2026-10-10 57:59

Vol.418|ロックバンドにバイク・アメリカへの憧れ、諦めなかった夢の続き|小林圭輔・K Corporation 代表(2/4)


あー夏が終わってくなぁ。ピンク色に染まった空を見ながら涼しい風を感じるとそう思う。人間の器ってどうやって大きくしてくんだろう?その問いへの答えらしきものが聞けた金曜の板倉です、こんにちは。

「1%の情熱ものがたり」前回に引き続き、105人目のインタビュー。
北海道北広島市出身。街の電気屋さんの次男として育つ。思春期には、Blankey Jet CityやNirvanaに心を撃ち抜かれグランジの聖地・シアトルへの憧れを抱く。20歳直前、バイクでの生死をさまよう程の大事故や身近な人たちの死に直面する経験から「いつ死ぬか分からないからこそ、全力で生きなきゃ」という気持ちが芽生える。26歳で電気工事士として起業、30歳で念願のシアトル留学を果たすも、母の看病のため帰国を選択。その後もアメリカに住む夢を諦めきれず、ビザ取得のために未経験の飲食業へ飛び込みタダ働きからの修行を経て36歳で再び渡米を果たす。2012年、シアトルで開店した「Yoroshiku」を皮切りに、Secret Fort, CurryLab Sapporo, Indigo Cowなど、故郷の北海道にこだわった飲食店舗を複数展開する実業家へ。激務により体調を崩した経験から「しっかり働き、しっかり遊ぶ」をモットーに、スタッフの人生も大切にする温かな組織づくりを実践。現在はIndigo Cowのフランチャイズ全米100店舗展開という新たな挑戦に挑む傍ら、愛車のビンテージハーレーでチョッパーを製作中。「とりあえずやってみよう」の精神で、改めて攻めに転じた今後の人生もアクセル全開で駆け抜けるはず。そんな小林さんの、清々しく真っ直ぐな情熱ものがたり。

田舎育ちのわんぱく少年、ロックバンドしてバイクに乗って!めっちゃ共感っす。多感な時期にいろんなヘビーな経験もされていて人生の変遷がお話しを通してもすごく伝わってきました。本当に人生って面白い!

それでは、お楽しみください!

Vol.418 1%の情熱ものがたり:小林圭輔(K Corporation 代表)

▼Show Notes : Vol.418

・北海道北広島市出身
・4人兄弟の次男
・クワガタ、ザリガニ取り、ビックリマンシール
・6段編成のギアチェンできる自転車w
・実家が街の電気屋さん
・近所の人にも可愛がってもらった
・小中高→就職、36歳まで北海道
・30歳の頃、1年半シアトルに留学
・中学の時にバンドブームでドラム始めた
・Blankey Jet Cityのコピーバンド
・高二からは洋楽、特にNirvana
・ニルヴァーナの影響でシアトルを意識
・20歳直前にバイクで大事故に
・9ヶ月入院、11回の手術、社会復帰に2年。。。
・以降は右足が少し不自由に
・25歳、オーストラリアにワーホリで約一年
・いろんな人に反対されたけど
・自分で決めたことを信じていいんだと感じた
・バイク事故で弟を亡くした体験
・26歳で電気工事士として独立起業
・最初はタダ働きで仕事を覚えた
・アメリカに憧れる田舎モン
・3年間働きながらTOEFLの勉強
・念願のシアトルに留学
・インターンとして電気工事の仕事
・アメリカでやっていけると思った
・就職先も決まって順調かと思いきや
・母親がステージ4の癌と分かり看病のため帰国
・悔しかったけど日本に戻っての生活へ
・看取った後、再びアメリカへの挑戦に
・移民弁護士に相談、電気工事ではビザが出ない
・「日本食レストランをやればビザが降りるよ」と
・アドバイスを信用して飲食店で修行
・タダ働きで焼き鳥を学んだ
・「まずはやってみよう」が信条
・アメリカ行き、最初は嫌だった奥様
・資金集めも苦労した
・奥様の母親からの出資と事故の時の保険金で
・36歳、アメリカでの開業資金に
・$1 = 79円、今とは真逆の円高の好タイミング
・40万ドル投資で投資家ビザ(E-Visa)取得
・飲食ではなくアメリカに住むことが目的
・アメリカに住むための手段はなんでも良かった

収録場所:ロサンゼルス⇄シアトル @ZOOM & Cleanfeed

リアルアメリカ情報 / アメスポ / 世界の駐妻 (〜)
・スシローがニューヨーク進出!

*1〜2時間ほどインタビューさせて頂いた内容を、4回にわたり配信しています。
(アメリカ時間で毎週金曜)

▼Interviewee Profile

小林圭輔 / Keisuke Kobayashi
K Corporation 代表
Yoroshiku, Secret Fort/a>, CurryLab Sapporo, Indigo Cow

北海道出身。2006年に留学で渡米し、シアトルを拠点に飲食事業を展開。2012年に日本食レストラン「Yoroshiku」を開業し、その後「Indigo Cow」「Secret Fort」「Curry Lab Sapporo」など複数の飲食ブランドを立ち上げる。2021年には北海道産牛乳を使用したソフトクリームブランド「Indigo Cow」をシアトルで創業。現在はシアトル、ロサンゼルスを中心に複数店舗を運営するほか、全米でのフランチャイズ展開を推進している。店舗運営に加え、商品開発、店舗開発、仕入れ・物流、ブランド構築まで幅広く手掛け、日本の食文化や食材の魅力をアメリカ市場に伝えることを軸に事業を展開している。

