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2018-07-29 37:58

2018/07/29:ヨハネの福音書講解説教(37)あなたがたも互いに足を洗いあいなさい

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2018/07/29 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 -20
00:01
みなさん、おはようございます。
台風が、礼拝の時間とかならないとどうしようと、祈り室がありましたけれども、通り抜けて、このようにみなさん、大勢の方が集まっていただいて本当に感謝です。
さあ、椅子の前に隣の方と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
主であり、死であるこの私が、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗いあうべきです。
私たちは、いつも、イエス様に見るものとなりたくて、イエス様のように変えられたくて、主に従ってついてきております。
今日も、あなたを愛して、礼と誠をもって、礼拝をお伝えしています。
どうかしよう、今から神様御自身が、ここにいる一人一人のその礼と、心と魂の中に御自身が働いてくださって、
そして、神の声として受け入れ、飲み込んで、そしてそれを自分の人生に、生活に適応し、実践し、イエス様のように日に日に私たちが変えられますように。
どうかしよう、本当に小さなイエスのように私たちを変わらして、憎みを上からそそいでくださいますように、お願いをいたします。
語る者も聞く者も、主の御前に減り下って、謙遜であって、悔いる心、また砕かれた心をもって、感謝をもって御言葉をお受けできますように、聖霊様どうぞ導いて満たして下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
感謝します。
ヨハネーノ国書のシリーズ説教37回目になります。あなた方も互いに足を洗いなさい、という題になります。
先週のメッセージを皆さん少しでも覚えていただけるのでしょうか。
イエス様の愛、神の愛について御言葉をいただきました。
無条件の愛、不変の愛、一方的な愛、その愛を私たちは今まで受けておりますし、今も受けておるということである。
03:13
するならば、その愛をもって、イエス様のような愛をもって互いに愛し合うことが信仰である。そしてその愛を実践するところが教会であるということであります。
キリスト教は皆さん、学習する宗教ではありません。勉強する宗教ではないのです。
勿論、勉強して知識を積んでいくことが基礎になりますし、役に立つわけでありますけれども、それを含めてそれを遥かに乗り越える、
つまり、学習することを含めてそれを乗り越えて、イエスの愛を体験する、味わう、そしてそれを実践すること、それが信仰ということだね。
だから、今、特にこのヨハネの訓示の13日をイエス様ができた日と、スイコシの祭りを行って、食事をして、清算式をする、足わらを、いわゆる詮束をする、この時にイエス様は特に神の愛を深く深く語られたんですね。
だから、その愛を学んで、それを実際にやってみる、実践する、そして自分自身もそのイエス様の愛を、兄弟愛を味わうものでありたい。
それがなさらないと、ある意味で無意味なのではないでしょう。
例えば、皆さん、小学校、あるいは中高生の時代に、独立をいろいろなさったんですが、水泳を習うとしましょう。
そしたら、水泳に関する偉い選手の動画をたくさん見て、そしてテキストの本をたくさん読んで、まるまる暗記して、一生懸命テストして、100点打っても、実際に水に入って泳がないと泳げないんですよ。同じなんです。
イエス様の愛について、100年聞いていたとしても、その愛が自分の中に入って、そしてその愛を味わう、自分自身も愛を実践する、それが信仰なんです。
だから、そういう意味として、キリスト教は勉強、あるいは学習する宗教ではない。
06:04
イエス様は、十二の弟子たちと、粗末な最後の晩餐、夜の食事会を行いました。
それが、いわゆる名画で描かれるほど有名な、実は大事件だったんですね。
その最後の食事の時に、イエス様は大事な二つのことを行いました。
一つは、生産をイエス様は行いました。
イエス様は弟子たちに、パンと葡萄酒を与えて、取って食べなさい、飲みなさい。
これは私の体である。これは私の血である。
実際にイエス様は、十字架の上で、自分自身のこの体を切って、私のために与えてくださったわけなんです。
血を流してくださったわけなんですね。
