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2018-01-28 41:16

2018/01/28:ヨハネの福音書講解説教(20)神様の導きに従う人生

2018/01/28 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 7:1~13

00:01
それでは、短く一言お祈りいたします。
あたしの時はまだ来ていません。しかし、あなた方の時はいつでも来ているそうです。
天のちの神様、この朝も、愛する兄弟姉妹たちが、主の御前に集まりました。
どうか主よ、我らの体は弱くなっていても、心は燃えて、魂はますます主に引き上げられて、このところに臨みました。
どうか主よ、我らのこの捧げる礼拝が、本当に神の心にかなった、神に喜ばれる礼拝であることを、真摯感謝いたします。
どうか主よ、神の御声に耳を傾けて、お聞きいたします。
主よ、どうぞお語りくださいますように、心を素直にして、空っぽにして、神の御言葉をいただき、そしてその御言葉通りに生きる、本当にこの人生の力も、上からお与えくださいますように、お願いいたします。
今日のメッセージを聞く中で、どうか、誠の自由が主から与えられますように、誠の癒しが主から与えられますように、どうかお助けください。
イエス様の皆によって、お祈りとします。アーメン。
感謝します。先週は矢部の順一先生をお迎えして、新年生会が開かれました。
午前は愛を熱く、午後はキリストのものという題にしてですね、メッセージを語っていただきましたけれども、皆さんいかがだったでしょうか。
熱く愛を実践する一週間だったでしょうか。願わくは、いただいた御言葉を心に留めて刻みつけて、そしてですね、その御言葉を実践していく我らでありたいと願います。
ヨハネノ国書の公開説教、もう20回目になって、第7章に入りました。
今日はですね、どんな時、そして何が起きたのかを見ていきながら、神様の導きに従って歩む人生とはどんなものなのかね、共に考えていただきたい。
その恵みをお受けしたいと願っております。
さあ、1節とですね、2節をご覧ください。私が読みしますね。
その後イエスはガリラヤを巡っておられた。
イエス様はね、イスラエルの北部のガリラヤに巡っておられて、電動したりですね、病気を癒したりですね、教えたりしておられたわけなんですよね。
03:11
それはユダヤ人が、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思わなかったからである。
ユダヤはイスラエルの南の方でエルサレムを中心としたその地方ですね。
ところがその時はどんな時だったのか、2節を見ますと、さてカリオの祭りといったユダヤ人の祝いが近づいていたとあります。
ここにカリオの祭りとありますね。カリオの祭り。
普段の私の生活ではカリオとかそういう言葉は一般では使われないんですけれども、
ここでイスラエルには旧約の時代から大きく3つのお祝いの祭りがありました。
皆さんご存知でしょうか。3つがあります。
まず時間順に言いますと、杉越の祭りがあるんですね。杉越の祭り。
それは旧約の時から言いますと、モーセとイスラエルの人々がエジプトから脱出した時に、
羊の血をモンチューや針に塗りつけて、そして死のおもろいが吸い越してみんな守られた。
そして新約に入りましてはイエス様がまことの子羊として十字架に死なれた。
そのことを記念する、お祝いするその祭りが杉越の祭りで、イスラエルの最大の祭りなんです。
それからその次に来る祭りは五巡節の祭り、七州の祭りとかその名所はいろいろありますけれども、
それは主に新約の概念から言いますと、イエス様が蘇られた日を第一日として数えて五十日目になる日を記念する日を五巡節の日と言いました。
それからここの狩猟の祭りは何でしょう皆さん。ご存知ですか?狩猟の祭り。
それはイスラエルの人々が先に申しましたエジプトから脱出して、四十年近くエジプトと今のシナイ半島とかそこら辺のアラノをさまよったわけなんですよね。
その時にまともと家があるわけではないですし、みんな転倒生活をしたわけなんですよ、簡単に言ってね。
そのアラノでの生活とそこでの神の恵みを覚えて記念してお祝いするその祭り。
06:05
スイコシの祭り、五巡節の祭り、狩猟の祭りが三大の祭りです。
そしてこの祭りの日には旧約の日本にもありますけれども、イスラエルの特に男性は必ずエルサレムの神殿に登ってその祭りを守らなければいけない。
だからそれはイスラエルの全国からだけではなく、イスラエルの他の国に知らして住んでいる多くの人々がですね、
イスラエルに特にエルサレムにもみんなやってくるわけなんですよね。
だからそこにですね、いろんな権力のある人、金持ちの人、いろんな宗教家らしいとかがたくさん集まるわけなんです。
ところがそんな時にイエス様は変わることなくどこにおられましたか?
