茶会と準備の重要性
本日は、1月31日、金曜日の夜になります。
明日ですね、2月の初めになりますけども、
うちの師匠が開催する茶寺というものがありまして、
これは、いわゆる茶会というものの一種ではあるんですが、
茶のことと書きまして、茶寺と言いまして、
これが実は茶人にとって一番正式な茶会ということになります。
なんと、4時間コースでございます。
詳しい内容はちょっとここでは省きますけれども、
お菓子とかお茶だけではなくてですね、
お料理も出れば、お酒も出て、なおかつお茶も複数書いてます。
という、非常にボリューミーと言いますか、中身が充実したものなんですが、
結構4時間ぐらいあっという間に経ってしまうというような会になっております。
それを明日、うちの師匠がやるので、
僕がその中に客あるいはスタッフですね、
半棟と言ったりするんですが、半分に東と書くんですけども、
として入らせていただくという予定になっております。
庭の手入れと自然の関係
ですので、明日はですね、朝から茶室に行きまして、
まずは庭の掃除あたりから始めるという予定になっております。
僕実は庭の手入れというか掃除というかがですね、とても好きでして、
これはむしろ、例えば夏の暑い盛りとかですね、
冬の寒い中での庭のお掃除もですね、
どちらかというと誰かにやってもらうよりは自分にやらせてほしい。
もうちょっと言ってしまうと、他の誰にもやらせたくない。
自分がやりたいというようなぐらいな気持ちでおります。
何が好きかという話は、
ちょっと語りだすと長くなりそうなので控えますけれども、
今回はちょっとそのお庭の手入れをしているときにですね、
感じたりするようなことの一つをお話ししたいなと思います。
タイトルに今回は自然と庭というふうにつけましたけれども、
例えば、実際うちの師匠のお茶室にですね、
来てくださったお客様。
これは師匠が呼ぶこともあれば、
僕が自分の会をやらせていただいたときに、
もちろん自分の知り合いや友人を呼んだりもするわけなんですけれども、
お庭を見てですね、
わーとても豊かな自然ですね、みたいなことをおっしゃってくださることがあるんですね。
うちの師匠の茶室というのは、
結構周りが住宅街みたいな中にですね、
ポツンといきなり立派な茶室と100年以上の和の建築と、
そしてお庭があるというようなところで、
みなさんいきなりこんなところにこんなものが、
みたいな感じでいい意味で驚かれることが多いんですが、
それもあってか、
結局その周囲にはですね、
どちらかというと見慣れた現代社会の風景が広がっていて、
そこにいきなり茶室と庭みたいな感じなものですから、
余計にこういう街中に公園とか、
そういったものとはまた違った形の草木とかがちゃんとあるということに対して、
自然っていいですねっていうふうにおっしゃってくださっているんだと思います。
なんですけれども、
実際お庭を見てですね、
お客様は自然っておっしゃってくださるんですが、
そこの庭は2、3時間前に僕があっちゃこちゃ手を入れて整えておりますが、
というふうにちょっと心の中では思ったりするわけですね。
つまり何と言いますか、
いじってる身からすると、
全然自然のまんまではないわけですよね。
やっぱり例えば今の季節だったら、
例えば落ちてる落ち葉とかですね、
最近だと咲いてる椿の花が落ちてたりとか枯れて落ちてたりとか、
実をつけるものの草木から落ちた実が落ちてたりみたいなものが結構あったりしますね。
そういうものは拾ったりですとか、
あるいはちょっと枯れてる花とか葉っぱみたいなものがですね、
お客様がよく通るようなところにあると、
ちょっとこれは見苦しいかなといって取ったりとかですね。
そういったことをいろいろしているわけです。
なので、そこを表して自然っていいですねっておっしゃってくださるのを聞いたりするとですね、
自然って何なんだろうなって思ったりするんですね。
僕結構こういうふうに1回テーマを見つけてしまうと結構考え込んじゃうたちでして、
それから先ほどのお客様が自然っていいですねっておっしゃってくださった後ですね、
その後も毎月数回ですね、お庭の手入れをしているわけですけども、
その度に、自然って何なんだろうな。
このお庭には、もう言ったら取っても取ってもですね、
いわゆる一般的な雑草と呼ばれるような草がたくさん生えてきますし、
落ち葉が落ちてくるものもあれば、
