長編小説の時間性
はい、というわけで、今回はですね、長編小説における時間性のお話について考えてみたいと思います。
長編小説というのはですね、作者も書くのが時間かかりますし、読者も読むのが時間かかりますし、
何よりその中に流れている時間というのは、いわゆる長い、まあ短いのもありますけど、大体長いことですね。
つまり時間性というものを考える上で、非常に長編小説というのは格好の現実なわけであります。
最近読んでいる本で、村上春樹の1984という小説がありまして、これもまた時間を扱った小説の一つなんですけども、
なかなか最後の方が読み進められないと思います。
それはですね、ここに現代の小説の持っている時間性というものに対する非常に深刻な問題点というのが出てきているんですね。
つまりですね、この小説は冒頭部分とか書き出しとかで時間性というものをかなり濃厚に扱っていてですね、
文庫本でいうと6巻あるんですけど、最初の2巻、1巻2巻ぐらいですね、非常に時間についてですね、複雑なメタファーを使ってですね、考えているんです。
そうですね、それがですね、だんだん3巻4巻5巻6巻と進んでいくうちにですね、収集がつかなくなってくるんです。
これはしょうがないことで、決して村上春樹とか1984という作品自体が悪いわけでは全然なくて、
現代の小説というものはですね、エンターテインメント性とかメタファーの有効性とかそういうのを突き詰めていくとですね、
どうしても時間性というものがですね、反省できなくなってくるんです。
時間を反省する。
1984はですね、冒頭は時間が流れているんですけどね、だんだん時間が緩慢になってくるんですね。
時間性がですね、理解し難くなってくるんですね。
あえて言えばこう、静止してそのまま引き伸ばされていくわけです。
これはですね、しょうがないんです。
まだ解決されてないんです、現代の小説でいうと。
現代の小説家、近代の小説家で一番時間性というものと小説というものの構造というものをですね、
非常にうまくマッチさせた作家というのは間違いなく厚目漱石ですね。
村上春樹と現代小説の課題
厚目漱石の小説というのはですね、長編小説は特にですね、
読んでいるとですね、非常にリズムがですね、読者と作者とこの構造がですね、
非常に同じ時間音でですね、手に取るように理解できる、非常に優れた、
そういう意味での時間性を持っている、厚目漱石は小説家なんですね。
これはもう厚目漱石の独創と言っていいんでしょうけど、時間芸術家なんですね。
時間芸術家ということは優れた文学者であるという商談なんですけども、
この短編漱石以降ですね、これを超えようとする文学者たちはですね、
これというか海外でもね、いろんな小説家があるんで、
そういう海外の小説の影響とかを受けて書いていくとですね、
日本の小説家だとですね、やっぱり僕の好きなハニアユウタカなんかですね、
時間性というものを取り除いてですね、時間自体を考えていくんですね。
つまり現象としての時間ではなくて観念としての時間を考えていくという風にですね、
追い切ってやっと無くしたわけですね、そういうものを。
巨体というものを持ち出してですね、時間とかを無化するような観念を対抗させるわけですね。
巨体というのはボディですから、巨体ですか、ボディですから、しかし存在論的なものなんですね。
この時間論みたいのは結構厄介で、存在と時間なんて本がある、難しい本がありますけども、
あれは置いとくとしても、非常に存在の良いものと時間というものはですね、
現代的な問題になってきて、さっきの1984のですね、最後まで読むと解決してると思うかもしれないですけど、
読むのすごいしんどいんです。つまり小説自体が行き詰まってるんですね。
これは現代小説の行き詰まりなんですね。
これは大変なことです。
夏目漱石の時代では、ここまで行き詰まるってことはなかった。
ここまでちゃんと書いた小説が行き詰まるってことは、なかなかないんですけど。
例えばですね、海外でいうと、ジェームス・ジョイスという小説家がいまして、
その人はユリシーズという小説で、時間を凝縮させて、重層化させて、時間制というものですね、文学自体を中に閉じ込めようとした作家ですけども、
同時代ですね、大体夏目漱石とね。
その時期というのが、ある意味では、かなり古典的な小説の完成されたものだとすると、
モダニズムというジョイスの小説はですね、ある意味でモダニズムのどん詰まりを書いてる文学者ですけども、
優れてるとかじゃなくて、そういう方法が違うというだけなんですけど、
ジョイスも相当書くの大変だったろうという感じがしますけど、
時間というのはですね、取り扱いにくいんですね、意外と長編小説の中においても。
ですから、さっきのハニアンとかみたいに観念として扱うか、ジョイスみたいに凝縮させるかとか、
あとはドンキホーテというですね、セロバンテスという人が書いた、スキンダー小説の走りみたいな小説がありますけども、
あれの中でもちゃんと時間について批判してるんですね。
つまり時間というのはあらゆるものを劣化させてしまうというかね、劣化させてしまうと。
時間に対するすごい重層な言葉が書かれてるんですね。
