1. Cra出しRADIO 工芸とカルチャー
  2. S1 ep5 鎌倉仏教=ポップカル..
2022-03-29 40:00

S1 ep5 鎌倉仏教=ポップカルチャー? 柳宗悦『南無阿弥陀仏』を読む

spotify apple_podcasts

今回はCra出しRADIOプロトタイプとして2月はじめに収録し、お蔵入りにする予定だった雑談を蔵出しして公開。柳宗悦の著書『南無阿弥陀仏』を読んであれこれ考えたこと。ここで話したことを受けて次週以降のエピソードに続きます。

今回の話題:
柳宗悦という人/民藝運動の中心人物/工芸のサブカテゴリーとしての民藝?/柳宗悦『南無阿弥陀仏』を読んだ/柳が求めていたのはポップカルチャー?/宇宙の真理を圧縮した般若心経(松岡正剛『般若心経を読む』)/更にそれを六文字まで圧縮した南無阿弥陀仏/法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗に至って日本の仏教は完成した?/護国のための奈良時代仏教、貴族のための平安仏教、民衆のための鎌倉仏教/大乗っぷりが突き抜けている鎌倉仏教 無学無名の者が作った下手物=民藝?/ドラクエ=小乗仏教、FF=大乗仏教説  /衆生を救う如来の力を過激に再解釈した鎌倉仏教/日本の特殊性は何なのか?/西洋列強に日本をどうレペゼンするか/柳宗悦=民藝の教祖?/二元論で考えてしまう人間/二元論を乗り越えた一遍/言葉を使って二項対立を乗り越えたい/言葉の意味を定義したくない/定義を決めないと価値基準が言葉を作った本人にしか分からなくなる/多神教から一神教、更にバイブルの解釈による宗派の分裂へと向かう世界の宗教/決めつけたくはないが真理には近づきたい/権力に結び付かない美を見つけたい/ロックが産業化した後に登場したパンク/マインドかスタイルか/ジャンル化すると避けられない論争/柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年に行ってみよう/民藝っぽい音楽?/ジャマイカの7インチレコード/大津絵=ダンスホールレゲエ?/複製品の中の微妙な違い/誰でも表現できるようになった時代に私たちは民藝から何を学べるのか/伝統に根差しているかどうかが民藝を定義付ける?/村や地域の伝統の連なりの中にあるもの/文化を形成しているものか否か/作品はひとりで作れるが文化はひとりでは作れない

このプロジェクトの詳しいコンセプトは公式サイトへ。
https://concra.jp

そしてここに掲げているコンセプトのもと、実際にモノを作っていこう人が集まるオンラインコミュニティであり実験場 ConCra Collective(コンクラコレクティブ)が2022年3月1日にオープンしました!
興味のある方はぜひお気軽に参加してください。
https://basic.motion-gallery.net/community/concra/

パーソナリティ:岩田篤 蔡海 福原志保

00:01
CRA出しRADIOは、使わなくなった大切なものを、様々な工芸技術で生まれ変わらせるコレクティブ。
ConCRAのメンバーが、分かりたいけど勉強しにくい工芸について、見たり調べたり、作り手のお話を聞いて、時に脱線しながら、皆さんと一緒に考えていく番組です。
ConCRAの海です。
岩田です。
今日は2人ですね。
そうですね。今日は2人で、1回目から、翔さんは1回目からいらっしゃったんですっけ?
そうですね。1,2,3,4と3人でやってきましたが、今日は2人ということで。
そうですね。それで、今日は何を話すんでしたっけ?
