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2021-09-07 1:07:52

BC020『理不尽な進化』

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今回は吉川浩満さんの『理不尽な進化 増補新版』を。

すごく面白い本なのですが、あまりにも土俵が広いので、倉下の説明ではぜんぜんその面白さが伝え切れていない感がいっぱいです。

これはもう、本当に読んでみてください。概要などよりも、まずこの本の論旨を追いかけていく体験そのものが Good & Happy です。

著者は?

著者は、文筆業・編集者さんです。現在は晶文社にお勤めとのこと。

以前『闇の自己啓発』を紹介した回の後半で言及した、『人文的、あまりに人文的』の共著者の一人。「哲学の劇場」という動画番組も。

https://www.youtube.com/tetsugeki

この本は?

本書は「進化論」の本ですが、進化論の一般向け解説書ではありません。むしろ、私たちと「進化論」という概念との関係を扱った本です。

本書は絶滅に目を向けますが、これまでに滅んでいった注目すべき(ないしはひどく奇妙な)生物を紹介する本ではありません。むしろ「絶滅」という現象の方にまなざしを向けています。

まず、この点だけイメージしておいてください。「進化論」の本と聞いたときに、イメージする本とはずいぶん違っていると思います。

目次

* まえがき

* 序章 進化論の時代

* 進化論的世界像――進化論という万能酸

* みんな何処へ行った――?種は冷たい土の中に

* 絶滅の相の下で――敗者の生命史

* 用語について――若干の注意点

* 第一章 絶滅のシナリオ

* 絶滅率九九・九パーセント

* 遺伝子か運か

* 絶滅の類型学

* 理不尽な絶滅の重要性

* 第二章 適者生存とはなにか

* 誤解を理解する

* お守りとしての進化論

* ダーウィン革命とはなんだったか

* 第三章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか

* 素人の誤解から専門家の紛糾へ

* グールドの適応主義批判――なぜなぜ物語はいらない

* ドーキンスの反論――なぜなぜ物語こそ必要だ

* デネットの追い討ち――むしろそれ以外になにが 論争の判定

* 終章 理不尽にたいする態度

* グールドの地獄めぐり

* 歴史の独立宣言

* 説明と理解

* 理不尽にたいする態度

* 私たちの「人間」をどうするか

* 文庫版付録 パンとゲシュタポ

* 「ウィトゲンシュタインの壁」再説

* 理不尽さ、アート&サイエンス、識別不能ゾーン

* 反響その一――絶滅本ブーム、理不尽な進化本ブーム

* 反響その二――玄人筋からの批判

* 私たちは恥知らずにならなければならないのか

* あとがき/ 文庫版あとがき/ 解説(養老孟司)/ 参考文献/ 人名索引/ 事項索引

倉下メモ

グールドが必至にこだわったこと、そして彼が(論争として)敗北し、今はもう話題にならなくなりつつある現状。結果的に、本書はそれを重点的に取り上げることになった。まるでグールドがそうしたのと同じように。

グールドの試みは、片方では学問的(サイエンス)であり、もう片方は心情・情理的(アート)であったと言えるのかもしれません。私たちは、その二つの間を揺れ動きながら生きています。

もう一つ、"自然淘汰は「自らの足跡を消す」"という点。これは非常に応用が広い「道具」だと言えそうです(なにせ「進化」は森羅万象にまで適応できるコンセプトです)。

たとえば、以前取り上げた『実力も運のうち』で言及されている能力主義者の傲慢ですが、それは「自分の人生が別様なものであったかもしれない」という想像力の枯渇から生じていると考えられ、それまさに競争社会(市場主義フレームの上に乗っかる厄介なコンセプト)が、他の競争相手をことごとく消し去ってしまうから、という見立てもできるでしょう。

「そうであったかもしれない」「そうであるのかもしれない」

そのような想像力は決して気持ちよいものではありません。快に満ちあふれるものではありません。しかし、あらゆる倫理観は快を充填するものではなく、むしろいつでもそこには後ろめたさがつきまといます。数字やロジックでは「割り切れない」ものが残るとき、それが倫理的な判断や行動として立ち現れるのでしょう。

