自由の探求
20分で話す、テツセカの番組は、哲学を知りたい3人が知らないながらも知ろうとあがく番組です。ミソです。
モです。
トモキです。
はい、20分で話すと、というようなね、状況なわけでございますよ。
おお、どういう状況?
いや、もう僕らこう、再現なくダラダラ喋るみたいな、そういうことをやりがちな人間たちなんでね。
そうだね。
1時間とか平気で普通に喋るみたいなね、ことをやるわけじゃないですか。
やっぱり制限があってから、あるからこその自由みたいなね。
まあまあまあまあ。
あるというところもありますんで。
今回は時間制限を設けて、喋ってみようぜと。
なるほど。
ところです。
それだけで何も決めずに話し出したと。
そうですね。
いうところですよね。
自由についてじゃなくていいんじゃないですか。
ああ、なるほど。自由について。
20分足りないじゃないの。
足りない中で喋るからこその自由だというような、そんな話なんじゃないですかね。
ああ、なるほどね。
じゃあ自由にするってなど、こう20分間私たちは喋りもしないで。
自由にする。
勝手に自由にしとくっていうのはどう?
なんか、昔ね、イムさんっていうゲストに来た人がね、本を読むだけのポッドキャストとかいうわけのわかんないことをやってたやつを思い出すね。
思い出すね。
そういう自由ではないね。
みたいなね。
そういう自由ではないっていうことは、ほらもうすでに自由ということが何か概念になってるというか。
自由って何なん?
なんか前も聞いたかもしれないけど、自由って何なんすか。
うーん、そうだよね。
だからそこは、それは人によって定義は全然違いますけどね。
フリーザー?リバティー?
英語でもそういう言葉が違うじゃないですか。
フリーダムとリバティーと何が違うの?
外側からの解放っていうのと、自分自身が自由になるみたいなところ。
自己責任の意義
自分自身を利用して、外界から左右されないような本物の自分を持つみたいな、そういう自由。
今めっちゃビール飲みたいとかって思っても、そういうことに左右されない自由みたいな。
飲んでもいいんだけど。
カント来た、カント。
カントになっちゃうよ、それはね。
なんでなっちゃうの?
カントの自由の概念ぐらいしか知らないかもしれないですけど、逆に言うと。
カントの自由の概念は何なの?
自分自身をある意味、立志して、外側の感情とか情念とかそういうものに左右されずに、やるべきことをやるみたいな、そういう感じが自由だっていうことを言ってるわけですけど。
それだけ聞くとあんま自由っぽくないじゃないですか。
そうよくないね。
なんか苦しそうなんですけど。
でも意外と考えると、だからそれこそ、ある意味いろんな依存症になってしまったりとかっていうのは、そこまでいくと自由じゃなくなる感じもわかるわけじゃないですか。
だから僕もアルコール依存症一歩手前なわけで、ビールを1日6本飲まないとダメみたいな感じになっちゃってるわけなんですけど。
それはもう不自由じゃないですか。
しょっちゅうおしっこに行ってはみたいな、こういう身体的なものに縛られ。
こういうのから、解放されるためにある意味、コニタンさんとかは禁酒して。
瞑想する。
瞑想して、っていうふうにやってるわけじゃないですか。
それもめちゃくちゃわかるし。
そういう意味の自由。
かわいそう。
トモキとドブちゃんの話とか聞いてるとさ、ほんとかわいそう、何かに縛られていてね。
どういうこと?
なんとかは嫌いだとかさ、なんとか嫌いだとかさ、なんとか嫌いとか、ほんと大変とか思って。
そういうことか。
なんかかわいそう、ほんと。いいじゃん、それで。
確かにそれも縛られてるのかな。
分からないけど、みそっちゃんどう思う?
確かにな。
自由の反対は何?抑圧?不自由?
自由っていうか、多分カント的な観念だと、たりつみたいな感じじゃないですか。
だから他に頼って生きるみたいな感じの生き方なんじゃないですか。外部に頼って生きるみたいな感じじゃないですか。
そうなんだ。
自立?
自立と自由が一緒ってこと?
