元アスリートの回顧
絶望カフカの何者かになりたいラジオ。この番組は、元アスリートのカフカが、日々の絶望と、些細なヒントをお送りするラジオです。
さて、今日は8月27日、水曜日です。これを撮っている時刻が、21時32分ということなんですが、
今日実は、アスリートを引退して、ちょうど2年経った日なんですよね。
まあ、この2年間、長かったような、短かったような気がしているんですけど、
とりあえず無我夢中で駆け抜けていたら、2年経っていたっていう感覚がありますかね。
まあ、あえて振り返る必要もないかなと思うんですが、
自分なりには、まあ頑張ってきたんじゃないかと思っています。
まあ、こうね、今を積み重ねていけば、なんとなく明るくなっていくんじゃないかなっていう気がしますので、
これからも今を大事にしていきたいなというふうに思っております。
そして今回ですね、ちょっと全然違う話をしていくんですが、
僕が大好きなロックバンド、アジアンカンフージェネレーションについてお話をしていきたいと思います。
まあね、自分の好きなものを語るっていうのは非常に良いことだと思うんですが、
リスナー視点、目線で考えるとね、自分の知らないものをパーソナリティーの人が好きだと言っているのは、
ふーんとしか感想を抱かないっていう危険もあるなぁと思いつつですね、
まあそれでもいいかなと思って、僕が好きなアジアンカンフージェネレーションについて今日は語っていきたいなと思っております。
まあ、アジカンはですね、僕すごく好きで、高校生の時から聴き始めてですね、今でも聴いてますし、
ライブにも何度も行ったことがあります。
とはいえ、彼らの曲全部好きかって言ったらそうではないです。好きな曲とそうでもない曲があるっていう感じですね。
彼らもなんかこういろいろチャレンジをしている時期とか、一周回ってロックテイストに戻ってきたみたいな時期とかがあったりして、
その変遷をたどるのももしろかったりするんですが、
今日はですね、久しぶりに、今この曲一番好きかもって思う曲を紹介していきたいと思います。
その曲名が、 十二神宝の悠渓という曲ですね。
十二神宝というのは、十神宝とかありますけれども、 江戸とかが十二神宝ですよね。十二まで回ってまた一に戻るっていう。
で、悠渓というのは夕焼けの景色と書いて悠渓ですね。
この曲はアップテンポな曲で、Aメロ、Bメロ、Cメロ、またBメロ、そして最後大サビみたいな形で進むのかなと思ってるんですが、
何しろメロディックでもあり、アップテンポでもあり、それでいて最後に大サビというか盛り上がる部分が来るっていう。
まあザ・ロックバンド的な、 しかもその日本のロックバンド的な曲の構成にはなっているんですが、
まあこの曲すごく好きなんですよね。
十二神宝の悠渓の解釈
あとアジカの特徴って、曲の途中に 転調して今までのメロディーとは全く違う、わけわけわからないギターソロのメロディーとかが流れたりするんですよね。
この話すると長くなるなぁ。 あ、まあいいや。
まあそういう、わけわからないけど、わけわからないっていうのは、今までこのメロディーで行ったのにそれ入れる?みたいなものが入り込んだりするんですよ。
それで作曲をしている アジアンカーフジェネラリションのボーカリストの後藤雅文さんの、なんかこうひねくれている部分みたいなのを感じられて、
とってもいいなぁって思ったりするんですが、 まあちょっとそのメロディーのことはさておき、
この十二神宝の遊戯、 歌詞がめちゃくちゃいいんですよね。
まあ全部がストーリーになっているといったところと、一つ一つに 何か意味らしきものが
感じ取れるっていう意味では、 全部の歌詞を紹介しながら、ここはこういう解釈ができるんじゃないか
みたいに解説をしていくのもいいなぁと思ったんですけれども、 ここはですね、ちょっと2つほど、2節ほど紹介をしながら
この十二神宝で 言おうとしていること、言わんとしていること、まあというか僕の解釈ですよね。
それが何なのかっていうのをお話していきたいと思っております。 えーと、では