常緑図ですね、ずっと緑のものもある。
そして季節によってもちろん草木の様子も、あるいはそこに住んだり立ち寄ったりする
虫とか鳥たちとかも全然くるくる変わるわけですね。
そういう意味では自然の中の一部、特に最近緑が少ない都市の中においては非常に自然の一部だということは言えるなというのは
僕自身も庭に入ってて思います。
ですが同時に、庭というのは人によって区切られて、人によって手入れをされて、
人にとっていい感じにしている空間というわけでもあるわけですね。
というわけで、庭っていうのは自然でもない、完全人工な空間でもない、
なんかその中間の面白いところだな、みたいな風に感じています。
自然の捉え方
それと同時にですね、先ほどの自然とは何だろうっていうのをちょっと考えたときに、
じゃあ例えば、庭がどういう状態になっていたら自然っていいですねとか言わなくなるのかな、みたいなことを考えたときに
例えばですけども、もう10年ぐらい空き家で誰も手を入れてなくて、ほったらかしになってて、
本当にもう草もぼうぼうだし、木も好き勝手に生えてるみたいな庭を見たら、
ああ、自然っていいですねっていう風に言う人はあんまりいないんじゃないかと思います。
そういうものは荒れてるとか言いますよね、どちらかというと。
人の手が入ってないというのは当然なんですけれども、
ただ本当の意味での山とかに行ったら、人の手が全然入ってないものこそが本来の自然だ、
みたいなことはやっぱり考え方の一つとしては少なくともあるわけですね。
アメリカの方でもともと自然保護活動というと、アメリカの国立公園とかめちゃくちゃでかいですけども、
極力人の手を入れないというのが向こうの旧来の自然保護のスタンスというのを聞いたことがあります。
それに対して、庭というのはやっぱり手を入れてるわけですね。
じゃあなんでそんなことをするのかと。
例えば自然がいいというならば、さすがに庭を例えば家に入るために歩いたりするんだったら、
通り道の草ぐらいは買って通りやすいようにしたりとかあるでしょうけど、
それ以外のところは別に言ったら草木が生えるままにしとけば、それが自然じゃないかって思うわけですけども。
結局そうするとですね、やっぱり夏になりがかがわくし、やっぱりジメジメしているし、
やっぱり刺したりしなくても、そういうところにはいろんな虫が飛んだりとか、
例えばずっとジメジメしているのに、
例えばキノコですね、キノコとか言ったらそこからカビみたいなものも生えてきたり、
例えば木の家だとそこから湿気が移って家の中がちょっとカビっぽくなるみたいなとかですね。
いろいろやっぱり弊害があるわけです。
何より人間にとって接しづらい状況になっていくわけですね。
例えば庭の手入れするときも僕もグローブとかしてますけど、
本当に荒れてる自然とかに入ったら、山とか行くときに皆さん例えば、
どんなに暑くても長袖、長ズボンとかで肌を出さないようにするじゃないですか。
もう悲しいから、人間の皮膚とかっていうのは本当の自然環境の中に放り込まれたら、
もう耐えられないわけですよ。
いろんな虫に刺されたり、火の光に当てられて焼けたりですね。
あるいはすごい寒くなってきたら、もう肌がカサカサになったり。
本当に人の体って、野生動物とかに比べたら全然脆いなと思うんですけど、
それでも人は自然を求めるわけですね。
庭を見て自然っていいですねと言い、一生懸命手入れをして、
庭を人が心地よく過ごせるようなものにし、
そういう努力を払って、庭というものをそばに置いているわけです。
いわば、反自然みたいな感じですよね。
自然と人の間にあるような立ち位置のものを置いていると。
この行為って一体何なんだろうなっていうふうに、
ちょっと考えたりしたことがありまして、
その時ふと思ったのが、
火の扱いと似てるなと思ったんですね。
どういうことかと言いますと、
火、あのファイヤーですね。あの燃える火です。
炎ですね。
自然と火の関係
っていうのは、僕らはもう日常的に使ってますよね。
わかりやすいのは、家のキッチンでガスコンロでパチッとやったら、
最近はハイエッジとかで火を使わないのもありますけど、
ガスコンロで湯を沸かしたり、
料理をしたりっていうのもありますし、
あとはガスストーブとか石油ストーブみたいな燃料を燃やすものもありますし、
最近はエアコンとかの方が皆さん慣れてるかもしれませんけど、
ライターみたいに、ライターに煙草で火をつける。