ですから、ドンキホーテの中にも時間性というのがあるんですけども、
これはすごい非常に難しい問題なんですけどもね。
ドンキホーテはそこに、僕の予想では笑いというものを組み込んで、現実ですね、現実というものを組み込んで、
この辺で非常にうまく処理してるからあんなに面白く、しかもここ難しくなく埋めてるんだろうと思うんですけど。
ドンキホーテという作品もかなり難しいことをやってるんですけども、そうは見せないという小説ですね。
那須部漱石というのはそれよりもっと近代な小説ですから、かなり我々は読んでて心地よいリズム感があるという、無理のない。
非常にですね、余裕がある。余裕もあるし、手に取るのよりも分かるんですね、我々は、那須部漱石の時間というものですね。
時間抑えリズム感というものが非常に我々の内面とマッチしてるんですね。
ですから感触とマッチしてるから、非常にコツコツと読むことができるんです。
時間の扱いと文学の変遷
ところがもう現代になってくると、司令とか184とかになってくると、もう全然そういうことができないんですね。
できてるようにも読めるんですけども、感触的にちょっとそこに嘘が生じてしまうんですね。
もしこれが時間性だということになってしまうと。
それは別に何が悪いわけじゃなくて、そういう問題があるんですね、現代小説というのは。
それはですね、確かこの動画でも言いましたけれども、
例えば時間性でいうと、法上の海。法上の海は時間性について考えている。
知られた時を求めてとか、そういうのも。
あれはちょっとまたモダニズムの方ですけど。
法上の海とかですね、仏教とか持ち出してですね、時間性というものを壮大化してしまうという、めちゃくちゃなことをしてますけど、そういう小説もあるんですね。
この法上の海とかを辿っていくと、源氏物語とか、ああいう小説が、あれ古代ですけども、かなり時間性というものを捉えている小説。
つまり天皇というものはですね、相対化してますけど、天皇というものがですね、まず時間というものについてですね、かなりですね、関係があるんですね。
この辺はめちゃくちゃに複雑ですから、ちょっと僕の手には覚えないところがあるんですけど。
源氏物語はつまり、そこを時間というものが主題なんですね。
ですけれども、僕も一回読んだきりで全然わからなかったんですけども、時間の処理の仕方がですね、これは古典だから、昔の話だから時間というものを処理できているのか、
それともあの作品自体がちょっと特殊で、特殊な裏画を使ってそういうのを処理しているのかわからないんですけども、
まあ、ちょっと夏目漱石とかの処理している時間性とは全然違う時間を体験することができて、それは良かったんですけども、
ちょっと僕の手には全然余る小説でしたね。
それでですね、1984に戻りますと、1984も軽い文学的財産を、今まで言った小説とかの文化財産を取り込んで非常に構築された小説なんですけどもね、
こういう小説を現在書くっていうことはそれ以外にも意義があることなんですけども、
やはりその時間性についての反省ということをですね、我々はまだ克服できない状況であるんですね。
つまりエンターデミントじゃなくてエンターデミントじゃなくても、長編小説というのは何か滞りが発生した時点で何かが起こっているんですよ、問題が発生しているんですよ。
それは別に悪い作品とか良い作品とか関係なく、そこで問題が発見されているわけですね。
つまりですね、オベルト・ムージルという特性のない男という小説があるんですけども、この小説は途中でですね、1巻と2巻とあって2巻に入るとですね、とんでもないことが起きてしまうんですよ。
つまり完成しないところが判明してしまうんですよ、ほぼ。ほぼというか絶対に完成しないところが判明してしまうんですね。
それはですね、ドン・キホーテという作品が完成したのと関係がありまして、ドン・キホーテという作品はですね、願作が書かれまして、ドン・キホーテ2号ができるんですね。
それはセロバンデスと書いてあるドン・キホーテじゃないんですけど。
本物のドン・キホーテと偽物のドン・キホーテというのが対決しそうになるんですけど、それをセロバンデスは避けてね、鏡みたいなやつをね、鏡合わせみたいなやつを避けさせるんですね。
そういうことによって、ドン・キホーテは無事に完結するんですけどね。
あのですね、特性のない男とですね、自分とそっくりの妹っていうのをね、主人公とそっくりの妹っていうのが登場させちゃうんですね。
この時点でですね、この小説はもう、少なくともあの時点で完成しないところがですね、分かってるんです。
それはですね、ダブルスタンダードでして、時間というのは2つ存在しないんですね。パラレルには存在しないんです。
小説における時間の探究
存在するよっていう人はすごくいると思いますけど、小説はですね、1つの時間しか読めないから、パラレルに読むってことは難しいですね。
ここでみなさん、感のいいみなさん、1期8本というのが、なんで時間を扱っているのかというのが分かってきたと思うんですけど、
それは世界で終わりとハンドボイルのワンダーランドと同じことで、つまりパラレルに違う空間軸を出して、
