そのルールのもとからでは以前までの最適化が逆に逆最適になってしまってるっていう変化が起きて絶滅してしまうっていうのが理不尽な絶滅です。
何か過剰最適をしてしまうとかえって生き延びられないみたいなのは、
こういうこの手のジャンルのことを読んでいるとよく出てくるようなイメージがあるんですが、そういうのに近いようなことですかね。
近いと思う。だから現実に起きるのって結構こういうことが大きくて、
で、種が絶滅するのって実はあんまり起きないというかペースは緩いらしいんですよ。
で、ここがこの本に読んでて面白いなと思うんですけど、個人、個体の死亡っていうのは当たり前ですよね。日常ですよね。
個体は普通に生命として死にますよね。
でも種っていうのは個体のメタファーとは違う原理で動いてるっていうか、
個体って基本的に種を残すために駆動してるじゃないですか。
ということは種は残るんですよね。
残れます。
だから種は残るべくして動いてるのになぜか絶滅してしまうっていう、
起こりにくいはずのことが結構な割合で起こってると。
そういう時にそのさっき言った理不尽な絶滅っていうのが結構な程度影響しているのではないかという話が出てきます。
これってどれがどのぐらいの割合だったかみたいなのは分析されてたり書かれていたりしたんですか。
分析されて一番インパクトとして大きかったのがやっぱり理不尽な絶滅ではないかと。
じゃあ大体のやつは理不尽に絶滅してしまったってことなんだ。
してるっていうことが言えるんじゃないかっていうのが、もちろんそれは確定的な情報じゃなくてあくまで推論でしかないんですけど、
それぐらい環境が大きく変わってこれまでのルールが変わってしまって大量に絶滅する。
だからやっぱりさっき言ったように既存のルールに最適化されるのが生き残っている環境の中で、
その環境そのものが劇変してしまうわけですから圧倒的に死にますよね。
なんかやっぱり世の中って理不尽なんだなっていうこと。
今の時代でもそうなんだけどもっと理不尽だったんだなって思い知らされる感じですね。
この3つ目の要素があってインパクトファクトとしてはでかいはずなんですけども、
例えば恐竜っていうものを考えてみたときに恐竜って不思議なもんで、
隕石で絶滅したか、あるいは大きくなりすぎて死滅したかって、
どっちかだけで語られることが多いんですよね。
なんかその2つをよく聞きますね。
ちっちゃい頃からそういう図鑑とかを読んでいると。
でも理不尽な絶滅で示されるのは実はその両方だということなんですね。
隕石が当たった上にでかかったから死んだってことなんですね。
どっちかだけでは死ななかったである。
可能性もあるっていうこと、もちろんそれはわからないですけど、
でも僕たちが恐竜に向けるあいつらが死んだのは運が悪かったないしは、
遺伝子的に適応がなくなったからっていうふうに捉えてしまう、
その眼差しに本書は注目します。
おー、壮大な前提になってくる。
結局それはなぜそうかって、さっき言った理不尽さ、
つまり運と実力の重なり合った状態を、
僕たちはうまく認識できないないしは、
意図的に認識しないようにしているのではないかと。
なぜならそんなことを考えだしたら非常にややこしいからっていう話なんですけど。
でも考えてみると、どっちかであったほうが話は簡単ですよね。
処理しやすいですよね。
簡単にしたいという気持ちはすごくわかります。
それは一般人がそういうふうに捉えるっていうことと、
実は一般人だけじゃなくて専門家、
この場合でいうと進化を論じる専門家が抱える問題っていうのが、
実はその点において、つまりその理不尽さの扱いにおいて通じるところがあるんじゃないですかという問題提起が、
第一章の最後らへんで行われます。
もうこの段階でちょっとややこしいでしょ。
そうそう、今の最後の方の話は結構ややこしかった。
もう1回しゃべれって言われても、俺説明できない気がする。
一度復習しておくと、絶滅のルートには3つがあって、
その3つ目が大きいはずだけど、私たちが恐竜とか生物に向ける眼差しっていうのが、
その3つ目が結構すっかり抜け落ちてて、その2つの単純なものでしか捉えてないと。
それは結局その理不尽っていうのが人間にとって扱いにくいからではないか。
そしてその扱いにくさの中に科学的な、科学者が行う問題もあるんではないかというようなことに合わせて第2章に移ります。
扱いにくさに科学者も間違えるっていうにはなんですか。
間違えるというか、間違えるでもいいかな。議論の出発点となるややこしさがある。
簡単に言われきれなさがそこにあるというようなことですね。