みたいなことを、いろいろ考えたくなる一冊です。



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面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第20回の本日は、「理不尽な進化」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
「理不尽な進化」という本を取り上げようとずっと言いながらも、全然取り上げてなかったんですけど、ようやく時節的に、タイミング的に来たかなという感じなので、この本を紹介させていただきます。
初始情報を云々から行きたいんですけども、まず、「理不尽な進化」の雑穂新版と呼ばれる本で、ちくま文庫から出ております。
雑穂新版ということは、つまり雑穂新版じゃないものがあるということで、朝日出版社さんから2014年に単行本として出てたのが、今回ちくま文庫に入ったという形になっております。
なので、2014年だから結構新しい?
いきなりなんですけど、出版社代わって文庫入りっていうのは普通によくあることなんですか?
普通によくあることですね、これは。文庫レベルを持ってないところが出している単行本とかが、文庫レベルがあるところの文庫本になるというのが結構あります。
こういう文庫化される本、わざわざレベルを超えて文化化される本というのは、結構面白い可能性が高いんですね?
それは間違いないですよね。売れるだろうし、もっと売れると思うから文庫にしてるんですよね。
だから、もうそれ段階でちょっと期待値が高いということなんですけども。
著者が吉川さんという方で、何回か前に闇の自己啓発という本を紹介した後半で、あまりに人文的という本もちらっと紹介したんですけど、
その本が強著者になってまして、もう一人の方がこの方です。もう一人の方が山本さん、山本博光さんかな。
この二人で書かれている本が、僕、さっき言ったあまりに人文的という本が結構面白かったというか、こういう本をたくさん読みたいなと思って、
いろいろ探しようとしてた、そのタイミングでこの本が出ると。
運命ですね、これは。
これはもう内容はどうかして、とりあえず買うしかないなと。
で、進化についても別に全く興味がないわけではなくて、結構好きなジャンルやったんで、とりあえず買ってみたという。
だから中身全然知らんままに買ったんですけど、著者外ですね、完全に。
補足しておくと、そのお二方ってYouTubeで哲学の劇場っていうチャンネルを連載されておりまして、哲学の話とかされてるその傍らに、
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二人が最近入手した新しい本について紹介し合うっていう会もあるんですね。
その会が非常に面白いんですけど、僕の新刊もそこで取り上げられたことがあって、ありがとうございますということが言いたいだけなんですけども、そのチャンネルも面白いです。
大事ですね、そういうのはね、ちゃんとありがとうっていうのは。
で、著者の方は進化の研究者というわけではなくて、執筆業というか文筆家と編集者をやられておられる方で、今は確か小文社っていう出版社に務められていると思います。
編集をやりながら書くっていう人、確かちょっと前の話でも出てきたけど、そういうタイプの人なんですね。
編集をしながら書いているのか、書きながら編集しているのか、どっちがメインかは僕には分からないですけど、そういう仕事をされていると。
人文的、あまりにも人文的とか哲学の劇場とかを見たら分かるんですけど、すごい本を読まれる方で、この本もすごいです。
すごいですね。語彙力低い褒め方をしたのは初めて聞いたかもしれない。
さまざまな知見を自分の話に組み立てるために持ってくる。だから、いわゆる進化論を解説する本ではなくて、ある種の理系的な話と文系的な話、あまりにも単純ですけど、その2つの接合点を語るような非常に土俵の広い本になっております。
話を聞くと、自分がこういうことをやりたいって思っている、それをやっている方なのではないのかなっていうイメージが湧きました。
だから、進化論の専門家ではないからこそ書ける本なんだろうなという気はするのですが、いくつかこの本のまず全体というか注意点というかを確認しておくと、
まずさっき言ったように、進化論の一般的な一般向けの解説書ではないです。進化論とは何かをわかりやすく語った本ではないんです。
著者独自の視点が入ってくる進化論を使ったお話?
簡単に言うと、文字書きさせていただくのであれば、かぎかっこつきの進化論についての話なんですね。
1個メタな視点で。
私たちがよく日常会話で使う進化論、進化論に基づく言葉、語彙の使い方を探る。
つまり、僕たちと進化論の関係っていうのを考察、批評する本ということですね。
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内容が難しいかどうかで言うと、ちょっとこれは判断が分かれるところで、論説は割りかし込み入ってます。
理論は割りかし込み入ってるんで、結構丹念に追わないと追い切れないんですけど、文章自体は読みやすいです。
平易に書かれてて、いわゆるその哲学的な難解さは全然ないです。
ただし、それすらすら読んでいったところで、著者の理論をきちっと追っていけるかというと、かなりゆっくり読まないと思うんだと思います。
今ちょうど哲学的って言葉が出てきたんですけど、要するに哲学要素がある本だって言っていいんですかね。
はい、と言っていいと思います。まさにそういう本だと思います。
じゃあ、進化論の哲学というタイトルをつけても間違いではない?
それはちょっと間違いかな。進化論についての思想をめぐる論考ぐらいかな。
ああ、そうするとだいぶ全体像が捉えやすくなったような気がします。
だから、理系の本として期待して読むとちょっと違う感じかな。
どっちかというと、もう少し土俵は人文寄りな感じと思っておいた方がいいと思います。
この本の特徴その2なんですけども、進化って言った時によく注目される生存戦略を生き抜いた側ではなく、
絶滅してしまった方に注目しているというのがこの本の特徴なんですが、
かといって、最近よく見かけるんですけど、絶滅してしまった残念な生物を紹介するみたいな本でもないんですね。
いろんな生物を紹介します、こういう特徴を持ってたけど、彼らは絶滅してしまったんです、みたいな文脈の本でもないんです。ここも注意点です。
なぜ絶滅してしまったのか?みたいなことって話ですかね?
この本の全体像は大体3回立てになっていて、一言では言えないので、とりあえず、ほにゃららではないという否定の方から今入ってますけど、
一般的にイメージされる絶滅した動物を扱うとか、進化論について一般説明するような本ではないです。
まずそこだけ押さえてください。目次全体像に入りますけど、前書きと序章、1章、2章、3章、終章という形になっていて、文庫本だけパンとゲスタポっていう追加のエッセイかな、
詩論っていう感じを当てる意味でのエッセイが書かれている。章立てで言うと、1章、2章、3章と終章、序章は簡単な説明なのでページ数は結構短いんですけど、この4部構成の章でページ数が文庫本で400ページぐらいあるんですよ。
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あれですね、言ったら珍しいというか、一般的に1章ってそこまで長くないんですよね。
1章あたりがかなり長い論述に使われてます。1つの章が、1つのことを単体で取り扱っているというよりは、途中で話題がスライドしていくような、一回角を曲がるような感じがあって、そこがこの本の非常に面白いところで、
どこに連れて行かれるのかが、ちょっと曲がってみるまでわからないという、そういう楽しみ、ある種の旅のような、トラベリングのような楽しみがある本です。
じゃあ、学ぶとか知るっていうよりも、読み物として楽しんで読む方が楽しめるっていうような印象なんですかね。
もちろん学ぶこともありますし、終章では私たちにとってどういう意味を持つかっていうのは論考されてますけど、やっぱりその、著者のこの話題の提示の仕方で、しかもいろんな分野の知見を引っ張ってきて、自分の話題に関連させて語っていくその力強さというんですかね。
力のある力士の相撲を見てるような、そういう話題の振り回し方が非常に楽しい本です。
なんか、スポーツ観戦的な楽しさすらある。文学アスリート。
そうそう。やっぱりいろんな知識を知ってる方の本というような感じはやっぱり最初に受けますね。
