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2024-05-14 1:58:37

リクトーさんと『1Q84』について語り合う

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今回は、リクトーさんと村上春樹の小説『1Q84』を語ります。

サマリー

リクトーさんと『1Q84』について語り合います。挙動不審や最初の感想、読みやすさ、1Q84の特徴など、様々な話題に触れています。村上春樹の1Q84の文庫本が並んでいるコーナーを見て、結構良いと思い購入しました。その後、大きな本屋で読み、京都のカフェで読んでおり、最後には奈良で読んでいます。この読書体験は特別な思い出です。『1Q84』について話し合いながら、豊饒の海と1Q84の関係や村上春樹の逆張りの理由などについて考察しています。ある作家を尊敬している主人公が、完璧な文章と絶望について反対の意味を持つことを考え、比喩やペアの構造などが登場し、月と海の関係やリトルピープルなどが重要な要素となります。リクトーさんと『1Q84』について語り合うと、リトルピープルや空気さなぎ、ビッグブラザーなどが物語の中で重要な役割を果たすことが伝えられます。それぞれがリトルピープルに操られることなく、自分の声を聞き取り、小説を書くことが大切であるメッセージもあります。1Q84年に出版された村上春樹の小説『1Q84』について語られたこのエピソードでは、作中の卵型の比喩やゴムの木と金魚の対比など、重要な表現について解説しています。リクトーさんと『1Q84』について話し合い、金魚のメタファーやドストエスキーの影響、作中の儀式的な要素についても考察しています。

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これで話せているんですかね。
あ、もしもし。
もしもし。
あ、聞こえてます。
あ、聞こえてます。ありがとうございます。
はいはいはいはい。
これ、おすすめチャンネルね、あの、挙動不審なんで。
挙動不審なんですかね。
結構最初、ね、つまづくパターン多いですよ。
うん。よかったよかった。
まあまあ、今日お集まりいただいて、リクトーさんありがとうございます。
はい、こちらこそどうも。
よろしくお願いします。
ぐたぐたとね、話していけたらと思いますけれども。
で、まあ、今回はですね、村上ハルキのですね、
1Q84についてですね、検証していきたいと、お話ししていきたいということで、2人で。
まあ、飛び入り参加もね、最後の方ならありかなと思いますけど。
なんかね、基本2人でね、話していくかなって感じだと思うんですけどね。
1Q84、まあ、平成のね、ベストセラーですけど。
これを、なんで今日やったかっていうと、
昨日僕がですね、読み終わったから、
リクトーさんのブログ記事による分析
昨日スキップされたら、今日でいいよってことで、やっていただいたってことですからね。
ああ、大丈夫。
はい、ありがとうございます。
で、まあ、1Q84、昨日僕読み終わりました。
でですね、まあ、僕は1回読み終わっただけなんでね。
基本的にりくとさんに、結構お話を聞く感じにしたいと思うんですけど、それでも大丈夫ですかね。
大丈夫ですよ、もちろん。
よろしくお願いいたします。
昨日読みまして、ちょっとあの、えっとですね、
あ、これりくとさん手元に持ってる写真。
あ、りくとさん、ダイコードの方に貼ると分かりやすいかもしれないですね。
ダイコード、ダイコード。
ダイコードってところですね、一つ上の。
あ、こうなんですね。
まあ、どっちでも良かったんですけど。
ちょっと待って。
はいはい。
読み込んでる感じの写真だ。
一つ。
そういう形ですね。
うん。
あれ、なんかバック。
あ、これこれこれ。
きましたきました。
一人きてる。
うん。
オッケー。
まあ、こういう感じでね、明らかにダブってるんですよ。
ほんとだ?1がダブってるの?
1がめっちゃ良いすぎて買っちゃったの?買っちゃいました?
ボロボロになったからストックを買った感じですか?
いや、そういうわけじゃないです。なんで買ったか覚えてないですね。
あ、そうなんですね。
あららと思うんですよね。同じ本買っちゃうので。
あることですね。
読書家にとっては結構あることだと思ってますね。
確かにね。あれあったみたいなね。
ここドグラマグラかなんか2つ持ってたりしますね、確かに。
100年の孤独とかも2冊ありますね。
マジですか?200年の孤独じゃないですか。
200年の孤独になってます。
今度文庫化するから300年の孤独にしたほうがいいですよ。
なるほどね。
俺らに比べてかなりもう、はっきり言ってボロボロになってるってことは読み込んでるってことですよね。これだけ何週もしたっていう。
僕はまあいろんなとこに結構行って読みますからね。
喫茶店に読むことが多くて。
そうなんですね。
カバンの中にぶち込むんですけど、もうなんか大切に扱うって発想はないんで。
ボロボロになってます。
もうそのままね、ナチュラルに使う。
ペーパーワッグみたいなね、読み潰すみたいな感じでね。
いいですね。
いや、そんな感じ。
わかりました、もう絶対読みまくってるっていうね。携帯して読みまくってるっていう。
近々いろいろ質問していきたいと思うんですけどね。
あと、これを一応リスナーにも共有しておきたいというか。
どこだっけな。
あったあったあった。
これですね。
りくとさんのコスタリカ307っていうブログがあって。
ブログですか。
そこにね、1984っていうカタゴリがあるんです。タグがあってね。
それを検索すると、今貼ったよ、貼りましたけど。
URLを見ると、1984についてのロクソンの分析がほど細かに全部網羅できるんですよ。
だからこれをぜひ皆さん読んで、これに影響しながら読んでいきたいかなと思うんですよね。
僕は全部読んだんですけど、たまに参照したりしつつ、実際見たりしつつ、記憶でも研究しつつって感じでいきたいかなと思うんですよね。
1984を分析する、りくとさん的に分析するっていうことでね、かなり詳細にされてるので、
読書体験と感想
今回の話の中でも結構役立つんじゃないかなと思うんですよね。
何から話しましょうかね。りくとさんのほうから何かありますかね。話題というか。
本当にどっからでもいいですよ。
伊太郎さん読んだ直後なんで、伊太郎さんが気になったところから押していきましょうか。
そうですね。じゃあ僕の総評みたいなところからいきますかね。この1984についてもね。
1984っていうのは、出馬表ではりくとさんの超オススメってことで、ワクワクしながら読んだし、読んでるし、結構興味あったんで。
前も読みかけたりしてたんで、ちょっと最初の方読んで、タクシーの話だなとか思いながら読んで、それっきりだったりしたんで。
ちょっとね、今回通読できて嬉しいんですけど。
読んで、だんだん結構ね、最初からね、飛ばして読めた。飛ばしてっていうのは、スピードを早めて読めたなっていうのが、まず最初の感想で。
すごく、読みやすいっていうのが印象ですよね。文章がね。内容もなんか気になるし。
使ってる日本語がね、やっぱり、僕ね、あんまり現代小説読めてなかったんですよ、最近。
だから、本当に現代語で書かれた、日本語で書かれた小説ってことでね、しかもかなり読みやすく書いてた小説ってことで、新鮮な感覚がありましたね。
逆にね、なんかすごく、自分の普段使ってる言葉によって書かれた作品を読んでるって感じが如実にしてね、これ。
しかも、平成時代に書かれた、2009年、10年に書かれた小説ですから、すごく僕の青春時代なんかともリンクしてて、すごく感覚がね。
これは1984年のね、後でちょっとまとめもいいかもしれないですけど、1984年の話だから、昔の時間軸なんですけど、書いてある文体とか、ノリとか、なんとなく言い回しとか、なんとなく僕の生成時代の感じがするような気がしてね。
すごくね、ドライブしながら読めたんですね。でも時間かかったのは、ずっとずつ半数しながらね、ちょうどずつ咀嚼しながら、もうよいよしたんで、結構時間かかったんですけど、最終的にね。半年以上かかったか、半年くらいかかったかな。
読めたんですけど、だんだんだんだん勘を置くごとに、非常にいろんなことを考えて、いろんな発見があって。
ニクトさんのブログ記事とかをちょっと見つつね、どんな感じなんだろうみたいな感じで。あんまりネタバレっていう感じのネタバレはなかったので、そういうのを見つつね。
あと、いろんな情報とかも、海外の情報とかを見つつ。海外のね、レディットでしたっけ?レディット2の。
レディット、あったあったあった。
これは一気にどの位置づけなんだろうみたいなのを調べたりしてね。ニクトさんに話しましたけど、あったっていうのはあったりして、楽しみながら読みましたね。
最後まで楽しみながら読みました、すごく。つまづくことなく。読めたくないな、これは。とかいう感じなくて、ずっと楽しく読めて、最後まで。
読み終わったなっていうビビッとした感じがいつも、ある程度長さの書室で読むとあるんですけど、それがあってね、読み終わった、ビビッていう感じがあってね、ステンキルが走って。
でもいい体験をできてね、やっぱりさすがニクトさんがお勧めしてくれただけあって、いい経験だったなっていうのが、印象はそうですね。
内容的なものというか、形式的なものというか、そういうのについて一緒に話すと、ニクトさんのブログ読んだりしたのもあるんですけど、非常によくできた、形式的に技術的によくできた書室だなっていうのはすごくあってね、ありましたね。
非常に構築された、いろんな要素を混ぜ合わせるっていうか、うまく組み合わせたような、文体とか小文字とか一語一句ね、非常に練られたようなね、小説だったんだろうなっていう感じがありましたね。
特に僕は村上春樹の小説は、長編は4作ぐらいは読んだんですけど、これが一番読みやすかったし、ちょっと他のと違いましたね、感触が。
昔に高校生ぐらいに読んだんで、10年以上前に読んだんで、その時とは体験の質が違うのかもしれないけど、でも今1か8本っていうのを読んだ感じはやっぱりすごく他の長編とか短編も含めて違いましたね。
これはちょっと違うぞっていう感じがありました。他の村上春樹作戦と。異質なものが感じました。その編成を追っていくのは別に僕は他に多くを読んでるわけじゃないんで、ちょっとできないし、リクトさんに話をここら辺も聞いてみたいなと思うんですけど、
そういう不思議な歴史の長編の中でも位置づけなのかなっていうのがありますね。