第2章が、適者生存とは何かという商談なんですけど、こっちはどっちかっていうと、
一般人における進化論の理解とか、その言葉の扱い方を分析する章です。
一般人が適者生存って言うとどんなことをイメージしていて、それはどんな誤解があるとか、なんか間違ってるとか、そういうようなことですかね。
そういうことなんですけども、もちろんその適者生存とかっていうことが、
僕たちは別に科学者じゃないから、その科学的な厳密さにとらわれずに今使っているんですけど、
この本はその言葉を正しく使いましょうと敬遠を捨てるわけではなくて、
なぜそんな誤解をしているのかっていう、その誤解の仕方に注目しています。
なんかね、ここまで聞いて、やっぱね、どういうふうに話が持っていかれるんだろうって、すごい思いますね。
だから何にそれを適用しても間違いにはならないし、ほらこの通りそうじゃないか。だって生き残ってきたんだからって論証もできるわけですよね。
でもその論証には何の意味もないんですけど、そこに確かに証拠はあるんですよ。
だって生き残ってきたからっていう絶対的な証拠があるんですね。
この2つの側面でさっき言ったこの適者生存とか進化論に関わる言説があまりにもお守り的に使いやすすぎてしまうから、僕たちはついついそれを言ってしまうんではないかというのが2章の半分ぐらいです。
言ってることは結論だけ言えばわりとシンプルな感じがしますね。
そうそうそうそう。ここに至るのがかなり緻密に組み上げられてるんですけど。
その後半部分なんですけど、じゃあなぜ僕たちはその進化論をついついお守り的に使ってしまうのだろうかという理由についてなんですけど、
だから僕たちが持っている日常的な考え方、ことを社会通念と言うんですけど、非常にマンチしているからではないかと。
じゃあその社会通念、僕たちが案に抱えている社会通念とは何かという話なんですけど、
それが実は進化論ではない非進化論的な考え方、もうちょっと言うとダーウィンリズムとは違う進化論的な考え方ではないかという話なんですね。
進化論をついつい使ってしまう理由は、俺たちが進化論的ではない考え方をしてしまうから?
そういうこと。ややこしいことですね。ややこしいですけど。
最初に言った適者生存という言葉は、実はダーウィンの造語じゃないんですよね。
ダーウィンの種の進化というのの一般から後半ぐらいまではその言葉が使われてないですね。適者生存という言葉は。
ハーバード・スペンサーという方が適者生存というのを使われまして、ダーウィンの近しい人が、この言葉いいからぜひ使った方がいいよっていうようなプッシュもあって、
ダーウィンもその言葉を使うようになったと。問題はそのハーバード・スペンサーという方の考えた適者生存っていうのが、
その人が持ってた考え方っていう進化論、進化の考え方が、ダーウィンのものとは似ても似つかないというか、似てるんだけどかなり違うっていう。
それは発展的進化論っていうやつなんですね。発展的進化論っていうのは、物事がある最終地点に向かって少しずつ良くなっていく、最終目標に向かって順調に進んでいく。
だから、AとBとCがあって、それが進化していくときに、AよりBが良くなって、BよりCが良くなっていくっていう発展的な考え方を持ってたんですね、彼は。
その考え方は、生物だけじゃなくて、この世界のありとあらゆる場所がその法則下にあるというような考え方なんですね。
これはおそらくですけど、スペンサーという方が発表していたのが、ちょうど産業革命後のイギリスやったらしいんですよ。
自由主義がこの世界に広がり始めた頃ですね。まさにその頃は、昨日より明日が豊かになっていくと。
いわゆる民主主義が広がって、その前の政治主体よりも良くなったというような感覚があって、
そのような感覚で、どんどん人類は良くなっていく、世界は良くなっていく、宇宙は良くなっていくっていう考え方をスペンサーは持ってたんですね。
まさに今、僕たちが持っている感覚ってそれじゃないですか、という話なんです。
めっちゃ、めっちゃ腑に落ちるというか、歴史から何から踏まえたすごいお話ですね。
でも考えてみたら、ダーウィンの種の起源という本で説かれているのは、そうじゃないんですよね。
別にダーウィンは生命の木っていうのを描いて、私たちの先祖から、もともとの答えは一緒で、そこからいろんな分化してきたっていう話をしているだけなんですね。
時間が経つほど世界が良くなるとは一言も言ってないんですよ。
むしろ種っていうのはランダムに変異していって、その時の環境にただ適応しているだけであると。
だから良くなるとは一言も言ってないんですけど、まさにその進化論の言葉を僕たちはスペンサー的な考え方のもとで使っちゃってるんですね。