それあれですね。独学大全を読んだ時に初めてそういう打ちのめされた感みたいなのがあって、この人なんでこんな知ってんだろうっていう。いくら本とはいえ、どんだけ調べたらこんだけ知ってんだろうっていうのに結構感動した印象があって、それに近いようなものがなんかある感じがしますね。
人文の本を読むと大体そういう感じで、中とか参考文献がもうすごいですね。圧倒的に量が多いだけじゃなくて、ジャンルというか分野というかが合わせて。
分野の広さがすごいんですよね。独学大全にしても、ラテン語の話が出てきてとか想像もしていなくって、そんなこともこの人やってんだって思って。
そういう本ということで、具体的な中身に入っていきたいと思うんですけども、まず第1章。これね、他の本に比べて1章のボリュームが長いんで、1章の紹介も長くなるんですが、第1章が絶滅のシナリオという正体です。
本章、この序章で絶滅について注目するという話なんですけども、今までの生物の全生物の個体っていうのを確認してきたときに、99.9%くらいの動物は絶滅してるんですよね。
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きっとそうでしょうね。
今、僕たちがこの地球上に住んでて、その0.1%くらいの動物が仮に存在してるとしても、これも結局いつかは絶滅するわけですよね。
きっと、たぶんそうでしょうね。
そうしたときに、僕たちがよく目に向けている生存してきたものっていうのは、その全体の本当のごくごく一部で、実は絶滅してるのが面白い、当たり前というか、どっちが普通かって言ったら、絶滅の方が普通やと。
なので、その絶滅っていうのに目を向けてみる価値があるんじゃないかなっていうところからまず始まります。
成功ではなく失敗から学ぼう。
そういうことですね。だから、その生物の歴史とか生物の分布っていうのを仮に全部マッピングしたときに、生き残った生物っていうのはもう一筋の線みたいなもので、それ以外の絶滅したものがキャンパスの圧倒的なものを占めてるわけじゃないですか。
でもそれは僕たちは見えないんで、ほとんど真っ暗な地面というか地になっていると。
浮かび上がってくるごく一部しか見てない。
だから、一回この本ではその絶滅っていうのに目を向けてみようというのが問題定義というかスタート地点ですね。
いきなり面白そうですね。話が聞いている限りで。
そこの段階で惹かれます。
大半が絶滅してしまうのを問題に直面したときに、その絶滅が何の原因なのか何の理由なのかっていう問い立てで、遺伝子が悪いのか運が悪いのか運が悪かったのか遺伝子が悪かったのかっていう一応2つの対立、二項対立の軸があるんですね。
遺伝子が悪いっていうのは遺伝子が劣っていた環境適用がなかったから絶滅してしまったんだっていう理由と運が悪かった。
例えば隕石が落ちてきて死んだっていうのはもう運が悪かったとしか言いようがないっていう2つがあるよねっていう。
実際に例えばそれはどんな風に研究されてきたのかっていうところで、デイビッド・ラウプさんという方の3つのシナリオ、3つのパターンっていうのが紹介されてます。
いかにして絶滅したのか、どういう原因で絶滅にしたのかを3パターンで一応分析したと。化石とかの分類からいろいろ考察されたと思うんですけど。
1つ目が弾幕の戦場と言われる絶滅ルートで、弾幕ってゲームやってる方には非常にお馴染みがあるんですけど、画面中に弾が飛び散ってるようなイメージですよね。
もうそこら中に。
銃弾が飛び交う。
その中では生きるか死ぬかっていうのは運の問題でしかないですね。
例えば銃弾爆撃されたときに生きてる人と死んでる人の差っていうのは遺伝子じゃなくて、たまたまそこにいたかいなかったかっていうだけの差しかないと。
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そういう死に方をするのが1つのルート。死ぬというか絶滅するのが1つのルート。
2つ目のルートが公正なゲームっていうので、これはさっき言ったように環境適応の遺伝子を持っていたかどうかというのが2つ目ルートですね。
だから1つ目が運で2つ目が遺伝子と。
で、この2つ目だけじゃなくて3つ目として理不尽な絶滅という現象があるとラブさんは言ったんですね。
遺伝子ですらが悪くもなく運も悪くもなくただ理不尽だった。
それは運とは違うんですかね。
運と遺伝子が奇妙な、いやまさに運悪く重なり合ったところの絶滅という話なんです。
ここがこの話のポイントで。
さっき言ったようにその隕石が直撃したと。
で、直撃した瞬間に死ぬ生物は運が悪かったですわね。これはまあ。
悪いと思います。はい。
で、例えば直撃しなくてまだその周辺とか遠隔地で生きてた生物は直撃では死なないですよね。
で、例えばその時代の恐竜とかも別にその一撃で全滅したわけじゃないと思うんですよ。
もう分からないですけど。
でもその後に地球の環境が変わるじゃないですか。
急激な冷温化とかその生物、火が当たらないとかっていうことになってしまうと。
環境が変わると。
そうなった時にどうなるかっていうと、
例えば体がでかい恐竜は生きていけないんですね。
餌が取れなくなるから。
で、逆に小さい体で生きていけるとか、
例えば水の中にいて太陽光がなくても自分のエネルギーを作っていけるような生物にとったら、
全然生きていけるわけですね。
ここで何が起きてるかっていう話なんですよ。
隕石が当たる前と後でゲームが変わってるんですね。
これまでの環境は、例えばその火が当たってポカポカしていたけど、隕石が当たったことによって、
そのなんか噴煙が巻き起こって、太陽が当たらなくなってすごい寒くなってしまった。
そうですね。
っていう違う環境になった。
で、さっきの絶滅ルートの2つ目では公正なゲームっていうのがあったんですけど、
隕石ビフォーアフターでそのゲームそのものが移転してしまってるんですよね。
不平等ですね。
でも移転した後にはやっぱりゲームが行われてるんですよ。
生き残りゲームがまだ続いている。
その生き残りゲームではやっぱり遺伝子がものを言うんですね。
だからゲームそのものが隕石を追ってくるっていう運によって変わるけど、変わった先ではやっぱり遺伝子のゲームなんですよ。
だから恐竜にとったら理不尽ですよね。
なぜならば彼らはそれまで続いてきたゲームに最適化して生き残ってたわけですよ。
そのゲームで勝ってたわけですよ。
でもある日突然、恐竜とは何の関係もない原因によってルール変わったって言われて、
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そのルールのもとからでは以前までの最適化が逆に逆最適になってしまってるっていう変化が起きて絶滅してしまうっていうのが理不尽な絶滅です。
何か過剰最適をしてしまうとかえって生き延びられないみたいなのは、
こういうこの手のジャンルのことを読んでいるとよく出てくるようなイメージがあるんですが、そういうのに近いようなことですかね。
近いと思う。だから現実に起きるのって結構こういうことが大きくて、
で、種が絶滅するのって実はあんまり起きないというかペースは緩いらしいんですよ。
で、ここがこの本に読んでて面白いなと思うんですけど、個人、個体の死亡っていうのは当たり前ですよね。日常ですよね。
個体は普通に生命として死にますよね。
でも種っていうのは個体のメタファーとは違う原理で動いてるっていうか、
個体って基本的に種を残すために駆動してるじゃないですか。
ということは種は残るんですよね。
残れます。
だから種は残るべくして動いてるのになぜか絶滅してしまうっていう、
起こりにくいはずのことが結構な割合で起こってると。
そういう時にそのさっき言った理不尽な絶滅っていうのが結構な程度影響しているのではないかという話が出てきます。
これってどれがどのぐらいの割合だったかみたいなのは分析されてたり書かれていたりしたんですか。
分析されて一番インパクトとして大きかったのがやっぱり理不尽な絶滅ではないかと。
じゃあ大体のやつは理不尽に絶滅してしまったってことなんだ。
してるっていうことが言えるんじゃないかっていうのが、もちろんそれは確定的な情報じゃなくてあくまで推論でしかないんですけど、
それぐらい環境が大きく変わってこれまでのルールが変わってしまって大量に絶滅する。
だからやっぱりさっき言ったように既存のルールに最適化されるのが生き残っている環境の中で、
その環境そのものが劇変してしまうわけですから圧倒的に死にますよね。
なんかやっぱり世の中って理不尽なんだなっていうこと。
今の時代でもそうなんだけどもっと理不尽だったんだなって思い知らされる感じですね。