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サマリー

小林圭輔は北海道北広島市で育ち、中学からドラムを始め、高校ではBlankey Jet Cityのコピーバンドを組み、Nirvanaを通じてシアトルに憧れるようになった。20歳直前にはバイク事故で9か月入院し、11回の手術と2年の社会復帰期間を経験したうえ、弟をバイク事故で亡くしたことも大きな転機になった。周囲に反対されながらも25歳でバイクによるオーストラリア一周を実行し、「自分で決めたことをやった方がいい」と感じたという。帰国後は26歳で電気工事業を起業し、仕事を覚えるため知人の電気店で無償で働いた。アメリカへの夢を実現するため、働きながらTOEFLを学び、30歳でシアトルのコミュニティカレッジに入り、電気工事会社でインターンも経験した。母親がステージ4のがんと分かると帰国して看病し、母を看取った後、再び渡米を目指して飲食業を一から学んだ。焼き鳥店で約2年間無償修行をし、妻や義母の支援、事故の保険金を資金に、1ドル79円の時期に40万ドルを投資して投資家ビザを取得し、シアトルで店を開業した。後半では、寿司ローのニューヨーク進出とチップなしの方針、子どもの頃の遊びについても語られる。

GNIから見る海外で働く日本人
1%の情熱ものがたり 海外に住んでいる日本人は日本人総数のわずかに1%
この番組では海外出身や起業を果たしたビジネスオーナーや経営者 また各業界のプロフェッショナルな方々へ対談形式でインタビューをしていきます
日本の未来を背負うグローバルなプロフェッショナルたちの仕事哲学と、そこに燃える情熱に迫ります。
こんにちは。こんにちは。みつです。はるです。 1%の情熱物語418回です。みなさんお元気でしょうか。
元気でしょうか。
今日お話ししたいことがありまして、
GDPってよく聞くじゃん。
GNPとかGNIって聞いたことありますか。
全くないです。
俺もねあんまりよくわかったんですけど、最近その GDPよりGNPが大事だよねって言ってる方がいて、
GDPとは国内総生産ですよね。グロスドメスティックプロダクトの略ですと。
でGNPっていうのが国民総生産っていうことで、
グロスナショナルプロダクトの略らしいんですけど、
一人一人というかことですか。
そういうことなんですけど、ナショナルなので
海外にいる日本人が、もしくは日系企業が稼いだ
プロダクティビティもそこに入れるっていうことですね。
でそれの言語が多分今風じゃなかったのでGNIっていうのが国民総所得
グロスナショナルインカムになっていて、
だからプロダクト売ってない人もいますから多分インカムの方がしっくりくると思うんですけど、
収入ですよね。
国民、日本国民の総所得ですね。国民総所得。
でそれが今このグローバル社会なので、俺らもそうですけど、
海外で出てる日本人が稼いでる額もそこに入れるってことになる。
だから国内総生産GDPっていうのは日本国のプロダクティビティですけど、
GNI国民総所得ってなると海外に出て活躍してる日本人も入るっていう数え方、めっちゃ素敵やんと思って。
すごい考えたことの中で確かに。
そりゃそうだよなって思うよね。
アップルとかだってアメリカの製品、スターバックスとかもそうだけど日本で超稼いでるじゃん。
スターバーなんて日本が一番多分稼いでるらしいと思うんだけど。
それを数えないっていうのはそりゃおかしいわと思うので。
でその言葉を、言葉っていうかそういうのがあるんだなっていうのを知らなかったんですけど、
考え方として海外に出て稼ぐっていう意識をもっとナチュラルに持てるなぁと思ってこういう指標があるとね。
はい、確かに。
でちょっとなんか嬉しくなっちゃって話してみたかったっていう。
いやーちょっとお恥ずかしながら全く知らなかったです。
俺も知らなかったんだけど。
でも概念としてはわかるじゃん。そりゃそうだよなってなるじゃん。
ただやっぱ言葉があるとね、その認識がより広がりやすいっていうか、なんていうんだろうな、そこに肯定感が出てくるっていうか。
持続してるのはそこだというか、確かに。
だし、日本はね、少子化とか縮小とか言われてるけど、そんな海外に出て稼げばいいじゃんって思えれば、そりゃそれでいいことだと思うんでね。
結局日本の指標、数字みたいなの見られたんですか?
いや見てないですね。
この言葉自体を昨日なんかで見て、そうだね、それちょっと見てみよう、じゃあ。
ここで今調べるとあれだから。
そうですね、なんかGDPはちょっと低いけど、GNPがちょっと上がるとかってなるとそれが面白いですよね。
外に出て頑張ってる人がどれだけいるというか、なんかその差が見えてきそうですよね。
ただちょっとそのね、インカムタックスとかは、僕がアメリカで稼いだらアメリカで払ってるんで、
それ日本のためになってんのかっていう、批判的な意見もあるかもしれないんですけど。
それまた別の見方ですよね。
そうなんです、別の見方だと思うんですけど、ただ何かしらその日本を思って行動している海外在住日本人って結構多いと思うんで、
日本を良くしたいと思ってね。
なんかそういうのも、なんか一つの気づきだったなと思って、ちょっと話をしてみた。
私も新しい気づきでした。
はい、真面目な話をしてしまいました。
ちょっと見てみます、私も。
北海道の少年時代と音楽との出会い
はい、そうね。お願いします。
