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2024-01-07 25:52

2024/01/07:それでも愛に生きる

2024/01/07 新年礼拝

加藤満牧師

ルカの福音書 -22


サマリー

2024年の新たな年が始まり、今朝、彼は聖日礼拝を捧げています。被災地の支援活動や年明けの出来事について話し、イエス様がキリストとして生きるための道しるべを教えるバプテスマの意味について学んでいます。聖霊のバプテスマを受けた人々は、その時に主に向かっていますね。ルカ福音書では、聖霊様が何度も登場します。マリアも聖霊に満たされ、イエス様の誕生へと導かれました。

新年の礼拝と被災地の支援
それでは、一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
2024年も、主が新たな年を始めてくださり、今朝は祈られたように、最初の聖日礼拝をあなたへと捧げております。
主が私たちを招き、また、本当にあなたを仰いで生きるように、本当にそのような歩み合いと私たちをこの年も招いてくださっていることを感謝をいたします。
私たちは、年明けから本当に心揺さぶられることがありました。
まだその渦中の中にありますし、このことをどう捉えてよいかわからない中にもありますけれども。
しかし神様、
この国をまた、私たちを、この世界を導いておられるのが主であることは変わりません。
あなたを仰ぎます。
どうか私たちに、本当に見るべきものを見ることができるように力を与えてください。
あなたは私たちを愛し、私たちのために、巫女はあの十字架へと捧げてくださいました。
私たちの罪のために、巫女があの十字架にかかられ、その流された血潮により、
私たちの罪のために、巫女があの十字架へと捧げてくださいました。
私たちの罪、どのような罪をも、あなたは赦し、神の子とし、そして三日目に甦えられた命をもって、
私たちにもその命、永遠の命を与えてくださり、永遠なる日と共に生きる新たな命を私たちに与えてくださったことを感謝いたします。
もうそれだけで十分なほどの豊かなものが与えられていますが、私たちは賭けの方が目に入るものです。
神様どうか。
本当に多くのものに取り囲まれていますが、あなたを仰ぐことができますように、私たちを導いてください。
お願いいたします。
この朝も、施設におられる方、家で礼拝を守っておられる方々、またここに来たくても来れない方々がいらっしゃることを覚えます。
お一人一人に、主が伴ってくださり、慰めを与えてください。
また祈られたように、本当に災害、戦争、多くの痛みの中に、
人々がいることを覚えます。
全知全能の主がと祈ってくださいました。その通りです。
神様がお一人一人の痛みのうちに、伴ってください。
慰めてください。
お願いいたします。
またそのために、支援の手が今伸びています。
その手の技を主が守り、祝してください。
お願いいたします。
これからのひとときを見てにゆだねます。
どうか御言葉を開き、私たちを導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
アーメン。
改めまして、皆さん、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
主の豊かな祝福が、今年も皆様の上にありますようにと、
心から願っております。
ただ、特に年明けの能登半島地震に被災された方々のことを、
その慰めを祈っています。
今なお、被災地での救援活動が続いていますし、
被害の全貌は明らかになっていませんが、
それでも助けの手が今入っていることを覚えます。
私たちの教団でも、震災があった翌日に、
何名かの先生が、あの被災地に入って救援物資を届けました。
今も、救鬼祭という九州のキリスト教災害ネットワークが入って、
支援活動をしています。
また、窓口も明らかになってくると思いますが、
いろいろな意味での支えをしたいと願っています。
ただ、どうでしょうか。
私は、今こういうふうに話せていますけれども、
何か、やっぱり1月1日にこういうことがあったということに、
バプテスマの意味とイエス様の生き方
とても心を揺さぶられました。
普段から何があるか分からないと思いながら生きているつもりでしたけれども、
1月1日から、まさかこんなことがあるのかと思わされ、
激しく動揺しました。
テレビに映る津波の映像が、東北の震災をフラッシュバックさせるような、
そしてそういう思いをした人はいるだろうなとも思いました。
私からするならば、燃える火事の炎を見ながら、
阪神淡路大震災の長田の光景を思い出しました。
停電で真っ暗な街を見ながら、家族で祝うはずだったこの元旦の夜を、
光もないまま寒い中過ごす人たちが、
いるということを思うと、本当に心が痛みました。
この現実をどう受け止めてよいか、本当に分かりませんでした。
神様、なぜですかと、テレビを見ながら本当に思いました。
ただ、このことを通じて、私自身、再認識させられたことが2つほどあります。
1つは、私たちが生きている世界は、こういう世界なのだということです。
何があるか分からない世界を、私たちは、
生きています。