あるいは、昔で言えば、夜、かがり火とかにして照明に使ってみたいなことをしていたわけですね。
もちろん人間の皮膚っていうのは、
そんな丈夫にできてないので、
皮膚にダイレクトに触れたりするとめちゃくちゃ焼けとして大変なことになるわけですね。
いわばすごい危険なものなのに、
火が放つ熱とか光とか、
もしくはそれを見て生じる心持ち、安心感、
それこそ昔、まだ原始時代のようだったんですけど、
昔、まだ原始時代のような時には火があるということで、
夜、獣たちが寄ってこないみたいな安全を担保するっていうのがあったので、
そういう意味で火っていうのは、
触れがたいけれども、人間にとって様々な恩恵を与えてくれる、
非常にありがたく、そばに置いておきたいものだったわけですね。
庭に表現された人の願い
なので、この狭間で人はいろいろ苦悩をしたり苦労をしたりして、
いろんな火の扱い方というのを生み出してきたんじゃないかなと思います。
そして庭も一緒なのかなと。
人っていうのは、やはり自然を求めるところがあって、
ここはですね、僕逆に言うと、
人から離れたくなることがあってっていう方がいいんじゃないかなと、
ちょっと思ったりするところもあるんですけど、
人間はもう社会性の動物なので、
一人では生きていけないというか、他者と関わらないと生きていけないみたいな話はよくされますけど、
それが重要かつ必要なものだからこそ、
やっぱり最新の配慮を払ったり、
例えば人と何かを喋ろうとするときは、やっぱりいろいろ考えながら話し、
自分が人にどう思われてるか、評判みたいなものはみんな気にするわけじゃないですか。
悪いこと言われたら落ち込むし、
いいこと言われて褒められたらすごい喜ぶしっていうふうに、
僕らは非常に人間を気にするようにできているわけですね。
それは人間が社会を作って生きていくには絶対必要な能力なんですけど、
やっぱ疲れるわけですよ。
大事に思うことを常にやっていると。
なので、自然から、要するに人から離れて、
自分という立場だけで、
ただ受け入れてくれる自然というものを、
人は時々求めたくなるんだろうなというのが、
ベーシックな感情の一つなのかなというふうに思っておりますが、
先ほどお伝えしたように、
素の自然っていうのは先ほどの非という同じように、
やっぱりダイレクトに人にとってはちょっと触れがたいところがあったりするわけですね。
なのでそれをいかに身近に置いて、
去りとて、人の都合だけにしないように。
あんまりいじりすぎると、それはもう自然の感じの欠片もなくなっちゃいますし、
要するにどこかの誰かさんがアーティスティックに作った、
言ったらそこに人間の影ばっかり見えるような庭っていうのは、
それは人から離れたいっていう感情を満たせるものではなくなっちゃいますし、
逆に言うと手を何も入れないというのも、
先ほどの草ぼうぼうで虫も湧きまくって、
人が近寄りがたいものになってしまう。
そうではない庭というのを人は一生懸命キープをして、
直接は触れがたい、でもそばに置きたいっていう、
この相反するような微妙な気持ちの中で、
お庭というものをそばに置いているんだろうなと思うと、
なかなか味わい深いというかですね。
例えるなら、庭とは人の願いなんだなっていうふうに思ったりもしています。
直接は触れられない、でも離れてほしくない、
そういう人の気持ちと願いが詰まったようなものの一つの表現が庭かな、
などと思いながら、最近はお庭の手入れをしたりしています。
僕は茶室に置くところ間に置いたりするお花ですね。
茶花といったりするんですが、
それもちょっと学ばせて多少いただいてるんですけれども、
僕にとってお茶会の前に庭を整える、手入れをするということはですね、
一つの茶花を入れているに近いですね。
今回いらっしゃるお客様に、
今日この季節の風情とか、今回の趣向に合わせた心持ちになっていただけるといいな、
というようなことを考えながら、お庭の手入れをしています。
そう考えると、庭にはちょっと僕の願いというのも入ったりしているのかな、
みたいなことを思ったりもすることがありますね。
明日の茶寺もですね、そういった心持ちでお庭を整えて、
その後の実際茶寺の開始から終わるまでも、
精一杯来てくださったお客様に、
いい時間を過ごしていただけるよう、ちょっと頑張りたいなと思います。
では、今日はこの辺にさせていただきます。
お聞きいただきありがとうございました。