進化するって言った時には必ず良くなるという意味合いで使ってるんで。
時代背景も踏まえて、すごく人間の直感にも合ってるってことなんですかね、そういう考え方というのが。
なので、ランダムに適当にやって、たまたまこれが生き残ったじゃなくて、なんか良くなったやつが生き残ったの方が、やっぱ都合がいいような気がしますよね、人類にとって。
なんかその世界の説明としっくりくる感じがしますよね、おそらくは。
だからこの本の著者が言いたいのは、例えば僕らがその進化論について知識不足だからとかいうことじゃなくて、実はその一番根本的な認知バイアスとして、
そのスペンサー的な進化論の方が僕たちの脳に調和しているから、ついついそういうことを言ってしまうんではないかという話ですね。
なんかあれですね、壮大な人間の認知バイアスというか、そういう感じなんですかね。
一番大きい枠組みでの認知バイアスかもしれないですね。ついつい目的論的に物事を説明してしまうという癖。
なんか因果関係があるように見えてしまうってやつですよね。因果をつけたがるっていうのか。
っていうその話が第2章です。
第3章なんですけど、第3章がダーウィニズムはなぜそう呼ばれるかという商題で、今回はもう完全に専門家の進化論に関する議論が扱われてまして、
ここが熱いです。ここが熱いんですけど、だから一般人の話じゃなくて専門家の話で、
当然その進化論のダーウィンが提唱して、その後にネオン・ダーウィンズムっていうのがあって、現在の進化論的な考え方が固まったと。
後半のあたり、ダーウィンの頃じゃなくて、直近ちょっと前あたりにいろいろ一つ大きな論争がありまして、その論争が第3章で語られてます。
主題となっているのが、適用主義をめぐる論争ということなんですけど、適用主義って何かっていう話なんですか。
だから簡単に言うと、物事が今その形になっているのは適用の結果であるという説明だけで全てを説明しようとする態度のことですね。
これは進化論を採用する場合は結構当たり前に出てくるというか、それが進化論の説明なので、
適用したから、例えば生存に適していたからそうなったみたいな説明をするっていうのが当たり前の中で、
スティーブン・J・グールドっていう人もかなり有名なんですけど、
井野さんが、「それはどうなの?」っていう話を論文を提出したんですけど、
まさにその適用主義者が集まる、学会みたいな集まりの中で、反対の人を単独で行ったっていう、かなり劇的なことをされた方なんですけど。
たしかに、ダーウィンのライバル的な存在の人でしたっけ、この人って。
ダーウィンじゃないけど、もっと後の時代から。
もっと壮大な後か。
リチャード・ドーキンスの人がいて。
そっちの時代の人ね。
リコ的な遺伝子って書いた人で、めっちゃ有名なんですけど、その人に真正面から論争をぶつけた人で。
残念ながら、一応現在の考え方では、そのグールドの仕掛けた反論っていうのは、基本的には棄却されたというか、それほど説得力がないとして、今、論争に負けた人なんですね。
ただ、この第三章ではそのグールドの論を細かに追いかけます。
これも負けた方に注目している章です、これも。
この人が言ってることの方が、負けた人の話の方が面白いんじゃないか。
負けた方に目を向けると、また今の時点で目を向けると、何か見えるものではあるのではないか。
あるいは私たちが見過ごしてきたものがあるのではないかっていうところで、そのグールドさんの話をもう一回ちゃんと追いかけましょうと。
要するに、適応だけで説明できないじゃないことがあるのではないか。
例えばこういうことは説明できないんじゃないかっていう話をグールドさんが言ったと。
で、それを当然言われた方も黙っているわけではなくて、いやいやこうなんだっていうのを同均質という方が反論されるんですね。
一番有名な人ですよね、この人も同均質も、遺伝子の乗り物である。
専門家の中でも一般の中でも多分彼が一番有名でしょうし、一番尊敬されてる方じゃないですかね、きっと。
あれを説明したのがグールドのエッセイなんですね。彼の書いたエッセイがあれを説明してるんですよ。
だから非常に適用的に説明してますよね。
素数ゼミとかは話めっちゃ面白いですよね。長くなりすぎてしまうけど。
そう、グールドとかドギスってそういう文章書くのがめちゃくちゃ上手い人なんですけど。
だから彼自身も別に適用主義を採用しているし、別に進化論に反対しているわけでもないのにもかかわらず、
その負けるに決まっている論争をなぜ続けてしまったのかっていうのがわからないよねっていうところで、第3章が終わって4章に続くわけです。
わからないよね、3章が終わるんですね。
