岡清の数学的アプローチ
2月の27日の朝になります。
さて、昨日のエピソードで、場所はやっぱすごいと思いましたっていう、場所の言葉が心にぶっ刺さりましたという配信をさせていただきましたけれども、
そのエピソードの最初の方でですね、これはちょっと前後編みたいなもので、
前編ですね、後半をしゃべるための前段階とか準備として、今回場所の話をしますみたいなことをお話ししたかと思います。
ということで、その場所の話を受けて、今回ということになります。
前回のエピソードの中で、僕は場所について今ちょっと勉強していて、こういうところでやっぱすごいなと思いましたみたいなことをお話ししたわけですけども、
じゃあなぜ僕が場所を今勉強したいなと思ったのかについては次回語りますということをお伝えしていたかと思いますので、今回はまずそこからお伝えしようかなと思います。
一言で言うとですね、僕が面白いなと思ったある方がですね、場所とか場所の文化、小文って言ったりしますけど、
場所とお弟子さんとか一般の人たちですね、そういった場所たちの俳句を熱心に学んでたという方がいらっしゃいまして、
この方が学んでたんだったら僕もちょっとちゃんと場所を知っとかないとなというふうに思ったのが実はきっかけです。
その方というのはどういう方かと言いますとですね、数学者の岡清さんという方がいらっしゃいまして、岡が苗字で清さんがお名前で一文字一文字で二文字のお名前の方なんですけども、
この方は1901年の生まれの日本の方でございます。名前からしてそうですね。
この方はですね、専門としては多変数関数論という、当時何項不落と言いますか。
僕も一応理系ではあるんですが、数学についてそんなに突っ込んだことを知ってるわけじゃないので、
すみません、僕はここも岡先生の実績としてはもう地面で知ってるぐらいなんですけども、
当時、多変数関数論ということにおいて、3つの世界中の数学者がどうやっても解けないって言われてた大きな問題があったと。
岡先生はこれを3つの山と例えられてましたけど、岡先生はこれなかなか登るの難しそうだから、一応これ登ってみるかみたいな感じで選ばれたそうなんですが、
なんとこの3つの問題をですね、3つともすべて岡先生が世界に先駆けて解いてしまったということで、
世界中が驚いて偉大な数学者と呼ばれるようになったというような方なんですけども、
僕がすごいなと思ったのは数学の実績とかではなくてですね、この方が語ってることがめちゃくちゃ面白いなと思って、
例えば岡先生、お著書もいろいろ書かれてるんですが、数式とか全然出てこないんですよね。
で、この方がどういう方かって、たぶんエピソードをちょっとあげるのが一番手っ取り早いかなと思うんで、
ちょっと皆さんもこれを聞いてどんな人か想像してみてください。結構変わった方です。
まず一つ目、ちょっとこれわかりやすいのかってところですけども、
岡先生がご自分の著書で実際書かれてるちょっと箇所を読み上げますね。
大学3年の時のこと。お昼に教室で弁当を食べながら同級生と議論しての終わりに、私はこう言った。
僕は計算も論理もない数学をしてみたいと思っている。
すると傍観していた他の一人が、ずいぶん変な数学ですなと突然気性を上げたというエピソードですね。
これ僕もすごい好きなエピソードなんですけど、数学といえば計算と論理でしかないじゃないですか、みたいなのがたぶん一般的な感覚だと思うんですね。
僕も小学校の算数から始まって、一応大学のそれなりの数学までやりましたけども、
基本的に僕は計算と論理しか教わったこと覚えがないですよ、数学というものについて。
でも岡先生は、例えば何十年も数学されて、宅官された時期とかじゃなく、また大学生の頃から、僕は計算も論理もない数学をしてみたいとか言ってるんですよ。
実際この人ずっとそうなんですよ。もう生涯そういうノリで数学に取り組まれていて。
まず、数学で論理とか計算使わないのはどういうこと?みたいなふうになりますよね。
情緒と調和の重要性
ちょっとこれだけじゃわかんないので、もう少し岡先生が書かれてる著書の中から挙げますね。
岡先生のエッセイみたいな短編のことをいろいろ書かれててですね、そのうちの一つに、数学を志す人にというタイトルのものがあります。
偉大な数学者の方が、数学を志す人にって言って、語ろうとしている中身ってめちゃくちゃ気になるじゃないですか。