これは、今なお、そして私たちにおいてなお、そうです。
そして、もう1つ思うことは、
しかし、クリスマスを祝った私たちは、知っているはずだということです。
このような世界に、神の御子が来てくださったということです。
クリスマスに祝ったことは、そういうことでした。
神がおられるなら、どうして、と思います。
分からないのです。
けれども、この分からない世界の中に、神は生きてくださったということを覚えるのです。
今朝は、新年礼拝と言いましたが、高原節という教会歴の季節でもあります。
いわば、イエス様がお生まれになられて、成長して、公にその働きを始められた、そのような季節です。
イエス様は救い主です。
しかし、福音書を読んでいる私たちは知っているかもしれません。
イエス様は救い主なんですが、順風満帆な人生を歩まれたわけではないのです。
イエス様は救い主であるにもかかわらず、いわば、試みの多い人生でした。
いろいろな人から反対をされました。
イエス様もまた、何があるか分からない世界を、この世界を生きられたのです。
しかし、その世界をイエス様は、神と共に生きられたのです。
神と共に生きられた。
それはどのような歩みであったかということを、今朝確認したいのですが、一つ中心としたいのは、22節の言葉です。
3章の22節。
聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に下って来られた。
すると、天から声がした。
あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ。
何があるか分からない世界を、それでも何かを握って歩んでいかなければならない時に、イエス様は何を握られたのか、そのことをご一緒に今朝は学びたいと思っています。
さて、今朝の箇所はですね、少年時代を経て大人になったイエス様の姿が、3章からその内容が始まっていきます。
ただ、3章の最初の方を見ていただくと、出てくるのは実は、バクテスマのヨハネの姿です。
覚えていらっしゃるかもしれませんが、ルカ福音書では、クリスマスの出来事は、イエス様とバクテスマのヨハネが交錯するように描かれています。
イエス様のこれからの働きにおいて、バクテスマのヨハネというのは、本当に大切な役割をしたということが言いたいわけです。
それは何かというと、イエス様はどういうお方であるかということを語る道しるべとなったということです。バクテスマのヨハネはそういう人でした。
ヨハネは、ヨロダン川で人々の罪の悔い改めを解き、悔い改めのバクテスマを授けていました。
このヨハネは、実はとてもだいぶ人気があったようです。
今日読んでいただいた15節も見ますと、人々はもしかするとこのヨハネの方が来るべきキリストなのではないかと思ったということに、ヨハネさんはとても人気がありました。
けれども、このヨハネという人は、そのように伸びないことはないということです。
このような称賛に見向きもせず、自分の成すべきことをしました。
ヨハネの使命、それはまさにイエス様を指差すということ、
聖霊のバプテスマの授け
イエス様の道しるべを示すということでした。
16節というところをちょっとお読みしますと、ヨハネはこう言いました。
私は水であなた方にバプテスマを授けています。
しかし私よりも力のある方が来られます。
私はその方の履物の紐を解く資格もありません。
その方は精霊と火であなた方にバプテスマを授けられますと。
何を言っているのかと言いますと、私はキリストじゃないよと言っているんです。
私はキリストではない。むしろキリストという方は今から私の後に今からやってくる。
そして私はその人の靴紐を解く資格すらないというヨハネは語る。
このヨハネの姿というのは、
本当にへりくだっている人の姿を表しているような気がします。
本当のへりくだりですね。
そしてこうも言います。
自分はヨルダン川で水のバプテスマを授けたけれども、
今度来るイエス様というお方キリストは、
精霊と火でバプテスマを授けますということを彼は語るのです。
まず火とは何でしょうか。
火というのはこれは裁きの象徴です。
で、この3章の10節から14節にヨハネがいろいろと言っているんです。
やってきた人たちに対して、私たちは悔い改めた者たちに何しなければならないでしょうか。
いろいろ言っています。
下着を2枚持っている人は持っていない人に分けてあげなさい。
食べ物を持っている人も同じようにしなさい。
主税人に対しても決められた以上には何も取り立ててはいけません。
何を言っているのか実に当たり前のことなんです。
あなたたちの持っているものを貧しい人と分かち合い、
そして持たない人から奪っている人がいるのであれば、
それをやめなさいということを言っているわけです。
簡単に言うとそういう不正と言いますか、
そういうことをやめなさい。
当たり前となっている不正を正すという、
そのようなことでしょう。
そういうことに対する裁きということです。
正しい裁きをもたらすお方であるイエス様が来たら、
そういうことをちゃんと、
そういうことはだめだよということを言うということですね。
そしてこのお方は聖霊のバプテスマを授ける。
人間の教えや励ましだけではなくて、
聖霊のバプテスマというのは、
神様ご自身の霊、聖霊様を通して、