月も2つあってみたいな、パラレルっていうことをかなり1期8は特性のない男の問題を克服しようとしてやってるんですけど、
そこはすごい意欲的なんですけど、とにかく特性のない男に戻りますと、時間というのが同時に存在するっていうのは、これはもう時間の停止につながるんですね。
ですからもうものすごい面白いですね、第2巻になると、特性のない男っていうのは。つまり今までに人間が書いたことのない小説になっているので、
別にこれはもう宇宙人の書いた小説みたいになっているんですけど、それはいいんですけど、でも完結はしないんですね。
完結しないってことは時間が止まっているってことですかね。
時間が、その問題が克服されとったらカフカの城も完成しませんでしたけど、時間というのが動くってことですかね。
時間が動いてないじゃんっていうのは、それは別に知識的な問題じゃなくて、文学的にというか、小説的にあるんですね。
ですからですね、これは2つ以上のいろんな答えがあると思うんですけども、
1つには時間というものが永遠に延伸するという日常的な考え方っていうのがあるんですけども、つまりループですね、ループ。
ループするっていう考え方があって、もう1つは林二先生、ピョンピョンピョンピョンって時間時間ワープしていくっていう仏教というか、
インド思想の考え方がありますけど。
で、ホジョノミっていう作品はその2つを合わせたところがあるんですけども、
あとあれですね、君たちはどう生きるかって小説、アニメもそれをかなり濃厚に両方入れ込んでね、
螺旋と円環とでグルグルグルグルってやってる時間だと思うんですけど、
ああいう処理の方法があると。火の鳥とかもそうですよね。
ああいう時間の処理の方法があると同時に、やっぱり西洋的なね、キリスト教的な、
だから1984のことを言ってるんですけど、キリスト教的な時間軸。
パラレルになりつつも同時に真っ直ぐに進んでいく物語的な時間軸をやってみたい。
やってみたいんですけど、それをやって一定の成果を出してるのは、
例えば、博芸という小説とカラモーズの兄弟という小説があるんですけど、
このカラクゲーという小説はですね、これ後で別で紹介しますけど、非常に斬新というか、
うまく言えば斬新なのかわからないですけど、かなり少しとしては凄いことをやってるわけですね、構造として。
端的に言うとキリスト教的な、旧約的な、キリスト教というか旧約ですね、旧約西洋的な時間軸で空間と時間の問題を処理してる。
カラモーズの兄弟というのは、むしろ神約的な世界観で時間というものについて考察してるというか、
神約的な時間軸を正直に落とし込んでるという非常に面白い小説ですけど、
あの辺ですね、あの辺がかなり西洋の中ではかなり時間というものに対して有効な、
そういうニーチェ的、輪廻的な、ニーチェは西洋ですけど東洋的なところに入ってるような、解決、
西洋的な解決を上がってる文学ですけど、カクゲーとカラモーズと兄弟。
日本文学と時間性
198も多分そっちの系譜に入るとは僕は思うんです。西洋的だと思うんです、かなり。東洋的と言える。
でも大変だなという感じはしますね、読んでいてね。
これは大変な作業なので、つまり西洋的な処理によって日本の小説が、
グレードアップというか、刷新されるということができるかどうかというセトギアですよね。
これが今後の小編小説の課題になってくると思うんですけど。
現在のところ非常に時間処理が見事な日本の小説は夏目漱石。
あとは夏目漱石と小島信夫もすごいですね。
小島信夫も時間とか記憶とかの処理についてはちょっと独特のものがありますね。
森安志ですね。森安志も非常に東洋的な、非常に知的な、数学的な時間の処理をしますね。
されど、あれ生き物ごとくか、あれ生き物ごとくかもすごいですね。
あの辺はものすごい深いものがあります。
そういうふうに日本の小説というのもかなり更新されつつもあるということでですね。
生き返しを読んだり他の小説を読んだりしていろいろと思うところがあるんですけど、
時間というものが理想の小説とはこういうものじゃないでしょうかね。
つまり時間というものが我々の手に取るように分かる地渡り量と共通した時間を持ちつつも、
そこに何らかの思想的な時間も内包しているという小説がおそらく、海外で言えばカラーマワ族の兄弟とかね、
ああいうもの、博芸とかね、ああいうものとか、東洋で言えば源氏物語とかもそうですし、
ああいうものがかなり我々の求めている小説なんじゃないでしょうか。
まあ、脱兵衛組織もそうですよね。組織の時間というものがありますからね。
時間性というものを内包している長編小説というのは、えがたい人生の友であります。
簡単にまとめましたけどね。
あとシガノオやアンヨコーロも今読んでますけど、あれもかなり時間性というものが、
リズムがなると近しいものがありますからね。そういうものもあります。
今日は長編小説時間性という大きなテーマについて、ちらっとね、ちょっとだけお話ししましたけれども、
皆さんもね、長編小説を読むときに時間性というものについて考えていくきっかけになればと思いました。
では、ここで今回は終わりにします。ありがとうございました。