そうですね。いろんなパターン試していきたいんですけど、冒頭でも作り手の方を呼んでとか言ってますけど、
一通りConCRAについて、僕たちが何を考えて何をやろうとしているのか、まだまだ言葉が足りないかもしれませんけど、一通り話してきたので、
ちょっとそこから視点をずらしてというか、割と僕らを話している僕たちが、普段何か気になったこととか、多少工芸にも、多少というかちゃんと工芸にも絡む話なんですけど、
お話していくっていう回もやっていけたらいいなということで、その初回というかですね、実は、倉田紫ラジオっていう番組名も決まる前に、とりあえずConCRAとしてポッドキャストどうですかって話で、
一旦、僕と海さんと2人だけでちょっと撮ってみましょうかっていうのをやったんですよね。プロトタイプですよね。エピソード0というかね。
なんで2人かっていうとそういうことですよね。とりあえず2人でやってみたから2人だったという。
その話はもう、それこそ倉田紫ラジオだけに送られてもよかったんですけど、ちょっとそこの話から次に繋がりそうな話題も出てきたので、せっかくなんで、いろいろ喋り方とかが雑ですけど、今も雑かどうか微妙ですけど。
だいぶこなれてると思いますけどね。
本当になんかね、僕と海さんの普通のなんか普段喋ってる延長で喋った感じではあるんですけど、それを一つお届けしようかなというのが今回のエピソード5ですね。
03:14
そうですね。ありがちなその工芸の話から音楽の話に脱線っていうパターンは今回あったんでしたっけ?
だいぶ脱線してますね。後半だいぶそっちに触れてる気がする。
何の話をしてるかというと、柳宗義っていう人がいまして、民芸運動っていう、約100年前に日本で起こった運動の中心人物だった人ですけど、
柳宗義のナムアミダブツっていう本を僕が読みましたっていう話で、それがすごく面白かったですよっていう話を一回してて、
何が面白かったかっていうのをもうちょっと詳しく話しますねっていうところから今回の話が始まるんですけど、っていうところですよね。
そうですね。僕もでも後で思ったのが、例えば民芸とか工芸という言葉にそんなにまだなじみのない方にとっては、
じゃあ民芸っていうのが工芸の中でどういう位置づけなのかっていうのも簡単に話しといてもいいかなとは確かにちょっと思ったんですけど。
そうですね。
そうですよね。民芸は、それこそ岩田さんが言ってた柳宗義っていう方の語ると造語っていうことになるんですよね。
そうですね。
民芸の運動の名前だったので、民芸のものがあるというよりは今まであったものに対してある視点にかなうものが柳宗義と一派たちが民芸という言葉を使って説明しだしたっていう運動のことなので、
工芸の全体の中でもまたちょっとその概念というかサブカテゴリーって言ったら変なんですけど、いわゆる権威主義的なところよりは生活の積み重ねみたいなそういうところに美意識を見出すっていう。
すごい短縮して言うとそういう視点ですっていうところですかね。
ですね。
ことを柳宗義が言いましたというところからのお話ですかね。
とりあえず聞いてもらいましょうかで大丈夫かな。
いいと思います。
06:01
じゃあ聞いてもらいましょう。
ではよろしくどうぞ。
はいどうぞ。
前回は生身ダウツ、途中まで読んだ段階での感想として柳宗義はポップカルチャーを求めてたんじゃないかっていう見立てで終わってたんですけど、
先に言っとくと、あんまり僕も柳宗義のことをめちゃくちゃ追ってきたわけでもなくて、ざっくり知ってる程度の知識でものを言ってるので、
まあ基本適当なこと言ってると思ってもらった方がいいんですけど、とは言いつつなんとなくその民芸とかっていうもののなんかぼんやりしたイメージには興味があって、昔からというか以前から。
柳宗義っていう人が基本的には何か概念を作った日本語なんで、そういうのって珍しいじゃないですか。