近いんだと思う。
ちょっと概念としてかぶってる部分と違う部分はあると思うけど。
しっかり理解として。
だから自由っていうのは、やっぱり責任を負わされてしまうという不自由さがあるというか、そういうことか。
だけど頼って生きることっていうことも、それが本当は人間らしいんだみたいなこととかもあるから。
そうだよね。
頼ってないと自由、頼らないと生きられないことが自由じゃないとしたら、それも困るよね。
それは人間社会として成り立たないよねとかもあるかもしれないしね。
だから自由にしてるからあなたは責任を持ちなさいって言われてて、自己責任の問題ってあるじゃん。
はいはいはい。
それってさ、でも社会の中であなたは本当に自由で自己責任を持てるんですかっていう話だよね。
まさしく、まさしくそうだよね。
それで苦しくなる人がいるよねっていう話とか。
うわーちょっとそれ。
だからと言って、やっぱりその自己責任論。
前も話した気もするけど、自己責任論みたいなのはやっぱり僕も嫌だし嫌いなんですけど。
でも自由っていうことは、それを自由にするなら責任も持つよね、みたいな。
ついてくるのは何年なの?
いや本来的に言ってる、カントが言ってるのは、それを他人に押し付けることじゃないわけですよ。
お前は自立してないから自立しろって言った時点で、もうそれは自立してないというか、外部に求めてるわけじゃないですか、それって。
だからそれ言っちゃったらおしまいなわけですよ。
それはもう自分の中で完結して自立しなきゃいけないわけで、だけどそれを自己責任論みたいな感じで、それを他人に押し付け始めると、なんかそれはもう違くない?みたいな。
言ってる内容としては確かに一緒だし、ストイックなことをみんなやれよみたいなことを言ってるんだけど、それを他人に言うことじゃねえだろみたいな。
多分カント的にはそうなんですけど、だけどなんかそれを自己責任論的に捉えられてしまうみたいな部分もあるし、
ただその自己責任論の一部もわかる部分もあるというか、もちろんある程度は自分でやらなきゃいけないよねっていう部分も、それは世の中でそう。
だから自由を突き詰めると、じゃあ自己責任になりますっていうことになったとするじゃん。
そうするとやっぱりさ、立派さな瞑想とかやってさ、静かにしてるのが一番いいよねみたいになっちゃうじゃん。
なるほど、なるほど。
何も言わないことが一番さ、自由だし、自分の自由を尊重してるし、自己責任を取るとかって言われたとしてもそうでし、人の責任にしてないしって思ったりするが、
でも人を頼った方が本当はいいじゃんっていう社会性のある動物なんじゃないかって思っちゃうんだけど。
本当はね。
まあ、そうそうね。それもそうだし、一般的に言う自己責任論ってさ、立派さな瞑想をみんなしようぜっていう話ではなくてさ、それだったら逆にすげえ平和な感じはするんだけどさ。
そうだね、全員が立派さな瞑想をできるような状況であったら、もしかしたらめちゃくちゃ平和かも。
別にもう干渉しないじゃん、それって。だけど、自己責任論ってある意味、競争社会みたいなのから落ちぶれた人を貶めるための言葉として使ったりしてるわけじゃないですか。
この自己責任の社会において、お前は平等にいろいろ恵まれてきたのに何もできなかったんだろうみたいなふうに言われて、その落ちぶれた人を貶めるために、お前の責任だよそれはっていうふうに言うために使ったりしているような気がしていて。
別に、美白さな瞑想をみんなやるんだったらいいんだけど、そういうちょっと。
お互いを思いやる自由
人を責めたりみたいな。
そう、責めたりとか。ちょっと外役のある言葉になってしまっているっていう面もあるから、あんま良くないよなってやっぱり思っちゃうっていう。
めちゃくちゃ問題だと思う、私はそれは。
とこを思うし。
民主政治とかそういうことでしょ。
だからみんなが参加できるから、あなたたちには自由がありますよ、選挙権もありますよとか言ってるけど、でもその裏にはあなたには実行責任があるんですというふうに言ってはいないけど、自由の向こう側にはそれがある。
そうそう、だからまさに前回ぐらいのオルテガの議論なわけですよ。義務と責任が伴いますよみたいなところが出てくるわけですよね。
だからそれはやっぱり一般的にリベラル的な思想で言うとあんま正しくないわけですよ、今の社会では。
義務と責任みたいなのを押し付けるみたいな、それこそ自己責任社会みたいな感じになっちゃう。
だからそれ嫌じゃん、どう?