この3つ目の要素があってインパクトファクトとしてはでかいはずなんですけども、
例えば恐竜っていうものを考えてみたときに恐竜って不思議なもんで、
隕石で絶滅したか、あるいは大きくなりすぎて死滅したかって、
どっちかだけで語られることが多いんですよね。
なんかその2つをよく聞きますね。
ちっちゃい頃からそういう図鑑とかを読んでいると。
でも理不尽な絶滅で示されるのは実はその両方だということなんですね。
隕石が当たった上にでかかったから死んだってことなんですね。
どっちかだけでは死ななかったである。
可能性もあるっていうこと、もちろんそれはわからないですけど、
でも僕たちが恐竜に向けるあいつらが死んだのは運が悪かったないしは、
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遺伝子的に適応がなくなったからっていうふうに捉えてしまう、
その眼差しに本書は注目します。
おー、壮大な前提になってくる。
結局それはなぜそうかって、さっき言った理不尽さ、
つまり運と実力の重なり合った状態を、
僕たちはうまく認識できないないしは、
意図的に認識しないようにしているのではないかと。
なぜならそんなことを考えだしたら非常にややこしいからっていう話なんですけど。
でも考えてみると、どっちかであったほうが話は簡単ですよね。
処理しやすいですよね。
簡単にしたいという気持ちはすごくわかります。
それは一般人がそういうふうに捉えるっていうことと、
実は一般人だけじゃなくて専門家、
この場合でいうと進化を論じる専門家が抱える問題っていうのが、
実はその点において、つまりその理不尽さの扱いにおいて通じるところがあるんじゃないですかという問題提起が、
第一章の最後らへんで行われます。
もうこの段階でちょっとややこしいでしょ。
そうそう、今の最後の方の話は結構ややこしかった。
もう1回しゃべれって言われても、俺説明できない気がする。
一度復習しておくと、絶滅のルートには3つがあって、
その3つ目が大きいはずだけど、私たちが恐竜とか生物に向ける眼差しっていうのが、
その3つ目が結構すっかり抜け落ちてて、その2つの単純なものでしか捉えてないと。
それは結局その理不尽っていうのが人間にとって扱いにくいからではないか。
そしてその扱いにくさの中に科学的な、科学者が行う問題もあるんではないかというようなことに合わせて第2章に移ります。
扱いにくさに科学者も間違えるっていうにはなんですか。
間違えるというか、間違えるでもいいかな。議論の出発点となるややこしさがある。
簡単に言われきれなさがそこにあるというようなことですね。
第2章が、適者生存とは何かという商談なんですけど、こっちはどっちかっていうと、
一般人における進化論の理解とか、その言葉の扱い方を分析する章です。
一般人が適者生存って言うとどんなことをイメージしていて、それはどんな誤解があるとか、なんか間違ってるとか、そういうようなことですかね。
そういうことなんですけども、もちろんその適者生存とかっていうことが、
僕たちは別に科学者じゃないから、その科学的な厳密さにとらわれずに今使っているんですけど、
この本はその言葉を正しく使いましょうと敬遠を捨てるわけではなくて、
なぜそんな誤解をしているのかっていう、その誤解の仕方に注目しています。
なんかね、ここまで聞いて、やっぱね、どういうふうに話が持っていかれるんだろうって、すごい思いますね。
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そう、正しく理解しましょうじゃなくて、そこにある誤解から話を始めましょうという点で、
だからこの本の全体的にも、生存じゃなくて絶滅に目を向ける、理解じゃなくて誤解に目をつけるっていうところで、非常に面白いスタート地点をしている本なんですね。
なんかね、個々の事例は面白いけど、これどう話し進むのってすごい思いますね。
2章なんですけど、自然淘汰っていう言葉と、適者生存っていう言葉がわりに進化論周りでよく使われると。
学問サイトで使われるその言葉と、一般的に私たちが使うその言葉の意味に返りがある、離れている、ちょっと距離があるというところがまず確認されます。
どう違うかはよくわかるんですけど、一番わかりやすいのが、進化という言葉が僕たちの一般的な使い方で言うと、だいたい向上を意味してるんですね。
つまり進歩とほとんどイコール。良くなっているイメージ。でも学問的な進化にはそこまでの含みはなくて、
もちろん進歩と同義に使う人もいますけど、単に変化したってことですね。
でもそれは学問的な縛りの言葉で、僕たちの日常ではまずだいたい進歩と進化はほぼ同じ意味で使われていると。
仮にその使い方が間違っているのが、科学的な知識が欠落しているからではないとしたらっていうのが、第二章の話のきっかけですね。
哲学っぽい話になってきた感じがする。
もちろんそれは正しい知識を得て、正しく使えたらいいっていうのは一つの模範解答としてはそうなんですけど、そうじゃないとしたらどういうことが考えられるのかっていうところで、
まず言葉のお守り的使用法というのが紹介されてまして、これは鶴見俊介という方をググっていただければわかると思うんですけど、日本の思想家、哲学者ですね。
その人が言っているのは、言葉の使い方っていうのは主張的なものと表現的なものがあると。
主張的なものっていうのは、例えば2たす2は読んでやるとか、そのような何かを明示したものですね。
で、それは反証可能なものなんですよ。
それを主張的って言うんですね。
それを主張的ととりあえず言ってます。
で、表現的っていうのは、自分がそれを何かをどう感じているかっていうものですね。
例えば、暑いっていうのはもうこれ反証可能とかじゃなくて、ただその人がそう感じてるっていうのを言いたいだけっていうことで、
言葉の使い方としては、基本的にこの2つは別物。
同じ言葉として発されてても役割が異なると。
で、お守り的使用っていうのは、一見何かを主張してるように見えて、その実はそれは単にその人の感じ方を表明している、表現しているものでしかないと。
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で、例として、米兵は鬼畜っていう言葉が紹介されてたんですけど、
米兵は鬼畜っていうのは、その人が米兵は鬼畜だと感じるっていう感じ方の表明でしかないですけど、
米兵は鬼畜であるのような主張にも見えるんですよね。
うん、どちらとも言えるというのはわかります。
でも、実際、そう言ってる人が、例えば米兵は何を指すかとか、
米は何を指すかとか、鬼畜っていうのはどういう意味を持ってるのかとか、定義付けようとは別にしてないんですね。
単にその人がそう感じてるっていうだけのことを言ってるけど、文章として見たときにちょっと主張っぽい要素がある。
こういう使い方がお守り的使用法ということで、
進化の話もだいたいそのように使われているのではないかというのが一つ目の案というか説。
その次にトートロジー問題というのがありまして、ここでちょっとまたややこしいんですけど、
トートロジーまず問題っていうのが、学問の分野の中で一度起きた問題で、
それはもう一応解決してるんですね。一応解決してるんですけど、一応ここでもう一回取り上げようという点です。
今まで一般の語用の話をしてましたけど、ここで一回一般を離れて、
その学問的進化論に関する議論の話に一回入ります。
トロトロジー問題って何かっていうと、特にその適者生存っていう言葉についてなんですけど、
適者生存っていうのが進化論の結構コアになる考え方なんですけど、
それってトートロジーじゃないすかってツッコミが入ったことがあるらしいんですよ。
トートロジーというのは、ある言葉の定義の中にその言葉が含まれているようなことで、
例えば、独身者は結婚していないっていうのは当たり前ですよね。
言ってることがまんまやんってやつですね。
だから新しい情報が何も増えてないというか、再度言っただけだから記号で言うとAはAであるとしか言ってないっていうことですね。
何にも言ってないやんでもあるってことですね。
っていうみたいな時に、その適者生存ってそれじゃないのかってツッコミが入ったんですよ。
つまり、適者生存っていうのは、適者が生存すると。
で、その適者って何かって言ったら、生存したものであると。
ぐるぐる回るんですね。
生き残った奴は生き残った。
同じことしか言っとらんやんってことですね。
言ってるだけじゃないか。