ガリラ屋を巡ってそこにおられたわけです。
さあ、そのイエス様様子を見て三節をご覧ください。
イエス様の兄弟がいたわけなんですよ。実の兄弟たちがいてですね、イエス様にこういうふうにアドバイスをするわけなんです。
三節、四節をご覧ください。私は読みますね。
そこでイエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。
あなたの弟子たちもあなたがしている業を見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
自分から公の場に出たいと思いながら、隠れたところでことを行うものはありません。
あなたがこれらのことを行うのなら、自分を世にあらわしなさい。と言ったんですね。
さあ、このイエス様の兄弟たちのアドバイスと言いましょうか。それはどういう意味なんでしょうか、皆さん。
簡単に言ってですね。
イエス様、今がチャンスでしょう。
あのエルサレムにいたら、全国から集まっている人がたくさんいますよ。
そこに行って、教えを、御言葉を教えたら、あるいは病気を癒したら、あるいは悪霊を追い出したら、今よりもっとたくさんの弟子ができるんじゃないでしょうか。
そして、あなたに就く人がたくさん、もっと群がるでしょう。
そしたら、あなたも有名人になるし、力が持てるし、勢力がどんどん強くなるんじゃないでしょうか。
有名になるためには、今がチャンスですよ。
今、こんなガリアという田舎にいる場合じゃないですよ。
早くエルサレムに行きなさい、という話なんです。
確かにですね、実際にその通りかもしれない。
とても理性的で現実的で、とても賢いですね。
時をよく見上げるというか、そういうお話のように聞こえるんですね。
09:07
確かにそうでしょう。
誰も、本当に人が少ない田舎の方で一人に教えるよりは、エルサレムに行ったら何万人もいるわけですから、
そこに広場があれば、そこでイエス様が御言葉を教えたら、たくさんの信者を得られる。
また弟子がたくさん、十人弟子、他の弟子がたくさん作れるかもしれない。
ところがどうでしょう。
この兄弟たちのアドバイスは、実はただの人間的な思いに過ぎないということであります。
それはイエス様の思いと違って、さらに神の思いと異なるということであります。
神の救いの方法は、イエス様が歩まれる道はどんなものでしょうか。
この兄弟たちが言っているように、エルサレムに行って有名人になり、たくさんの勢力を持って、
そして弟子たちをたくさん作って、この世を救う方法ではないんですよね。
それは神の救いの方法ではない、神の道ではない。
では皆さん、神の救いの道は、方法は何でしょうか。
それはイエス様の十字架と死、それから復活である。
ところがですね、決定的なことが、この五節に書かれているんです。
イエス様の兄弟たちも、イエスを信じていなかったとあるんですね。
残念ながら、イエス様の兄弟でありながらも、彼らはイエス様が救い主であることを信じていなかったんです。
だから彼らは残念ながら、神の救いの方法を知らない。
十字架と死と復活を知らなかった。
だからイエス様の思い心を読み取ることができなかった。
現実についてはとても詳しく知っていてですね、常識を持って理性的に考えていたんですけれども、
しかしそれは、主の道を心を知らない愚かな行いに過ぎませんでした。
皆さんいかがでしょうか。
このイエス様の兄弟たちの言った言葉とか行いから、
私たちに教えられる教訓があるとするならば、それは一言で言いますと、
父なる神様の心思いをよく読み取ることなんです。
12:03
私たちの父なる神様の心を正しく深くよく読み取ることであります。
そして進行の道はですね、皆さん一生の間、
父なる神様の心を、思いを、その道を、計画をよく知って、
よく正しく読み取って、そしてその導きに従って歩むことではないでしょうか。
皆さん、普段ですね、いろんな形で熱心にですね、働いて奉仕をしておられて本当に感謝しておりますけれども、
熱心に一生懸命に働くことよりもっと大事なことがありますよ。
それは、神様が望まれる方法通りに働くこと。
自分の方法ではなく、父なる神様の方法通りに働く、歩むこと。
それは皆さん、父なる神様の道を、思いを、その通りに働くためにはどうしたらいいんでしょうか。
二つをお話したいと思います。
その一は、父なる神様を心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、何する?愛すること。