はい、毎回一人の方のインタビューを4回に分けてお届けしています。
1%の情熱物語、今回はKコーポレーション代表の小林圭介さんにお話を伺っています。
今回は2回目のエピソードです。
はい、ヨロシクというラーメン屋さんとシークレットフォートという焼き鳥屋さんとカリーラボ札幌というスープカレー屋さん、
そしてインディゴカウというソフトクリーム、北海道ミルクソフトクリーム屋さんですね、を経営してらっしゃる小林さんのお話。
先週は活動内容を伺ってたんですけど、
今回はおいたちからなぜシアトルまでっていうね、これもまた濃いしね、なんか面白いです。
それではお楽しみください。
はい、ちょっとじゃあ今から過去の話に入っていきますが、
はいどうぞ。
まず北海道生まれということで、どんな幼少期で、どんな子供でしたか。
いやもう普通の子供でしたね。北海道の北広島市っていうところで育ったんですけれども、
4人兄弟で、次男なんですよ。
子供の時はもうクワガタ鳥、ビックリマンシールに夢中でしたね、ザリガニとか。
めっちゃわかる。
もうそこら辺の田舎の小学生でしたね。
ど真ん中です。僕もね、僕実は今年49の年なんですけど、だから一個時代ですね。
そうですね。
いやめっちゃわかるなぁ。ザリガニも。
ファンの耳ぶら下げてよく撮ってましたね、僕も。
そうですそうです。毎日楽しかったです。どこでも自転車で行くみたいな感じでしたね。
僕もどこでもチャリで行ってた。
釣りもよく行ったし、あの6段ギアチェーンのやつですか?チャリって。
ああもう僕はあれ変えてもらえなかったんで、お下がりのままチャリみたいに乗ってましたけど。
友達も、ウインカーついてるやつ見ましたけどね。
ギアチェーン、ああそうなんですね。
超懐かしいなぁ。
あの世代です、僕は。
ビックリマンチョコもね。
お金持ってる人は箱買いしてましたけどね。
そうですね、決してできなかったですね。
でもどういう夢みたいなのはありましたか、その頃。
子供の時ですか、いやー特に特になかったですね。実家が町の電気屋さんだったので、
すごいいろんな人には可愛がっていただいて、だからこういうキャラできたのかなともちょっと今では思いますね。
とにかくいろんな人が来てて、出入りの激しい家だったので。
ああじゃあそこで家電を売ってた店ってことですか?
そうですそうです、町の電気屋さんで、うちの父親と母親と従業員はその町でビードデッキ売ったりとか、冷蔵庫納品したりとかしてましたね。
まあでも家電全盛期っていう感じですよね、たぶん。
そうですね、そうです、まさしくそうです。バブルの時で。
ですよね。
それは、町の人みんながじゃあ可愛がってくれたんですね。
そうだと思います。それでこういうキャラになったのかなともちょっと今思いますね。
そうですね。
まあじゃあ小中高までですか?
小中高、いやもう36歳ずっと、36でアメリカ来たので。
そうか。
はいずっとずっと、まあ途中1年半留学しましたけどシアトルに30歳の時に。
でも小中高、大学行かないで就職してみたいな感じですね。
でも中学生の時にやっぱりこう、今となったら天気だったのかなと思ったのがドラム始めて、
あの時バンドブームだっちゃったじゃないですか。
それでバンドブーム始まって、コピーバンド始めて。
ちなみにどういうバンドですか?
えーと、高校時代ブランキージェットシティのコピーずっとやってて。
めっちゃかっこいいな。
大会とかにも出てました、コピーバンド大会みたいな。
えー。
はい。
だからそこから。
中村達也。
そうですそうです、もう愛知県の。
さんですよね、はいはい。
で、洋楽、ブランキー、高校2年生ぐらいから洋楽の方に走って。
それでもうそっからずっと洋楽ですね。
その時ニルバーナが91年ぐらいだったんで、はい。
ニルバーナもグランジュがこうガーッと来てて。
そこでシアトルが僕つながるんですよ、実は。
あれニルバーナってシアトルでしたっけ?
ニルバーナシアトルでした。
あ、そうなんだ、へー。
それでそこの辺から、あのー、音楽で食っていきたいってなって。
おー。
18歳ですぐ就職して、まあ就職はお金を得るためみたいな感じで、
ずっとバンドをやってたんですよ、音楽やりながら仕事してみたいな。
まあでも東京に行こうとはならなかったんですか?
ならなかったですね、やっぱバンドのメンバーが北海道だったんで、そこがならなくて。
バイク事故とオーストラリア一周
それで、えっと、20歳になる数日前に、あの、バイクの車で轢かれまして。
ありゃ!
それがまた転勤なんですけど、そこでこう、結構ひどい事故で。
あ、それで足がってこと?
そうですそうです。9ヶ月。
マジっすか?
11回の手術。
うわー。
で、社会腹筋2年かかりまして。
えぇー。
もう本当、轢かれた時、もう足の骨が飛び出ちゃって。
で、もう運ばれて、切断って言われて。
で、美容院に帰って、美容院に変えて、みたいな感じだったんですよ。
マジっすか?
えぇー。もう話したら長くなるんで、すごい短縮に言うとこう、もう。
え、それで何?ドラム叩けなくなるんですか?
いや、ドラムは叩けるんですけど、やっぱり今も右足すごい不自由なんですよね。
膝から下が動きが悪いというか。
マジですか?
そうなんですよ。そこでこう、バンドも諦めてくるし。
それが思うように叩けなくなっちゃったって感じですか?
その事故よる前と後でちょっと。
そうです。事故よる前と後はやっぱり全然違うんですよね。
