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2024-04-19 08:38

#56 僕はスポーツから贈与を受け取ってきた

『世界は贈与でできている』近内悠太

贈与の装置としてのスポーツ/贈与の受取人/元アスリート
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絶望カフカの何者かになりたいラジオ、この番組は元アスレイトのカフカが日々の絶望と些細なヒントをお送りするラジオです。
最近の絶望はコンタクトレンズの洗浄液切れです。 さて今回はですね、世界は贈与でできているについてお話ししていきたいと思います。
非常に有名な名著ですよね。近内ゆうたさんが書かれた世界は贈与でできている。
近内さんはですね、贈与について、まぁこの本で書かれているんですけれども、僕自身何を受け取ってきたかな、何を贈与されてきたかなということを振り返りながら
改めてそのことについてお話していきたいなと思っております。 まず近内ゆうたさんは贈与の概念を
こんな風に説明しています。誰かが必要としているけれどお金で買うことができないもの およびその移動
つまりお金で交換できるものではない。 だけど誰かがそれを欲しい、必要としているっていうことですよね。
それを与えられることが贈与なんだというふうに言っています。 そして贈与はあくまで受け取り人の想像力から生まれるというふうに言ってるんですよね。
その受け取り人が受け取ったと感じるから贈与になる。 つまりそれは交換を前提したものではなくて一方通行のリレーから贈与というものが生まれる。
そんな風に近内さんは言ってるんですよね。 つまりまとめると誰かがまず贈与を受け取ったと想像します。
そこから贈与というものが始まります。 その人は贈与の受け取り人になるんですね。
そして受け取り人、贈与の受け取り人は 不当なものを受け取ってしまった。だからこの贈与を誰かに届けなければならないという使命を帯びます。
そして他者へ贈与しようと行動します。 その行動によって自分自身が生きる意味ややりがいを持つ。
それはもちろん交換ではなくて贈与しようと行動した結果 贈与を受け取ったと想像する人がまた生まれます。
そして新たな贈与の受け取り人になります。 結果として贈与をしようと行動した人は贈与の差出し人となるわけです。
まあちょっとわかりづらいかもしれないんですが 差出し人はあくまで差し出すだけ。受け取り人はあくまで受け取るだけ。
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なんかそこの循環関係にあるのではなくて一方通行のリレーになっている。 そのリレーで世界の隙間は埋められていく。
そんな風に近内さんは言ってるわけですね。 この考え方めちゃくちゃいいなぁと思うし
ちょっとピュアな理想主義っぽい感じもするんだけれども 実際世の中こんな風になったらいいよなぁという風に僕自身も思っていたりします。
そして僕自身何を贈与として受け取っているんだろうなぁってことを考えた時にですね やっぱりスポーツから贈与を受け取っている
受け取っていたという方が正しいですね 受け取っていたなぁっていう風に思うんですよね
例えばトップアスリートが 試合後のインタビューで
皆さんの声援のおかげでこの結果がありますとか サポートしてくれた人のおかげでこんな結果が出せました
そんな風に口々に言うじゃないですか それっていうのはある種そのスポーツ選手が自分が贈与の受け取り人だと自覚しているからだと思うんですよね
受け取ったからパフォーマンスでお返ししなければならない そんな使命を帯びたアスリートの出す力パフォーマンスっていうのはとてつもない
力を生むんじゃないかなって思います 僕もそうです
すごく献身的に支えてくれたトレーナーさん まあ家族のサポートもそうですよね
あるいはサポートしてくれるチームスタッフだったり 職場の方々
その他競技を運営する側の方々 そしてもっと前に遡れば学生時代の先生方
まあコーチの方 なんかそんな方々のおかげで今の自分があるし今は自分は生かされているんだ
この場所に立たせてもらえているんだっていう風な気持ちが湧いてくる じゃあそれをどうにか
パフォーマンスに生かしたい なんかそんなことを現役時代はずっと考えていたなっていう風に思います
それはある種自分だけの力でこの結果を出せている っていうところでおごりみたいなものが
起こりにくいような考え方でもあるんだろうなーっていうふうにも思うんですよね まあ実際自分だけでできることってやっぱり限られますからね
そしてそのスポーツのパフォーマンスを見て その瞬間のプレーに興奮して
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そのプレーの裏側にあるストーリーを想像する ファンだったりチームメンバーだったり
そのメンバーもやはり雑魚の受け取り人になるわけですよね だからやっぱりスポーツっていうのはその雑魚を生み出す装置なんだろうなぁって僕は思うんですよね
そしてそこの雑魚の装置にはものすごい とてつもない熱量や感情が込められている
それがスポーツの良さなんだろうなーって改めて思いました たくさん応援してもらったことやまあサポートしてもらったこと
あるいは 同僚チームメイトあるいはライバル
に刺激をもらったこと まあそういう環境があったことも含めてすべては雑魚だったんだろうなーっていうふうには思うん
ですよね そして引退した今
なんとなくこの雑魚を受け取るっていう気持ちを忘れてしまっているなぁっていうふうに も感じているんですよね
それは良くないなぁと思っているしなんだろうなぁ それと同時に差し出せてないなぁっていうふうにも感じるんですよね
今まではスポーツという装置があったからこそ 雑魚の受け取りにもなれたし差し出しにもあるいはなれたのかもしれない
今はその装置がなくなってしまったが故に受け取り人にも差し出しにもにも慣れない あの時のように慣れない
そこにある種絶望のような気持ちを抱く人 そういう元アスリートってもしかしたらいるんだろうなぁって
なんとなく想像しました やっぱり人は分かりやすい役割があると生きやすいとはよく言われたりしますけれども
まあそういうことなのかもしれないですね うん
僕自身いろんなこれからチャレンジを続けていく中で まあやっぱり雑魚の受け取り人にまずはなるということを意識していきたいなーっていう
ふうに改めて思いました というわけで今回は
世界は雑魚でできているというお話をしました 最後までお聞きくださりありがとうございましたではまた
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