その聖霊様に導かれ強められ、
その使命、それぞれに与えられている命の使命を果たすように、
そのように、
神様が導かれ、
イエス様はそのような霊を注ぎ、
私たちを導かれるということです。
ここで、
ヨハネのバプテスマとイエス様の授ける聖霊のバプテスマというのは、
違うということが言われているわけですね。
ヨハネのバプテスマというのは、
バプテスマって教会でもしますが、
神様に悔い改めますということを言った後に、
水の中にバシャーンと、
鶴教会までにバシャーンと、
入れて起こすわけですね。
あれは何かというと、
死と復活なんですよ。
古い私に死に、新しい私として生きます。
神と共に生きますという、
そのような表しの儀式です。
そこには新しい決心がある種生まれるでしょう。
けれども、
聖霊様によるバプテスマ、
つまり、
聖霊様に浸ると表現されるこのバプテスマというのは、
人間の決心、
人間の決心だけじゃないということです。
人間の決心、
それこそよくあるんですけれども、
救われて、
バプテスマを受けて、
さあ、これからクリスチャンとして生きていくぞと、
生きていくわけですが、
大概うまくいきません。
限界があるんです。
私たちは、
神様に私の力だけで従っていこうという、
私の力で信じていこうというと、
実は限界があるんです。
でも、
ある種、
その限界に当たったときに私たちが気づかされるのは、
ああ、私が神様を信じるということも、
私が主に従うということも、
ああ、神様の助けなしには、
聖霊様の助けなしには、
何一つなし得ないんだという事実です。
聖霊なる神様に導かれていこうという意味が、
ですから、
水のバプテスマを授けるということの中で、
頑張って従っていこうということだけではなくて、
実は聖霊様を救われたときにそれぞれ受け取っているんですけれども、
聖霊のバプテスマに生きるという人たちは、
どういう人たちかというと、
頑張ろうというよりかは、実は神様を仰ごうとするんです。
従えないとき、
自分の罪が示されるとき、
ああ、私は罪深い、ダメだとか、
ああ、私のこれやって頑張っていこうとか、
もうダメだとか、
じゃなくて、聖霊様に導かれるというのは、
その時に主を仰ぐものです。
私には力がない。
私には手が回らない。
でも、聖霊なる神様が生きておられる主ご自身が、
このことをなしてくださる。
ルカ福音書の聖霊様
聖霊のバプテスマに、
聖霊のバプテスマを授けられた人というのは、
その時に主を仰ぐ人ですね。
でも、思えば、
ルカ福音書は1章から物語を扇動しているのは、
聖霊様です。
ルカ福音書の中では、何度も聖霊様が出てきます。
エリサベツもザカリアも、
また生まれていなかったバプテスマのヨハネも、
そして、あの受胎告知を受けたマリアも、
皆が聖霊に満たされた。
聖霊によって、聖霊によってと語られます。
そして、その聖霊様の導きによって、
救い主イエス様も、その誕生へと導かれました。
その誕生へと導かれました。
そして、その同じ聖霊様が、神様の霊、
共におられる神と言ってもいいかもしれませんが、
その方が、この公の働きを始められるイエス様の上にも臨まれた。
イエス様の生涯と聖霊様
実は、これが22節です。
バプテスマを受けたイエス様の上に、
聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に下って来られた。
すると、天から声がした。
あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶと言われます。
イエス様もまた、聖霊様に導かれる生涯が始まったのです。
イエス様のお働きは、一人のものではありませんでした。
イエス様はこの後、4章からは、40日間もの間、悪魔の試みにあいますし、
そしてまた4章の、そうですね、16節あたりからは、
ご自身の生まれ故郷の流れに返って語っても、
全然、人々から受け入れられないという拒絶の経験もなさいます。
試みもあり、拒絶もあったのです。
けれども、そのようなイエス様の歩みは、決して一人のものではなかった。
聖霊なる神様が共におり、イエス様はいつもその時に主を仰いでおられたのです。
救い主なのに、王なのに、試みられ苦しむ。
聖書を読んでいると、私は思います。
私たちは単純に思います。なぜなのでしょうかと。
けれども、これは大事なことだと思うんですね。
イエス様もまた、私たちと同じ世界を生きてくださったということです。
真面目に神様を信じ、クリスチャンとして歩んだ、輪島にも教会はあったのです。
なぜですかと思いますよね。
ただ、そのような世界にイエス様も生きられたわけです。
イエス様も生きられたわけです。
何があるか分からない。
でも、その中で聖霊様と共に主を仰いで生きていかれた。
神様を信じつつ、どうしてですかと言わざるを得ない私がいる。
けれども、イエス様も試みられ拒絶され、十字架の上では、どうして私をお見捨てになったのですかと、父なる神様に叫ばれたイエス様がいます。
けれども、その道中、イエス様は決して一人ではなかった。
イエス様は決して一人ではなかった。
聖霊様、それは共にいる神、ご自身がイエス様と共におられた。
それはイエス様を信じ、神のことされた私たち自身もまた同じことなのです。