はいはい。
まあその辺からもやっぱりプロとかはもう諦めるようになってきて、
バンドはずっとやってたんですけど。
で、そこで友達の働いてるガソリンスタンドの人に会って、
その人がオーストラリア一周したっていう話聞いて、
そこでこう、オーストラリア行ってみたいなってなったんですよ。
まあワーホリとかではね、行けますもんね。
そうです。それで乗ってたハーレー売ってお金に変えて、
オーストラリア行ったのが24歳の時ですね。
じゃあワーホリで1年間。
はい。11ヶ月かけてオーストラリア一周して。
何で一周したんですか?バイクで?
バイクです。250のモトクロスで。
超楽しそうですね。
いやもう二度とやんないですね。
そうなの?
いやもう修行ですよ。
楽しくないですか?
楽しい。今考えたら楽しいですけど、もう二度とやりたくないですね。
しんどい?
しんどいですもん。一日600キロとか500キロ走って。
ああそうなんですね。
でも今考えたら。でもその時にいろんな人から反対されたんですよ。
そんな1年間無駄にするんじゃないの?とか。
それ終わって何があるの?みたいなことを結構言われてて。
で、終わった時に自分の決めたことをやり遂げて、正解だったなと思ったんですよ。
それが26歳っておっしゃるんですか?
25歳ですね。25歳。
これが多分僕が今繋がるんですけど、
アメリカに来たきっかけにもなったんじゃないかなって思うんですよね。
それがじゃあその転機的なものか。
僕みなさんに衝撃的な出来事や人生の転換期っていうのを聞いてるんですけど。
はいはい。そうですね。
そこでみんなに反対されてどうなんの?とか言われつつも、
自分の中ではなんかやり切った感というか、
自分を信じてよかったみたいな感じになったってことですか?
はいはい。そこですね。
そこで何かでも何を感じたんですか?その1年間で。
その1年間でいろんなことあって、
バイク動かなくなっていろんな人助けてくれたりとか、
知らないの家に泊めてくれたりとか、
本当旅あるあるなんですけど、
恋したりとか、
すごいいろんなことあって、
本当に終わった時に自分がどう思うのかなっていうのはすごい思ってたんですけど、
特に感動もなかったんですよ。
やり遂げたとか。
じゃなくて、一番初めに思ったのがやっぱりその、
自分で決めたことをやった方がいいなっていうのが思いました。
その時は思いましたね。
だからこう、よく若い時って迷うじゃないですか。
何やりたいのかなみたいな。
その大勢いる中の僕一人だったんですよ。
それで先輩とかにもこう、
今やってること楽しいですか?とか聞くタイプだったんですよ。
でもその、それが舞台になったっていうか。
どうやってみんな人生選んでるんだろうみたいなのを、
最初は自慢わかんないから聞いてみたんですね。
そうなんです。
確かにな。
すごい良かったかなと思いますね。
じゃあ自分を信じればいいんだみたいな感じになって、
その後、
そこまで電気関係のお仕事されてた?
そうです。
それが、その前に、これだけ一つ言いたかったんですけど。
さっきおっしゃられた、衝撃的な、
はいはい、転換期。
衝撃を受けた転換期。
僕19歳、僕が事故る数ヶ月前に、半年くらい前に、
弟バイクで亡くしてるんですよ。
三男。
三男がバイクで亡くなって、その後僕事故ったんですけど。
でもそれ聞いたら、奥さんがバイク乗るなっていうのもめちゃくちゃわかるけどね。
確かにそうなんです。
で、それはまあ単独だったんですけど、
僕19歳の時で、
人生で初めての葬式が弟だったんですよ。
じいちゃん、ばあちゃんも。
で、あの時に、
まあすげえ悲しかったんですけど、
人死んだら何にもできなくなんだなって思ったんですよ。
弟を目の当たりにして、
これから未来いっぱいあったやつが、
急に死ぬ。
昨日まで元気で死んで、
で、あれはもうすごい衝撃でしたね、僕の中では。
そんな19なんてめちゃくちゃ最強にパワーある時ですよね。
なんて言うんだろうな。
なんでもできそうな。
僕19で弟16だったんで。
だからあれも、
あれがあったから僕多分オーストラリア行ったと思います。
結構石橋叩くタイプだったんで。
そうなんだ。
それで挑戦してみようって思ったのが、
多分初めてがオーストラリアじゃないかなと思うんですよね。
なるほどね。
すいません、話ちょっと。
まあやりたいことやんなきゃってその時も思ったってことですね。
電気工事業の起業とアメリカへの準備
はい。それで終わった後に、
日本帰ってきて、
電気工事士としてやってみないかって誘いがあって。
あ、その後なんですね。
そうなんです、そうなんです。
それで26の時に起業して、
電気屋始めたんですよ。
バンに工具積んで、
札幌市内走り回って住宅とか、
店舗とか、
コマーシャルとビジネスや。
じゃあそれは、
ご実家のビジネスとは全く関係なくて。
はい、全く関係なかったです。
実家は家電を売る販売店なんですけど、
僕はどっちかというと工事の方に進みたくて。
なるほど。
そこでビジネスもすごいうまくいき始めてですね。
いろんな住宅とかアパートとかの修理とか。
そうですそうです。新築とか電気配線とか。
あと空調もできたので、
エアコンの工事とかもやってて。
26、7ぐらいの時に。
すごいな。いきなり起業したってことですよね。
そうです。これもちょっと細かく言えば、
うちの親が仕事くれる人いるから、