近代というか、近代じゃない、もう現代ですよね、の人間が、一人の人間が明らかに造語したっていう言葉が、普通の、柳宗義っていう人の存在知らなくてもなんとなく民芸っていう言葉は普通に日本語として入ってきてるっていうのって結構レアなケースだと思うんですけど、
だからなんか、柳宗義が民芸っていう言葉について何を言ってたかみたいなことは、ぼんやりとは興味があって、ぼんやりレベルなんでちゃんと調べてないけど、っていう感じなんですけど。
で、その南無阿弥陀仏を読もうと思った、そもそもの先の流れとして、松岡誠吾の般若心経を読むっていう本を、これ80年代に出てた本で、去年ちょっと古本で見つけて買って読んだんですけど、これがめちゃくちゃ面白くて。
で、この般若心経の、宇宙の真理の圧縮の仕方がやばくて、どういう漢字を使って言葉をまとめれば宇宙の真理を述べたことになるかみたいなことがものすごい圧縮されてるんですよね、般若心経って。
【佐藤】そうなんですか。
で、細かいところは要説明せんのですけど、とにかくこの本が面白かった。で、南無阿弥陀仏って逆でっていうか、逆っていうか、よりミニマルですけど、南無阿弥陀仏って6文字しかないお経ですけど、般若心経を読むを読んで、ちょっとこっちの方面も知りたいなと思って買ったんですよね。
09:24
で、大まかなこの本の趣旨を言うと、柳宗義の論としては、法念に始まり、法念・神覧一遍っていう浄土宗・浄土神宗・寺宗っていう鎌倉仏教の流れの中で、一遍に至って日本の仏教は完成したみたいな話なんですよね。
何をもってそう言ってるかっていうと、その般若心経は誰が作ったかっていうと玄奘なんですよね。三蔵法師。だから中国から渡ったものをそのまま使ってるんですよね。般若心経は。
で、柳宗義の言葉を借りると、聖徳太子が日本に仏教を持ち込んだ時の仏教っていうのは、国の仕組みを作るためのもの。で、あとは国を守るためのもの。外敵とかいろんなものから、災害とかから国を守るための仏教。
で、それが平安時代に下って、貴族のための仏教。貴族の厳世利益のための祈りのための宗教。で、それが鎌倉仏教になって、ようやく民衆の手に渡るっていうところに柳宗義は惹かれてるわけですけど。
そこが民芸をいろんな地方を巡って見てきた彼の興味と重なる部分っていうことを、それは本の中で言ってるんですけど。これも基本的に僕、仏教についても大して詳しくないんで、基本的にこの本に書いてあることを言うんですけど。
大乗仏教と小乗仏教ってあるじゃないですか。小乗仏教は修行をして、僧としてとにかく修行をして悟りを開くっていうのが小乗仏教で、大乗仏教はよりライトなというか、修行しなくても信仰できるっていう宗教ですけど。
いわゆるアジアの大乗仏教と日本の浄土宗からの流れの宗教ってかなり違うみたいで、突き抜けてるんですよね。その大乗っぷりが。
12:05
理解しました。
そうなんやって思ったのが、念仏って言うじゃないですか。念仏って言うとお経を唱えることだと思ってるじゃないですか、僕ら。
やけど、もともとの念仏っていう言葉の意味は、文字通り仏を念じることで、2つあって、1つは観物、観光の観、見るに仏で、もう1つが聖名、名を唱えるなんですけど。
聖名は念仏にあらずみたいな常識があったみたいですね、平安時代までは。観物っていうのは別に仏像を見るっていう意味じゃなくて、頭の中に仏の姿を描いて、それを念じることが正しい念仏なんだ。
名前をただ呼ぶだけなのは、仏を頭に描いてないからあかんみたいなことだったらしいんですけど、それやったら、仏の姿が想像できへんようなアホなやつは、じゃあ念仏できへんのかっていう。
仏を、悟りを開いた如来とかは、全ての人を救えるぐらいの力があるはずなのに、アホやったら救われへんのかっていうところを突き詰めたのが、鎌倉仏教っていうことなんですよね。
ヤナギ・ムネシは民芸について言ってるので、一番代表的な民芸の概念みたいなところで言うと、一般の民衆の手で作られて、民衆の生活で用いられて、楽がない人が作った下凡のものに宿る美しさがあるみたいな。
ヤナギ・ムネシは生みた仏ってことですか?