皆さん、神様を心から愛すれば、神様の深い思いを、心を知ることができるし、読み取ることができるんじゃないでしょうか。
例えば、夫婦の間でもそうでしょう。
愛すれば愛するほど、あるいは親子の関係もそうでしょう。人間関係もそうでしょう。
愛すれば愛するほど、相手の心をよく読み取れる、知ることができるということなんですよね。同じなんです。
私たちが神様を愛すれば愛するほど、神の思いを、神の道を、神の方法を読み取ることができる、知ることができるわけです。
そして、もっと大事なことがあります。それは、神様はですね、ご自分の心や思いや、あるいは道、計画を、ご自分を愛するものに、主は教えてくださるということであります。
神様はですね、皆さん、神様は愛するもの、神様についていきたいと願って歩むものに、神様は自分の思いをよく、もう明らかに教えてくださるんですよ。
15:02
その道を教えてくださるんですよ。将来のことを教えてくださるんです。誰に?主を心から愛するものに。
神様が誰にでも教えてくれるわけではないんですよ。実は。
普段、心を尽くして、思いを尽くして、主を愛するものに、神様も教えたかどうかはない。
普段から神のことをさせていただきたいと願うものに、何とかして神様に喜ばれるものになりたいものに、常に、いつもですね、神の働きに関心を持って、どうしたらそれができるんだろうかと悩んだり、祈ったりするものに、神様は喜んで、ご自分の道を、思いを明らかに教えてくださるんです。
そして、こういう者たちと一緒に働くことを主は喜んでおられます。そう思いませんか、皆さん。本当にそうなんです。
だから、私たちがクリスタルとして、神様がいただける最も大きな祝福、栄光は何でしょうか。成功?それではありません。
金持ちになることはそれではないんです。それは、神様がご自分の将来のこと、ご自分の思いを私たちに示してくださる、教えてくださって、私たちと共に働くこと、それが我ら人間が神様からいただける最高の祝福と光栄であります。
そういうことを目指して歩んでいこうではありませんか。
神の導きに従って歩むためには、二番目として、そして、神の思いを深く知るためには、二番目として、自分の知恵や判断やそういったものを手放す、自己否定が必要となります。
人間的な、このイエス様の兄弟たちみたいに、自分の知恵、あるいは経験、あるいは経歴と言いましょうか、判断と言いましょうか、そういったものを手放す、自己否定が本当に必要です。
ちょっと最初に開きましょう。ルカノーク印象、どうしてもですね、こういう寒い日はですね、外は寒くて、中は暖かくてですね、ぬくぬく、ねむくなりますよね。
ルカノーク印象、九章の二十三節、ご一緒にですね、みんなセッションをお持ちの方は開いていただきまして、一緒にですね、読みたいと思います。
18:02
ルカノーク印象、第九章、二十三節、私の聖書では百三十ページです。ルカノーク印象、第九章、二十三節、よろしいですか。
一緒に読みたいと思います。せーの、イエスは皆のものに言われた。誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を追い、そして私についてきなさい。アメン。
もう一度私を読みますね。イエス様のお言葉だけ。誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を追い、そして私についてきなさい。
ここの自分を捨てるという言葉がありますよね。自分を捨てる。これを参考的にちょっと調べてみました。
日本語の、昔翻訳されて今、実版しているみたいですけれども、省略制度というものがあるんですね。
そこにはですね、この自分を捨てというところをこういうふうに訳していました。
その人は自分自身を否定し、括弧して、すなわち自分を無視し、自分と自分の利益を忘れ、それに目もくれず、自分を否認し、自分を捨て去り、括弧を閉じています。
つまり、ここでイエス様が自分を捨てるということは、自分自身を否定することであります。自分を無視することであります。
自分と自分の利益を忘れる、そこに目もくれないことです。自分を否認することです。自分を捨て去ること。
それこそイエス様についていくものが持つべき心の霊の姿勢であります。
ですから皆さん、さっきの今日の御言葉のイエス様の兄弟たちのようなことが起こらないために、自分の思い通りに動かないために、
あるいは自分の思いが神の思いより先走ることがないためにはどうしたらいいでしょうか。