そういう工事関係のビジネスやってみればって言ってくれて。
その人から仕事もらえたのが初めの3ヶ月だけで。
食っていけなかったんですよ。
それでそこから、
電気工事ちょっとできるからやってみようと思って。
知り合いの電気屋さんに2週間、
タダで働くから教えてくれって言って。
それで電気の工事を教わって、
自分で仕事取りをなっていって。
なるほどね。
やっていくうちにまたアメリカの熱がグイグイときて。
その間バンドは?
バンドやってました。
プロじゃないですけど。
遊びでってことですね。
遊びとかライブ手伝ってとかをやってました。
アメリカ行きたいなと思ってたんですか?
そうですね。アメリカに憧れる田舎モンでしたね。
ハーレー乗ったり、洋楽聴いたりとかそういうのもあって。
アメリカのカルチャーとか大好きで。
僕も同じようなモンですけど。
26歳で仕事うまくいってたけど?
今の奥さんなんですけど。
その時彼女で、
俺はやっぱりアメリカ行ってみたいなって言い出して。
ちょっと挑戦して無理だったら諦めるねって言って。
東フル、アメリカの大学に入るためのテストあるじゃないですか。
英語のね。
札幌に留学するための学校みたいになったんですよ。
そこに仕事終わって週3回通い始めたんですよね。
自営業だったので時間取りやすかった。
高校生と一緒に横に並んで、
27歳のおじさんが混ざって。
3年勉強して、
そこそこいいとこ行ったんですよ。
じゃあアメリカ行くわって言ったんです。
アメリカで電気屋やろうって言って。
留学生のESLから行きたくなかったので、
絶対ジャンプしたかった。30歳だったんで。
そのためにこっちで英語を勉強して、
シアトルのコミュニティカレッジに入ったときは、
普通のアメリカ人と同じクラスから。
ESLを飛ばして。
その分は日本でやってみたいな感じですね。
その時30歳だったんですけど、
周りも高校卒業した学校ばっかりで。
社会経験してる分、見え方とかも違って。
1年半いたんですけど、
そこでアメリカの電気工事の会社に
インターンで入ることができて。
そこで夏3ヶ月くらい働いたんですよ。
英語全然わかんないんですよ。
図面渡されてこれやってって言われたらできたんですよ。
電気工事やってたんで。
アメリカで俺やってけるっていう
勘違いをしたんですよ僕。
偉大なる勘違いってのはありますからね。
そう言ってもらえると嬉しいんですけど。
就職先も決まったんですよ。
卒業したらOPT取ってその会社に入るっていうのになっちゃって。
結構いい給料もらってたんで。
すごいっすね、超順調っていうかストレートに。
30社くらい断りましたよ。
仕事アプライした時は。
英語もできない、わけわからん日本人だったんで。
母の看病による帰国と再渡米への挑戦
全て順調な時に
母親がガンなって。
ステージ4。
その時はアメリカ来て1年半後くらいかな。
卒業も近づいてきた頃。
卒業も近づいて、あと3ヶ月で卒業でサティフィケートもらえて。
OPTですよね。
っていう時に母親がガンでステージ4だってなって。
今話した通り27歳からずっと積み上げてきたじゃないですか。
アメリカの夢を。
そこで一旦帰ったんですよ。
これはダメだと思って帰ろうって。
そのお母さんの側にいたいってことで。
そこで一回帰って。
結構な自分の中で諦めるっていうか、
抑えたってことですか?
やりたいことを。
もうしょうがないと思いましたね。
これは誰も悪くないし。
自分が諦めたわけじゃないけど。
いや悔しかったですよ本当に。
今まで時間と能力もそうですけど、
経済的にもすごい使ったんで。
それが一気にガタガタっと崩れるというか。
でもそこであれで帰ってなかったら、
もっと後悔してただろうなと今思いますんで。
ここ帰って、
抗がん剤始まって、
自分も新しい生活始まってみたいな感じですね。
1年くらい、
よくはならなかったんですけど、
延命みたいな感じで抗がん剤売ってて。
どんどん弱ってて。
母さん亡くなる何ヶ月くらいに、
やっぱりアメリカで中途半端に終わったから、
戻りたいなって思ってました。
そこでアメリカの電気屋の社長に言ったら、
ビザサポートするからおいでよって言ってくれて。
社長は僕のこと全部見ててくれたんで。
働き方とか、母親で帰ったとか。
社長に呼ばれてシアトルまた戻ってきて、
一緒に移民弁護士行って。
アメリカは、
アメリカ人の雇用を守るために、
普通のレジデンシャルとかコマーシャルの
電気工事士は、
ビザが降りないって言われたんですよ。
アメリカ人でもできる仕事を、
なんで外国人にやらせなきゃいけないんだという
アメリカの視点でいくとそうですよね。
本当にアメリカに戻ってきたかったんで、
どうしたらいい?
ビザ降りますか?って聞いたら、
日本人だから、日本食レストランオープンしたらすぐ
ビザ降りるよって言ってくれたんです。
単純ですけど、
よくある話ですよね。
そこでまた僕の悪い癖が働いて、
それでいけるんだと思って、
日本帰って、
32歳から、
ディッシュウォッシャーで飲食店に入ったんですよ。
はい。
すごい真っ直ぐな方ですね。
真っ直ぐというか、必死だったんでしょうね。
とにかくアメリカに戻ろうみたいな感じで。
1年半、すごいきつかったんですよ。
授業もきついし、お金もないし。
アメリカの生活、憧れさ分楽しくて。
まあ、お母さんのこともあったけど、
いつか戻りたいなとは思ってたっていう。
思いましたね。
社長によくしてもらって、