この、どうしようかな。リクトさんの理論に合わせてカタキテクノアートにするとして、僕なりの読みと聞いては、村上春樹らしい視点が2つ3つに分かれるっていうこととか、
あと謎めいたキャラクターとか要素がいっぱい出てくるってこと、あと幻想的な要素とか偶和とかがすごく出てくる。総和とかがめちゃくちゃ入れっこ構造になったりしてること、あとSF要素も入ってる。
量気的っていうか、バイオレンスも入ってると。セックスも入ってると。こういうのが入っていて、ここはもう村上春樹の本気発揮というか、特徴が現れてるっていうところはありました。
その書かれ方もちょっと他の作品とは今までとは微妙に違うかもしれないなーっていうのはあります。というのは、今話してしまうと、非常に構造とすごく合致できてるって言い方変ですけど、辻褄が合うタイプの小説に。
完全に説明が長いかもしれませんね。謎も置き去りされた謎もあるかもしれないけど、非常になんか一回読んだだけでも、チラッと読んだだけでも、こういうメカニズムでこうなったんじゃないかみたいなことがちょっとわかるような作品。
たぶん、海辺のカフカとかハードボールのワンダーランドランって、僕一回読んだだけだともう全然わからなかったんですよ。どういう仕組みでこうなっているのかっていう。結末まで読んでね。タネとかもそうですけど、どういうことでここはこうなってるんだっていう物語的な関係がわからないときがあったんですよ。
1984年はもうちょっとそれがクリアになったっていうか、その分かった部分もあるんじゃないかっていうのがね、僕には感じられました。ちょっとそういう意味でも異質な作品というか、それまですが他のとは。そういうことを思いましたね。謎が宙吊りにされてる部分もあるんだけど、宙吊りされなくて解消されてる部分もあるんじゃないかっていう部分を受けましたね。
あとは、リクトさんがこうおっしゃってくださった、書いている先行作プロセスとか。プロセス僕は1巻、2巻ぐらいしか読んでないんで、総論的なことはわからないんですけど。
あの、彼の影響とか、逆を張ってるとか。あと三島幸夫の「法上の海」っていう最後の小説が、第1小線があるんですね。4巻。
第1長編小説としてのプロセスとか、三島幸夫からの、つまり打ち上げた時を求めてるとか、法上の海からの影響っていうのも言われたんで、あ、そうなんだと思いながら読んだら、ここは確かにそういう含みがあるのかもしれないなーっていうのは思っちゃったりしてね。すごく面白かったです。
まあ具体的なこと言っちゃうと、ちょっと時間がね、僕の比重が大きくなりすぎちゃうんでね。ちょっとこの辺にしておきたいかなと思うんですけど。
りくさんから僕になんかここどうだったみたいなのとかあったら、今あってしたら交代しようかなと思うんですけど、メインを。
村上春樹の作品との比較
そうですね。まあ単純にどこの場面が好きとかそういうのありますかね。
あー、これ結構、ブック1、ブック2、ブック3っていうふうに分かれてるですよね、この小説は。
たぶんブック1は結構前に読んだんでね、結構忘れてるんですけど、好きなシーンは今ちょっとパラッと見たあって、ブック2もあって、印象的なシーンとか好きなシーンとか結構細かく分けるとあって、
最近読んだブック3なんかはもうあります、すごく。特に最終版にありました、すごく好きなシーンが。
どんなやつですか。
ブック1はね、まず3巻目の1巻だから布石が置かれるじゃないですか、どんどん人物がバーンって出てくるじゃないですか。
人物の登場の場面っていうのがすごく好きでしたね。
小松が出てきたりね、老女が出てきたりね、お金持ちの夫人が出てきたりね、あと恵比寿の先生が出てきたりね。
深井にもそうですよね、そういう脇役が、もちろん知人子たちも最初から出てるから、それそうなんだけど、出てくるっていうのが結構いろんな華麗な比喩とかを、文体を使って表現するじゃないですか、蝶々が飛んでたりね、パタパタ。
蝶々ね。
森で鳥が鳴いてたりね、小松はなんかうさんくさがったりね、そういう、小松好きなんですけどかなり。
そういうあれがあってね、お嬢だったんですよ。
で、あとなんか、あれは一巻かですかね、なんかこう、なんか引用するみたいなとこがあるじゃないですか、2巻にもあったかな、長く。深井とか。
あれは反則みたいな技でしたね、すごい長いですよね。
ね、なんか例えば兵器物語とか、D世年とかやってるっていうね、引用し長くするっていう深入りが違うんですよね。
そういうシーンがありましたね、確かに。あれもすごく印象に残ってます。
ブック2の山場
2巻はどうかな、もう山場はね、つまり雷雨の時ですよね、青雨がリーダーを殺しちゃって、
やっちゃって、で、あの誰だっけ、天護は深井とやっちゃうっていう、2人ともやっちゃうっていうね。
あそこもなんか印象的ですよね、すごく転換点になってる山場、最大の山場だろうなっていうのはありますね、作品のうちので。
そこからこういろいろ展開していくわけですけど、なんか怪しいスキンヘッドの男とポニーテールが出てきたりね、
フォテルの描写がやたら不気味だったりね、なんかすごい比喩みたいに使って、すごい文章になってるっていうのはあるしね、あの辺もすごく面白かったです。
あと今パーってめくってるのはサハリンの人たちの話、ギリヤ悪人の話とかね、あれも印象に残ってますね。
あとなんか、すごいリトルピープルっていうのも忘れちゃいけないと思うんですけど、あれもね、ほうほうとか言ってね、あれも出てきて。
不気味ななんか、人を呪い殺すようなキャラが出てきて、キャラっていうか存在が現れてね、意識価値を浸食していくっていうのが怖かったですね。
空気さなぎっていう小説とね、空気さなぎそのものっていうのが本当に出てきちゃうっていうね、あの辺からもうすごくおかしくなっていくっていうか、世界観がね、怖くなっていくっていうのはありましたね。
Book2はそうですね。Book3は、やっぱり何より結構あったんですけど、小松誘拐されるとかね。
Book3は結構穏やかじゃないですか、展開がありと。
Book3はあんまりないんですよね、その事件がね。
理解がなくて、ゆったりと、りくとさんのブログの話を聞けば、卵を温めていく状態っていうか、そういう風に展開されていって、やっていくっていう。
でもその中でいろんな話が出てきてね、描写とかも豊かで楽しめると思うんですけど、やっぱりこのBook3の山場として、やっぱり父の死っていうのがあると思うんです。
天護の父の死がね。
僕はあそこで一番感心したんですよ、この小説で。
えー、そうなんだ。
僕ね、何でどこに感心したのかっていうとね、あそこだけね、リアリズムなんですよね。
あそこだけ、あそこで僕は父から空気さんが出てくるのかなと思ったんですよ。
でもそういうんじゃなくて、幻想的な要素とか、この作品に出てくる幻想的な文脈が、父の死のところでにゅって出てくるのは普通だと思うんですよ。
そう思ってたんですよ、無意識のうちに。
それがあそこでリアリズムで徹底的に手続きとか、いろんな仮想とか、人とのやりとりとかも全然リアリで描かれてたから、
非常にね、逆に印象に残るんですよね。
だから全部が幻想が多かったのに、そこだけポッとリアリズムの方法で描かれてる。
この場にリアリズムって幻想がないって意味ぐらいのリアリズムですけど、
そういうふうに描かれてたのが、僕は感銘というか、印象深く描いてたんですよね、逆にね。
まあでもそこはあれなんですよね。
その直前の、死ぬ少し前までは、青豆の方に生きるようとして出張ってるわけなんですよね。
あ、そうそうそうそう。
だからそういう意味では大変だった。
ある意味大変になってるんですよね。
青豆の側では幻想的なことが起こってて、天后の側ではリアリズムっていうことになってるんですよね。
なるほどね。天后の方にはおかしいことは直面されないってことですね。
青豆の方にどんどんおかしいほうが行くっていうか、幻想が行くっていう。
なるほどね。
そこがね、だから天后の方が僕は結構好きだったんですね。
キャラクターは別にどっちも好きなんですけど、天后の場面の描写の方が、逆にマジックリアリズムっていうか、文章と天界の妙で天后の方は見せてるっていうか。
そういうふうに感じてね。僕はテーマ的に青豆の方がすごい重要だと思うんですけど、復讐とかね、暴力とかね、いろいろあると思うんですけど、生とかね。
僕はね、天后の方ね、結構小松も出てくるし楽しんでたんですよね。
で、その父の死っていうのがあって、これも感動して。
あとタマルがね、塔の話をするのがあるじゃないですか。
ああ、あれか。
あそこでね、この小説は精神的なものをね、ユニクソンさんも書いてますけど、扱ってんだなっていうのがちょっとパッと感覚的に降り落ちた感じもして、
なるほどって泣かしきりってね、どんどんどんどん深まっていくっていう話があって。
で、その話した瞬間に石川がもうお亡くなりになるじゃないですか。
誰か。
石川。
その話したすぐ後に、種明かしされたすぐ後に石川がやられちゃうから、
これがもうなんか転換というか終わりへの始まりなんだと思って、この小説のね。
エンディングコーナーなんだと思ってね、すごく感動したんですよね。
で、最後もね、うまくいってよかったっていう。
山場があってそこが緩やかに着地した感じがあってね、よかったよかっためたしって感じで、カーンって感じでね。
よかったですね。こんな感じですかね、今パッと思い出せるのはね。
いいですね。
細かい構造とかはね、りくつさんのブログ読んだり、読み返すとだんだんわかってくるのかなって感じなんですけど。
パッとはですね、こんな感じで思いましたね、やっぱり。
ブック3の終盤と感動的なシーン
どうでしょう。
僕はちょっと話しますかね。
僕がこれ読もうと思ったのはですね、結構ね、いつ頃だったか忘れましたけど、その頃奈良に住んでたんですよね。
はいはい、奈良ね。
JR奈良駅の前に三条通りっていうのがあって。
三条通り。
商店街って感じで。
いいですね。
いろんなお店が並んで、飲食店が並んでるんですよね。
広い通りで。
そこにね、もうなくなっちゃったんですけど、三条通りの入り口入ってすぐのところに、右手にJR奈良駅の側から入っていくと、
すぐ右手に、まあそこそこ大きな本屋があるんですよね。あったんですよね、もう今はないけどね。
今はないけど、大きな本屋があった。
2階?2階だったかな。1984の村上春樹の文庫本が並んでるコーナーがあったんですよね。
そこで撮ってチラッと見たら、あれもしかしてこれ結構いいかなと思って、それで買ったんですよね。
そこで出会った?