そしてまた、聖霊様がイエス様に下られたとき、最初に語りかけられた言葉は、
あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶという言葉でした。
マリアの讃歌もそうでしたけれども、聖霊様に満たされるということは、
その人は神様のお心を完全に悟るということです。
イエス様は聖霊様が下ったときに、父なる神様が私に変わらず抱いてくださっている思いを100%受け取ることができたのです。
それは何か?
神の愛と共に生きる姿
私、あなたは私の愛する子であり、私はあなたを喜んでいるという事実です。
父なる神様が私を心から愛し、私の存在を喜んでくださっているという事実です。
私を心から愛し、私の存在を喜んでくださっているという事実です。
私を心から愛し、私の存在を喜んでくださっているという事実です。
あなたに言う事実をこの時、イエス様は、100%受け取られたということを知ら続けました。
おそらく、聖霊様と共に歩み続けられたイエス様は、
いつも、この父なる神
神様に愛されているから、神様に愛されているから、これ本当に大事なことですよね。
クリスチャンの基本的に大事なことは、神に愛されているということです。
何に取り置いても、神に私たちは愛されている、喜ばれている。
そしてイエス様は、私はこの父なる神にこんなに愛されて、あなたもそういうふうに愛されているのだから、私たちは互いに愛し合いましょうということを語られ、
そして互いに愛し合いなさいと言った、この言葉こそがイエス様がもたらした火なんですよ。
私たちは火と聞くと、裁きと聞くと、いろんなものをバーンと滅ぼす神様の裁きのことを思い起こしますが、
しかし、ヨハネが語った火というのは、不正をやめなさい、持っているものを分かち合いなさい、それは何か、互いに愛し合いなさいということです。
それが火です。
イエス様の生涯には、多くの試みと拒絶や裏切りがありました。
時にイエス様にとっては、聖典の霹靂のような出来事もあったでしょう。
イエス様が十字架に関わられる前に、十字架に行かれる、あそこで死なれるというものも、イエス様にとっては当然のことではなかったのです。
ゲッセマネの園で血の汗が流れ出たとあります。
あの十字架の死ですら、イエス様にとっては試みなのです。
なぜですか。
どうしてですか。
しかし、あのゲッセマネの祈りの時にも、聖霊様が共におられ、聖霊様が支え、そしてその見声を聞き続けておられたのでしょう。
あなたは私の愛する子。私はそれでもあなたを喜んでいる。
だからイエス様は、父よ、どうして十字架なんですか。
この杯を取り除けるなら取り除いてくださいと嘆きながらも、
最終的には、父よ。
私の願いではなく、御心がなりますようにと、
自分自身の歩みを神様の御手に、その導きに、およだねなさったのですね。
このようなイエス様の姿を見せると、まさにこれこそが聖霊によって生きる姿であると思わされます。
どうしてと思うのです。
どうしてこのような目に私が合うのですか。
どうして私が十字架なのですか。
思うのです。
けれども、
どうしてと思いつつも、歩みを止めず、
聖霊様が私と共にいることを覚え、
聖霊様が導かれるところに委ねながら、
神が備えるままに、
父よ、私の願いではなく御心がなりますようにと、
歩まれたイエス様の姿がある。
もう終わりますが、年明け早々。
神様どうしてと、少なくとも私は思いました。
聖霊様どうしてですかと、その答えは分かりません。
ただ、私がそれでも語りうることは、
イエス様もどうしてと言いながら歩まれたのです。
どうしてですか、主よと。
そして、そのようなイエス様の歩みには、
決して一人ではなく、
聖霊様が共におられたということ、
そしてその聖霊様が、
そういうどうしてと分からない世界の中で生きている、
生きていく私たちに対して、
あなたは私の愛する子、
私はあなたを喜んでいるという言葉を、
なおもかけ続けておられるということです。
私たちには分からないです。どうして。
でも確かな事実として、
私はあなたを愛している。
私はあなたを喜んでいると言われる。
私たちもそうでありたいと思います。
神様の愛の声と共に歩まれた、
そのイエス様の歩みを覚えて、
ある種、絶望に足を止めずに、
なおも、
この世界の歴史を、
そして私たち自身を導いておられる、
聖霊様に委ねて、
神様に愛されながら、
この混沌とした世界を、
そして、そこでなおも苦しみ続ける、
この世界に生きる人々を、
愛する者でありたいと思うのです。
絶望することは簡単だし、
分からないことに対して、
だから神は駄目なんだということも簡単なのですが、
しかし、きっとクリスチャンとして召されているのは、
この世界で、
なおも神の愛に生きるということです。
神様が、
一人ひとりの命を愛しておられるからですね。
それでも、この世界、愛をもって歩めますように、
聖霊様に委ねましょう。
あなたは私の愛する子。
私はあなたを喜ぶと、
一人ひとりが、この語りかけを聞きながら、
愛されている、そして愛する者、
そのような歩みをさせていただきたいと願います。
一言祈ります。
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