なんていうか、数学ってこういう、どういう心得がいるんですかとか、向く向かないとかどうなんですかみたいな、こういうことを勉強しときなさいみたいなことが、どんなのが来るんだろうとか思ったりしますよね。
じゃあちょっと中身、軽く冒頭読みますね。数学を志す人に。
これから数学をやりたいと思っておられる方に、何よりもまず味わっていただきたいと思うのは、アンリ・ポアンカレーの、「数学の本体は調和の精神である。」という言葉です。
ポアンカレーは1912年に亡くなりましたが、彼が数学界を代表した頃になって初めて数学自身は、自分というものはこういうものだという自覚に達したと言えましょう。
ここに言う調和とは、真の中における調和であって、真というのは誠ですね。芸術のように美の中における調和ではありません。
しかし同じく調和であることによって相通じる面があり、しかも美の中における調和の方が感じ取りやすいので、
真の中における調和がどんなものかをうかがい知るには、優れた芸術に親しまれるのが最も良い方法だと思います。
ということで、つまり、数学を志そうと思った時にぜひ味わってほしい言葉が調和だと。
調和というのは真の調和なんだけど、真の調和と言っても多分ピンとこないだろうから、美の調和というのにも通じるところもある。
だからそれを味わうたびには美術館に行きなさいと、こういうことを言ってるわけですね。
実際、岡先生は自分の生徒たちをよく美術館に連れて行っていたりしてたそうなんですね。
だからこの方の著書を読んでると、本当に数式とか出てこなくて、情緒とはとか、心前美とはみたいなところとか、人の心とはみたいなお話がめちゃくちゃ出てくるんですよ。
全然数学者っぽくないんですけど、でもさっき言ったように、数学者としてすごい偉大な発見をされていて、どうやってそれを発見したかみたいなプロセスも書かれてるんですけど、
毎日毎日机に向かって数式をガチャガチャガチャガチャ書いてたかっていうと、そういう感じでもなく、
岡先生は大学出られた後、フランスに4年間行かれてるんですけど、
まあ言ったら、留学の間に何かすごい重要な発見をしたということに我ながらなく、自分が取り組むジャンルを冒頭に言いました多変数関数論に決めたぐらいで帰国してきたと。
帰国してきた後は北海道に行って、この頃が当時実は戦中だった時期とかでもあるんですけども、
まあ言ったら、応接室に行ってソファーに座って、言ったら、居眠りたくさんしてましたみたいな。
で、それの様子に呆れた他の方々から、あいつは居眠りばっかりしてるみたいなあだ名つけられましたみたいなことも書かれたりしてるんですけど、
そうして何ヶ月か経った時に、ふと気付いたと。
あれ?なんかあの辺の問題って、こうやってこうやってこうやったらいけるんじゃないか?みたいなところがちょっと浮かんで、そこからホワホワホワって言ったら、なんとなく全体わかっちゃったみたいなことで。
で、そこから2年に1本ぐらいのペースで論文をずっと書かれていくんですけど、結局その論文の展開の中で、
先ほどの3つの問題を全部解決してしまったということで、世界を驚かしたということなんですが。
まあその岡先生が書かれてるに、問題の解き方というか、上り方っていうのは最初の時にわかっちゃってるんで、
あとは細かいところを考えて文字に起こすだけだったんだよね、みたいなことを言われていて、発想がいろいろと違うなと。
でも結構考えてみたら、僕もちょっと発想方法が似たようなところがあって、僕も結構ちょっと好奇心旺盛なものなんで、
ちょっと興味あるなと思った本を、結構ノンジャンルで読み散らかしてる感じなんですよね。
あるいは、それやったことないなっていうことができるイベントには行ってみたりとかですね。
で、人から見たらたぶん、支離滅裂というか何の脈絡もないように見えるんでしょうけど、その辺が僕の中で消化されてグツグツにいられて、
あるとき、ふっと一つの形で、「あ、これってこういう感じなんじゃない?」みたいな形にまとまって浮かんできて、
そういうことを僕は結局こうやって、今、ポッドキャストで皆さんに、ちょっと自分の振り返りというかまとめも兼ねて配信をしているわけなんですけども。
だから、なんとなく先生がおっしゃってることはわかるんですね。
全部わかるとは言いません。
もうそんな僕なんかにいきなり全部理解できる方じゃないんですけど、とにかく僕が衝撃的だったのは、