そこで出会いましたね。
最初の方をちょっとチラッと見て、なんかこれいいじゃないかみたいな。
すぐ隣のカフェがあるんですよ、もうそこも潰れてるんですけど今は。
そこで入って読んだんですよね。
最初の方を読んで。
その時のカフェの様子とかよく覚えてますよ。
出会いがね、全部ビジョンとして覚えてる。
ビジョンとして覚えてますね。非常に感動しましたね、初めて。
感動、体験が記憶として残ってるわけですね。
記憶として残ってますね。
それが最高の出会い方じゃないですか、本とのね。
それと同じような体験ってあと2回ぐらいしかなくて。
一個はですね、魔法城の海って小説のタイトルが出てきましたけど。
はい、三島由紀夫の小説ですね。
それの最後の方にですね、天人護水の最後の方に、
お寺に登って行く、山道を登って行くっていうシーンがあるんですよね。
はいはい、ゲッシュ寺というお寺を登って行く。
ゲッシュ寺でしたよ。そこがものすごく良くてですね、その場面。
それ読んだときの、そこはですね、京都のカフェで読んだんですよね。
京都で。
そこも商店街のあるとこなんですけど、そこで読んだんですよね。
そのときの空気感っていうのも、さすがに教会は朧になりつつあるんですけど。
それ前なんですね。
うん、なんとなく覚えてるんですよね。
じゃあその法上の海を京都で読みっていうか、行き来中奈良で読む。
あとはですね、百年の孤独ですね。百年の孤独も夢中で読んだんですけど、
そのときもですね、全く同じようにですね、奈良の方にあって、
すぐ近くにあるカフェに入って読んだんですよね。
それは行き来中より前ですか?
前だと思いました、多分。
法上の海をまず京都で読んだことがあって、そのあとに百年の孤独奈良で読んだことがあって、
最後に行き来中奈良で読んだことがある。その3つの印象的なカフェでの読書っていう。
そうですね。
それはいい体験ですよね、絶対ね。
この読んだときの周りの空気感みたいなのを覚えてるのってその3回ぐらいですかね。
なるほどね。でもいいですね、カフェで読むっていうのは空気感も違うじゃないですか、家で読むとは。
毎回違うから。すごく記憶に定着しやすいし、いい思い出になるかもしれませんね。
そういう形の経験にね。
そうなんですね。
ちょっと百年の孤独とか法上の海との関係性っていうのをこの後話してみたいと思いますけどね、ぜひぜひ。
どうしようかな。
そうですね、ちょっと話したですね。
本当に恥ずかしい話なんですけど、
僕はその当時、1984読んだ当時の頃って、小説ではないんですけど、ある創作をしてたんですよね。
その創作で本当に行き詰まってるですね。
うまく説明できないんですけど、
若い人は考えることですけど、文学的観念みたいなものがあってですね。
その文学的観念においてもですね、行き詰まりを覚えてたんですよね。
なんて言うんですかね。
そんな風に行き詰まり黒工事にいてですね、非常に辛い思いをしていたんですけど、
1984読むとすごく救われたんですよね。
何だか知らないけど出口が見つかったなって気がしたんですよね。
それはもう理屈じゃないけど、心の奥底で変化が起こったんですね。
そういうことがありましたね。だから本当に良くなりましたね。
結構進展があったというか、変化がリクチャウさんの心の中にも生まれたというか。
全く新しい体験というか、忘れがたい体験だった。
それとですね、僕はそれを読むまでは村上春樹はバカにしてたんですよね。
一冊も読んでなかったけどバカにしていた。
読んでなかったし、これはダメだと思ってたんですよね。
『1Q84』と登場の海の関係
なぜかですね、これはダメだと思いつつも、軽蔑してても、
これもしかし何かあるんじゃないかみたいな感覚もあったんですよね。
それでですね、気まぐれでちょっと手に取っていたって感じだったんですよね。
かなり偶然重なった懸命な体験ってことですよね。
そう、そういうことですね。
すごい。行き詰まりがあったのも偶然だし、
軽蔑しつつもちょっと手に取れていったのも偶然だし、
その奈良で手に取ったっていうのも偶然。
全部が重なったうまい具合に言って、
忘れがたい体験だって、今こうして板野と話してるっていう感じはありますよね。
それはあれですけど。
その秘密っていうのをたぶんリクトさんに考えて分析して、
ある程度カッパーした、リクトさんの言葉でカッパーしたと思うんですけど、
そのエッセンスっていうのをこれから聞いていった方がいいですかね。
じゃあ話していきましょうか。
そうですね。この書室の総括というか、最初に総論みたいなのを話していただければと思うんですけど。
総論ですか。
総論というか、最初のまとめみたいな、こういう道筋があるみたいな、大きく言って。
そうですね。どっから始めてもいいんですけど、
ほうじょうの海が出てきたんで、その通りから始めましょうか。
そうですね。
このほうじょうの海っていう三島の最後の作品があるんですけど、
それはですね、そのタイトルがそもそも面白いんですよね。
どういうことかっていうとですね、ほうじょうの海っていうのは月のある地形?
月のある地形のことを言ってるんですよね。
クレーターの名前とか。
クレーターの名前だったかな。
そうなんですけど、当然なんですけど、月には水はないんですよね。カラカラなんですよね。
ないですね。
そこは一つのポイントですね。
これほうじょうの海読んでみればわかるんですけど、最後はですね、本当に何にもないラストなんですよね。
ニヒリズムってやつですね。
僕はよくアープラで、人々の迷惑も知らずにですね、ムってポストしてるんですけど。
ムってポストしますね。
文脈関係なくしてますけど、あれですか。あれニヒリズム。
ムしかないですね、ラストなんですよね。
文面でもですね、記憶もなければ何もないところに来てしまったっていうことが文面としてあるんですよね。
強敵な破滅的なね、救い寄らないラストですかね。
カタツトロ。
それ言ってみればですね、村上春樹が1984でやってることはそれの逆なんですよね。それに反対するっていうことをしてるんですよね。
反対する。
それを反対する方法。
だから1984を一言で語ってくださいって言われるとですね、いろんな切り口があると思うんですけど、
わかりやすい言い方だと、北条の実の逆を言ってる小説ですっていうのはですね。
結構日本文学的な文脈で読めるってことですね。
そういう文脈はありますね。
インターナショナルな作家じゃないですか、村上春樹の印象は。そこは北条の実の逆を言ってるっていう。
そういう全部かなりの構造の点でも、根っから逆を言ってる小説っていうことですね。
村上は世界文学が好きなんで、世界文学からの影響っていうのももちろん1984にはいろいろあるんですけど、
北条法上の海に沿って話していくとですね、まず海の直流っていうのがすごく出てくるんですよ。海を軸にした直流っていうのがすごく出てくるんですよね。
直流っていうのは例えってことですかね。
比喩のことですね。
こうやってブック1の最初の巻をめくってみるとですね、最初の4行メインでこういうのが出てくるんですよね。
10年の運転手は、まるでへさきになって不吉な潮目を読む高齢な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。
っていう感じですね。潮目っていう感じで。
トンジントンみたいな感じに。
本当にブログの記事にも書いたんですけど、もう山込んでるんですよ、実は。
めちゃくちゃ出てくるわけです。ありましたね、記事にこう、海の比喩みたいなのがめちゃくちゃ出てくる。月の比喩とか海の比喩が超出てくるっていう。
これが一つのポイントでですね。
どういうことかっていうとですね、
海はあるんだってことを言ってるんですよね。
これはちょっと特殊な文脈ですね。つまり、海はないっていう豊穣の海、つまり空々の海っていうものに対する海はあるんだですよね。
そういう意味はあるに決まってるってことになっちゃうじゃないですか。
存在的に言うと、あるよねって感じになるけど、それ豊穣の海に対して言えば、空々の海をあるんだって主張してる。
そこでこう、渇きが潤わせるというか、癒されるって感じはあるんですかね。
そうですね。非常にね、念入り反対してるって感じなんですよね。
なるほどね。
もう一つですね、これは大きいなって思うのはですね、最後の場面なんですよね。
最後の場面は、豊穣の海だと山道を登り坂を登っていくんですよね。
それで下修寺ってところに至るんですけど、1984の場合もですね、非常階段を下から上に登っていくんですよね。
ああ、なるほど。はいはい。
登った先で何を見るのかっていうとですね、月を見るんですよね。
見れましたね。2つあるとか1つあるとか、あれですよね。
そうですね。そこはですね、月修寺って月修寺って月を収めるって書くんですけど、
両方とも月に月を見るってことなんですよね。
まさに共通しますね。
共通してますね。
実際読んでみればわかるんですけど、両方ともですね、そこはクライマックスなんですよね。山道の山道を登っていくんですよね。
そうですね。そこはクライマックスなんですよね。山道の登山をするところはね。
山は最大の山場になっている。
山場になっています。山は都市設定されている。
だから構造を似せるところと全く逆のことをやるってのがあるってことですね。
ある、そういうことですね。
やっぱり1984の結末が超ハッピーエンドじゃないですか。
ハッピーエンドですね。
成功するというか、大乱演になるっていう。
これはやっぱりそこを逆を言ってるってことですね。
超バッドエンドの逆を言って超ハッピーエンドってこと。
両方ともですね、ヒロインの妊娠が大きな事件として扱われてるんですよね。そこが月の祭ですね。
これちょっと補足を加えると、表情のビットが4巻に分かれていて、1巻目でヒロインの佐渡子っていう人が主人公と結ばれて、