自分がアメリカに通用するんだなって分かったから、
戻りたいと思ったと思うんですよね。
32歳から、
札幌は誰も景気も悪く、
飲食店未経験の30歳オーバーなんて
誰も雇ってくれなくて。
シアトルに焼き鳥屋さんなかったので、その時。
昔住んでた近所の焼き鳥屋さんに顔を出して、
事情を説明して、
アメリカに戻りたい。
焼き鳥を学びたい。
ただ時間がない。
僕が選んだのは、
お金いらないから働かせてくれっていう戦法を選んだんです。
どっかでも聞いた。
ちょっと前に聞いた気がする。
ただお金をもらいながら技術をもらうっていうのは、
理にかなってないので、
こちらが無償で働いて、
教えてくれる代わりに無料でやりますよと。
それを2年間くらい続けて。
どうやって飯食ってたんですか?
その時、僕のやってた電気工事士、
電気の会社、今もあるんですけど実は。
弟に任せて。
弟の手伝いしながら飲食の仕事があって。
そっちでもお給料もらいながらって感じか。
そうですね。給料とか本当少なかったですけど。
それで、
飲食店できるかも。まずやってみようなんです。
まず準備してみて、
それが自分に合わなかったらやめようっていうタイプなんで。
先ほど言った留学もそうですけど。
まず英語の学校行ってみて、
ちゃんと目標に行かなかったら自分はそこまで。
今回も飲食店も自分で経営できると思わなかったら、
もうやめよう、諦めようと思ったんですけど。
シアトル開業と投資家ビザ
さっき話した、
本間さん、アメリカ行きたいんだけど一緒に行かないって言ったら、
先輩のね。
うちの奥さんにも絶対嫌だって言ったんですけど、
行くの。
ちょっと行ってみようって言って。
嫌だったら帰っていいからとか言って。
連れてきて、お金集めて。
お金が集まらなかったんですよ。
日本で銀行とか行っても、
外国にお金を落とすんだったら、
こちらは融資できませんっていうところがほとんどで。
外国でそんなにやられてもどうなるかよく分からないしと。
もちろん。
いろんな方にお話ししていったら、
うちの奥さんのお母さんが貸してあげるって言ってくれて。
その時に結婚はされてたってことですね。
結婚してました。
母さんが死ぬ前にしようって言って。
31歳くらいの時に結婚して。
無職も付き合ってもらってさっき言ってた。
そこを支えてくれてたってことですね。
交通事故につながるんですけど、
交通事故で結構保険金出たんで。
それ使ってなかったんで、
それをアメリカの資金に回したんですよ。
改良資金ってことか。
36歳の11月にオープンしたんですけど、
その時、
2011年ですか。
1ドル79円。
円高になって。
そんなでしたっけ。
僕、集めたのが3000万だったんですけど、
40万ドルになったんですよ。
今とは真逆なんですけど。
そこの40万ドルを資金にして、
オープンしました。
それでビザも無事取れてっていう。
いいビザですかね。
投資家ビザってやつですね。
これが今までの僕の流れみたいな。
結構でもそれはうまくいったっていうか、
弁護士さんがこういう風にやったら取れるよって言った通りに取れたってことですね。
取れましたね。
取れてでもイヌキでこっちにあったものを買ったのか。
そうです。イヌキのシアトルのレストランに1軒買って、
それからビザのプロセスが始まると。
ビザを取るプロセス、そうなんですよね。
なるほどね。
これでも一つのというか、
割とポピュラーな成功パターンだと思います。
日本から海外、アメリカに行きたい時にビザをどう取るかという時にね。
ただ板倉さん、僕ちょっと他の人と変わってるところがありまして、
飲食店のオーナーさんとか飲食店する方って、
お客さんのサービス業が好きだからとか、
美味しいもの食べてもらいたいからっていう方が多分99%だと思うんですけど、
僕の場合ちょっと変わってて、
アメリカに行きたいからっていうので飲食店を選んだんですよ。
ここが後に話すすごい大変だったことなんですけど。
ニルバーナーに憧れ、シアトル。
シアトル選んだのはそこなんですか?やっぱり。
シアトル選んだのは寒暖差があったからなんですよね、実は。
寒暖差があった。
寒暖差があると冷暖房が必ず仕事があるっていうのと、
あと電気工事士として、
電気工事はどこでもあるんですけど、
寒暖があるとヒーティングと、
なるほどね、エアコンもあるしね。
エアコンもあるし、
あと音楽シーンが、僕シアトルすごいインディーランドグランチ好きだったので、
じゃあシアトル行こうっていう風に。
なるほどね。
確かにな。
じゃあだから言ったら手段は何でもよかったってことですね。
アメリカに行ければ電気屋であろうが、
レストランのオーナーであろうが何でもよかったと。
はい、そうです。
そこが僕は皆様とちょっと違うんじゃないかなと。
あともう一個ですね。
あ、違いました。すいません。これは後で言います。
後で話しますか。分かりました。
言ってもね、そんななかなか簡単にうまくいくもんじゃないんですけどね、
それを成功させてるってのは何なんだろうな。
僕の中ではまだそんなに自分で成功したとは思ってないんですけどね。
成功の定義もじゃあ後で聞いていこうかな。
そうですね。お願いします。
ちなみにブランキージェットシティ名古屋なんでね、
僕は愛知県出身で、なんかめっちゃ嬉しいっすっていうのはちょっと言いとこうか。
僕は北海道といえばイースターユースっていうバンドがあるんですけど。