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それは学問的に、学術的に適切なことではないのではないかっていうツッコミが入ったんですけど、いろいろ反論があって、そうではないと。
結局それは、適者っていうものに基準を与えたと。
適者って誰かって決めようっていう時に、生き残ったものとしようって決めたと。
で、それをもとにいろいろな仮説が提出されて、
それについて、その仮説は全然トートロジーじゃないんですね。
いろんな生物の進化の歴史とかの具体的な案が出されて、それについていろいろ議論が交わされていると。
だから、適者生存っていうのは、言葉として仮にトートロジーであったとしても、進化論を構成する様々な学説っていうのは全然トートロジーじゃないし、
だから全然問題ないと。
だからそこはもう退けられてるんですね。
でも、見た時にやっぱり適者生存っていうのは、言葉としてはトートロジーなわけですね。
それはもう。
で、トートロジーっていうのは何かっていうと、主張AイコールAであるって言ってるので、絶対に間違いないんですね。
間違いが含まれようがない、循環してるだけだから。
だから、この言葉って無敵の言葉なんですよね。
この無敵さ、つまり適用範囲の広さっていうのが、僕たちがさっき言った言葉のお守り的使用法として使われている一因ではないかっていうのが、まず著者の提案というか解説。
あ、適者生存って言っとけば絶対間違いないから、そう言っとくと楽ちんだから、そのお守り的に何か困ったら適者生存って言えばいいやっていう。
間違いようがないからっていうのがまず理由の前半分。
これはでも確かにそうやなっていう感じですね。
で、もう一個の後半分が、自然淘汰は自らの足跡を消すという話なんですけども、適者が生存していきますよね、自然淘汰によって。
だから、後から振り返った時に適者しか見えないわけですよ。
適者じゃなかったものは歴史に足跡を残さないんですね。
だから、生き残っている人間とか生物とかっていう線が一本しか見えないんですね、一本しか。
本当はいろんな分岐があったはずなんですけども、私たちに目に見えるのは生き残っている者たちだけなんですね。
だからあたかも生き残るべくして生き残ったように見えてしまうんですよ。
うん、なんかその、分かります。生き残っているものが、なんて表現したらいいんだろう。
当たり前に思うけど、ちゃうよねってことですよね。
他に実はちょっとしたきっかけで、死んでたかもし、絶滅したかもしれないみたいな可能性が全部消え去って、今生き残っているのは生き残るべくして生き残ったんだ。
と、勘違いしやすくなってしまう?
そうそうそうそう。だからさっき言ったトートロジーは間違いようがないじゃないですか。
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だから何にそれを適用しても間違いにはならないし、ほらこの通りそうじゃないか。だって生き残ってきたんだからって論証もできるわけですよね。
でもその論証には何の意味もないんですけど、そこに確かに証拠はあるんですよ。
だって生き残ってきたからっていう絶対的な証拠があるんですね。
この2つの側面でさっき言ったこの適者生存とか進化論に関わる言説があまりにもお守り的に使いやすすぎてしまうから、僕たちはついついそれを言ってしまうんではないかというのが2章の半分ぐらいです。
言ってることは結論だけ言えばわりとシンプルな感じがしますね。
そうそうそうそう。ここに至るのがかなり緻密に組み上げられてるんですけど。
その後半部分なんですけど、じゃあなぜ僕たちはその進化論をついついお守り的に使ってしまうのだろうかという理由についてなんですけど、
だから僕たちが持っている日常的な考え方、ことを社会通念と言うんですけど、非常にマンチしているからではないかと。
じゃあその社会通念、僕たちが案に抱えている社会通念とは何かという話なんですけど、
それが実は進化論ではない非進化論的な考え方、もうちょっと言うとダーウィンリズムとは違う進化論的な考え方ではないかという話なんですね。
進化論をついつい使ってしまう理由は、俺たちが進化論的ではない考え方をしてしまうから?
そういうこと。ややこしいことですね。ややこしいですけど。
最初に言った適者生存という言葉は、実はダーウィンの造語じゃないんですよね。
ダーウィンの種の進化というのの一般から後半ぐらいまではその言葉が使われてないですね。適者生存という言葉は。
ハーバード・スペンサーという方が適者生存というのを使われまして、ダーウィンの近しい人が、この言葉いいからぜひ使った方がいいよっていうようなプッシュもあって、
ダーウィンもその言葉を使うようになったと。問題はそのハーバード・スペンサーという方の考えた適者生存っていうのが、
その人が持ってた考え方っていう進化論、進化の考え方が、ダーウィンのものとは似ても似つかないというか、似てるんだけどかなり違うっていう。
それは発展的進化論っていうやつなんですね。発展的進化論っていうのは、物事がある最終地点に向かって少しずつ良くなっていく、最終目標に向かって順調に進んでいく。
だから、AとBとCがあって、それが進化していくときに、AよりBが良くなって、BよりCが良くなっていくっていう発展的な考え方を持ってたんですね、彼は。
その考え方は、生物だけじゃなくて、この世界のありとあらゆる場所がその法則下にあるというような考え方なんですね。
これはおそらくですけど、スペンサーという方が発表していたのが、ちょうど産業革命後のイギリスやったらしいんですよ。
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自由主義がこの世界に広がり始めた頃ですね。まさにその頃は、昨日より明日が豊かになっていくと。
いわゆる民主主義が広がって、その前の政治主体よりも良くなったというような感覚があって、
そのような感覚で、どんどん人類は良くなっていく、世界は良くなっていく、宇宙は良くなっていくっていう考え方をスペンサーは持ってたんですね。
まさに今、僕たちが持っている感覚ってそれじゃないですか、という話なんです。
めっちゃ、めっちゃ腑に落ちるというか、歴史から何から踏まえたすごいお話ですね。
でも考えてみたら、ダーウィンの種の起源という本で説かれているのは、そうじゃないんですよね。
別にダーウィンは生命の木っていうのを描いて、私たちの先祖から、もともとの答えは一緒で、そこからいろんな分化してきたっていう話をしているだけなんですね。
時間が経つほど世界が良くなるとは一言も言ってないんですよ。
むしろ種っていうのはランダムに変異していって、その時の環境にただ適応しているだけであると。
だから良くなるとは一言も言ってないんですけど、まさにその進化論の言葉を僕たちはスペンサー的な考え方のもとで使っちゃってるんですね。
進化するって言った時には必ず良くなるという意味合いで使ってるんで。
時代背景も踏まえて、すごく人間の直感にも合ってるってことなんですかね、そういう考え方というのが。
なので、ランダムに適当にやって、たまたまこれが生き残ったじゃなくて、なんか良くなったやつが生き残ったの方が、やっぱ都合がいいような気がしますよね、人類にとって。
なんかその世界の説明としっくりくる感じがしますよね、おそらくは。
だからこの本の著者が言いたいのは、例えば僕らがその進化論について知識不足だからとかいうことじゃなくて、実はその一番根本的な認知バイアスとして、
そのスペンサー的な進化論の方が僕たちの脳に調和しているから、ついついそういうことを言ってしまうんではないかという話ですね。
なんかあれですね、壮大な人間の認知バイアスというか、そういう感じなんですかね。
一番大きい枠組みでの認知バイアスかもしれないですね。ついつい目的論的に物事を説明してしまうという癖。
なんか因果関係があるように見えてしまうってやつですよね。因果をつけたがるっていうのか。
っていうその話が第2章です。
第3章なんですけど、第3章がダーウィニズムはなぜそう呼ばれるかという商題で、今回はもう完全に専門家の進化論に関する議論が扱われてまして、
ここが熱いです。ここが熱いんですけど、だから一般人の話じゃなくて専門家の話で、
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当然その進化論のダーウィンが提唱して、その後にネオン・ダーウィンズムっていうのがあって、現在の進化論的な考え方が固まったと。
後半のあたり、ダーウィンの頃じゃなくて、直近ちょっと前あたりにいろいろ一つ大きな論争がありまして、その論争が第3章で語られてます。