僕は結局理系の大学まで出て、大学時代は化系学とかやってたんですけど、その後結局エンジニアになってずっとやってるんで、
どっちかというと、ゆったら浪人と計算の世界にまみれてやってきたわけなんですけども。
同じくそういうような人生を歩んでいるはずの数学者の方が、情緒とか調和っていうのこそ大事だと。
調和が一段階進むと、数学の解くスピードは30倍速くなるとかおっしゃってるんですね。
だからそれが実際問題として、数学を解くところにもつながる。
AIとの向き合い方
というか、論理とか計算で考えてる数学みたいなすごい薄っぺらいもんで、数学っていうのはもうそんなもんじゃないんだと。
もっと調和とか、人類が暗闇にこそ必要なよう照らす光なんだとか、生命はメロディーなんだみたいなことをおっしゃってるわけなんですが、
これは結構、善の精神とか仏教的な考えとつなげると、なんとなくおっしゃってることがすごいわかるなって感じがするんです。
なので、僕は岡先生のご著書を読みつつ、やっぱり岡先生が学ばれてた俳句とかですね。
あと、この方は結局帰国されて、結構長い間何をやってたかっていうと、
さっきみたいに基礎論理を打ち立てたあとは、生活のご事情とかもあるんでしょうけど、
場所たちの俳句とかを学ばねばと思って学んだというのと、農業を日々やってたんですよ、この先生。
普通に農作業をして、生活を成り立たせるためのお仕事とかもちょっとして、あとは数学の理論を考えて、
子供、ご家族と一緒に生活をしてみたいなことをずっとやってって、これがめちゃくちゃ数学によかったみたいなことをおっしゃってるんですね。
でも、僕もですね、実はAIと情緒っていうようなエピソードも話したりしましたけど、
おそらく僕が今、エンジニアをやりながら茶の湯をやりながら、それでAIとかとも関わっていきたいと思ってる感覚ってこういうことなのかな、ちょっとふと思ったりしてるんですね。
で、その気持ちをちょっと今回タイトルにまとめてみたのが、計算や論理ではなく、情緒でAIと向き合いたいっていうものなんですけども、
これ本当に今僕そう思ってまして、今AIすごいすごいって言われて、まあ言ったら注目度もそうだし、利用者数もすごいし、
まあ言ったら投資マネーとかがどんどんそこに行ってるっていう意味でもいろんな意味ですごいですよね。
で、基本的にAIっていうのは論理と計算のものだというので語られるわけなんですけども、すごい便利なツールだと。
僕はちょっとそういうスタンスでばっかりAIと向き合ってると、結構ディストピア、ハリウッド映画に繋がるようなディストピアにちょっと人間とAIの争いみたいなのに繋がりかねなくて、ちょっと怖いなっていうのも一つありつつ、
情緒とAIの関係
まああとはその僕のスタンス的にもそっちがいいなということで、僕は情緒というレベルでAIと向き合いたいなと思っています。
それは僭越ながら岡先生が数学に論理とか計算ではなくて、調和とか情緒みたいなところで向き合ってたのと同じようなスタンスで僕は変わりながら変わり者だと思いますが、エンジニアとしてAIと向き合いたいと思っています。
これをもうちょっとわかりやすそうな例えを頑張ってひねり出してみますと、例えば石油がありますよね。
石油っていうのは、今の社会、まだまだ石油に頼って社会は動いてるっていう状態の資源ですね。
石油というものがかつて発見されましたと、なんだこの臭くてドロドロしたものは、みたいなふうに最初は思ったと思うんでしょうけど、それがめっちゃいろんなことに使えると。
単に燃料として使うっていうのはもちろんですけど、それを要するに生成したりすれば、いろんな用途に使えると。
例えば、今、プラスチックとかビニール製品でいろんなものを作ったり、ガソリンとかにして、いわゆる自動車っていう重要な輸送機関の燃料にしたり、
あるいは石油から取り出した物質をベースにして、いろんな化学物質を合成したりとかですね。めちゃくちゃいろいろ使えると。
これめっちゃすごいじゃんっていう利用価値がわかると、みんなそこにお金突っ込んで頑張って石油採掘して、「わー出た出たー!」って言って、これで億万長者やーってなって、よし俺も俺も掘れ掘れーみたいな感じでやってきて、
っていうのが石油の、すごい大雑把に言うと利用の流れだと思うんですが、これAIとめちゃくちゃ似てるなと思っていて、AIというものがポンと出てきましたと。