ところが、その生産が行われるその場にいた弟子たちは、その時は意味がわからなかったんですよ、実は。
イエス様がパンをくださって、これは私の体である。
普通にイスラエル人が飲んでいる葡萄酒をもらって、これは私の血である。
何?何だよ。意味がわからなかった。
その時はわからなかった。
でも彼らは従順に、それを取って、食べて、飲みました。
皆さん、この生産というものは、イエス様の体を意味するパンと、イエス様の血を意味する葡萄酒を飲むわけですから、
これはもっともっとリアルな表現で言いますと、イエス様を食することなんです。
イエス様を食べることなんです。
ちょっと食品的な表現かもしれませんけど、イエス様を食する、食べることなんです。
つまりイエス・キリストが、そのイエス様のすべてが、愛も人格も言葉もイエス様の癒しも奇跡も神などすべてが、私の中に入ってくること。
皆さん、人が最初にイエス様を信じようとする時、あるいは信じようかどうか迷う時、大体なぜ葛藤が起こるかと思います。
09:01
大体の人は、特に日本の方々は、まず理性的にそれを理解しようとするから、そして信じかどうかとか、たくさんの文章に書かれているんですね。
後悔が分かれた、マナが振られた、振ってきた、死んだものが蘇った。
理性では、理解では、難しい。
だから葛藤が起こるわけなんです。
納得いかない、不に落ちない、常識的じゃないんです。
でもね、キリスト教信仰というものは、納得して理解してそれで済むのではなく、我々理性では、知識では、神の領域を納得できないんですね。
少ししか納得できないんです。
だから信じればわかってくる。信じれば信じられるようになるという不思議なメカニズムというか、仕組みというか、それがあるんです。
これは言葉ではもう言い尽くせないことである。
味わったりと体験したものが、信じたら不思議にそれが信じられるようになった、受け入れることができるようになった、それが信仰の世界なんです。
もう一度申しますと、生産はイエス様を保護するものです。
イエス様が私たちの知識の中にだけおられるのではなく、
イエス様が私の人格の中に、理性の中に、実生活の中に、過去、現在、未来、自分の全人格の中にイエス様が入ってくださることなんです。
そしてそこでイエス様の血と体の、そのイエス様の足跡というか痕跡というか、それが残る、香りが立つということなんです。
それが信仰なんです。
そしてそれが我々自分の人生に毎日それが起こらなければならない。
それが生産式であって、それが信仰であります。
もう一つの、この最後の晩餐の時に大事件が起きました。
それは主であり死であるイエス・キリストが、神なるイエス・キリストが、その弟子たちの汚い足を洗われたというありえないことが起きてしまったんですね。
しかもある意味で前触れもなかったんです。
12:01
突然イエス様が夕食の、四節からね、ちょっと見てみますと、夕食の席からイエス様が突然立ち上がって、上着を脱いで、
あれ、イエス様何をするんですか?ってね、手ぬぐいを取って腰にまとって、それからたらいを持ってきて、そして水を入れて、
十二人ですからね、一人五分十分したら結構な時間ですよ、皆さん。
丁寧に洗って、そしてまたその手ぬぐいで足も拭き始められたんですよ、十二人を。不思議なことが起こりました。これは大事件でした。
主である死であるイエス・キリストが、自分の弟子の足を洗ってくださった。
これはですね、単純な、ああ、イエス様本当に謙遜だな、使えることを、スピリットを教えてくださったな、確かにそうですけれども、それだけではないんですよ、皆さん。
それを含めて、それを乗り越える、悔い改めと罪許しと十字架の死を意味する、イエス様の。
主であり死であるイエス様が、弟子たちの足を洗われたことは、彼らの足が汚くて臭いからではないでしょうね。
まあ皆さん何回もお聞きになったことだと思いますけれども、その当時のヘレニズムの文化のローマ、イギリス、あるいはイスラエルでは、
普通の市民だったら、家に奴隷が、下部がいるわけなんですよね。
だいたいサンダルを履いて、外でいろいろやるから、足がね、今のようにアスファルトもない、セメントもないわけですから、土だから足がすぐ汚くなるわけ。
それで、その家の主人が外から帰ってきたら、奴隷の中の一人が、主人の足を洗ってあげることがあったそうですね。
だからまずそこからショッキングでした、弟子たちは。
あれ、主であるイエス様が、だからペペロがですね、イエス様、あなたが私の足を洗うんですか、もうもうもうもう断れしますと言ったわけですね、普通の常識的に。
ところがこれは、神であるイエス・キリストが奴隷の姿になられて、弟子たちの足を洗ってくださった。
しかもそこには、イスカリオーテ・ユダもいました。