主題となっているのが、適用主義をめぐる論争ということなんですけど、適用主義って何かっていう話なんですか。
だから簡単に言うと、物事が今その形になっているのは適用の結果であるという説明だけで全てを説明しようとする態度のことですね。
これは進化論を採用する場合は結構当たり前に出てくるというか、それが進化論の説明なので、
適用したから、例えば生存に適していたからそうなったみたいな説明をするっていうのが当たり前の中で、
スティーブン・J・グールドっていう人もかなり有名なんですけど、
井野さんが、「それはどうなの?」っていう話を論文を提出したんですけど、
まさにその適用主義者が集まる、学会みたいな集まりの中で、反対の人を単独で行ったっていう、かなり劇的なことをされた方なんですけど。
たしかに、ダーウィンのライバル的な存在の人でしたっけ、この人って。
ダーウィンじゃないけど、もっと後の時代から。
もっと壮大な後か。
リチャード・ドーキンスの人がいて。
そっちの時代の人ね。
リコ的な遺伝子って書いた人で、めっちゃ有名なんですけど、その人に真正面から論争をぶつけた人で。
残念ながら、一応現在の考え方では、そのグールドの仕掛けた反論っていうのは、基本的には棄却されたというか、それほど説得力がないとして、今、論争に負けた人なんですね。
ただ、この第三章ではそのグールドの論を細かに追いかけます。
これも負けた方に注目している章です、これも。
この人が言ってることの方が、負けた人の話の方が面白いんじゃないか。
負けた方に目を向けると、また今の時点で目を向けると、何か見えるものではあるのではないか。
あるいは私たちが見過ごしてきたものがあるのではないかっていうところで、そのグールドさんの話をもう一回ちゃんと追いかけましょうと。
要するに、適応だけで説明できないじゃないことがあるのではないか。
例えばこういうことは説明できないんじゃないかっていう話をグールドさんが言ったと。
で、それを当然言われた方も黙っているわけではなくて、いやいやこうなんだっていうのを同均質という方が反論されるんですね。
一番有名な人ですよね、この人も同均質も、遺伝子の乗り物である。
専門家の中でも一般の中でも多分彼が一番有名でしょうし、一番尊敬されてる方じゃないですかね、きっと。
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確かに完全に適応だけで説明できないこともあるかのように見えるけども、
例えばその一つの具体的な事情として、動物の行動が適応に適してない、いわゆる不合理な行動をとっているように見えるけども、
実は例えばその動物の生態的な能力の限界、例えば人間で言うとバイアスかなっていうものを考えたときに、
その一見不合理な行動が実は敵一番取り得る最高の戦略だというようなことが考えられるよっていうような綺麗な反論を返してるんですよね。
それに補足して、ドーキンスと非常に、ドーキンスの番犬と呼ばれてるんですけど、デネットさんという方がおられまして、
これ前回出てきましたね、デネットさんという方は、ちょっと触れたピンカーさんも読むならデネットさんも読まないとねって言ったデネットさんなんですけど、
その方も一緒に反論側に回りまして、基本的に進化論を採用する人間は適用主義にならざるを得ないと。
ただしその適用主義の使い方が、何でもかんでも適用主義として説明する悪い適用主義者と、
その他の偶然的な環境的な要素を加味した上で適用主義を適用する慎重な良い適用主義者の2つがいると。
確かに前者は知り避けられてもいいけど、だからといって適用主義そのものを批判するには当たらないとデネットさんは反論してるんですね。
反論の余地はもう基本的にはないんですね、確かにそうやと。
突き詰めると、グールドさんが本来進化論を扱う人間はこれぐらいいろんな環境のことを考えて適用について言わなければならないって言ってるのを再現してる人ってまさに同均質なんですね。
同均質は別に何でも適用で説明してるわけじゃなくて、環境との相互作用においてこういうことが言えるんではないかっていう説を提出してる人なんで。
だから最終的に行き先はやっぱりねっていう。
同均質がグールドの意見を吸収した上で、まあそうだよねって言って自分の土俵で戦ってたっていう話で、もう完全にグールドは負け戦、もう無茶な戦いをずっと始終してたっていう話なんですね。
あとから見るとそういうふうに見えてしまうっていうことですかね。
で、グールドも別に頭が悪い人ではないし、彼自身も非常に適用的な説明をうまくする人なんですよね。
素数ゼミって知ってます?
知ってます。なぜか素数の年、素数年おきに大量発生するセミですよね。
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あれを説明したのがグールドのエッセイなんですね。彼の書いたエッセイがあれを説明してるんですよ。
だから非常に適用的に説明してますよね。
素数ゼミとかは話めっちゃ面白いですよね。長くなりすぎてしまうけど。
そう、グールドとかドギスってそういう文章書くのがめちゃくちゃ上手い人なんですけど。
だから彼自身も別に適用主義を採用しているし、別に進化論に反対しているわけでもないのにもかかわらず、
その負けるに決まっている論争をなぜ続けてしまったのかっていうのがわからないよねっていうところで、第3章が終わって4章に続くわけです。
わからないよね、3章が終わるんですね。
いや、おそらくだからそこには何かこだわった理由があるのだろうと。
それを考えてみようというところで、その終章に入ると。
ここが一番盛り上がるところなんですが、グールドはその戦いによって何かを守ろうとしていたのだと。
何かその適用主義が当たり前だとかになった時に失われてしまうものがあったから、強固に反論したんだろうと。
彼が守ろうとしたものは何かっていう話で、歴史という言葉が出てくるんですね。
歴史というのは、日本語の言葉で説明するのは難しいんですが、歴史、historyって言った時に、それは法則ではないんですね。
歴史は法則ではないし、歴史は発展とか展開でもない。
これが何を意味するかというと、あるアルゴリズムとか演繹によって導き出せないんですね、歴史っていうのは。
つまり、原始状態の江戸幕府がありましたっていう式が与えられたとして、
400年後にこうなっていますっていう歴史を描くことはできないんですね、法則じゃないから。
法則ではないから、どうなったかはわからない、決まっていない。
つまりそれは偶然に左右されるわけですね。
法則とか発展ではないっていうのは、そこに偶然的要素が必ず入ってくるっていう。
その偶然的な要素とその法則的なものとの絡み合いが刻んでいくのが歴史であると。
ところが、適用主義になった途端にその歴史が消えていくと。
あるいは歴史が既存されるとグールは考えていたと。
つまり、あらゆることが現在においてこれは適用しているからこうなんですっていう説明って歴史がいらないんですよね。
その過去がどうなっていたかは全く関係がない。
なんか言いたいことはわかるような気がするけどいまいち風に落ちない。
そうなのか?
説明が現在有用性というものだけで成立してしまうんですね。
歴史がどうなっていたか、その形質形態がどんな歩みをしてきたかを別に考えなくてもできてしまうという点に問題を感じたのではないかというのがまず一つです。
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でももちろんここは釈然とはしないと思いますけど、おそらくそういう問題意識があったのではないかという話で。
つまりここでその歴史とは何かという話になってくるね、次は。
話がまたあれですね、進化論から歴史に来るんだ。
さっき言った進化論って自然淘汰っていうのが一つの柱で、もう一個が生命の木っていう生命がどんな風にどんなタイミングで何ができてどのような種を生んできたかっていうもののツリーズですよね。
科学館とか行くとよく出てくる感じのやつですよね、でっけえやつがあって。
自然淘汰と生命の木っていうのが進化論を支える二つの柱なんですけど。
進化論は、進化論としては自然淘汰っていうのはある種のメカニズムを説明しているだけですけど、生命の木って実は歴史の記述でもあるんですよね。
それはね、すごい。あれはまんま歴史ですね、あの絵は。
なので、実は進化論について言及するときって、歴史的なものに関する言及を避けて取ることはできないだろうと。
ある種のパターンとか法則を言っておけば進化論になるかっていうと、それは進化論としては実は足りないと。