そこに重なるっていう話なんですけど。
今のお話を聞いてて、ぼやっと思ってたのは、ファイナルファンタジーとドラクエの魔法の違いというか、
ファイナルファンタジーだと、魔法って使えるようにするためにすごい火えるし、火えるっていうかサガとかかな。
その燃やす魔法で言うとシンプルにファイヤーとかなんですよね。
ファイヤーとか、それ自体が大衆でもわかるようなネーミングなんですけど、
ドラクエだとメラとかメガミとか、若干中小度が上がっているんで、
これ修行せんと赤いな。
15:01
メラメラ燃える感じなんだろうなみたいな、ちょっと構造を働かせんといかない。
ドラクエが象徴仏教的で、ファイナルファンタジーが大象仏教。
もちろんファイナルファンタジーもレベル上げんといかないような魔法とかあるかなと思うんですけど。
そのことを僕よく思ってて、ドラクエってよくそのものを表してない呪文なのに、
やっとる人はよくルカナンとか、あれ言うことを共通言語にして、
それによる結果とかを共有してるなっていう、不思議な状況だなってよく思ってたんですよね。
オーマドペでもあるけど、全然想像つかんのもあるけど、
なんかあれも不思議な世界だなと思ってたんですけどね。
全然トンチンカでちょっと思ったぐらいの話でした。
いやいや、面白いですね。
僕が柳宗義の遊民芸っていうものに、なんとなく疑問みたいなものを感じてるのがまさにそこで、
楽がない、無楽なものが無心に作ったものに、本当の美が宿るみたいな。
これは局階かもしれないですけど、本当かって思うわけですよ。
そうですね。書く言う僕もちょっと、構えちゃうとかあるんですよね。
民芸に対して構えるっていうよりは、民芸について何かを喋ることに対する構えちゃうものなんですけど、
正直うがった見方も、ないといえば嘘になるというのはあります。
そのこと自体は、僕も生身多物読んで対してそこの印象は変わってないんですけど、
なぜ柳宗義がこの鎌倉仏教っていうところに対して、そこまで興味を持つのかっていうのを考えたときに、
悟りを開いたって、如来になった人っていうのは、
全ての人を救うはずでしょっていうところの原理原則に対して、
どういうふうにアプローチしたのかっていう、仏教が伝播したアジアの人たちがっていう中で、
日本が特に鎌倉時代に入って、
法年以降の3人だけじゃないですけど、がやったことがものすごい過激なんですよね。
もうそれやったら、生身多物って言葉だけ知ってたらそれで救われるやろっていうところまで突き抜けちゃうわけですよね。
18:00
般若心経でも相当短く圧縮してるわけですけど、
それを圧縮に圧縮を重ねて生身多物って6文字にして、
圧縮言われるぐらいの感じですよね。
そういう感じですね。
それさえ知ってりゃ別に仏の姿を思い描く必要もないし、
それ唱えたらいいよっていうところまで圧縮させたのは日本だけなんですよね。
その仏教を。
で、多分その日本でそういうふうに独自に発展っていうか変化を遂げたことに対して、
多分その柳宗義興味があったんじゃないかなっていう気がして、
民衆が作ったものを民衆が使うみたいなことっていうのは、
別にいろんな国や地域で起きていることですけど、
その中で日本のそういうものって何なのかみたいなところの特性が、
すごい鎌倉仏教っていうものに現れてるって思ったっぽいなって思ったわけですよ。
なるほどっすね。
で、なんかそれポップカルチャーやなって思ったのは、
ポップカルチャーっていうふうに言うな言い方をしちゃったら、
それこそ別に柳宗義って大正、昭和初期の人やから、
それこそね、いろいろジャズとかも入ってきてるし、
モボかとかエロ黒ナンセンスとかの時代を生きてるので、
いくらでもそういうポップカルチャーあったと思うんですけど、
多分その中で、それは多分時代性もあるような気がするんですけど、
西洋列強に対して日本の価値がどういうものなのかみたいなことをレペゼンせなあかんみたいな中で、
じゃあ日本にとっての本当の民衆から生まれた文化って何かなみたいなのの興味が、
そっちの方向に行ったんかなって気はするんですけど、
なるほどか。
それがものすごく独自な現れ方をしてるっていうのが、
鎌倉仏教なんじゃないかっていうのが話の筋なんですけどね。
もう一つ、そういう興味があるなっていうのはなんとなく感じたこととして、
もう一つ僕が民芸っていうものの向き合い方が微妙に難しいなと思うのが、
結局柳宗義がなんだかんだ言って教祖っぽく見えちゃうとこ。
濱田諸司とか河合寛次郎とかもいますけど、