母ちゃんを産むんだけど、妥体手術をさせられていなくなっちゃうんですね。
その赤ちゃんが死んでしまうんですよね。そういうシーンがありますね。
一方、青雨っていう人は、処女大会的な、処女でもないけど大会、
マジカルの方法で妊娠して、その命を温めていくっていう終わり方をしてるんですね。
そうですね。そういういろんな回路がありますね。
あるんですね。確かにそうだ。
村上春樹の逆張り
これは若干トリッキーっていうか、ある程度文学を読み慣れてる人じゃないとわかりにくいんですけど、
村上春樹は恥ずかしいんですよね。
1.0は三島を意識して、三島に特別執着して反対してるっていうのは、
彼なりの恥を覚えてもいるんですよね。
だからですね、直接はわかるように書かないんですよね。
直接はわかるように書かないんだけど、やっぱりヒントを出すんですよね。
そのヒントが何かっていうとですね、それが失われたときを求めてるんですよね。
はいはいはい。例のフリーストの対策ですよね。10巻以上ある。
これがですね、直接出てくるんですよね。直接1984の中に出てきて、青豆がそれを読むっていうことをするんですよね。
これはですね、普通文学読んでる人はピンとくるんですよね。
これは何かの影響を示すヒントだなってことをですね、なんとなくわかるんですよね。
それがですね、一応、単純に考えると、失われたときを求めてから影響を受けてるんだなって思うかもしれないんですけど、
それはひっかけなんですよね。
そこは多分ほとんどの人がわからないと思うんですけどね。
ですね、登場の海はですね、失われたときを求めてをかなりはっきりと意識して影響を受けてですね、
失われたときを求めてを攻撃するような形ですね。
なるほど、そこも攻撃してる。
そこもまた反対ってことはできるんですけど、影響を受けてるんですよね。
なるほど。
だからですね、一応ですね、間接的なヒントなんですね。
登場の海と関係がありますよっていうですね、遠距離的なヒントなんですね、これは実は。
僕もその影響関係をね、記事で読んだりミュージックソフトなんかからちょっと教えてもらったりして、思いながら読んだんで、
僕もちょっと登場の海との関連ね、個人的に見つけたりしましたやっぱり。
ここ登場の海の要素じゃんみたいなのありましたね。
なるほど。
でもそういうふうにこう、間接的に失われたときを求めてを感じすることで、
1984にこう、登場の海と1984の関係を感じしていくっていう。
たまがしていくっていう。
はあ、面白い。
まあ言ってみればですね、分かる人には分かるぐらいの感じでヒントを出してるんですよね。
それぐらいの濃度っていうかね。
村上春樹の作品の特徴
やりすぎないぐらいですね。
やりすぎないぐらいね。
はあ。
で、その、
あ、でもなんか他にその、この点で続けていただければ、あれば。
あ、そうですか。えっと、
まあそうですね。
まあ、この辺の話を、どうしますか。話をさらに変えていっても大丈夫ですか。
あの、ぜひ聞きたいのは、なんでそういうこの、
地下鉄の問題とか、あるいは特に北条の海とかへのからの影響というか、
この逆張りというか反対をしようと村上春樹はしたのか。
もっと言えば、1984年の作品がそういう逆の作品になってるのかということを。
そうですね。
それがもう何ていうか、確信なんですよね。
それはやっぱりですね、なかなか難しいですよね。
まあ言ってみればですね、北条の海はですね、すごくそのニヒリズムの作品というか、
はいはいはい。
気欠がですね、破壊的なんですよね。
否定的というか破壊的というか。
西村教頭作家自体がニヒリズムの作家とよく言われますし、
否定的な作家、破壊的な作家というのは言われますし、
まあ北条の海もかなり仏教的なニヒリズムが入ってるという指摘もありますよね。
村上春樹はですね、言ってみれば、
これはもう人間性という言葉でしか言えないと思うんですけど、
そういう文学にですね、読んでて面白いなとか感動を受けつつもですね、
自分はそういうものを作りたくはないという思いがあるんですよね。
彼はもっと現実的なものを作りたいという思いがすごくあったと思うんですよね、たぶんね。
破壊するよりは想像したいということですね。
そうですね。
ただここが村上春樹の美点というか、面白いところなんですけど、
三島が何を考えているかということもですね、非常によくわかるということなんですよね。
ああ、なるほど。書いた三島由紀夫って本人も死んでますけど、こっちもわかると。
こっちもすごくよくわかるっていう。
コンビバレンスな思いがあったってことなんですよね。
なるほどね。その思いっていうのはどういう感じ?
それはですね、一番わかりやすいのがですね、
それが一番わかりやすく表れているのがですね、風の歌を聴けっていう、最初の作品なんですよね、実は。
デルク・ハールドフィールドと絶望
ちょっと短めの作品ですよね。
かなり短いですね。
あの中でですね、すごく有名な、
村上春樹を読んでいない人でも知っているような文章が出てくるんですけど、ちょっと待ってくださいね。
デルク・ハールドフィールドですか?
なんかそんな人が出てくる。
そうそうそう、最初の文章がですね、
完璧な文章などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにねっていうのがありますけど。
ああ、ニュースですらそれ引用されますよね。
ニュースですら引用されます。
でもですね、これ全体読めばわかることなんですけど、
架空のデルク・ハールドフィールドという作家を、主人公は非常に尊敬してて好きであるということを言ってるんですよね。
色々ありますよね。
文章について多くのことをデルク・ハールドフィールドから学んだと言ってますね。
でもですね、これによく考えるとおかしいんですね。
どういうことかというとですね、デルク・ハールドフィールドは自殺してるんですよね。
飛び降り自殺でしたっけ?そういう設定ありましたよね。
飛び降りて自殺した、飛び降りて死んだと。
ということはですね、最初の文章がちょっとおかしいってことがわかるんですよね。
つまりその、完璧な絶望が存在しないようにねって言ってるんですけど、
実際にはハートフィールドは死んでるんで、完璧な絶望は存在してるんですよね。
してますね。
ただですね、逆に読むのが正しいんですよね。
完璧な文章は存在するし、また完璧な絶望も存在すると。
皮肉なんですね、その冒頭の文章って。
死んでるよみたいな感じで。
もっと言うとですね、こういうことなんですよね。
完璧な絶望が存在するところに、完璧な文章は存在するっていうのが正しいんですよね。
なるほど。完璧な絶望のところに完璧な文章ができる。逆説ですね。
これはですね、この小説を読んでもですね、
ヒントは出てこないんですけど、
おそらく三島由紀夫のことを言ってるんだろうと思いますね。
なるほどね、おそらく。
絶望を引き切った上で、完璧な文章と言えるような文章を書いた作家という感じみたいな、メタフィー。
そういう形でですね、始まりの時点からですね、
自分が自粛している三島っていう作家をどう乗り越えていくかってことが彼の課題だったと僕は思ってるんですよね。
なるほどね。
歌詞の歌を聞けを読んでいくとですね、結局最後のほうは物事が明るい方向に向かっていくんですけど、
面白いのがですね、小説を書く登場人物が主人公以外に出てきて、
ネズミっていう人が出てきてですね、小説を書いてるんですよね。
彼の小説にはですね、Xシーンはなく登場人物は誰一人死なないって出てくるんですよね。
これはですね、僕の解釈なんですけど、つまらないものを書いてるってことだと思ってるんですよね。
刺激のない。
つまらないものを書く、自殺するよりはつまらないものを書いてるほうがマシだっていうのがですね。
なるほど。絶望するよりは生きて、ちょっと落ちるけど完璧じゃない文章を書いていくほうがいいんじゃないか。
いいんじゃないかっていうのがですね。
それがですね、ステレオタイプの価値観からすると驚くべきことかもしれないんですけど、そういうことなんですよね、実はね。
完璧なものを書いて死ぬぐらいだったら、死なずにちょっと劣ったものを書いてるほうがいいじゃないかっていう。
比喩とペアの構造
それも結構受け入れやすそうな真理であると思うんですけど。
まあそうかもしれないですね。ただ、日本の侍的な価値観は受け入れられないと。
そうですね。受け入れられないという伝統はあるかもしれないですね、確かに。
そういう影響を感じてるわけですね。
彼の法上の意味に反対する精神っていうのが、中核にあるのがそういうものだってことだと思うんですよね。
西村卿って作家そのものに対する反発心というか、関心も持ちつつも完全にそれを乗り越えたいって告白したいっていう思いっていうのが、
端として確実もあるっていう意識しつけてる。
そうですね。
いやー面白いな。
でも、1984っていうのを読んでみてすごく完成度が高いっていうか、あんまりつまらないものって感じではないと思うんですけど、どうですか?
ああ、その通りですね。
なんかあんまりセックスシーンも出てくるし、人を知り分けしてるし、面白いし。
しかも生きてるしっていう絶望、完全絶望っていうのはない。完全に克服したって感じじゃないですかね、そこは。
そうですね。
何か言おうとして忘れちゃったな。
何でも何でも。
まあいいや、次行こうか。
はいはいはい。また思い出したら。
どうしましょう。まだまだ時間あるか。まだ1時間しか経ってないんですけど、
じゃあその、表情の三島からの影響、無垢原はるき、1984っていう影響と克服は分かったんですけど、
三島さんの記事で興味深かったのは、メタファーが逆になってるっていうか、普通の小説とかプロフィスとかと逆になってるってことが、それどうでしょう?
