脳化社会の解説
絶望カフカの何者かになりたいラジオ、この番組は元アスリートのカフカが、日々の絶望と、些細なヒントをお送りするラジオです。
さて、このスタイル、ご無沙汰しております。
10日間ぐらい空いてしまいまして、それでも聞いてくださる方、本当にありがとうございます。
なんかですね、最近ちょっとバタバタしてまして、今まで滑舌が悪いなと思っていたんですけど、より滑舌が悪くなったような気がしていて、いよいよ音声配信向いてないんじゃないかと思い始めております。
脳が退化をしていてですね、きっと滑舌が悪いのかなと思ったりしているんですが、
そう、というわけで今回は脳の話をね、していきたいなと思っております。
というわけで、今回ご紹介するのは、養老たけしさんが書かれた「優位脳論」という本です。
実は僕、元アスリートでして、自分の体を通して人間の体と脳と心、その繋がりというのが僕の研究テーマでもあったので、
非常に興味深く読んだんですよね。
とはいえ、この本、非常に難しくてですね、完全に理解しきれているかわからないんですが、
僕なりにこの本を読み解いたところというのをご紹介していきたいなと思っています。
まず、養老たけしさんは1998年にこの優位脳論を書かれています。
ちょっと優位脳論というと、なんかあれって思う方もしかしたらいらっしゃるかもしれないんですが、
これ、仏教の優意識をもじって優位脳論、ただ脳がある論と言ってるんじゃないかなと個人的には思っています。
実際に書かれている内容というのも優位識に近いものを言ってるんですよね。
優位識というのは、仏教の中でも大乗仏教における思想で、
全ての現象は心の働き、つまり識によって成り立っているという考え方です。
なので、この世にあらゆるもの、例えば色とか音とか、人とか出来事みたいなものが外側に存在するのではなくて、
それは全て自分の心が認識したことに過ぎない。
だから世界が外にあるのではなくて心の中にあるという考え方になっているんですよね。
で、養老さんはその心ではなくて、それは脳が作っているのだというのが養老さんの主張になっています。
もっと正確に言うとですね、養老さんは世界は脳が作っているのだと主張している脳ではなくてですね、
私たちが現実と呼ぶものは脳が感覚情報を処理して構成した内部モデルに過ぎないと言ってるんですよね。
ちょっとわかりづらいんですけど、僕なりに解釈をすると、脳というのは人間のある機能の一部になっていて、
人間誰しも脳がついているのだから、当然その機能を通して世界を眺めている。
だから人間が眺めている世界は脳を通して眺めているのだ。
そういう世界を我々は世界と呼んでいるのだと言っておられるんですよね。
これでもまだちょっとわかりづらい説明のような気がしますが、そこはちょっと察していただいて、
つまり、我々が世界と呼んでいるものは脳の中の世界なのであるっていうふうに言ってるんです。
それが養老さんは脳化社会と言っています。
その脳化社会というのは、現代においてますます脳化していると言っておられるんですよね。
つまり都市が発展していって、情報化社会が進んでいくことによって、
デジタルのものが増えているとまでは書かれていないんですけれども、人工物が増えていっていますよね。
そしてその人工物に喜びを見出し、人工物を作り出そうとしている人たちが増えている。
だから世界はどんどん脳だけの論理で動いている。
そんなふうに脳化社会に継承をならしている本になっているんですよね。
自然の重要性
これあまり具体的には書かれていないんですが、
例えば子供がテレビゲームの世界に没入しすぎているとか、
あるいは現代でいうとSNSの世界に喜びを見出しすぎているとか、
日々PCに向かっていてPCの世界で完結していていすぎてしまっているとか、
あるいは本を読んで活字というものだけで自分の世界は構成されすぎてしまっているとか、
そういう情報化を良くないんじゃないかというふうに養老さんは言っておられるんですよね。
確かにそれってますます加速しているような気もするし、ずっと言われ続けていることのような気もします。
そして養老さんはこの脳化社会、アンチ脳化社会に対してどうすればいいのかということも書かれているんですよね。
そのキーワードとなるのが自然と身体性なんです。
この2つが出てくるかというところが僕の中ではすごく感動したんですよね。
そしてこの2つについてこれから説明をしていきたいと思います。