それはイエス様が人間となられて、下辺の姿となられて、十字架で死なれることを意味する、そして罪許しと救いを象徴するイエス様の行いなんです。
15:05
ただの謙遜だけのものではないんです。
あるいはイエス様がいいことされましたね、いやすごい謙遜ですね、それ以上のものでありますね。
皆さん、キリスト教は何か道徳的な宗教、倫理的な宗教ではないです。
それを含めて乗り越える救いの、神の国の、キンガム、神の国のところが今、世界的なその、よくない方向、流れですけれどもね。
キリスト教を、教会を、ただの良いことをする、善行する宗教のように。
あるいは道徳的な宗教を教える、そういう傾向があるんじゃないかと、心配の声が上がっているんですよ、実は。
教会であるいはメッセージの中で、全てではないでしょうけれども、いいことをしましょう、善を行いましょう、施しましょう。
それは大事です。必要ですけれども、それだけで、その線で留まってしまう宗教家になっているという傾向がある。
それが最高の架線になっている、良いことをしましょう。
確かにいいことをしましょう、皆さん。いいことをしていますか?いいことをしましょう。
しかし、神様は、イエス・キリストが十字架に死んでくださって、私たちを救ってくださったのは、ただ真面目な人になってほしいから、いい人になってほしいからだけではないんじゃないでしょうか、皆さん。
それを含めて、それを乗り越えて、遥かにイエス様のように変えられることであって、
そして、そのイエスの愛だけではなく、救いを、神の国を、御国の福音を述べ伝えること、実践することではないでしょうか。
イエス様のように変えられること。どんどんどんどん変えられることなんです。
私の家にイエス様がおられ、イエス様の中に自分がおるならば、イエス様のように変えられる。
ところが皆さん、もしも私たちが神様を信じていると言いながらも、実はあんまり、もしも変えられていないならば、
言葉も行いも生活も人格も性格もあんまり変わっていないならば、自分にとって神様は偽物なんです。
18:10
もしもそうであるならば、私たちはただの宗教生活をしていることに。
皆さんどうでしょうか。イエス様を信じて変えられているんでしょうか。イエス様のように変えられているんでしょうか。
イエス様に出会って、神様に出会って、そして自分の言葉も考えも行動も習慣も人格も、そのすべてがまるまるイエス様のように変えられなければならない。
イエス様が私たちの足を洗ってくださったのは大事件でした。十字架の死と救いを象徴する大事件でした。
ところがイエス様が、今日の十四節をもう一度一緒に読みたいと思いますね。十四節一緒に読みますね。
それで、死であるこの私があなた方の足を洗ったのですから、あなた方もまた互いに足を洗い合うべきです。
イエス様が洗ってくださいました。そしてイエス様がそれで終わりかなと思ったら、今度はあなた方も互いに足を洗い合いなさいとおっしゃったんですね。
さあ、そこでイエス様がなぜ弟子たちにあなた方も互いに足を洗い合いなさいとおっしゃったんでしょうか。
三つのことを話したいと思います。
まず一つ、イエス様の愛のように互いを無条件的に受け入れなさいということではないでしょうか。
無条件的に受け入れる。この十二人の中には、イエス様を愚弄として空腹して考えているユダもいて、彼の足も洗ってくださいました。
また、この弟子たちは、この水越しの祭りの日になる直前まで彼らは論争をしていたんですよ。
何のための論争だったんでしょうか。誰が偉いのか、誰が上の者なのか、私が偉い、私がもっと偉い、俺がもっと偉いと。
そういった本当にくだらない論争をしていた、その直後、この足を洗ってくださったことがあったんです。
そんな弟子たちのことを全て知っておられるのにもかかわらず、イエス様は愛を持って弟子たちの足を洗いました。
21:00
そしてこの後に起こることも、イエス様は神様だから知っているわけなんです。
ペテロが自分を知らないと否むこと、弟子たちがみんな逃げてしまうこと、ある弟子は自分の裸になって逃げることが起こることを全部知っておられるにもかかわらず、イエス様は受け入れてくださったんですね。
そしてそんな彼らの足を丁寧に洗ってあげたんです。不思議にイエス様は足を洗うときに何もしゃべらなかった。黙ってただ足を洗ってあげました。何の条件もつけなかったんです。
彼らの弱さも罪深さも、実はイエス様は受け入れてくださったんですね。
この御言葉をメッセージを準備しながら、考えながら示されて、イエス様がそういうふうに無条件的に全て受け入れてくださった。
そしてあたたちにも互いに、家族であろうが、兄弟姉妹であろうが、無条件的に受け入れなさいというメッセージなんでしょうか。
皆さんいかがでしょうか。自分の手を胸に当てて考えてみてほしいんですね。