そうですね、なかなか昔の僕もなかなかいいことを書いてますね。
いや本当に。
じゃあちょっとね、そこ整理していきましょうか。
海の直流っていうことをさっき語ったんですよね。
今度はですね、それと別にですね、月の陰影ってものがあるんですよね。
この場合の陰影っていうのは、ちょっと辞書的な意味とは違うんですけど、天皇の数行を読んでもですね、何の比喩だかよくわかんないような、
比喩になっていることがパッと見は完全としないような比喩ってことだと思ってくれればいいんですけど、
それはですね、出てくるんですよね。それは何かっていうとですね、2つ月は出てくるんですよね、その1984の世界の中で。
はい、パラレルワールドとしての月が2つ出てくるっていう。
片方がですね、大きくて、元のやつで、もう片方が少し小さいと。
若干なんでしたっけ、緑がかってるんでしたっけ。
そうですね、緑がかってる。
それがですね、結構ですね、実はそれに近いものが作詞に出てくるんですよね。
ダブって見えるものが。それが何かっていうと、
例えばですね、不揃いの、青豆の、何でしたっけ。
耳が不揃いなんでしたっけ。何でしたっけ。
耳が不揃い。青豆の。胸も不揃いでしたよね。
胸も不揃いか、そうかもしれないですね。
それはよく出てきますね。
とかですね、これブログの、自分のブログじゃないですかね。
そうですね。言い失われるからわかると思います。
あとですね、母と娘とかも。
基本的に二人の登場人物は結構、ペアになっている登場人物は結構、
天後と深襟とか、天後と青豆とかですね。
天後と小松とかも忘れちゃいます。
そうです。マザーとドーターとかも。
対になっているってことですね、プロジェクトの要素が。
そういう感じですね。
暗優が出てくると。
これは僕の解釈なんですけど、
2つの月の隣優と海の直優って形で、
ついになっている存在、構造的にね。
なるほど。
そういうふうに比喩が配置されていると。
それにですね、現実と同じようにですね、
月が地球に影響を及ぼしていると、
潮の満ち引きっていう形でですね。
干潮満潮みたいな感じで。
そうですね。
そういう形でですね、影響を及ぼしていると。
実はこういう構造がですね、
結構繰り返し出てくるんですよね。
一番わかりやすいのはテレビなんですよね。
電波が。
電波って単語がですね、
天皇の父親によって繰り返されますけど、
せっかくNHKの。
衆議院。
衆議院によって繰り返されますけど、
電波とテレビ。
電波が月が地球に及ぼしている引力なんですよね。
引力の引誘って感じですね。
引誘って感じですね。
それがテレビで再生されると。
カンペラに集まってテレビで再生されると。
そうするとですね、
今まで電波っていうのは目に見えないものなんですけど、
テレビによって初めて見えるようになる。
っていうですね、そういう構造があるんですよね。
似てるんですよね。
これ月が海を動かしているのね。
なるほど。マザーとドーターもそうですもんね。
マザーとドーターとかもそうですよね。
パッシバーとレシーバーもそうですよね。
パッシバーとレシーバーとかもそうですね。
あとですね、これ忘れちゃいけないんですけど、
リトルピープルとビッグブラザー。
ビッグブラザーっていうのはあんまり出てこないですよね。
前半に言及されるんでしたっけ?
ビッグブラザーはこの場合はですね、
分かりやすいのは先駆けのリーダーなんですよね。
タモツです。フカラタモツっていう人ですね。
フカラタモツですね。
めちゃくちゃでかいマッチョの人。
そうですね。リトルピープルがですね、
通り着いてビッグブラザー的な存在になっていると考えられるんですよね。
なるほど。で支配していると、その教団を。
これは作中ではっきりと言われるんですけど、
リトルピープルっていうのは、
それ単体ではあんまり力がないと。
広報言ってるだけですよね。
よりしろになっているリーダーみたいなよりしろに、
たくさんぶわーって集まると、
力を更新できるようになるっていう感じなんですよね。
そういう意味で似てるんですよね、実はね。
そういう構造が出てくるんですよね。
ペアの構造ってことですね。
ペアの構造ですね。
月と海、リトルピープル
相互依存みたいな。
そうですね。
そういう構造が出てきますね。
これなかなか説明していくのが大変なんですけど。
ゆっくりでどうぞ。
うん。
うん。
月は海を動かすし、
海は月を映しますしね、
美的なものを感じますね。
道の進み方間違えてますね。
その 逆方向というのは何なのかってことを言ってたんでしょ
あそうですね比喩の逆方向っていうのをプルストから逆にしたみたいなことをちょっと 生地で読んで
プルストはこう斬新な直位を使ってこうなんか これはこうだあれはあれのようだあれのようだって自分の芸術的センスで世界を解釈したけど
全てのものが何かのメタバーっていう逆転現象で 世界を捉えたっていう話が書いてあってブログの一つで一番古いやつかな
書いてあってそこが印象的だった
ちょっとねそれはですね また1984のすごいところがあるんですけど
卵型の隕友の話ですよね多分 ああそうです最初の記事ですね
とりあえず後で話しましょう
分かりました これはちょっととっておきのハードルアップ
さっきの 月と海の話を延長させていきましょうか
それとは言うとこれってですね
なんていうか 基本的に文学っていうのはその
回る方法があって 多義的なものを目指すっていうか
意味の層を重ねて似たようなものを集めてですね 意味の層を重ねていくとすごく力が増すっていうのが
それが文学の結構 方法論としてあるんですよね
繰り返していくって感じですか
繰り返していくってことですね
そんな感じで
さっき言った 見えないものが見えるものに立ち会われてくるっていう構造があるんですよね
もうちょっと説明 そこからだんだんずれていく感じで説明していくとですね
リトルピープルっていうのが出てくるんですよね 意識が入ってくる
リトルピープルと空気さなぎ
それが結構ですね
すごい重要な存在として出てきて
最後まで続いてるんですね
リトルピープルって何なのかっていうのがですね すごく問われるんですよね
僕が印象に残っているところとしてですね
空気さなぎっていう作中作が出てくるんですよね
空気さなぎの中でリトルピープルって言葉が初めて使われて
じゃあリトルピープルって何だっけっていう
空気さなぎの中でもリトルピープルってのは何なのか明らかにされず
明らかにならないんだけど なぜかベストセラーになるみたいなね
はいはいはい、ありましたね
アクター合唱候補になるんでしたっけ?
アクター合唱候補になるんだけど 手に入らなきゃいけない
はいはいはい、そうそうそう
でですね
その中でですね まさに後の報道
それでも後の報道の記述なんですけど
確かですね
書評を読むんですよね 空気さなぎの
その点語が
それからですね
その書評家が
面白くはあるんだけど
空気さなぎは面白くあるんだけど
なんかよくわからんと結局リトルピープルも正体がわかんないし
なんか投げ出しているように見えると
答えを出すこと
みたいなことを書いてあるんですね
で点語はそれを読んで
そのなんていうんですか
えー
疑問不だらけのプールに
鳴り込まれた人々を想像した
想像したから
そんなような言葉が出てくるんですよね
これはですね
僕の解釈ではですね
挑発行為なんですよね
その読者に対する
あーなるほど
この1984自体の読者に
読者への挑戦状況ですね1984
わかるかって感じですかね
ミステリー
これ謎がありますよと
あんたたちこの謎がわかりますかっていう
そういう問いかけなんですよね
でですね
まあそれを
僕はわかってるんで説明していくと
まずですね
リトルピープルが一番最初にですね
具体的に出てくるのはどこかっていうと
あれなんですよね
つばさちゃんだっけ
つばさちゃん
出ちゃいましたけど
出ましたね
最初にあのちょっと暴行を受けて
拘束されてくる人ですね
暴行を受けてちょっと動かしちゃったんですけど
その子の口の中から
リトルピープルが出てくるっていう
はい
で空気さなぎの中では
まあ空気さなぎは作中作なんですけど
中でもその
死んじゃった桃子の羊から
の口からそのリトルピープルが出てくると
はいはいはい
でですね3位ですね
その牛川か
牛川が死ぬと牛川の口からも出てくるっていう
はいはいはい
これなかなかですね
演劇的に説明するのが難しいんで
そのいきなり結論言うとですね
あそうでもないな
それが一つのヒント
さっき言ったのが一つのヒントなんですけど
他にもヒントがあるんですけど
どういうことかって言うとですね
あの
どういうことかって言うとですね
まあある人物がですね
保証から被害を受けたんですけど
別の人物がその怒りを代行して
まあ一見は普通
別の人物がですね、他者から被害を受けたんですけど、別の人物がその怒りを代行してアクティストと、まあ言ってみれば普通です。
Aさんが殴られたらBさんがその殴った奴に仕返しをする。
仕返しをするみたいな、そういうのが出てくるんですよね。
まあ、分かりやすいのは、大塚玉樹と青豆の関係性ですね。
あ、青豆の友達の大塚玉樹が男から暴力を受けてたんですか?