まず自然についてなんですが、これは人工物との対比として養老さんは自然に触れることの大事さを書かれていますね。
なんでこの自然がいいかというところを細かく分解をすると、自然というのは脳の外側にあるものであるとおっしゃっておられます。
その理由としては人間は自然のすべてを理解しきれないし、言語化できないというところなんですよね。
確かにその自然の中の例えば木々、草地というのはあまりにも複雑でありすべて理解できないですよね。
正確に言うと理解できるのかもしれませんが、そこに24時間、4,6時中いて観察をするなんて無理だし、
我々の知らないところで衰え、朽ちていき、そしてまた種を運び、生まれ育っていく、その循環というのは我々の知るところではないというところが自然の良さとして描かれています。
そしてかつその自然というのが人工的に作られた自然ではなく、やはり本当の意味での自然というのを描いておられるんですよね。
そしてアンチ農家社会のためのもう一つのキーワードというのが身体性でした。
これはなぜ身体性なのかというと、農変調の社会に対するアンチテーゼとして、身体を通して世界とつながることが人間の原点であるというふうにおっしゃっているからです。
身体性の価値
これもまたちょっと仏教的だなと思ったんですが、つまりブッダはこの身体を通じてヨーガを生み出して、そこから芸達というか瞑想に至っていくというところだったと思うんですけれども、
何が言いたいかというと、農家社会というのは頭で理解しようとするが、そんな社会は歪んでいる。
そうではなくて、身体を使って理解しようとすることが一つ健全な見方なのであるというのが養老さんの主張になっているんですよね。
確かに言葉とか構造化して分類をして、農的な世界を構築するというのはとっても便利だし、ある意味資本主義社会を生き抜くためには必須である。
ただし、例えば子どもが身体を通して世界を感じる能力というのを我々大人は言語化することによって失っていってしまっているのではないか。
そんな風に継承ならしているんです。
この身体性の部分のパートについてもかなり細かく描いておられるんですけれども、これは本当にそうだなと個人的に思っていて、
やっぱり何度も言いますけれども、デスクワークをしてずっとパソコンを向かっていると、ある意味身体性というのはどんどん衰えていってしまうんですよね。
それは身体は本当はもっと動きたがっているのに、その動きたがっている身体の声を無視して頭、有意で動いてしまう。正確に言うと動かないでいてしまう。
だからどんどん身体が衰えて、身体の声を脳が聞けなくなってしまっている。
故に世界と繋がれなくなってしまう。
なんかそんな風に言われているような気がしました。
というか僕はずっとそう思っていたことを養老さんがちょっと原稿化をしてくれたなという風に思っています。
そしてこの身体性と自然というのも掛け合わせて考えることができるんじゃないかなと個人的には思ったりしました。
例えば登山を例に挙げてみれば、山道を全身を使って歩いて登っていくという行動をするわけですよね。
その時、頭有意で身体を動かすというのは不可能なんですよね。
どういうことかというと、例えばインナーマッスルを使っていかに効率的に登っていくかみたいな頭でっかちな感じで登っていくということが
岩がランダムにあったり砂利道が不規則にあったりするとそんなことを考えてられないじゃないですか。
それは何も登山だけではなくて、例えば砂浜を歩いてみるみたいなところでもいうと、
砂って不整地だし足が取られるので自分の思うように身体が動かせないんですよね。
その時には本能に従って自分の身体を動かしていくしかない。
これは芝生の上を走るみたいなことでも同じかもしれません。
森の中を歩くとかね。
そうした時にやっぱり頭でっかちでこう動かそうではなく自然とそう動いてしまう。
その中っていうのは自然と身体制というのが掛け合わさってちょっとだけ世界とつながっている時間になっているのかなって個人的には思ったりしました。
だからちょっとね、森の中を歩くという時間は
アンチ農家社会のための時間として一つ効果的なのかもしれないなぁなんて思いました。
皆さんは自然の中で身体を動かす時間って最近とられていますでしょうか。
僕は最近コンクリートの上しか走っていないので、できたら砂浜の上か山の中を走っていこうかなって思っております。
はい。
というわけで今回は以上になります。最後までお聞きくださりありがとうございました。
ではまた。