みんな最初はよくわかんないけど、使ってるし、なんだこれめちゃくちゃ今までにない役に立つやつじゃんって気づいて、そこにみんながめちゃくちゃ注目してお金も集まって、
もっともっともっと高性能のAIを。だからもっともっと石油を掘れ掘れ深くまで、みたいな感じが今のAIかなと思います。
でも、ちょっと石油の話に戻ると、石油っていうのは、じゃあこれ何なの?っていうものを考えると、結局あれは何億年も前とかの生物の死骸が堆積して、そこから生まれてきたものなわけですよね。石油にしろ石炭にしろ。
なので、今湧き出てくる。掘れば掘ればたくさん出てきて、それを使うとめちゃくちゃいろんなことができるっていうのじゃなく、
そんな何億年とかもしかしたらもっと前の生物たちの死骸が徐々に徐々に積み重なって長い年月をかけてできたものなんだから、
それ今バンバン掘っていったら、いずれなくなるやろうとか、ゆっくりした速度でしか出てこない。
要するに、石油も元々は命なわけですよね。命とか生態系の循環によってたまたまできてきたものだから、そればっかり頼ってちゃあかんやろうとか。
じゃあ石油に頼らない大体エネルギーとかどうするの?みたいな。仮に別のエネルギーがあったとして、
それも石油のように使ってたらまたどうせ枯渇しちゃうから、そもそもそのエネルギーがどうやって生まれてどういうふうに使っていくべきなのかみたいなのを考えなきゃいけないよね。
っていうのが、いわゆる今の再生エネルギーの取り組みとか環境問題の取り組みとか、今後どうしようっていうフェーズだと思うんですね。
要するに、出てくるし、便利だし、頑張って掘れば掘るほどたくさん取れるから、めっちゃ使うっていうだけじゃなくて、そもそもそれが何なん?
で、そういうのがどうやって生まれてどうやって使うといいのかとか、あるいはそういうエネルギーを目の前にしたときに人間はどう考えてどういうふうに行動しちゃうから、
どうやって今しめ自分たちをある意味制御しながらやっていかなきゃいけないのかっていうのを考えなきゃねっていうのが石油の理由なわけですけども。
AIっていうのはまだ石油掘って、これめっちゃ便利やん、うはうはって熱狂してた、言ったら100年ぐらい前の時代だと思うんですね、今のフェーズが。
ハイカイAIの構想
でもAIについても、絶対今石油について僕ら考えてるようなことを考え直さなきゃいけない時代が来て、それの考え方を多分ちゃんとやらなかったりミスったりすると、僕は結構ディストピアルートの確率が高まると思っていて。
で、僕はさっきのAIに対して論とか計算じゃなく情緒と情緒で向き合いたいっていうところがそこにつながるんじゃないかなっていうのを考えつつ、何より自分がやってみたいからちょっとそのスタンスで行ってみようかというようなことを考えています。
で、まあちょっとこれはまだ、そんなにまだ準備段階ぐらいの話なんですが、じゃあ、情緒でAIと向き合うって実際どういうことっていうことの具体化としてですね、ちょっと僕はハイカイAIを作ろうと思っています。あるいは連駆AIですね。
前回言った馬匠がやっていた、いわゆるハイカイ、その北区ですね。一番最初の区としての5・7・5。で、それは後につなげていくために、季節感だったり、余韻とか広がりみたいなもの、ストーリーがつながっていく最初の1個にならなきゃいけないというスタンスで、まあ馬匠は現代流とこのハイ区、当時で言えばハイカイを作っていたわけですけども、僕はそれをあえてAIに作らせるということで、
AIの可能性とか、AIと人との違いだったり同じところだったり、あるいは人の心というものがどんなものかっていうのをいろんな角度で学び直したり見つめ直したりする、まあ少なくともきっかけにはなるんじゃないかな。
少なくとも僕自身のね、みんなにとってそうなるかはとまでは言いませんが、まあそういう意義も感じつつ、そういうことを進めようかなと思っていまして、その前段階の資料集めとして、僕は今馬匠の勉強をしたりとかしているというような感じですね。
これについてはまあまあちょっといずれ形になって何かしらここでも話せることができたらいいなと思ってはおりますが、まずはちょっとマイペースでですね、あんまりAIの加速的な進化に追いつかなきゃみたいな感じで焦るというよりは、ちょっと僕は僕のペースと僕なりの視点でAIにエンジニアとして今後も向き合っていこうかなと思っております。
はい、では今回は以上とさせていただきます。お聞きいただきありがとうございました。