男から暴力を受けて自殺しちゃったんですよね。
自殺しちゃった。青豆が後に復讐すると。
後に復讐すると。
死の制裁を与えると。
他にもですね、DVを受けた女の人をログジーが囲まれて、青豆が代行して復讐するという。
はいはい、構造がありますね。
これは結構ヒントなんですよね。
どういうことかというと、実はこれがリトルピープル的なんですよね。非常に構造が。
どういうことかというと、ある人が他者から傷ついて、他者から傷つけられると。
するとですね、そこでですね、発揮されなかった可能性としての怒りというものが出てくると。
それがですね、まあそれは燃焼されずにですね。
死霊みたいなものですね。怨念みたいなもの。
怨念みたいなものとしてですね、その人が出てくると。
空気中をですね、漂い始めるっていうのが、それが言っていればですね、リトルピープルと言ったらと思っていいんですよね。
で、ビッグブラザーっていうのは、そのようなですね、リトルピープルをですね、リトルピープルを集約させた存在なんですよね。
ビッグブラザーとの戦い
あ、もう怨念の塊みたいなもんですね。
これもまたヒントなんですけど、声っていう表現が出てくるんですよね。
リトルピープルは声を持っていると。
で、ビッグブラザーになる条件を備えている人っていうのは、それを聞くことができるっていうことなんですよね。
はいはいはい。
声を聞ける人が。
そう、そうですよね。
そうやって耳をすませる、声なく声に耳をすませることができる人が、そのビッグブラザーになるってことなんですよね。
競争になれる。
競争になれるってことなんですよね。
ここでですね、一旦もう一回戻って考えてみるとですね、
実は柳屋敷の老婦人っていうのも、すごくビッグブラザー的なんですよね。
はいはいはい。
DVを受けた女の人たちを集めるんですよね。
そのDVを受けた女の人たちを吐き出したリトルピープルを集めて、より白になっているのが老婦人だと。
老婦人。
そういう戦いができるんですよね。
一方の局には深田田本がいて、一方の局にはそういう老婦人がいるという。
言ってみれば、ビッグブラザー対ビッグブラザーの戦いみたいな感じじゃないですか。
だってそれ、領挙党みたいな。
うん。
はいはい。
まさにその通り。
そんな感じなんですよね。
だからですね、死んだ人とか、
あるいは村上の表現だと損なわれてしまったっていう表現が出てくるんですけど、
損なわれてしまった人物の口からリトルピープルが出てくるっていう感じなんですよね。
あーなるほど。
確かに、あと今気づいたんですけど、深田本の部下にスキーヘッドいるじゃないですか。
スキーヘッドね。
で、老婦人の部下にはタマルいますもんね。
ここがツイになってます。
そうなんですよ。ツイになってるんですよね。
トニー・チェルってほとんど喋んないしね、あれは青梅とのあれかもしれないし。
面白いですね。ツイになってるんですね。
ツイになってる。
で、二人が会話するじゃないですか、電話で。最後の方に、牛川殺した後に。
あれツイが話してるんですね。面白いですね。
そうかもしれないですね。
どうぞ続いてください。
という感じですね。
リトルピープルとは大体そういうものですよってことが言えると。
もちろん実態としては、僕たちの現実世界にはそういう音量みたいなものはいない。
だけど、村上が言いたいのは、いると思ったほうがむしろいろんな出来事の解釈とか要因がありますよね。
それは集合的無意識だとか言霊とかそういうのに近いような感じですね。
そういうものだと。
呪いとかに近い。
そういうものだと思ったほうが、むしろ現実世界を捉えやすくなる。
捉えやすくなる。
我々は言葉を使ってるから、そういう面は全然ないわけではないですね。
全然ないわけではないんですよね。
毎年は、大変お戦争中とか戦争前の新聞とかも結構そんな感じに近いことかもしれないですね。
不安とか憎悪を煽り立てるような。
煽り立てる。
そういう煽りみたいなのが出て、人々を駆り立てるみたいな、そういう危険性と。
それを自覚するためには、そういうリトルピープル的なものを仮定したほうがいいよっていうことを。
そうですね、仮定して名前を付けてしまったほうがむしろ、なんていうんですか。
物事が見えやすい。
見えやすいし、未然に防ぎやすい。
そういう自分がリトルピープルに操られてないか、みたいなことを確認できますよってことなんですよね。
あとあいつは、実はいい人面してるけどブックブラザー的なやつなんじゃないかってことも言えるってことですけどね。
まあ本当にですね、SNSを見てるとですね、他人の怒りを怒る人がたくさんいるんですよね。
ああ、なるほど。
僕は実はあんまり良くないなと思ってるんですよね、そういうのは実は。
それは問題視みたいな。
まあね、他人の怒り、まあ確かにある事件が起きたので、部外者の人がすごくそれを騒ぎ立てるというかね、騒いで。
まあ気分とかはあるけど、それもやっぱりちょっとリトルピープル、ブックブラザー的な関係があるんじゃないかっていうことですよね。
またはですね、リトルピープルを、ある意味活用方法っていうのがあってですね、それが受け取る、集合するっていうことだけじゃなくてですね、
小説を書くっていうのがですね、ビッグブラザーに対抗する一つのモーメントになるっていうことをですね、書いてるんですよね。
なんていうんですかね、人々は何を考えているか、どんなことに傷ついたかっていうことを聞き取って、物語っていうことに直して書くっていう。
今はですね、リトルピープルに操られずに声を聞くんだけど操られないっていうのが、この小説を書くっていうことなんだっていうことなんですよね、この1982年。
なるほど。つまり、憎しみを受け取って権威を取るよりはペンを取って書くってこと。
そういうことですね。
小説を書く力
これもね、結構ハッキリとした描写が出てくるんですけど、天王もですね、数学教室やってるときは結構ビッグブラザー的なんですよね。
なるほど。
すごく有名に話すことができるっていうのが出てきますよね。
ここはちょっと小説的なんですけど、女子生徒が自主戦で天王を見るみたいなのがあるので期待しますよね。
カリスマ性がある。カリスマ教師なんですね。
カリスマ教師ってことなんですよね。
そんな感じでですね、天王も若干ビッグブラザー的な要素があるんですよね。
じゃあ、老婦人とか深田保成になり得るってことですね。
なり得るんだけど、彼と違うのは、小説を書くとはできるっていうのが違うっていうことがあるんですね。
なるほど。
深襟の小説を書き直すじゃないですか。あの恋の意味ってどこなんですかね。
どういうことですか。つまり、なんで空気さないと作中作を動作させるときに、書き直しになっているのかってことを聞いてますか。
というか、天王の小説を書く力っていうのと、深襟がやってることはその逆のビッグブラザー的なメカニズムを暴露するってことですけど、
その力を合わせるっていうところにメタはあるのかなっていうのは聞きたいですね。
それもですね、言ってみれば、僕自身もちょっと自信なくなってきたんですけど、この場合はですね、深襟がある程度リトルピープルを集めて声を発してる状態だと思うんですよね。
それを天王が聞き取るっていう。
パシバとレシバーみたいな感じですか。
パシバとレシバーみたいな。電波とテレビみたいな感じになっている。
ああ、なるほどなるほど。まさに。
卵型の比喩
じゃあ、電波が変わったみたいな感じですかね。電波の引力と言ってもいいけど、引力の位置が深田保と深襟の関係から深襟と天王の関係に変換されたっていう感じもあるんですか。
そうですね。
まあぶっちゃけテレビは悪だとして扱えてるんですよね、1984の中では。若干テレビ局の人にはかわいそうだけです。
ASKの方にはもうちょっとね、読ませられないですけど。
テレビは悪だと。ビッグブラザーも悪だと。
だけど、同じリトルピープルっていう電波でも天王が再生すると良きものになるということなんですよね。
すごい仕組みですね。メカニズムがかなり構築されてる。
こういうメカニズムがですね、非常に複雑なんですよね。
結構複雑なメカニズムを書いてるんですよね、この作中の中に。
複雑ですね。NHKの電波とテレビの電波と月の引力が関係してるっていうのがすごく悲惨的ですよね。
ちなみに僕もですね、テレビないのにNHKにお金取られたことがありました。
あ、本当ですか。
本当です。
なかったのに、調整されてしまった。
払ってしまった。
あの、天狗のおじさんが訪ねて来たらガンガンガンガンって言って、
出てくださいってわかってますよって言っているんでしょうね。
疫病が来たの。
疫病がね。
まあちょっと、その話は若干ややこしいんで、詳細は話せないですけど。
そうですね。肉体物語になっちゃいますもんね、そこで。
結構取られましたね。
取られました。ひどいな、それ。
無駄に払ってました。
無駄に払ってた。やられた。
大切なNHKの資金源となりますから。
何やしませんみたいなこと言われる。
僕感動したのは、天狗の父親が死ぬ時にNHKの制服着て燃やされるじゃないですか。
ああ、もうあれは完全に。
あれは皮肉ですね。
皮肉ですよね。あれ、皮肉で本当に文学的に感動しましたね、つまり。
よくできて、よくできて。
軍人とか戦士が燃やされるようだみたいな、ワーグナーみたいな。
あったでしょ。
だからあれ、戦後の皮肉ですよね。つまり猛烈サラリーマンになった人が、
戦士のように死んで、戦士のように埋葬されていくっていうメタバーもありますよね。
そうですね。
皮肉ですね。あれはもうNHKの人が読んだらどう思うのかなっていう。
あそこまで来ると、ゾッとしてしまいますね。
あと、今思い出したんですけど、僕その最後読むまで、これはもう探れに示唆されてびっくりしたんですけど、
それまでははっきり言って、天后と父親と母親の関係って、
オイリップスの関係なんだろうなと思ってたんですよ。
だから母親が浮気をして、父親が天后に愛をもたらさないみたいな、
愛を与えないみたいな申し出があったんですけど、最後の方で牛川が実は考察されたんだみたいなことを言うじゃないですか。
言いますね。あっさりと言いますよね。
あっさりと言いますよね。じゃあ単純なオイリップスじゃないんだっていうことを気づいて。
考察されるっていうのはオイリップス的なことはありますけど、確かに。
そこはなんかすごい、これもっと複雑なんだなってことは分かる。
父親の感情とかも直接は表示されないですけど、すごく複雑じゃないですか、そう考えると。
若い頃に逃げられて寝取られて、しかも妻を殺されて、子供を残されてみたいなね。
しかも誰を殺したか分からないっていう。あれはちょっとびっくりしましたね。ミステリー要素でした。
どうぞ。
そろそろ卵いけますか。
卵いけますか、そろそろ。
蓄電って言葉が出てくるんですね。確か失踪っていう言葉じゃなくて。