嫌じゃんと。
嫌なのそれは。だからどうしたらいいの?
でもかといってそれを多立に求めるんですか、その社会とか環境とかのせいに全てしていくんですかって言うと、そこもどうなんみたいなことも思ったりするわけじゃないですか。
でもだからリターとか言う言葉が流行ってくるんじゃないの?
リターとかね。
お互いに、お互いにだから自分の自由だけを求めるのではなくて、その自由の中からリターという言葉をこう、なんかことをしていくことが、なんかお互い様という感じとかあるんじゃないのっていう話とかになったりするんじゃないの、自由。
自由にできるんだからみんなのことを思ったりしようよとか、ちょっといいこぶりっ子のこと言ってるけどね、ポッドキャストだから。
いやまあでもそうなんだと思うし、そういうことをなんかね、言っていかなきゃいけないんじゃねえかって思ってますよ。
よくわかんねえな、よくわかんないな。
わかんないの?ちょっとみそちゃんちょっと、じゃあまとめてみて、もうすぐ時間だから。
もうすぐ時間か。
というか、まずカントの言っている自由の話なので、一般的に言われるような、一般名詞として使われる自由みたいな話とちょっと意味合いが違うのかなっていうような話をちょっと思いましたと。
まあ最初の定義はね。
いうところはあるので、ここで今話してたのはカントの言う自由っていうような話をしてたのかなってちょっと聞いてて思ったっていうところはありますと。
で、カントが言うようなところの自由っていうのを与えられるものや、あれするものじゃ誰かに求めるものじゃないですってみたいな感じのことを言ってるっていうのは、まあわかるという感じがしますと。
で、やっぱりそれもなんかこう、ああやべえ、なんかすげえいいこと言おうとしたのに忘れ知ったよ。
20分のプレッシャーが。
プレッシャーでやべえ、超いいこと言おうとしたんだけど忘れ知った。
言ってよ、ちょっともうほんと。
いい感じだったけどな。
何百人の人の明日が変わるかもしれない。
でもまあね、本当こう、人間がやっぱりより良くなっていくためには自分の自由意志を持ちましょうっていうような話っていうのは、
カントの自由の重要性
多分これ哲学者とかが結構言っているような言葉だし、結構こう、普遍的な重要な事柄だっていうふうに思うので、やっぱりこう誰かに何かを求めるのではなく、
やっぱり自分の意志っていうものを持ちましょうっていうような、なんかそういう意味合いで言うんだったらそれこそが自由だなっていうのはまあわからんでもないっていう気がするという感じなんだけど、
でもなんかそれってやっぱり一人一人がちゃんと自立をして、自立立つでも自立でもあるし、立するの立つでもあるけど、両方自立をしてちゃんと自分たち自身が信用を持つっていうことができれば、
トモキ先生が言ったように別にその責任とかっていうのは人に対して落ち着けるみたいなことっていうのにも至らないと思うので、僕はそのカントが言っている自由っていうところをみんなが持つ必要っていうのは確かにあるなっていうふうに思っている。
まさしくそうなんでしょうね。
それこそがやっぱり愚民が確信するときなんじゃないかと。
そっか、だからみんな微発散な瞑想をやればいいみたいな。
よくわかんないっす。
だから初めから言ってるじゃん、みんな微発散な瞑想をやればいいっていうこと。
それで私はなんか不自由さを感じるのは、微発散な瞑想はなんかこう微発散なって名前がついてて、10日間なんか食べちゃダメとかあるんだけど、実は瞑想っていつでもどこでもできるし、私前も言ったかもしれないけどトイレの中で勝手にやればとか思うから、
なんかそんなの何が自由じゃないって思うんだろうと思っちゃうよね、今思うと逆に。
それは定義付けないほうがいいんじゃないのって思うけどね、だから自分の中でのそれは思いを持っていればいいんじゃないのって気がするが。
でもだから自由の名のもとに、ほらSNSとかで非暴衆、抽象する人がいるわけじゃない、多分。自由の名のもとでしょ。
そうだよ、確かにね。
それは、それはカントはダメと言ってるんだよね。
カントはね。
そのなんていうの、その道徳的なこととか自分に本当にそれがなんかこう本当の。
しかもそれ感情的になってやってるんだとしたら全然自由じゃないからねっていう。
そう、そうなんだよね。
だから、だけどそのなんかそうなんだよね、その一歩手前でなんかこうSNSで自分の名前も出さずに自分の顔も出さずにやっていることが自由と思ってしまうような人たちがいることが悲しくて、そんなことしてるならトイレで瞑想してくれとかちょっと思っちゃうってこと。
SNSと責任
もうさんのその感覚っていうのはめちゃくちゃわかるから、僕は最近グミングミンって言ってるっていうのがあるんですけどね。
なるほどね。
そうだね。でもじゃあミソちゃんみたいな人がいなくならない限り、この世は大丈夫ってことだよね。
どういうこと?
