはセイソーにも出てきますけれども、エルサルンで伝道しているところをヘロデという王によって、首が切られて殉教しました。
ヨハネはわりと長く生きていたんですけれども、パツモシという島で、そこで聖書を書きながら、そこで亡くなりました。
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ピリポはショーアジアというところで、大きな大理石、柱に書かせられて、そこで殉教しました。
マタリはエジオピア、アフリカですね。今もあるエジオピアで伝道して、首が切られて殉教しました。
さあ、皆さん、もし皆さんが自分たちが作りだった作り話のために、自分の命を捨てる人がいるんでしょうか。いないです。
でも、なぜこの十二人だけじゃなくて、シト・パウルもローマニカで、これぐらい高さの大理石の柱があるんですかね。
その上に首をかけるんですよ。それで首を切って殉教することがローマ帝国時代にあった。そのときにシト・パウルも殉教した。それは何を意味するのでしょうか。
イエス様は本当の神様であり、死なれてよみがえられたことが事実だから、自分たちは見て確信して信じているから、この方のために生きることができる、命も捨てることができたわけなんです。
これがイエス様がよみがえられたということの確実な証拠なんです。
もう一つ、さっき生徒に書かれていましたけれども、500人が同時によみがえられたイエス様にお会いした。
皆さん考えていてください。この当時は、書かれた当時は、よみがえられたイエス様に出会ったその後ですから、各地に行っているわけなんですよね。
500人に全員を集めて、イエス様がよみがえられたとしましょうね。
打ち合わせることは難しいですね。今のようにメールも送れないし、ファクトも送れないし、電話もできないんですよ。
500人と打ち合わせをするにできない。しかも500人という証人がいた。それは事実を見たからです。
まだまだありますけれども、ここまで。この証拠、この生きていた彼らの表現だけ見ても、
イエス様は私たちを救うために、本当の幸せを私たちに与えるために亡くなられて、よみがえられました。
39:03
もう一人紹介したいと思います。
アメリカでイエス大学を卒業して、シカゴのプリビューンという有名なアメリカが誇る新聞があるんですけれども、
その編集長を務めた名前がリー・スローベルという人がいるんですね。奥さんはクリスタンでした。
その奥さんはビル・ハリーベルという先生の教会に通っていたところ、妻に引っ張られて何回教会に行ったことがある。
彼は蹴っていった無神論者だった。紙はいない。証拠がない限り自分は信じたい。
新聞の記事も確かなその証拠があるものだけ新聞に出す、そういう自分なりの信条を持っている頑固な無神論者でした。
彼が家様がいない、そして蘇られたことは嘘か、そういう私はもうそれを明かしてやろうというつもりで研究に引き始めました。
もう古い公文書やまたさまざまな人に手紙を送ったりメールを送ったりで、なんと1400人とやりとりをしながら自分が2年間研究をして、
本当に家様が蘇られたのか、これは嘘だろう、それを明かしするという覚悟でやっていく中で、彼の結論は復活の証拠という本を出したのですけれども、
その中で彼は結論で言いますと、家様が蘇られたこととそれは嘘だという両方の中で、それが嘘だということを信じるのが最も難しいという結論を出して、
家様が蘇られたことを信じるのが、それは少しだけ研究して調べてみたらそれはみんなにわかることだという、その徹底した文の結論だと。
皆さん、イエス・キリストは今も生きておられ、私たちと共におられます。
もう一度お話ししますが、家様が蘇られたということは、家様こそ唯一なる神様であり、唯一なる救い主であられるということです。
教え様が蘇られなかったならば、私の信仰も無駄になりますし、教会も信仰もすべてのものは無になるのです。しかし、そうではありません。
42:10
このまことの救い主にお会いしながら、すべての悩み、孤独や寂しさや虚しさ、病あるいは罪のすべての問題を解決していただけます。それで、本当の人生の方向に向いていくことができるのです。
蘇られたイエス・キリスト様が私たちにこのように語ってくださいました。
私はあなた方に平安を残します。平安を残します。私はあなた方に私の平安を与えます。私があなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
皆さん、このイエス・キリスト様にお会いすれば、この世からは決して得ることができない、本当の平安と本当の安らぎ、本当の喜びと本当の憩いを、回復をいただくことができるのです。
皆さん、イエス・キリスト様を信じている方々にお会いしたら、何か違いませんか?皆さん、ハピハピなんですよ。何があっても幸せに生きることができる。病気があっても、自然があっても、つまずくこともありません。
なぜでしょうか。イエス・キリスト様がくださる本当の平安があるから、それが与えられているからなんです。
大丈夫ですけれども、偽物のバッグを持っているのが不安なんですよ。それが偽物だからなんです。本物がないから。一緒です。本物の平安、本物の幸せがあります。それをイエス・キリストからしか得ることができないのではありません。
45:07
蘇ったイエス・キリスト様は、私たちと共におられます。死を求めるものに共にいてください。
ラマ教とか、何十年も山を登ったり、何十日も断じ切ったり、そういうふうに修行しなければならない、そういうこと一切ありません。
誰でも信じることができるように、心から受け入れて、告白して、告白すれば、それが得ることができる。それはなぜでしょうか。
誰でも受け入れることができるように、そのように、皆さん、そのイエス・キリスト様は、私たちをどんなことがあっても決して見捨てることがありません。