蓄電とか言ってるの古いみたいな。
古いと思った。
牛からは結構年配でしょうから、そういうのかもしれないですね、時代的に。
そうですね。最後に卵型の隠蔽の話をしましょうか。
これはですね、1984の、僕が一番感動したし、一番読んでて最初に気づいたのがこれなんですよね、この構造なんですよね。
読み終わった後に、
読み終わった後にですね、なんだろうこれはって思ったんですね。本当に特別な、なんていうんですかね。
心が温まるって言い方するとすごく、なんていうんですか。
張り切ったり。
張り切ったりみたいな表現になっちゃうんですけど、本当に特別な考えを抱いたんですよね。
それまで読んできた小説とは全然違う考えを抱いたんですよね。
それは一体何によって与えられたものなんだろうって思ったんですよね。
はいはい、疑問が湧いてきた。
それで考えたときに、初めてわかったのがこれなんですよね、この卵型の比喩なんですよね。
でですね、これ結構ですね、いろんなとこに出てくるんですけど、ちょっと待ってね。
一応文句を貼ると。
りくとさん、どれくらいまで大丈夫ですか、時間的に。
11時までには終わろうかなと思います。
10時まで、分かりました。
僕も質問、かんぺみたいなの書いてきたんで、それも時間があればちょっと。
こんな感じですね。
書いたんですけど、
例えばですね、最初はあれなんですよね。
FM放送のクラシック音楽番組が、
ファッションの中に流れていると。
それは曲はやらないチェックのシンフォニーだったんですよってあるんですけど、
これですね、実はですね、
これ実は特別な表現なんですよね、分かりにくいですけど。
これはもうすごい重要な表現で。
結構ですね、よく考えてみるとこれ結構特別な表現なんですよね。
どういうことかというとですね、
これもすごい分かりやすいというか、若干なんて言うんですか。
単純すぎるんですけど、
この中でですね、1984の中では、
村上春樹の中では、ラジオは全然なんですよ。
テレビはアップなんです。
ラジオすごく出てきますよね。
結構いい感じですよね。
という形ですね。
マジか。
タクシーっていうのは狭い箱なんですよね。
狭い箱の中に、本来入ってこれないはずのスペースに、
そういう前の音楽が入り込んでくるっていう。
ああ、はいはい。そういうことですね。
そういう感じなんですよね。
卵にですね、
栄養が与えられるみたいな感じなんですよね。
という感じですね。
これ結構ポイントですね。
すぐ、その数ページ後にはですね、
開いた的から一群の鳥が手矢に飛び込んでくるみたいにっていう表現が出てくるんですよね。
これは前後の文脈を確認するとですね。
ヤナーチェックに関する知識が、
この音楽を聴くと反射的に頭に浮かんできたと。
プルーソっぽくないですか。
プルーソっぽいですね。
開いた窓から一群の鳥が手矢に飛び込んでくるみたいに。
これは結構ヒントですね。
ある一つの容器というか部屋とか箱の中に、
箱っていうのが意識されていると。
そこに外から何か与えられるみたいな。
そうすると青豆がねじれに似た感覚をもたらされて、
物理的に変化するような感じが与えられてますけど、
これも結構やっぱり暗示的。
それはたぶん1984世界に移行したってことだと思うんですけど。
そういう意味か。
その後もタクシーの中に閉じ込められるのは嫌だなってことを青豆は思うんですよね。
それで自分で決心して外に出て行くと。
するとですね、文庫本など28ページのところで、
鈴木アルトに乗った小さな女の子は母に向かってですね、
タクシーの中と青豆の内面
外に出ている青豆を指差してですね、
私も外に出たい、お母さん私も外に出たいって言うんですよね。
これも結構象徴的な場面なんですよね。
この言葉をですね、すごくわかりやすく変換して言うと、
女の子は卵の中にいると。
お母さん私も生まれたいと。
卵の中から外に出て行きたいっていう。
ごめんなさい、水飲みます。
28ページ。
卵型の貧乳っていう言葉で言い直すと、そういうことになるんですね。
卵を割って外に出て行きたいと。
でも母親は、いやまだその時じゃないからって黙って首を振るということなんですよね。
そんな感じですね。
実はですね、これ一個ずつ全部説明してると疲れちゃうのでやめますけど、
実は結構出てくるんですよね。
ある陽気があって、その陽気を意識して、
そこに善とか悪の評価をするっていう。
そういう類型的なパターンが出てくるんですね。
一番わかりやすいのはですね、転職の話なんですよね。
転職とは何かと深入りがたずねるんですよね、天吾に。
そうすると、昔の中国で幼い女の子の足を小さな靴に無理やりはめて、
大きくならないようにしたと天吾が説明するんですよね。
これはもちろん悪の評価を与えてるんですよね。
これは牛川の頭の形とかにも対応するんですかね?無理やりな頭が。
それはどうだろうな。あ、そうかそうかそうですね。
タマゴとか丸いけど頭がつるっとしてるけど。牛川がグツグツしてるみたいな。
こういう表現はできるんですよね。
牛川はですね、幼い頃から自分の頭の中でだけ自分と会話してたみたいな表現なんですよ。
寝てるみたいなね、思考を寝てる。
それは結構対応してるのかもしれないですね。
自分だけで結論つけちゃってるみたいですかね。
こういうタマゴ型の比喩が出てくるんですけど、
これヒントが出てくるんですよね、読者に対する。
ゴムの木と金魚の対比
それが何かっていうとですね、
ブック2に出てくるんですけど、前編の137ページに出てくるんですけど、
ゴムの木と金魚の対比。
そうですね、ゴムの木と金魚の対比が出てくるんですよね。
こういうことをいっぱい青豆が言うんですよね。
マダムのところで金魚を見ていて、私も急に金魚が欲しくなったの。
こういうのがうちにいるといいかもしれないって思った。
小さくて無機質で要求も少なそうだし。
それであふる日に駅前のショップに買いに行ったんだけど、
実際に水槽に入っている金魚を見ていたら、突然欲しくなくなった。
そして売れ残っている貧相なゴムの木を買ったの。金魚の代わりに。
正しき選択だったと俺は思う。
これは明らかなヒントなんですよね。
どういうことかというと、タマルが正しい選択だったというふうに、
ここではっきりと明確にしてるんですよね。
実は他のところでは、何が善で何が悪かっていうことを説明しかしないんですよね。
転則のときとかそうなんですけど、
転則ってこういうもんだよって説明してるだけなんですね。
そうですね。いいか悪いかとは言えないですね。
いいか悪いかとは言ってないんですよね。
そういうふうにあんまり説明してないんですけど、
このゴムの木と金魚の対比では村上春樹は親切心を出して、
金魚はダメでゴムの木はいいって言ってるんですよ。
これどういうことかというと、
この金魚はマダムのところで出てくるんですけど、金魚鉢に入ってるんですよね。
金魚鉢っていうのは、一応上の口は開いてるんですけど、
もう全部入り切ってるんですよね。
入り切ってますね。
容器の中に埋没してるっていうか。
自由がないっていうか。
自由がないんですよね。
ゴムの木は根っこは埋まってますけど、
顔は植木鉢から出してるんですよね。
そこから自分で成長できている。
そういうふうに自由があるってことなんですよね。
金魚のメタファーとドストエスキーの影響
僕ちょっと思ったんですけど、
ゴムっていうのは青豆が自分で小さきものを育てていくっていうメタファーで、
金魚っていうのはもし成長したら違う箱に移さないといけないじゃないですか。
違う金魚鉢に。大きい金魚に。
それは劇団じゃなくて教団に渡すってことじゃないですか。小さなもの。成長したら。
なるほど。面白いこと言いますね。
そういうのが正しい。
自分で育てるっていうのが正しいだけだと思ってたまるが、
無意識っていうか言ってるっていうのはそういうメタファーもあるのかなって感じはしますけどね。
なるほどね。そうかもしれない。
他にはですね、
ブック2の後編の69ページですね。
69ページ。
リーダーがそこに中身を与える。
ここでボーツ頭がこういうことを言うんですよね。
多くの人が集まるわけですから、ある程度の規律はもちろん必要になります。
しかし固定された形式に目が向かいすぎると本来の目的は見失われかねません。
会議や競技はあくまで便宜的なものなのです。
大事なのは枠ではなくその中にあるものです。
リーダーがそこに中身を与えるんですね。
これはですね、皮肉なんですよね。
リーダーがそこに中身を与える。
青豆の倫理観ではそれは悪なんですよね。
中身を人からもらうものじゃないってことなんですよね。
自分で育てるものだと。
そういうことなんですよね。
なるほど。
という形ですね。
いろんなバリエーションがあるので、
あとは自分でブログを見つつ、書面読みつつ確かめてほしいんですけど。
いっぱいありますもんね。
できてます。そんな感じですね。
たぶん一番大きいのがですね、
Book2でセーフハウスに入って、青豆が入って、
Book3でも自分から出てきますよね。
行ってみれば老婦人に反抗して、
自分で出てくるんですよね、セーフハウスのね。
それがやっぱり卵の卒宅のとき、
卒宅のときじゃないか。
自分で殻を破って出てくるってことですから。
それが一番でかいかなって気がしますね。
第2の誕生みたいな。
第2の誕生みたいな。
自分が中身ができたら、自分が中身であることをやめるってことですね。
そういう考え方もできますね、もちろん。
ちょっと図式的な考えをしてしまいましたね。
いやいや、そんなことないと思うんですよ。
そんな感じなんですよね。
面白いな。
青豆の成長端というペンもあるわけですね。
そうですね。
面白い。
この卵型の比喩の説明をさせていただいたんですよね。
それで、さっき言ってた最初の方に戻ってくると、
言ってみればですね、この場合の卵型の比喩っていうのが手段なんですよね。
目的は善に至ることだってことなんですね。
つまり成長することが目的なんですよね。
それに付加することが目的なんですよね。
逆方向って話をしてましたけど、
プレストの比喩っていうのは何かっていうと、
それ自体が目的なんですよね。
比喩の美しさが目的である。
あの木は手みたいなことを言うと、斬新みたいな。
言ってみればですね、プレストは比喩が目的であるに対して、
村上は比喩は手段であるってことなんですよね。
じゃあ芸術史上主義じゃないってことだね。
芸術史上主義はないってことなんですよね。
そこは逆だってことなんですよね。
じゃあそれは三島への批判にもつながります。
三島だって芸術的な比喩とか美しさみたいなのあるし。
手段なんだってことですね。
それそのものの形式美とかじゃなくて、
形式美とかじゃなくて、
善に至るためのツールとして俺はメタファーを使うんだっていう。
どういうこと?