いや、おそらくだからそこには何かこだわった理由があるのだろうと。
それを考えてみようというところで、その終章に入ると。
ここが一番盛り上がるところなんですが、グールドはその戦いによって何かを守ろうとしていたのだと。
何かその適用主義が当たり前だとかになった時に失われてしまうものがあったから、強固に反論したんだろうと。
彼が守ろうとしたものは何かっていう話で、歴史という言葉が出てくるんですね。
歴史というのは、日本語の言葉で説明するのは難しいんですが、歴史、historyって言った時に、それは法則ではないんですね。
歴史は法則ではないし、歴史は発展とか展開でもない。
これが何を意味するかというと、あるアルゴリズムとか演繹によって導き出せないんですね、歴史っていうのは。
つまり、原始状態の江戸幕府がありましたっていう式が与えられたとして、
400年後にこうなっていますっていう歴史を描くことはできないんですね、法則じゃないから。
法則ではないから、どうなったかはわからない、決まっていない。
つまりそれは偶然に左右されるわけですね。
法則とか発展ではないっていうのは、そこに偶然的要素が必ず入ってくるっていう。
その偶然的な要素とその法則的なものとの絡み合いが刻んでいくのが歴史であると。
ところが、適用主義になった途端にその歴史が消えていくと。
あるいは歴史が既存されるとグールは考えていたと。
つまり、あらゆることが現在においてこれは適用しているからこうなんですっていう説明って歴史がいらないんですよね。
その過去がどうなっていたかは全く関係がない。
なんか言いたいことはわかるような気がするけどいまいち風に落ちない。
そうなのか?
説明が現在有用性というものだけで成立してしまうんですね。
歴史がどうなっていたか、その形質形態がどんな歩みをしてきたかを別に考えなくてもできてしまうという点に問題を感じたのではないかというのがまず一つです。
それとは別に、例えば物理の法則っていうのは基本的に一回見つかったらもうそれ覚醒ですよね。新たなデータが出てきて変わることはあるにしろ、山大国がどこにあったかみたいな論争にはならないですよね、基本的には。
順番が逆ですよね。なんかこれがこうなるからきっとこういうルールがあるんだっていうことだから。
こういう学問的なものにもいろいろやり方というか語られ方があって、最初に説明と理解っていう2つの単語が出てくるんですけど、説明、例えば物理っていうのは物理学っていうのは何かを説明するものだと。
太陽系はこういう楕円形で回ってるみたいなことを言うのが説明であると。それとは違って、理解、Aとはこうであると理解する。
例えばフランス革命は人類史において人権を確立した運動であるっていうのは、さっきの物理的な記述とは違いますよね。
何かを説明してるというのは何かを位置づけてる。何かをそのようなものとして理解する活動というか。
この2つが違うよねっていう話がまずあって、でも結局その説明と理解という説明も結局しっくりいかないかったらしく、方法と真理っていうのにそれがバージョンアップするんですね。
方法と真理って、これ関係ない。
ちょしゃーの話が。
ちょしゃーというか、これも研究した人がいるんですけど、さっき言った歴史の理解と物理の理解の乖離をどう決着つけるか、どう位置づけるかっていう話の論争で、これは全然別の方がやってる話なんですけど。
で、今のところ何とか決着してるのがその方法と真理。
方法と真理って言うんで、方法って基本的に学術って方法論なんですよ。
何かしらの方法を使ってこういう結果が出ましたっていうことで、その学術が成立しているようなところがあるんですね。
方法が確立されてないとか方法がバラバラやった場合って、それは学問的ではないんですね。
基本的に絶対に方法による。方法が確立されて共通されてるから何かし一定のことが言えるということになってると。
再現性がある?
そうです。再現性があるためにも当然方法が確立されてる必要がありますよね。
で、この方法論やからこれが言えるけど、この方法論ではこれが見えてないからこれは言えないみたいな線引きも初めて方法があるから言えることで。
だから学問的なものってまずその方法ありきっていうのがまず一つと。
で、もう一個がねその理解に近いんですけど、何かがそういうのとは別にそれと分かるっていう感覚。
例えば芸術を見たときに言葉ではうまく言えないけど、あーこれってこうかっていう分かる感覚?
これはさっきの方法とかでは絶対に立ち入れない。再現性がない。
例えばその絵を見たときに番人が同じような分かり方をするかっていうとそれは保証もできないですよ、全然。