まず1節読んでいきますね。 十神宝で巡る思いを、どこかで追い抜いた針が
胸を刺して引き裂いた場所から溢れ出して 降り積もる青い砂
という1節なんです。 タイトルは十二神宝なんですけど、ここでは十神宝で巡る思いを
どこかで追い抜いた針がっていう風に言ってますね。 どこかで追い抜いた針がっていうのは、まあ時計の
単身の比喩なのかなって思うんですけれども、 つまり十の巡る思いに対して十二の追い抜いた針
その10時から12時の間のなぜか追い抜いてしまった針が 胸を刺してそこから青い砂が降り積もっていく
っていう風に書かれています。 この青い砂というのが
青、ブルーというのがどこか憂鬱とした気分だったり ネガティブな感情だったり、どこか
心の奥深くにある 炎ぐらい
まあ意識みたいなものなのかなって僕は解釈をしました。 この時に
十神宝と十二神宝が何を表しているかというと 十神宝というのが世俗的な自分
十二神宝というのが 何か自分の無意識領域にいるもう一人の自分を表しているんじゃないかなって思ったんですよね。
もっと言うと十神宝というのが
当たり前のように世の中で回り続けている仕組み その社会に適応している自分
十二神宝っていうのは表にはあんまり出ていないけど確かに存在するもの それが自分の中に浴発された感情とか本音みたいなものなのかなって思ったんです。
そして青い砂というのがさっきも言ったんですけど その自分の中の
まあ影のような存在が十二神宝のものなんだとしたら その影の中で降り積もっていく感情
そして放っておくと自分自身を埋め尽くしていくもの というふうに思ったんですよね。
そして2節目、そこを読んでいきたいとおもいます 十神宝で巡る思いをどこかで追い抜いた針を
巻き戻して二つ心に付け足して進めて という歌詞があるんですね
ここで言っているのが どこかで追い抜いた針をとあるんですよね
十神宝世俗的な自分で巡っていた思いをどこかでなぜか追い抜いてしまった それは十二神宝の内なる自分の思いがあるから
二つ余分に追い越してしまった だからいかんいかんと
巻き戻して でも
巻き戻すだけではそのままでは進められないから 二つ心に付け足しをして何か
自分の心に 意識の中に付け足しをして進めてっていう何かこう決意のような
メタファーがあるのかなーって思ったんですよね まあこの後歌詞はね
デジタル時計が出てきたり朝焼けとか夕景とか 景色に移り変わっていくんです
でもこの十二神宝の夕景の歌詞の肝となるのは今お話した 十神宝で巡る思いと追い抜く針というところが大きなメタファーになっていく
ような気が僕はしたんですよね 普段の自分と何がこう抑圧された自分
それが重なり合って ぶつかってなんか時に意識として上がってきて
でもその影のような無意識な自分っていうのが なかったことにしていっても青い砂のように降り積もっていってある瞬間に
針が胸を刺すように 意識上に上がってくる
そういう構造をこの歌詞は描いているんじゃないかなーって思ったんですよね まあこんな風にですね
いろんな解釈ができるような余地を残している抽象的な 歌詞になっている曲なんですよね十二神宝の夕景という曲は
あじかんの曲の中にはこういう まあ正直何言ってんだかわかんないっていう曲が
たくさんあります 僕はそういう歌詞が曲が好きだったりするんですよね
こういう解釈もできるのかなこういう解釈もできるのかな このメロディーにはこういう解釈が合うかもしれないな
とか思いながら聞いていたりするんですよね
まあそれが 時が経つにつれていやこうではなくてこうではないかっていう風に
考えが変わっていったりする まあそういう曲の楽しみ方ができたりする
まあそういうのが好きなんですよね はい
まああのとてもリスナーさんを置いてけぼりにして何を言ってんだこいつはって思われたか もしれないですが
もしよかったら アジアンカンフージェネレーションの十二神宝の夕景聞いてみてください
というわけで今回は以上になります最後までお聞き下さりありがとうございました ではまた