21:01
やっぱり言葉を作ったっていうこともあるし、
あの人が認めたものが民芸であるみたいなものが、
たぶん今にも引き継がれてるのかなって民芸感とか言ってみると感じちゃうんですけど、
たぶんそういうことって批判もされてきてるんじゃないかなと思うんですけど、
なんかそれもなんとなく読んでると分かって、
この本が十何章かで構成されてるんですけど、
章のタイトルが、例えば自力と他力とか、
エコー不エコーとか、雷合不雷合とか、
なんか二項対立で書かれてる章がいくつかあるんですよね。
ヤナギムネーションが二項対立で考えたいからこう書いてるのかっていうと逆で、
人間はものを理解しようとした時に、
二つにものを分けて、それを対比させて考えようとしてしまうと。
それがもう人間の論理の習性で、
二言論でしか私たちはそのものを理解することができへんから、
それによって、例えば仏教の中でも、
浄土系の他力の宗派の人たちは、
自力のそれ以前の宗派に対して反発するし、逆もしかりやし、
二言になった時点で分断が生まれて、そこで対立が生まれるっていうことなんですけど、
そこを乗り越えようとしてあえてこの本でも、
二言論っぽいことをいっぱい使ってるんですけど、
最終的には不二にあらずですね。
であることがヤナギムネーションの理想としているところで、
そこに行き着いたのが一辺であるみたいなことなんですよね。
たぶん。
僕の浅い読みだとそういう。
浅いなんて、だって、
これはでも音声で配信したらちょっと伝えにくいけど、
岩田さんのやつ見る限りめっちゃ付箋とか入ってるから。
これ忘れるなと思って、いろいろ。
大って思った瞬間からね、どんどん忘れていくから。
分かります。
だから、自ら二言論を使いながら、
その二言論を言葉を使って乗り越えようとしてるって感じがするんですよ。
これ読んでると。
それってたぶんだから、民芸っていうものの、
自分が生み出した言葉の定義も固定しちゃうと二言論になっちゃうから、
民芸か非民芸かみたいになっちゃうから、
24:04
たぶんそこを言及しすぎるのを避けたかったんかなっていう気がして。
そうすると、これが民芸か民芸かじゃないかみたいなのって、
本人の心にしかないことになっていっちゃうじゃないですか。
明言せんかったら。
そうすると、後世の人は、
本択すると言うとちょっと言い方悪いですけど。
バイブル化しちゃってそのまま受け取るっていう、
疑うことをスルーするっていうことになりかねない。
そうそう。そんな気がして。
だから、はっきり決めたくない感じってすごい共感するんですよね。
分かります。
あれですよね。ちょっと違いますけど、
すごい現象的な人間社会で作られてた宗教って多神教が、
ユーシャ神道でも、バルモン教でもそうですけど、
一神教になっていく過程は、ゾラスター教だっけ?
善と悪の二神教になって、
それによる二項対立で物事の心理を考え始めて、
それが一神教の元になってる。
究極的には二つの二項対立から考えて、
一神教が生まれ始めるっていうような。
でも一神教になってくると、それがバイブル化しちゃうんで、
それの解釈によって、
キリスト教だったら、
ずっとカトリックからまた中世に宗教改革が起こって、
バイブルの解釈自体で揉め出すということで考えると、
確かに聞きめつけすぎると絶対、
それでうまくいかなくなってきた時に反動が起こるんだ。
それをもし感覚的に柳宗教が指してるんだったら、
いちいち悩みながらちょっと行こうやっているような、
悪を残したかったんだとしたら、
なるほどなという感覚で聞きめつけたくない。
なんかだから、それでも、
言葉を使って心理に近づきたいっていうのはあるんですよね。
決めつけたくはないが、心理には近づきたいみたいな感じはね。
それはすごい共感したというか、
グッときたんですよね。
民芸という概念をかっちり体系化したいというよりは、
もうちょっと考えながら、
ちょっと真実ってものがあるとしたらそれに到達したいとか、
そういう印象なんですかね。
なんかそんな感じがしましたね。
あとはやっぱり、上からの権力にぶら下がった、
27:03
芸術みたいなものじゃない、
Bを探したいみたいな感じも一方でありますよね。
そうっすね。
こういう、つい岩田さんの会話のお相手だと、
音楽に例えてしまいがちなんですけど、
60年代で大衆に広がってたロックとかが、
70年代である種権威化してお金も儲けられて、
ロックスターっていうのが出てきたときの、
70年代後半からの反動として、