パターンとか法則があるものではないっていうのはすごいわかりますね、あの木は。
あの木はだから最初の生命がパッと当たられて、何かの法則があったら今の人間に至れるかっていうと無理じゃないですか。
アルゴリズムで書けるものじゃないってやつですよね。何がどう変化するとか。
地球環境とか他の生物とかとの相互作用でああなったわけじゃないですか。
で、そのああなったを支える半分が歴史のはずですよね。歴史というか歩みなわけですね、その全体の歩み。
ここはちゃんとそれはそれで記述されなければならないけど、適用主義者っていうのは適用してたからです。
適用してたからですっていうだけで完結してしまえるし、それであたかもその生命の木のほうまで包括、説明も包括できたような木になってるかもしれないが、いやそうじゃないんだよということをグーグルドは守りたかった、言いたかった。
その歴史的なものとか偶発的なものっていうものの価値を進化主義者はもっと重視した方がいいんではないかと是非言いたかったんではないかっていう話ですね。
なんとなく理解できました。
で、この歴史的なものっていうのは科学の中でも結構難しいというか、例えば日本において山大国がどこにあったかっていろんな通説はありますけど定説ってはっきりないですし、仮にあったとしてもめちゃくちゃはっきりした証拠が見つからない限りはこれだって言えないわけじゃないですか。
なんかよく変わってますよね、ちょっと前の話と今の話とでも。
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それとは別に、例えば物理の法則っていうのは基本的に一回見つかったらもうそれ覚醒ですよね。新たなデータが出てきて変わることはあるにしろ、山大国がどこにあったかみたいな論争にはならないですよね、基本的には。
順番が逆ですよね。なんかこれがこうなるからきっとこういうルールがあるんだっていうことだから。
こういう学問的なものにもいろいろやり方というか語られ方があって、最初に説明と理解っていう2つの単語が出てくるんですけど、説明、例えば物理っていうのは物理学っていうのは何かを説明するものだと。
太陽系はこういう楕円形で回ってるみたいなことを言うのが説明であると。それとは違って、理解、Aとはこうであると理解する。
例えばフランス革命は人類史において人権を確立した運動であるっていうのは、さっきの物理的な記述とは違いますよね。
何かを説明してるというのは何かを位置づけてる。何かをそのようなものとして理解する活動というか。
この2つが違うよねっていう話がまずあって、でも結局その説明と理解という説明も結局しっくりいかないかったらしく、方法と真理っていうのにそれがバージョンアップするんですね。
方法と真理って、これ関係ない。
ちょしゃーの話が。
ちょしゃーというか、これも研究した人がいるんですけど、さっき言った歴史の理解と物理の理解の乖離をどう決着つけるか、どう位置づけるかっていう話の論争で、これは全然別の方がやってる話なんですけど。
で、今のところ何とか決着してるのがその方法と真理。
方法と真理って言うんで、方法って基本的に学術って方法論なんですよ。
何かしらの方法を使ってこういう結果が出ましたっていうことで、その学術が成立しているようなところがあるんですね。
方法が確立されてないとか方法がバラバラやった場合って、それは学問的ではないんですね。
基本的に絶対に方法による。方法が確立されて共通されてるから何かし一定のことが言えるということになってると。
再現性がある?
そうです。再現性があるためにも当然方法が確立されてる必要がありますよね。
で、この方法論やからこれが言えるけど、この方法論ではこれが見えてないからこれは言えないみたいな線引きも初めて方法があるから言えることで。
だから学問的なものってまずその方法ありきっていうのがまず一つと。
で、もう一個がねその理解に近いんですけど、何かがそういうのとは別にそれと分かるっていう感覚。
例えば芸術を見たときに言葉ではうまく言えないけど、あーこれってこうかっていう分かる感覚?
これはさっきの方法とかでは絶対に立ち入れない。再現性がない。
例えばその絵を見たときに番人が同じような分かり方をするかっていうとそれは保証もできないですよ、全然。
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だからここの個体的な、個別的なものでしかない分かり方、それを真理と呼んで、そうじゃないのを方法として区別したと。
で、この区別がどう生きるかっていうと、さっき言った進化論の二つの話で言うと、歴史っていうのはそっちサイドなんですね、分かるサイド。
真理、方法と真理。方法じゃない方。ここは理解と言ってもいいんですけど、理解とか把握とか言ってもいいんですけど、
歴史っていうのはそっち分野でしかないから、それは結局学問的な方法でどれだけアプローチしようとしても絶対に無理、初めからそれは無理なものだと。
でも、グールドさんはそれをやろうとしてしまったと。その学問的な方法の方でそっちも巻き込もうとしてしまった。
だから生物っていうのはこういうものである、こういう歴史を辿ってきたっていうことを同じような枠組みで言おうとしてしまったけど、
それは初めから無理やったから彼の失敗は宿命付けられていたというところが、グールドの失敗を見つめたときに見えてくるものということですね。
じゃあどうしたらよかったのかっていうところで、著者の提案として、理不尽という言葉を使えばよかったというところで、このタイトルが回収されるんですけども。
結局、グールドが対するシステムというのは、私たちの人類史における偶然性、偶発性の役割の大きさを言いたかったわけですね。
そんなものを軽んじるなと言いたかったわけです。でも何かを軽んじる軽んじないっていうのは、さっき言ったように学問の方法ではないんですね。
何かが重要だと言ってること自体がもうすでに何かを重みづけていることなんで、だから学問の言葉ではないと。
で、この偶発性っていう言葉の似てるんですけど、逆にもっと文学的に言うと、これ不条理っていう言葉になるんですね。
不条理という言葉はサルトルの王都っていうような作品に代表されるんですけど、これは結構哲学的、文学的なテーマで、条理に合わないことっていうことなんですけど、
この理不尽さっていうのはちょうどその間にある言葉だと著者は言ってるわけですね。
偶発と不条理の間にあるものが理不尽。
そう、両方とも同じ意味合いなんですけど、いわゆる理系的な考え方によりすぎることもなく、あるいは理系的な考え方でもありながら、人文的な文学的な言葉でもある。
この理不尽っていうのは、その両方に行ったり来たりできる言葉であると。
この言葉を使えば、もしかしたらよかったんではないかっていうのがちょっとだけ提示されてるんですけど。
それで一番最後に、その理不尽っていう言葉をめぐって、僕たちが大切にしなければならないことが最後に語られてて、それは一応本書を読んでもらえばいいと思うんですけど。
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だから、結局その、グールドが守ろうとしたもの、歴史的なもの、偶発的なものとか、私たちにとって何が重要なのかっていう重みづけをする行為っていうものをなくしてはいけないよなという話やと僕は思いますけども。
というわけで、全体的にかなりアクロバティックな話をしてきましたが。
最終的にはだから、グールドっていう人が3章から4章にかけて、どんな論争を仕掛けて、どんなふうに負けてきたのかっていうのが論じられてるんですけど。
その論争の中でグールドがやろうとしてきたことって、さっき言ったように、こうでもあったかもしれないような可能性、偶発性がもたらしたもの、あるいはその偶発性によって消え去ってしまったものを、もっと注意を向けようっていう話なんですね。
なぜならば、進化、自然淘汰っていうのは自分の足跡を消してしまうものやから、積極的に目を向けないと見えてこないと。だからそれに目を向けようという話なんですけども、これ一歩引いてみると、グールドっていうのは進化論に関する論争の敗者なんですよね、負けた人。
で、僕たちはこのまま行くと、グールドの話を消し去ってしまうんですよね。後から振り返った時に、進化論っていうのは一本道で来たような感じを受けてしまうはずなんですよ。
うーん、誰も負けた人には目を向けないっていうのはあるような気がする。向けなくなるのかな。
だから、別に本書の中では書かれてないんですけど、本書がグールドに目を向けてるっていうその理由が、まさにグールドが論争を仕掛けたっていうのと同じ構図になってるというふうに僕は読めるんですよね。