人表明。
機能的なもので。
僕からは大体こんな感じですかね。
ありがとうございます。
言いたいこと言ったかなみたいな。
じゃあ僕の勘弁をちょっと急ぎ足で、
三島さんに投げかけて。
どうぞ。
展開しそうであれば展開するし、展開しそうでなければっていう。
じゃあまずまた勘弁を見ると。
なんか結構天后と女性の向上の場面がある。
ラブシーンみたいな。
出てきますね。
あの場面で結構神秘的なメタファーとかイディオムが使われてるっていうのは、
どういうふうに考えられますか。
マジカルな感じになると思うんですけど結構。
結構なんか大した面白いですよね。
つまりなんていうか、あんまりセクシーじゃないんですよね。
そういう感じじゃないですね本当にね。
戦場的ではないというか。
戦場的ではないです。
儀式的な感じになっちゃうっていうか。
儀式っていうと確かにぴったりくるかもしれないですね。
なんかあんまり深く考えたことなかった。
なんかそういうもんだと思ってた。
なんか何ですかね。
一つのあれとしてですね。
男子はある程度セックスすべきだっていうのが、女の人もそうですけど、
1984の中では人間はある程度セックスをするべきだっていう、
健全な形みたいな。
健全な形みたいなこととして書かれてる。
そういう価値観で書かれてる。
そこで通過儀礼みたいな感じで儀式的にメタファーやイリウムが使われてる。
そうですね。
悲劇を喜劇に転換してるって。
つまり父親殺しみたいのがあるじゃないですか。
たもつが殺されるみたいな。
悪党とはいえ悲劇じゃないですか。
父親殺し。
それが最後に2人の男女が結ばれるっていう喜劇になるっていう。
悲劇から喜劇に転換されるっていうのがあるかなっていうのはちょっと思いましたね。
あとはですね。
三島由紀夫の話も出てくるかなと思って、村上春樹とかのメモとかもしたんですけど。
三島由紀夫っていうのは、世界に亀裂を入れて破壊するみたいな。
補助意味なんかそういう部分がある作家だと思うんですけど。
村上春樹はその逆に世代を再び統合させる。
亀裂を直し統合させるイエスみたいな。
世界観みたいなことかなっていうメモがありますね。
メモがありますね。
例えばもう一つくらい曲を出すと比較しやすいのかなと思って。
例えばドストエスキーなんかはいろんな承知がありますけど。
割と亀裂を入ったまま世界を肯定するっていうのがあるんじゃないかなと思って。
ドストエスキーは乱暴だけど、すごく世界を肯定させる。
亀裂しつつもそのまま世界を肯定させるっていう。
ここが結構三島と村上と違う曲かなと思って。
そこにドストエスキーの無理をしてるさと偉大さがあるのかなと思って。
面白さがある。
メモがありました。
ちょっとね、ドンキホーって僕は一回しか読み通してないんですけど、
もうそろそろ再読する時期かなと思って。
作中の儀式的な要素
温めておいたんですけど、そろそろ再読しようかなと思ってますね。
それでね、多分ドンキホーって読み終わって読解するとですね、
ドストエスキーもすごく読み通しが良くなるのかなって気がしてますね。
なるほど。
やっぱりドストエスキーはドンキホーとの影響を受けたっていうのは確実にあるらしいですからね。
ドンキホーってやっぱりね、犠牲っていうことがすごく働いてるんですよね。
犠牲がすごくメカニズムとして強く働いてるんですよね。
なるほどね。
だからね、ドストエスキーも犠牲が大好きなんで。
自己犠牲みたいな。
カラマ族の兄弟はですね、どんだけ犠牲があるかっていうと、
まずゾシマが浪水で死んで、ペオドロが殺されて、
スメルジャフが自殺して、
2番が発狂して、
ゴミ取りが無理と罪で渋谷を国になって、
最後に二流者が死ぬっていう。
しかも母親たちも死にますもんね。
母親も一番最初の方で死んでますね。
ものすごい生贄が叩かれてますね。
結構見通しが良くなるんじゃないかなって気がしてるんですよね。
メカニズムがより分かるね。
分かるようになるかもしれないっていう。
それに関連して僕こんなことをテレビで、
昨日かな、メモしてぶつけてみたかったんですけど、
じゃあ1984の課題っていうのは何かって言ったときにね、
例えばですけどね、
1984って一つの正しい生き方みたいなのを、
堅実に緩やかに生活を送っていって生きるみたいな
価値観を出してると思うし、
それは間違ってないと思うんですよね。
間違ってないっていうか一つの正解だと思うんですけど、
あり方だと思うんですけど、
昨日ね、たまたまビリー・ホリデーっていうジャズ歌手の
ドキュメンタリー見てて、
ビリー・ホリデーっていうジャズ歌手は
薬に溺れてすぐ早く死んでしまうんですけど、
そうしたらこういうことを言ったんですね。
インタビュアーが、なぜ優れたジャズミュージシャンは早く死んでしまうのかって
ビリー・ホリデーに言ったんですよ。ちょっと失礼だと思いますけど。
そういう質問をしたんですね。
そうしたらビリー・ホリデーは1日に100日分生きようとするから
みんなを喜ばせるためにって言ったんです。
それ結構面白いなと思って。
面白い。
面白い。
つまりジャズ的な生き方、
村上遥さんもジャズが好きですし、
ジャズ的な生き方っていうのはこういう生き方もあるんですよ。
だからさっきの三島由紀夫の話もそうなんですけど、
あの人も結構駆け抜けるようにして生きた。
その人の2倍ぐらいのスピードで生きてる感じですね。
なんか45歳で死んじゃうっていう。
ああいう生き方みたいな線も、
つまりその作品に入れることによって
なんかもっと相対化されるっていうか
いろんな価値観が出てくるんじゃないですか。
言ってることもありますよ。
ブック3の変化と相対化する要素
1984はね、やっぱね、
ブック2までは完璧なんですよね。
ブック3からだんだんですね。
長さの割にはあまり面白くないですよね、ブックさんはね。
山場とか動きっていう点ではなくなってきますね。
そういう、交代していくというか。
何か足りない感じがしますよね。
なんか緩やかなこう、
その爆発力というか機動力みたいなのが
だんだん減っていって緩やかに着地するっていう印象はありますけど。
なるほど。
そういう一つの起爆剤というか、
違う相対化するような要素を。
例えばさっき言ってたドストウェスキーなんかこう、
いろんな新しい要素というか、
いろんな異質な要素を入れてこう、
ビリホリデーもいれば、
もっとゆっくりな普通の生き方も現実の生き方もあればみたいな。
あるじゃないですか。
それこそドミドリーがすごいビリホリデーみたいな生き方じゃないですか。
わかりました。
ドストウェスキーと村上春樹の美学
ドストウェスキーは素晴らしい、一番すごいとは僕は言いませんよ。
いろんな価値観があるからね。
例えばそういう候補があるっていうのは結構。
村上春樹さんもドストウェスキーを信奉してます。
信奉してますね。
そういう広がりもあり得るんじゃないか。
ということはちょっとメモしておきましたね。
説明をしてて。
あとやっぱり、
結構僕でばっかり喋っちゃってます。
大丈夫ですよ。
村上春樹さんがすごい偉いなと思うの。
偉いっていうか、わかったのは美を相対化してるというか、
調節に美っていうのがあり得るのかっていうところで、
結構そこが僕は難しいと思ってるんですよね。
美学とか美意識っていうのは小説にもあり得るけど、
美そのものっていうのは小説においては結構難しいんじゃないか、
相対化されちゃうんじゃないかっていう気がしていて、
それは結構前から思っていて。
例えばいろんな作家がいますけど、
そういう作家たちが美っていうものを表現するけど、
村上春樹さんはそこをちょっとしゃべりかわってるというか、
ちょっと距離を置いてね。
美に端的じゃないというか、
端微的なところは全くない作家です。
美学とか美意識はあるんだけど、村上春樹さんには。
それを前面に出さないし、
美そのものを表現しようともしない。
一番は表現しようとしないから。
そこはすごく、
そういうのって認められなかったら無じゃないですか。
美学とか美意識が。
無意味じゃないですか。
村上春樹さんはうまく回避できてるっていう。
あるのかなって感じはするんですよね。
もちろんNOとかね、
ギリシャ悲劇とかだったらまだ美っていうのはあるかもしれないけど、
演劇とかだったらね。
小説っていう景色に関してはどうかなって感じはあるんですよね。
技曲だと
音を踏んだりできますからね。
音楽とか演技、動きとか、
造形美術と音楽美術と文学と全部入り込めるから、
美そのものみたいなことも
もっと言いやすいんだけど。
小説って3文なんで、
誰でも知ってる言葉で書かないといけないので、
そうなるとですね、
美っていうのはね、言葉そのものは宿らないっていうか、
知りそいというかね。
他の要素で保管できないですもんね。
技曲は難しい言葉を言ってるときに面白い動きすれば、
それだけで間が持つじゃないですか。
音楽とかセリフの音の調子が良ければ、
分かんなくてもいい時はあると思うんですよ。
そうですね。
言い訳は結構、
シェイク・スペアの原文はいくらか読んだことありますけど、
結構訳分かんなかったりしますよね。
なるほどね。
リズムと言い回るみたいな。
そこがやっぱり3文っていうのは、
結構弱点というか特徴ではありますね。
誰でも読めるんで、
それは良いことがある。
そうですよね。
なんか批評的になっていきますよね。
小説自体が批評的っていうのはこの意味では、
ドン・キホーテとかみたいに、
もとあるものをパロディーしたり、
批評を論じて、
論じることがその内容になっていくみたいな。
いきはちゅんみたいに逆をやったりして、
前のものの逆をやったりして、
そう。
先行作品に対する批評っていうか、
批判っていうのが非常に大事な要素だと思います。
うん。
否定性とか破壊性もあるといえばあるかな、
3文っていうのは。
かといってそれが終わりかというと、
そうではなくて、
その次にもまたそれを乗り越えていく作品が
現れることになっているかなとも感じましたね。
小説の美学と批評
はい。
非常に面白い経験でしたけど、
いきはちゅんを読むことは。
そうですね。
すごい今日は結構、
りくとさんの話をいっぱい聞けて、
いろいろ質問もできてね。
何より録音してるんでね。
後でアプラノートとかスレとかに貼りますけど、
ぜひこれを楽しみに、
また聞き返したいなと思って。
終わりに近づいちゃってますけど、
りくとさんから締めとか総括とかあれば。
今回はちょっと復習みたいな感じで、
自分のブログを見直してみましたけど、
なかなか頑張ってたんですね。
自分はね。
これからも頑張ってください。
てかりくとさんは創作の本もあるんで、
創作の本むしろ頑張ってください。
そうですね。
ブログの記事もいいけど、
創作に全力を一番。
これからはね。
カピャした後はもう創作に入れ込んでほしい。
ありますけどね。
調子にしていただいて。
そうですね。
りくとさんにとっては見直すいい機会だし、
僕とかリスナーさんにとっては、
一つのミディバイトを見られるいい機会だったと思うんですけど。
成功したなって感じがあるんですけど。
こんな感じですかね。
どうでしょう。ちょうど2時間。
僕からは198調についてまた何か。
それこそ記事に書いて。
これどうなんすかみたいな。
聞いてみたりするっていうことをしてみたいと思いますけどね。
なかなか面白い機会だったと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
じゃあ、そういうことで今回は終わりにいたします。
皆さんありがとうございました。
ありがとうございました。
01:58:37

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