人々はですね、家族もそうですけれども、私たちが何か良いことをしたら、惹かれたり好まれたりするんですよね。会社でもそうでしょう。家族の中でもそういうことがあったりはしますけれども。
でも神様は、私たちが良いことをしようが、良くないことをしようが、罪を犯そうが、いつでも愛してくださる。
その愛は変わることがある。いつでも愛して、抱きしめて、住み込んでくださる。
その家様が、よみがえられてですね、その後、天に昇られるその直前、そこに行った人々に、こう約束してくださりました。
その約束の言葉は、「みよ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。」
皆さん、世の終わりまで、皆様と共にいてくれる人、いますか?いません。
旦那さんも先に行かれるかもしれません。あるいは自分が先に行かれるかもしれません。親もそうです。ある時は子供が先に行かれることもあるでしょう。
しかし、世の終わりまで、永遠に共にいてくださる方がいらっしゃる。それがイエス・シリスと、よみがえられた主であります。
ですから、このよみがえられたイエス様にお会いした人は、出会った人は、人生が180度ひっくり返されたように考えられます。
どんな障害があっても、どんな試練があっても、喜びでワクワクしながら、意識しながらですね、孤独も虚しさもないんです。
最後にもう一人を紹介したいと思いますが、何とか写真をお見せしたらいいんですけれども、お見せできないんですけれども、
48:08
皆さんもご存じかと思いますが、レーナ・マリアさんいます。有名なゴステルシンガーの方ですけれども、
彼女はスウェーデン人で、生まれたときから両腕がない。また、右か左の一方の足が、他の足より半分しかない。
でも、そのお父さん、お母さんは、とても素晴らしい子を持って、彼女を普通の子のように育てていらっしゃいました。
すでに、最も大事なことは、その子によみがえの主の信仰。そして、主はあなたの体を見るんじゃない。あなたの心を見る。
そして、信仰を見て、あなたを素晴らしく用いていらっしゃる。あなたを愛って愛っていらっしゃるんだよ、そういう信仰をお父さん、お母さんがレーナ・マリアさんに教えてあげた。
立派な大人になって育ったその彼女は、いつか私は覚えてないんですけど、日本でもコンサートを何回行っていらっしゃっているんですね。
本も出ます。秋で帰った人生とか、そういう本も出ていますけれども、彼女は歌を歌いながら、自分は自分のこの両腕もない、一方の足も短い。
一等もないかもしれませんが、自分のこの体を生涯と思ったことは一度もない。なぜかと言いますと、生きる主が私と共におられるから。
そして、いつかはこの体は朽ちることのない、永遠に生きるものに変わる主が必ず来るから。
そういうふうに明かし出しながら、全世界を回りながら、主の歌を、ホスペルを歌っているんです。
メッセージを終わりたいと思います。
まことの主にお会いすれば、人生は変わります。
私も変わりました。
皆さん、もう一度申し上げますが、正しい方向へ歩むことが大事です。
いくら熱心であっても、いくら真面目であっても、いくら良い人であっても、方向が間違ったら、それは無になるでしょう。
その人生の方向は、イエス・キリストです。
イエス・キリストです。このイエス・キリストにお出会いして、そして正しい人生の方向へ歩んでいこうではありませんか。
51:11
その主が世の終わりまで共にいて下さい。
お祈り致します。
ではですね、短くですね、短くでもいいです。声を出さなくてもいいです。さしてもいいです。
今日いただいた御言葉を覚えてですね、皆さん方の心の中に何かが語りかけられました。
今が恵みのチャンスです。今が救いのチャンスです。
決して逃さないでいただきたいです。
おごとの祈りをしましょう。
イエス・キリスト様が本当によみがえられたならば、私にもその方を信じる信仰をお与え下さいと祈ろうではありませんか。
信じられるように助けて下さいとお祈りしようではありませんか。
そして神様、私は今まで仏や空や虚しさ、様々な問題を抱えていたんですけれども、解決できていなかったです。
どうかしよう、正しい方向へ私を導いて案内して下さいと祈ろうではありませんか。
では、静まってですね、ご一緒にお祈りして、その後私がお祈りいたします。お祈りしましょう。
どうしよう、主は生きておられます。私はその意思です。神様、この虚しさ、この罪を本当に助けて導いて下さいますように。
どうかしよう、お願いをいたします。主は生きておられます。あなたは生きておられます。本当に生きる神をお会いして人生を変えられますように。
一言お祈りいたします。私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は決して死ぬことがない。
今も生きておられ、すべての人々を愛しておられ、守っておられ、最高の祝福を与えようとしておられる天の主なる神様、今日も東北から北北から主の民をこのところに主が見据えて下さいました。
54:08
主は生きておられます。その神様に私たちが従って正しい方向へ、イエス・キリストという方向、的に向かって歩むことができます。
私に憐れみをお与え下さい。ここに沿っている方々、どういう悩みを抱いているか、私には分かりませんが、主は御存じであられます。そのお答えは、主の御手にあることを信じます。
主がここに沿っている一人一人の心の中に、霊の中に、どうかしあなたの愛と憐れみと恵みに触れられますようにお願いいたします。御言葉を感謝し、イエス様の皆によってお祈り致します。
55:07

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