自分自身を否定することです。自分を無視することです。自分と自分の利益を忘れることです。そこに目もくれないことです。
自分を否認することです。自分を捨て去ることです。それがイエス様についていくものの道である。
21:04
それは神様の導きを分かって従うものの道であります。
だから皆さん、難しいでしょう。確かに自分は無視されたり否定されたりしたら、本当に大体の人は頭にくるわけです。
ところが、考えを変えてほしいのです。
もしも、誰かが皆さんを無視したとしましょう。そしたら喜んでほしいです。
無視されてイエス様についていけるんだと。自分が自分を無視していないから、神様はあの人として私が無視されるようにしてくださったんだ。
なかなか自己否定ができないものなのだから、そういうように主は否定させてくださったんだ。
そう思ったらいいのではないでしょうか。
だから私たちはどうしても、人間は歳を重ねて重ねていけばいくほど、いろんな経験が身につく、思いにつく、考えに、記憶についてしまいます。
確かにいろんな古い経験があったり、立派な経歴があったり、そこから来る知恵も思いも、判断もありますね。
確かにそれが主の働きに役立つこともあるでしょうけれども、でも少なく場合は、むしろ我々人間の思いとか経験とか趣識とか、そういったものが、
今日のイエス様の弟子たちのように、イエス様の兄弟たちのように、神の業を、神の道を妨げることもあり得るということであります。
だから私たちは本当に注意していなければならないのです。
それはイエス様と弟子たちの間でも、そういうことが起こったんですね。
さあ、ちょっと聖書を開きましょうか。
マタイの国書に行きましょう。
マタイの国書、十六章、二十一節。
マタイの国書の十六章の二十一節です。
私の聖書では三十三ページです。
二十一節から御覧下さい。
その時からイエス・キリストは、御自分がエルサレムに行って、長老、最首長、立法仏者たちから多くの苦しみを受け、
殺され、そして三日目によみがえられなければならないことを弟子たちに示し始められた。
もう初めてですね、もう正式というか、御自分のこれからのことを話されたんですね。
そしたらその話を聞いていた弟子たちの中のペテロが何と言ったんでしょうか。
二十二節続いて御覧下さい。
するとペテロはイエスを引き寄せて誘い始めた。
24:06
主よ、神の御恵みがありますように、そんなことがあなたに起こるはずはありません。
つまり、あってほしくないんです、ということなんですね。
とどめ落としたわけなんですよ。
その時イエス様がこう言われました。
二十三節一緒に読みたいと思います。
二十三節、せーの。
しかしイエスは振り向いてペテロに言われた。
さがれサタン、あなたは私の邪魔をするものだ。
あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。
ここにですね、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っているとイエス様は言われました。
皆さん、本当にそうなんです。
私も含めて信仰生活をしていけばいくほど注意していただきたいことは、
それは神のことを思わないで、人のことを思ってしまうことではないでしょうか。
時には自分の経験、時には自分の職業、自分の知恵、自分の思い込み、自分の判断などなど、
そういったものを否認して捨て去らせて、すべてを無視してイエス様についていくことが、
そしてこのようなクリスチャンを通して、教会を通して主は偉大な御業をなしてくださるということであります。
大きい二番に移りたいと思います。
神の導きに従うにはどうしたらいいんでしょうか。
二番目、神の時を待つことです。
神の時を待つ。
一箇所、九百の聖書を開きたいと思います。
伝道者の書三書一説、開きましょうか。
伝道者の書三書一説。私の聖書では1104ページです。
伝道者の書三書一説。
八節まで読んだらいいんですけれども、一節だけ一緒に読みたいと思います。
伝道者の書三書一説を一緒に読みましょう。
天の下では何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
天の下では何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
27:09
そして今日もイエス様が今日のヨハネの福祉七書に戻りますと、二回こう話をしました。
私の時はまだ来ていません。六節。
それから今日のヨハネの福祉七書の八節にも、私の時がまだ満ちていないですとイエス様はおっしゃいました。