はい、分かります。
吉野さんという方がやられてて。
はい、僕大好きです。
僕もめちゃくちゃ好きで、アメリカでも何回か見に行かせてもらいまして。
いいですね。
相当、やっぱ曲だけで泣ける歌を歌えますよね。
そうですね。響きますよね。
響きますよね。
よかった。
エクステンジができたということで。
経験が形づくった生き方
じゃあちょっと次のセクションに今から入っていきます。
おいたちいろいろ伺ってきましたが、
全体を通してパッションと冷静さと真っ直ぐさ、素直さのバランス感覚が
すごく綺麗とか上手な方なのかなっていう印象を受けました。
確かにそう言われればそうかもな。
情熱は持ちつつ、だけど客観的に一つ一つ課題というか、
これが超えられなかったらいかないっていうものはあるんですけど、
最終的にはアドバイス一つでいくというか。
最初は石橋を叩く方だったって言ってたところもあったと思うんだけど、
まずは事故ったのか、こととか。
二十歳前に。
いろんな人生に起こる出来事で生き方が変わっていったのかもしれないですよね。
それはそうなんだけどね。それがストーリーの面白いところだと思うんですけど。
話に出たのは、二十歳直前でバイクで大事故、大事故で足が不自由になって、
その前にバンドやっててドラム叩いてたんだけど、足が不自由になってしまったとか。
あとオーストラリアにワホリでいろんな人に反対されたけど行って、
自分で決めたことを信じていいんだと感じたっていう話もあったけど、
その経験をしたからこそ、こういうふうな生き方になってきたわけじゃん、たぶん。
そうですよね。その変遷がすごいわかりやすいというか、感じられましたね。
人間って変わるんだよな。
すごいですよね。
もう俺めっちゃ共感しかないっていうか、クワガタザリガニ鳥びっくりマシールもそうですけど、
それもそうだし、ニルバーナに影響を受けてシアトル意識っていうのも、
僕の場合はパンクバンドに影響を受け、アメリカ、西海岸を意識してたんですけど、
最初はただ働きで仕事を覚えたって話もあったんですけど、
俺も実はバンドやってて、自分らのCD売りたくてメディアをやろうと思って、
メディアの社長と出会って、最初俺給料いらないから働かしてくれって言って入ったんだよね。
えー、そうだったんですか。
それも一緒なのよ。
花から独立するつもりで仕事を覚えたいからね。
教えてもらうんだから別に金なんかもらえないっていう考え方。
まあ、もちろん生活できないからくれましたけどね。
でもそのくらい気持ちとしては、覚えるっていうことをさせていただくならっていう。
そうそう、別にいらないですって言って入って、
いや、お前そんなんじゃ暮らせないだろって言ってもらうみたいな。
なんかめっちゃ共感するわーっていうのがいっぱいありますけど。
そうですよね。
あとなんだ、年賀のシアトルに行ったはいいが、お母さんがね、管理がわかり、
やむなく帰国っていうのもね。
この決断もすごいと思います。
そうですよね。
兄弟がいらっしゃるなら、なんかそっちに任せるっていう選択肢もないことはないかなと思う中で、
やっぱり帰るっていう選択が大きな決断だったんじゃないかなと思いますね。
ね、後で後悔したくないっていうのがね、多分多かったと思うんだけど。
まあでも一旦ね、そこは自分の夢っていうかね、諦めたっていうような状況でもあったと思うんで、
すごい決断だなって思いますけど。
まあただそこから諦めずにね、また戻ってくるっていうのがすげえけど。
そうですよね。奥様もそれに嫌だったけどついていくっていうのもすごい。
私は奥さんに話を聞いてみたいと思いました。
そうだよね。春さんもどっちかというとそっち側の立場だもんね。
いやでも、やっぱり比べ物にならないっていうか、将来どうなるかわからないっちゃわからないじゃないですか。
そうだね。
私の場合は働きに行くっていうのが目的だったので、それとはまた不安が。
駐在、そうだよね。大企業の中で何年間は不妊?
そうですね、転勤に近いので、転勤なのとまた話が違う。
違うよね。アメリカで起業するからついてきてっていうのとね。
えーまじかって、そりゃなるだろうなって。
でも最終的についていくというか、一緒にやられてたっていうのはすごいなと思いますね。
まあでもな、いろんな気持ちがあると思うんだよね。
足を不住にしたっていうのもね、俺結構めちゃくちゃでけえと思うんだよね、その若い頃。
しかもドラムを支えてて、ドラムって両足使うからね。
そうですね。
相当悔しかっただろう、つらかっただろうと思うんだけど。
いろんなものがその覚悟に変わったりとか、なんかね、そういう行動に移させるんだなーって思いますけど。
濃いインタビューの時間でしたね。
あと1ドル79円の時代っていうのも、これもすげえ。
うらやましい、うらやましいよ。
でもさ、その前はもっと300円とかでもあったしね、だから。
今、いや俺が生まれ、1970年代とかはたぶん300円とかだったと思うんだけど。
その後、バブってる時期にだいぶ円高になってきて、日本がね、バブってるときに。
で、また今円安になってますけど、だからその300円とかに比べればまだ大したことないなとか思ったりもするし。
でも79円と比べるとね、大変だなという。
すごい。
そういう意味でもね、運を持ってらっしゃるっていうかね。
本当ですね、タイミングが良かったですね。
いや、その経営者ってやっぱ運大事だよなと思うよね。