チューニングもできてないわ、曲も3コードしかできてないわっていう、
パンクとか、海もずくニューウェーブみたいなことも、
マインドを受け取るか、
その時の音のテイストだけコピーするかみたいなことって結構、
今ではどうかしれないですけど、
当時ありがちというか、
パンクってのはあくまでマインドなんでっていう人もいれば、
その時のぐちゃぐちゃな音の感じが好きで、
それを真似してる。
要は、もっともっと民主化して大衆化された表現行為に対しても、
ある種の形式を見出して、
それに対してああでもない、こうでもないという論争が生まれがちというか、
そんなような状況をたまに民間に感じるような。
そう言われると、
ジャンル化しちゃうとそういう論争って結局起きるんですよね、たぶんね。
そうなんですよね。
そういう感じをちょっとしてますね。
形式なのかアティテュードなのかみたいなところですよね。
それはちょっと思うから、
逆に人間とは何だって一言で言うことに対して、
構えてしまうような気持ちになるのって、
きっとそういうこともあるんじゃないかなっていう気がしてて。
東京の近代美術館でちょうどあれなんですよね。
そうだ、今週末ぐらいで終わりですよね。
結局いいケースだったんで、さすがに週末どっか行っていこうかなという。
相当な点数みたいですね。
ボリュームが結構あるんで、
僕も作品一緒にやってる金属の鉄の工芸家が、
海からやっぱりいいっすよとかっていう風に、ちょっと先週末。
さすがに思い越しを上げてちょっと行こうかなという。
ぜひまた。
これって民主中での仕事としては、
全然歪んでもいないし、
30:00
かなりちょっとびっくりするぐらいの技術じゃないかなっていうのも、
チラシのものを見るとあるんで。
それこそマインドの問題なのか、
なんとも言えないですね。
演奏が上手いのにわざと崩して弾く人たちとかいるんですかね。
民芸っぽさを出すために。
民芸っぽさ?
なんかありそうな気がするな。
それか民芸でよく思い出すのはあれですよね。
ジャマイカで大量に売ってた7インチというか、
演奏もめっちゃ上手いし、ただその音楽の文法がちょっと違くて、
ほとんどなんか著作権的にアウトだろうっていう
ビートルズのカバーとかも大量に録音されてて、
演奏全然下手じゃないけど、
なんかもうプレスが甘くて歪んでるとか、
それとも民芸的な感じみたいな、
そういうニュアンスもちょっと持ってたんですよ。
でもそれはなんかあるかもしれない。
大杖ってあるじゃないですか。大杖、わかります?
わかります。
滋賀県の県庁所在地の大杖。
大杖、はい。
大杖の絵、普通に絵画の絵ですけど、大杖っていうのがあって、
それも柳宗吉好きだったんですけど、
言っちゃえばヘタウマ物画なんですけどね。
ただヘタウマなんじゃなくて、完全に型があるんですよ。
ヘタクソさの型がある。
ヘタクソさっていうか、どんだけ絵がヘタなやつでも描けるようになってる。
絵心も全くない人が内職で大杖いっぱい描いて、
それを市場みたいなところで売るんですよね。
それを柳宗吉が民芸と言ったかどうかは知らないんですけど、
でも収集してたものの中に大杖は結構あって、
彼が好きだったっていうことはあるってこと?
大杖ってそういう感じなんですよ。
別に楽器非軽減でもうとりあえず音楽やるみたいな感じ。
いや、もっと生活のためにやってる感じはありますけど、
表現じゃなくてそれは。売るために描いてるから。
そこは違いますけど。
でもジャマイカとかでダンスホールレゲエとかに流れていくような、
同じトラックでDJだけ、MCだけ変わるみたいな。
その著作権とかの概念そもそもないから、
とにかく同じレコードを回して、その中でMCが表現するみたいな、
そういうすごい、完全に複製ではあるけど、
複製の中に微妙な違いが見えるみたいなのはちょっと似てるかも。
洋式っていうところまでいかんけど、
漢集ぐらいの漢字の習わしで作られてるようなものって感じなんすよね。
33:07
多分大杖に柳宗さんの名前を見た物を感じたと思うんですけど。
なるほど。
描いてた人が仏に祈ってたかどうかはかなり微妙ですけどね。
でも多分そういうある種のしたたかさっていうか、
っていうところにも結構引かれてた感じはするんですよね。
民間の話にちょっと立ち戻ると、
じゃあ民間ってなんぞやって別に答えの出ないことを何で考えるかって言ったら、
自分らのその理識がどういう考える道筋があるんだっけっていうヒントを
得たいんじゃないかなとざっくり思うんですけど、