家族、あるいは兄弟姉妹をイエス様が弟子たちを受け入れてくださったように、無条件的に受け入れていらっしゃるのでしょうか。
もしも少しでも差別的な考え、少しでも偏見や少しでも引き合いのような心を少しでも持ってはいらっしゃるんじゃないでしょうか。
そのような私の姿心中心を全てご存知の神様は、2000年前この2000年後の私たちの姿も知っておられる方だから、
だからこの十四節にあなた方もまた互いに足を洗い合うべきだと語ってくださったんですね。
皆さん、無条件的に互いを受け入れてください。これが互いに足を洗うことの意味なんです。
そしてその美しい愛があるところが教会ではないでしょうか。
二番目、受け入れてならば愛することです。愛することです。どんな愛でしょうか。
24:06
十字架の愛であり、一方的な愛であり、見返りを求めない愛である、その愛なんです。受け入れたならば。
そして何より大事なのは、イエス様が先に弟子たちの足を洗ってください。
私たちが罪人であった時、不敬犬だった時、敵であった時、神様が先に私たちを愛してくださったとするならば、
その愛を学んでおるものとして、私たちも自分自身が進んで先に兄弟を、姉妹を、夫を、妻を、家族を、自分が先に進んで愛することなんです。
それが十字架の愛であって、互いに足を洗うことの大事な意味なんです。
自分を愛してくれる人を愛する。自分の気にいる人を、自分と気が合う人を愛する。
それは世の中でも誰でもやるわけなんです。
自分自身が先に、イエス様が先に、たらいに水を入れて準備して、はがめて足を洗ってくださったように、私たちも皆さんが先にご主人様を愛してください。
皆さんが先に奥様を愛してください。皆さんが先に兄弟を、姉妹を愛してください。
あの人が私のことを愛してくれればいいのに、愛してくれないんだから私も愛さない。
それは世の中の、そういった行う考えを私は捨てなければならない。
そこから成長していかなきゃならないんです。イエス様を先に弟子たちを愛してください。
そして先週お話ししましたように、最後まで愛してください。
イエス様がですね、弟子たちが、ペテロかあるいはヨハネが、イエス様を愛します、本当に愛してくれた。
お前たち僕のことを愛してるんだから、そしたら僕も愛してやろう。じゃないんです。
イエス様は先に弟子たちを愛してください。
神様がまず、私たちのことを愛してくださって、イエス様をお使いになってくださったんですよ。
これが十字架の愛で、また足を洗うことの意味なんです。
もう一度申しますが、私が先に愛することです。
私が先に互いに水を入れて、私が先に上着を脱いで、手拭いをまとって、腰を膝を高めて、
27:09
兄弟を、姉妹を、夫を、妻を、子供の足を洗ってあげることが。
皆さん、イエス様の愛を実践しようでありませんか。
まずは兄弟を、姉妹を、家族を無条件的に受け入れてください。
そして誰よりも先に皆さんが愛を実践してあげてください。
もちろん時には難しいかもしれません。
そうしたくないんだけれども、自分の心がそこに向かないかもしれない。
愛したい気持ちがあるんだけれども、いや、難しいなと思う時があるかもしれない。
だから神の愛が私たちの心の中に注がれなければならないんです。
3番目。
足を洗ってくださったイエス様の大事件は、イエス様が十字架の上で死んでくださったあの死を象徴するのと同じく、
実は、たかいのために命を捨てなさいという意味なんですよ、皆さん。
もっとリアルに話をしますと、たかいのために死んでくださいという話なんです。
でもイエス様は実際に私のために、あなたのために死んでくださったんじゃないでしょうか。
死ぬふりじゃないんですよ。
ちょっとだけ死んで、もうすぐ起きたかったわけではないんです。
だからイエス様がね、私があなたように、あなた方もまたたかいに足を洗いあうべきですよというのは、
私があなた方のために十字架で死んだように、あなた方もたかいのために死になさい。
命を捨てなさい。
それほど愛し合いなさいという。
これは私の話ではない。
見言葉を開けたいと思います。
第一ヨハネ。
3章、16節から18節まで開けたいと思います。
ヨハネの勲章を記した同じヨハネが、ヨハネの手紙123を書き記しました。
そしてその手紙をエペソ教会の信徒さんに書いて送りました。
その中でよく読まれて言われているところですが、
第一ヨハネ3章16節から16、17、18節、私の聖書では468ページです。
30:10
それではちょっと長いですけれども、16から18節まで一緒に声を合わせて読みたいと思います。
キリストは私たちのために御自分の命を捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは兄弟のために命を捨てるべきです。