僕みたいな人間がいなくならない限り、この世の中は大丈夫ってことだよね。
そういうことにしましょうか、はい。
じゃあそれが結論ということで。
え、ていうか普通にさ、何にもなんかこういうふうに生きてきてるミソちゃんが、いいこと、いいこと、人間にとっていいことを考えることが普通だと思ってるでしょ?
はい、はい。
え、思ってないの?
そうです。そうです。もう20分です。終わってください。
まだ1分、あと1分あるからミソちゃんのチャンス。
最後の締めも含めての20分かなと思ったんで。
違うよ、討論が20分でしょ。
討論っていうか。
え、ちょっとちゃんとまとめて私が言ってることがおかしいじゃないか。
いやいやいや、その通り。
そのままじゃん。
いやその通り、その通り。僕みたいなまともな人間が言い続けることが大事かなという感じで思ってますよ、はい。
やべえ、変な空気になった。
やべえ、終わらせようとしてる。
今日も最後までテツセカを聞きいただきありがとうございました。
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感想、ファンレターをお待ちしています。
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いつも感想いただく皆さん本当にありがとうございます。
ありがとうございます。
僕はね、世の中とか、世の中を変えたいとは思わないけども、狭い範囲の組織だとかそういうものを変えたいみたいな意識っていうのは結構ある人間なんですよ。
ある人間なんですけど、でも自分が矢表に立つとかいうことはあまりしたくないと。
あと自分は推進力ないなっていうのはよくわかってるんで。
だからやっぱり誰かの、押すみたいなそういうタイプ、そういうことしかできないんですよね、実際。
だからなんか、そういう人もいるのにさ、なんかオルテガは好き勝手なこと言ってるよなみたいな感じもありますよね。
ほんとだよ、オルテガ嫌い。
家族と大衆しかいないわけじゃねえんだよみたいな。
ほんとだよ、ほんとだよ、いろんな人がいるんだよ、若い。
まあまあね。
2種類しかいないよ。
また曲が多いですね。
ごめんごめん、大衆と、何だっけ、それ、大衆と貴族っていう分け目じゃないんだけど、
なんかもう周りのことを良くしようって思っている系の人と、それのために人力を尽くせる人と、
あんまりそういうのを考えない人って。
3パターンじゃん。
3パターンじゃねえ。
2パターンでしょ。
あれ?
だって。
それしかないと。
そう2つしかないと。
世の中を変えていこうと思っている人と、変えていかないと思っている人と、どうでもいいと思っている人、3パターンじゃないですか。
ああ、確かに。
変えていかなくていいと思っている人と、やらない人は一緒、私にとっては。
なるほど、なるほどね。
やっぱりなんとかなるよね、みたいなことを思いながら、こう、なんか行動とか言ってることとかが、そっち系に行く系の人とね、
もうその2種類のことで、まあ世の中成り立ってんだなって思います。
まあまあ。
やばいな、何もしてねえわ。
俺何もしてねえ。
俺も何もしてねえよ。
世に出たくない系の人間たちだからさ。
だからそれでポッドキャストして何してるのかって、私はさ、そういうのを見て面白いなと思うよ。
ありがとうございます。はい、じゃあ終わります。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。