それをこれって美しいよねっていうものを個人の決断として決断するのが
空気を読んだ結果なのか、
僕が自発的にそう思って、
これはこの美しさは譲れるなと思ってるなのかとか、
どっちかでなければならないってことは多分ないんですけど、
特に表現行為が、
あらゆるものを作る障壁が下がったときに、
いろんな人がものをアウトプットして表現できるようになったときに、
じゃあ民間ってどういう僕たちに美意識のリファレンスとか考える材料とかを
与えてくれるんだっけっていうようなことなんじゃないかなってなんとなく思ってるんですけど。
そうそうそうそう。それそれそれです。
とはいえ、そうなんですよ。
誰もが作れるようになった、環境的に誰もが作れる状態になったときに、
例えば僕も自分で音楽作ったりしますけど、
Mac買えばガレージバンド入ってて、
誰もが作ろうと思えばプリセットの音で音楽作れちゃうってなったときに、
もちろんそうやって作られた音楽の中に素晴らしいものがある可能性があるけど、
おそらく、仮に柳宗吉が今いたとして、
そういうものは民芸の範疇に入らない気はするんですよね。
なるほど。
なんとなく、これはイメージだけで言ってるかもしれないですけど、
表現できる材料が手元にあって、それによって何か作ってみたみたいなものは、
民芸じゃなくて、何かしらのそこには伝統みたいなものが要素として入ってないと、
なんとなく民芸っぽくないっていうのはあるんですよね。
たぶん裏を返せば、自分がどこへ来てから来た人で、
どこに立っててどこへ行くのかっていうところに、
36:00
潜在的に誰しも立ち戻りたいというようなことが、
伝統って言葉に置き換わっているような感じもしなくもないというか、
そんな気もするんですけどね。
そういうアイデンティティみたいなこともあるけど、
難しいんですよね。その辺の微妙な差みたいなものを説明するのが難しいんですけど。
岩田さんが言う、伝統を匂わせるようなものを何か。
柳宗吉が一番無学で、無名のものが作ったものがいいとは言いつつ、
それはある種の、例えば村とか、
コミュニティよりもうちょっと広い村とか地域とかの、
伝統の連なりの中にあるものでないと、
民芸っていうフォルダには入れなかった気がするんですよ。
ちょっとニュアンスわかりました。
その作品っていうのは、ある種の文化を形成しているものか、
あるいはその一部なのか。
だから僕がポップカルチャーって表現したのはそれで、
ただ一人が作って、その一人が需要しているだけのものであれば、
それはカルチャーにはなってないので、
それがどれだけ主観で美しいなと思ったとしても、
それは民芸的な美しさとしては、たぶん捉えてなかっただろうなと思うんですよね。
ちょっとわかります。
何でかというと、例えば工芸で物を生み出して、
世の中に出すっていうところに、
工芸のアートなのかデザインなのか、その間のかまた別のものなのかっていうところで、
僕はどっちかというと、アカデミズム的なところの工芸をくぐっている人からすると、
あんまりカルチャーっていう概念がないんですよね。
例えば、ここは何々の産地で何々やって、
自分的には自由にやってるつもりだけど、潜在的な何かを背負ってるっていう感覚が全くないので、
一個人の技術と表現っていうことの感じが強いんですけど、
一個言えるのは、作品は一人で作れるんですけど、文化は一人では作れないんですよね。
そういうところは、僕も学校を卒業してから何年か経つんですけど、
ようやくそういうことが、もんやりっていうよりははっきりかなり感じるようになってきて、
工芸にしろ、あるいは音楽にしろ、何にしろ、
そこに潜在的に文化を見出そうとしてしまっている自分が、
そういう点は正直やっぱりあります。
39:02
このアップをやろうとしていることは、
僕も個人のあれとしては、人間100年展を行こうと思います。
今日話してよかったなっていうのは、
ある程度、なんでこれを僕は見に行こうと思ったのかっていう、
個人的な今々のところと、
例えばそこに来てる人はきっと何を求めてきてるんだろうっていう観察の視点が生まれそうなので、
そういうところと、人間ってそもそもなんだっけっていう、
触りにくい晴れ物のように扱った言葉をどういうふうな感想を持ったかっていう項目を書けるといいのかなと思って、
何にも漠然と見に行くよりは、ちょっと今日話してもらいました。
楽しみですね。
ありがとうございました。
40:00

コメント

スクロール