世の富を持ちながら兄弟が困っているのを見ても、
哀れみの心をこざすようなものに、どうして神の愛が留まっているでしょう。
子供たちよ、私たちは言葉や口先だけで愛することをせず、
おこないと真実をもって愛そうではありませんか。
アーメン。
皆さん、同じ使徒ヨハネがここに語っているんですね。
私に語っているんですね、神様が。
ですから私たちは兄弟のために命を捨てるべきです。
兄弟のために命を捨てるべきです。
これが教会の本来の姿なんです。
これが十字架の愛なんです。
イエス様が私のために死んでくださったんですよ。
このように私たちが誰かのために死ぬことができるならば、
それより偉大な愛はないでしょう。
命を捨てるほどならば、できないことはないと思うんですね。
兄弟のために、姉妹のために、主のために、
誰かのために命を捨てるほどならば、それほど愛するならば、
全てのことを受け入れるということではないでしょうか。
全てのことを理解することではないでしょうか。
その人の全てのことを許すということではないでしょうか。
その人の全てをまるまる愛するという意味ではないでしょうか。
たまにですね、例えば、
こう話をしてですね、
誰々様ちょっとややこしいな、ちょっと難しいなとね。
それでちょっと距離を置こうかとする、我々の弱いところがありますね。
ところが皆さん、実は誰が一番ややこしいかわかりますか。
自分自身が一番ややこしい人間なんです、実は。
それは自分自身が気づいていないだけ。
だから我々の目が開かれなければならない。
ヨハネは語っているんですよ。
33:01
ですから私たちは、兄弟のために命を捨てるべきであります。
そして少なくともこの16、17、18のこの御言葉から、
命を捨てるという愛のことはどういうものなのか、
17、18節に書いてありますね。
そして18節から言いますと、
言葉や口先だけで愛することをせず、その次の二つの言葉、
行いと真実をもって愛そうではありませんか。
少なくともこの御言葉から、命を捨てるほどの愛はどういう愛でしょうか。
行いと真実をもって愛すること。
まず行い、実践ですね。アクションなんです。
だからキリスト教は学習宗教ではないんです。
アクションが行いが実践があるわけなんです。
学んだことが自分の身から現れる。
行いとして現れることなんです。
愛が現れ、実践されることなんですよ。
分け与えて、差し上げて、愛して、あるいは体で奉仕をするとか。
例えば皆さん、私たちが口先で、
神は愛なり、神は愛なり、愛なり歌っている。
ところが心の中に憎しみがあり、人を裁き、
それは偽りじゃないでしょうか。行いだ。
そしてもう一つは真実であるってことです。真実なんです。
私たちの礼拝が賛美が、あるいは信仰の空白が、
言葉が、祈りが、真実が裏付けられなければならないんです。
そこを目指していくことが信仰なんです。
それが少なくともこの御言葉から、
兄弟のために命を捨てるという愛なんです。
行いと真実をもって愛想ではありませんか。
メッセージを上げたいと思いますけれども、
不思議に自分がこれを合わせたわけではありませんが、
御金の福音書のメッセージをしていて、
今週キャンプが開かれて、そこで詮釈式を行いますけれども、
それが今日の御言葉になって、不思議だなと私も思いながら、
今お話をしているところですが、
今回のキャンプは、私たちは神の家族ですというキャンプで、
36:04
テーマで開かれます。
行きたくても行けない方もおられますし、
あるいは最初から僕はもう行かないと決めておられる方もおられるかもしれませんけれども、
いずれにしても願わくは、
ヨーダニ教会が、
イエス様が弟子たちの足を洗ってくださったように、
互いを無条件的に受け入れ合う。
そして、行ないと真実をもって愛し合う。
兄弟の姉妹のために命を捨てるほどの教会となりますように、心からお祈り申し上げます。
そのために皆さん、
もしもいまだに心の中に誰かに対する憎しみや裁きや悪口や許せない心がもしもあるならば、
あるいは高慢な心があるならば、早めに悔やめて、
イエス様の十字架の愛で担していただかなければなりません。
そして、我々は通してその十字架の愛が、本当の愛が、
行ないと真実を通して豊かに煽れ出ますように。
そして願わくは、兄弟を姉妹を、
もう見るだけで本当に嬉しくてたまらないほどの教会生活、
昨日会いましたけれども今日会いたくて、
今日会いましたけれどもまた明日会いたくて、
お互いのことを分け与えてももう惜しいと思わないほど、
そのほどの愛の関係、天国の喜びと祝福を味わう教会でありますように、
心からお祈り申し上げます。
お祈りしましょう。
37:58

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