普段、進化論の中では見えなくなってしまうものに目を向けてみる。で、僕たちが誤解しているものに目を向ける。論争で負けてしまった人に目を向けるっていう、そのまなざしのあり方が全ての構造で一致してるんですね、この本って。
あー、それも含めて全部うまく言葉になってないな。なんとなく通じるんだけど、全体的に密度が濃くてね、1時間でなかなか理解できない感じがする。
ちょっと1時間で説明できることは難しいんですけど。だから、僕がこの本を読んで、いろんな分野の知識を得られたのとか、あえてそのグールドに目を向けてとか、全然知らなかったですね。グールドって人がいて、僕の中では同期に進むに比べて弱っちい人っていうぐらいの人生だったんですけど。
やっぱりそういうのがまずいんだなというのはまずわかったのと、この本がその構造的に全てについて同じまなざしを向けているっていう構造的美しさっていうのに惹かれた本ですね、この本は。
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【佐藤】あれですね、言ったらラシュタさんのやっぱ全体を通してみるとわかることがあるみたいな、やっぱ広い読みでは面白いやつではないっていう、なんかそういうやつですね。
【岡田】そうですね、だから1章から4章まで通して読んだときに、ああ、これはそういうことやったのかなと。別に著者はあえてそうしたとは書いてないし、むしろそのグールドの話がこんなに膨らむとは思ってなかったって書いてあるんですけど。
【佐藤】自分でも。
【岡田】でもそこが膨らんだっていうのは意味があることやろうと思いますし、グールドが必死に守ろうとしたものと、別に本当に必死に守ろうとしたかどうかは知りませんけど、
著者がそのように見立ててグールドの論語を丁寧に追いかけて守ろうとしたことっていうまなざしが重なってるところが、これはさすがやなと思った次第です。
多分僕の説明では十分この本は説明できてないと思うんで、ぜひ読んでいただきたいんですが、さっきも言ったように、そう簡単に読める本ではないんで、文章は読みやすいですけど、ゆっくり読んだほうがいいと思います、この本は。
【佐藤】これは話を聞くだけじゃなくて、ちゃんと読みたいなっていうふうにすごい思った本ですね、その話を聞く限りで。ただ、むずいですね。話を聞いて多分半分わかってないだろうなっていう気がして。
いや、僕の説明がかなり悪いというか、もう端折らざるを得なかったというか、そこは話をすっとばしてるんで、わかりにくいところはあると思うんですけど。でも、この本の今言った大きな論の流れ、木で言うとその幹の部分も面白いですけど、さっき言ったその、著者の知識の豊かさが、枝と枝を埋める葉っぱになってて、その葉っぱもね、非常に楽しめるんで。
概要とか要約だけじゃなくて、最初から最後まで読んでいただくのが一番かなと思います。
いろんな楽しみ方ができそうな感じっていうか、全体を見つつも。細かい知識も、さっきのGouldの話とかでも、俺、進化論に出てきた喧嘩を売っていた人っていうぐらいの記憶しかないんですよね。
もうごっちゃになって、ダーウィンの時代に、なんかダーウィンに喧嘩売った人だっけみたいに、間違える程度の曖昧な認識しかなくて。
でも、今でも買っている同期因数に関しては、どんな本にもちょっちゅう出てくるじゃないですか。離婚的な遺伝子という言葉のみで言えば。
そっちは、やっぱりGouldよりも、もうちょっとちゃんと知ってるんですよね。
分かる分かる、それは確かに。
ああ、そういうことなんだなって。やっぱその負けてしまった人には、当然目なんて向かないのが、やっぱその人間の認知のバイアスというか、当たり前な気がするけど、それを当たり前にしてはいけないんだろうなっていう印象があって。
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そうやって目を向けてくれたことで、他にも多分いろんなものを見逃してるんじゃないかなっていう気分にもなりますし、ちょっとそのGouldさんの他の本とかも気になりますけど。
まあでも、この本を読んで、Gouldの本を読みたくなる以上に、同期因数のことが好きになるんですけどね。
そうなんだ。同期因数もね、言われてみるとね、やっぱり理工的な遺伝子っていう発言をしたとかね、なんか実はそんなことは言ってないというか、なんかそっちばっかり取り上げられて本当の功績が誰も知らないみたいなこととか、そんな程度しかやっぱ知らないんですよね。
だからこの辺はもうちょっと深掘りしたいなっていうのが一つ思ったところで、この大きな進化論をめぐる話の周辺に散らばってるさっき言ったその方法とか説明とかっていうのも、かなり僕知らんかった話なんで、ここもちょっと掘り下げたいかなという感じが。
その辺はね、聞いててもね、大体わからんかったっていう感じでしたね。
いやでもさっき言って、心理的なものと方法的なものの相入れなさっていうのは確かに確実にあって、やっぱりそれを無理に統合しようとすると変なことになるんですね。
例えば恋愛工学とかも多分そういう間合体させてしまったものだと思うんですけど、ああいうエンジニアリングを持ち込んではいけない領域っていうのが必ずあるんで、どっちが偉いっていうわけではないんですけどね。
まあね、それはそうですよね。
だからさっき言ったように、適応主義を持ち出すと歴史的なものを全て演劇の中に収まってしまえるかのように語られてしまうっていうのが、やっぱり彼の時代を越えて現代でも多分あることでしょうし、問題としては。
だから改めて、やっぱりその方法がないからダメっていうんじゃなくて、その人の各々の感じ方っていうもの、理屈で押し切れないようなものもやっぱり大切にしていかなきゃならないなということを多分考える一冊になると思います。
話的には結構部分的に、実力も運のうちという、これもまた紹介しましたが、あの本と近いんですけど、もっとフィールドは広いですね、この本の方が。なんて、生物界を相手にしてますからね。
ああ、そういうことね、そうですね、確かに。人類じゃないですからね、相手にしてるのは。
結局だからサンテルさんの議論も、2項対立になってしまってるんですよね。だから能力主義or notみたいな話になってて、でも能力で何かを判定することが間違ってるわけじゃないですよね。
ただ、能力でそれを判定していけない領域があるというだけの話であって。だからやっぱりそういう土俵の広さで、この手の話は話さないと、ちょっとどん詰まりになるというかね、いう気はします。
いやー、なんかすごいですね。表現としてね、鳥肌が立った感じの本っていうのかな、印象として。読めるかどうかわからんけど読んでみようって思った。
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読めるかどうかで言うと読めると思いますよ。著者は文章も上手いんで、普通に最後まで読んでいけると思います。
ただ、例えばターンが変わって、小林さんがこの回で説明しようとしたら、僕と同じぐらいにうまく説明できないと思いますよ。うまく説明するのが本当に難しいです、この本は。
そうですね、なんか1回で理解できるもんではなさそうだなっていう印象ですね。そのぐらい考える素材がたっぷり入っているっていう印象も受けて。
いやー、なかなか、確かにらしたさんが1ヶ月2ヶ月ずっと、今度こそ紹介しようと思って言っていたのがわかる気がする。
読書としては、今年読んだ日本人の書いた本の読書としては相当高ランクに入りましたね、この本は。
あー、なんかその話を聞くと確かに1年に1冊出会えるか出会えないかっていう印象を受けそうな本ですね。まあ読んでなくて言うのもあれだけど。
ぜひ、文庫本なんで手に取りやすいと思うので読んでください。
はい、読んでみたいと思います。
はい、じゃあ僕からはこんなもんです。
はい、では感想や質問などがあればハッシュタグ、カタカナでブック型リストをつけてツイッターで呟いていただけるとゴリゴラしたか確認して紹介したいと思います。
この収録の後には本編では語れなかったアフタートークというものを収録しておりまして、
アフタートークは今回からサポータープランにご加入いただくと聞けるようになりますので、
詳しくは概要欄からリンクなど貼っておくのでそちらもご覧ください。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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