皆さん、人の人間の時ではなく、自分の時ではなく、神の時があります。
その神の時を待つことが天の知恵なんです。
イエス様の兄弟たちは、さあ今がチャンスですよ。もう早くエルサレムに行って、そこでまた有名になって勢力をもって、もうこの国を救ってくださいと、そういうふうに思った。
今がその時だと、絶好のチャンスの時だと思いました。しかしそれはただの人間の時に過ぎなかった。神の時があるんです。
イエス様は神様でありながら、また息子だから、イエス様は何でもできるわけなんですよね。神様なのか。
ところが思い通りに、自分の思い通りに、あれもこれも全部なさったわけではないんですよ。
イエス様でさえ、父なる神様の心や思いに従うイエス様の身姿がここに書かれています。
イエス様でさえ神の時を待っておられました。そしてその時になって従って働かれました。そしてその時になって十字架に架かられました。
それは皆さん、イエス様に情熱がないから、積極的な行動がないから、イエス様は本当に諸極的で、そういうものだからではないんですよ。
むしろ神様に対する向かう情熱、十字架に向かう情熱がイエス様の中でも燃えていた、火がついていたから、神の時を待って、イエス様は無秩序的な情熱や衝動に左右されず、神の時に神と共に働かれました。
ある人々はこう言います。何もしないで、神の時をただ待っていてはいけません。状況を自分に有利に作ったり、人々心を動かしたり、相談をしたり、会ったり、そうして時を作らなきゃなりませんよ。時を早めなきゃなりませんよと言います。
30:10
とても積極的な話のように聞こえます。情熱的な話のように聞こえますね。しかし、そういう様子は実はイエス様には見えないんです。時を待つことは人々から見られたら愚かなことのように思われるかもしれません。
しかし、神の時を待つことこそ、まことの信仰であって、まことの知恵なんです。むしろ皆さん、神の時が、本当の神の時がまだ来ていないのに、自分の衝動的に感情に任せて、無謀な行いをすることは、実は失敗への近道なんです。
聖書には素晴らしい信仰の人物の話もありますけれども、実は神の時を待っていられなくて、もう焦って感情に任せて衝動的にやってしまって、失敗したケースがたくさんあるんですよね。
2つ話していきたいと思います。それを反面教師で学びましょう。まず、アブラハムト・サライからイスマイルが生まれたケースであります。ちょっと聖書を開きましょうか。すいませんが、荘石の第15章を開きましょう。
旧約聖書の20ページですね。私の聖書では、荘石の第15章の4節。この時に、まだ夫・アブラハム・妻・サライの間に子供がいなかったんですよ。生まれてきていない時です。
その時に神様は、アブラハム・妻・サライに約束の御言葉を語ってくださいました。4節ご覧ください。
すると主の言葉が彼に望み、御仰せられた。そのものがあなたの後を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれてくるものが、あなたの後を継がなければならない。そして、5節ご覧くださいね。
そして彼を外に連れ出して御仰せられた。さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに御仰せられた。あなたの子孫はこのようになる。
まだ子供が生まれていないんですよ。一人もいません。その時に神様がアブラハム・妻・サライに、空の星を見せて、これを、あなたの子孫がたくさん生まれるんですよ。あなたの身から生まれる子が、あなたの後継になりますよ、と語られたんですね。
33:18
皆さん、これはね、たったの約束その以上のものであって、神様がアブラハムと結んでくださった契約なんです。だから、神の時になれば、神様が必ず子供を生まれさせてくださることを信じるべき。神の時を待って、子供が生まれなくても。
でもどうでしょうか、皆さん。アブラハムとサライはどうしたんでしょうか。十六章。だから、この神の約束のお言葉があって、そんなにたくさん年数は経ちましたけれども、まだまだ子供が生まれていなかった。
それで十六章の一節からご覧ください。アブラハムの妻サライは、彼に子供を産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハカロと言った。サライはアブラハムに言った。
ご存知のように、主は私が子供を産めないようにしておられます。どうぞ私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子供の母になるでしょう。
アブラハムはサライの言うことを引き入れた。どうでしょうか、皆さん。そしてイシュマエルが生まれてきたわけなんですよね。どうでしょう、皆さん。アブラハムとサライは何を待っていなかったんですか。神の時を待っていなかった。焦っていました。
もちろんですね、まだサライの子供を産めなかった理由もありますし、当時の文化は今と違ってですね、特に息子というものは財産でありながら権力なんですね。今の国家時代じゃなくて部族社会でありますから、男の数こそ権力である。力であるわけですから、本当に大事な存在であります。本当に息子が必要なんです。
ところが神様が約束したのに、まだ誰も生まれていない。それでサライもアブラハムも焦ってしまって、人間の思いが先場してしまって、ハガルからイシュマエルが生まれてしまった。その後、大変なことがその家族の中に起きてしまいました。
我々が神の時を待っていられず、人間の思いが先場してしまうとですね、本当につらい目にあわされるんですよ。モーセのケースもあるでしょう。モーセがですね、エジプトの王子でした。ところが外に出てみたら、エジプト人がイセラ人をもう苦しめて苦しめていた。そしてもう怒ってですね、エジプト人を殺してしまいました。
36:25
その時もモーセは自分が王子だから権力を持っている。自分の知恵を自分の力を過信したわけなんですよね。自己熱心や衝動がもたらした結果は、殺人と逃亡でありました。
皆さん、新年1月28日、今年もいろんなことがあるでしょうけれども、何かを決定しなければならないことが終わりなんでしょうか。あるいは何かをしなくてはならないという思いに迫っているんでしょうか。
それで何か焦ってはいないんでしょうか。あるいは本当に実際に何かを決めなくてはならないことがあるかもしれません。その時に、静まって神の時を待っていてください。
力ある神なる家様でさえ、神の時を待って立ち止まられることがあったなら、私たちはなおさら神の時が来るまで備えをして十分に待たなければならないのではないでしょうか。
でも、ただ何もせずにぼーっとして、おとおとして待つわけではないんですよ。花向こうを待つ花嫁たちのように、明かりと油を備えて、学んで訓練を受けて準備をして、神の時を待つことが大事であります。
3つ目に移りましょう。神の導きに従うにはどうしたらいいんでしょうか。3番目、神の御心に従うことです。行動が必要です。
ところがですね、今日、ヨハネの福音書に戻りますと、イエス様は巨大たちが祭りに登って行った後、ひそかにイエス様もエルサームに向かわれたんですね。
それは実は、イエス様も神明の十六書の十六説に、祭りの時にエルサレムに登るという立法を守られたということであります。
ここにも重要な意味があります。イエス様は神の時を待って、そして神様の方法で働くと同時に、神様に従うことで、神の立法を全うされました。
39:02
このように皆さん、神の導きに従う者は、神の時を待つ知恵と共に、神の御心に従い、全うすることができる力が上からあります。
皆さんですから、神の導きに従う人生とは、神様を心から愛するもの、自分自身を否定するもの。
だから、自分の思いが、自分の行動が、神様より先走ることはない。ただ静まって、神の時を待ちつつ、何をしても、神の方法によって働くこと、これこそ神の導きに従う人生であります。
信念になりまして、私たちは個人的に、あるいは家庭的に、あるいは教会的に、いろんなプランを立てたりします。何かを決定して、推進して、いかなければならないことがあるでしょう。
優しい決定もあるかもしれませんが、本当に難しい決定を下さなければならない時もあるでしょう。
そういうたんびに、どうしよう、どうしよう、慌てるんじゃなくて、神の心をよく分別して、神の時をよく見分けて、神の導きに従う我々でありたいと。
私も申し上げたように、神様心から愛する者、神のことを、神の働きをさせていただきたいと、福音宣言のために祈って悩んで行動する者に、神様ご自身の思いや心や将来のことをシェアしてくださる。
だから、そのような人々は、四辺の一辺三節のように、水路の傍に植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える。アーメン。
このような祝福が今年ですね、我々に満ち溢れますように、心からお祈り申し上げます。お祈りしましょう。
41:16

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