こうなんつーの、こう人任せ的な意味ではなくって、なんかその。
信じるっていうか。
タイミングつかめる運っていうか、まあそうだね、そこ行っちゃえる運なんていうか、まあそれは実力だと思うんだけど。
私もそう思うようにしてますね。
え、どういうこと?
自分は運がいいんだって思います。
そうだね、そういうのも大事だよね。
はい、まあそんな感じで、来週が、仕事の掘り下げですかね。
どういう姿勢でやってるかとか、モチベーション、ルーツみたいな話を聞いております。
はい、それでは次回も楽しみにしております。
寿司ローのニューヨーク進出とチップ問題
リアルアメリカ情報。
よっ。
このコーナーでは、最新のビジネス生活情報をアメリカからお届けしていきます。
はい、お願いします。
はい、今回は、最近発表されて気になったニュースなんですけれど、
寿司ローがニューヨークに進出っていう。
おお。
回転寿司チェーンの寿司ローがアメリカの1号店を、
今年の10月にニューヨークでオープンするっていうのを発表されまして、
もうすでに蔵寿司とかは結構アメリカにある中で、
今回注目されたのは、アメリカでは当たり前のチップをなしで展開すると。
ああ、そうだね。
発表してましたね。
最近のアメリカではチップ疲れっていう言葉もあるぐらい、
チップを払うことに心理的な疲弊感みたいなのを感じてる人もいて、
最近は心づけのチップじゃなくて、
払わなきゃいけない義務みたいに感じてるっていうところから生まれた言葉なんですけども、
まだオープンが実際されてないので、
どんなふうにアメリカ人に利用されるかというか、
受け入れられるのかわからないですけど、
チップがなしっていうのがアメリカ国内でも結構好意的に、
発表した時点では受け入れられているなという話題なんですけれども。
それアメリカ人に?
そうです。
アメリカ人がそれを喜んでるっていうニュースをたまたま見て、
やっぱりチップがないっていう社会にしたいというか、
今のチップ文化はやりすぎだみたいな声は結構あるんだなっていうのを知りました。
どう思いますか、はるさん。
いやー、なんかこれ調べたら、
今回の寿司ローは3フロアあるらしくて、
で、開店寿司のエリアもあれば、
おまかせが食べれるエリアもあるらしいんですよ。
あー、なるほどね。
で、おまかせでもチップなしらしくて。
すごいな。
それはなんかこのチップ使いの生まれた原因とは違うんじゃないかなってはちょっと思ったんですけど、
でも私、開店寿司がチップなしっていうのはめっちゃありだと思います。
だってサービスほとんどないじゃないですか。
まあね、回ってくるだけだったらね。
そうです。
いやこれね、実はね、
それをやろうとした日本の飲食店って何個か過去に俺、実は見てまして、
ただやっぱ倒多されてしまっているんですよね。
それは、同業者から倒多されるんですか、それとも消費者が意外と選ばなくなるんですか。
いやー、やっていけないんじゃないのかな、ペイできないんじゃないのかな。
あとスタッフが多分定着しないんじゃないかな、チップもらえないっていう。
なるほど。
スタッフ、働く側からすればチップ目当てな部分も結構なパーセンテージを占めてると思うんですよね。
でもお店によっては、この人にチップを払うっていうのもあれば、
お店で稼いだチップは総割みたいなところもあったりするじゃないですか。
それとやっぱり違うんですかね。
総割にしたとしても、やっぱチップがもらえないと、最低賃金だけだとね、面白みがないとは思うけどね、普通に。
確かに。働く労働者が集められなくなるっていう。
のもあるんじゃないかなと思いますけどね。
まだオープンしてないんで、どうなるかは全然わからないんですけど、消費者としては、なんか好意的に今のところは受け入れられてるみたいです。
そうですね。いやー、どうやってそこの部分をね、カバーしていくのかっていうのが。
そうですよね。
まあその料金に最初からちょっと載せるのか、でもお任せで、そもそもチップもらえないって結構痛いよね。
いやそうなんですよ、お任せがどういうことなんだろうっていうのはちょっと、そうなんです。
一皿もだいたい5ドルぐらい?5ドルぐらいからついてました、カイペッジ氏のほうは。
倉瀬氏さんはもうちょっと安かった気もするけど、まあでも変わってるのかな。
倉瀬氏はチップなしで、あれじゃないですか、チップなしで安くて、プラスチップっていうところを見越した価格設定なんじゃないですか。
まあもちろんそうですけど、一皿5ドルか。
日本の寿司ローっていくらなの?1缶か2缶?
2缶で、100円ってまだあんのかな。
でもそんなもんなんだよね。
5ドルって言ったらだって750円だよ。
高い、高い。
でもまあアメリカで食べれると思えばって感じじゃないですか。
まあちょっと何しろ、まあでもインパクトはあるよね、話題になるってことだけでもね、やっぱいいとは思うんで、
まあ頑張ってほしいなと思いますけど、カリフォルニアは来ねえのかな。
うまくいけば来るんじゃないですか、たぶん、それこそニューヨークが成功したら次来るのはカリフォルニアじゃないですか。
まあね、倉瀬氏さんが上場しましたからね、これは俺らも行くしかねえぞってなってるわけですよね、きっとね。
たぶんそうです。
まああとさっきのGDPとかGNIの話からしても、アメリカのほうが稼げるんじゃねっていう。
いやそうですよ、全然価格違いますもん。
ね。
まあまたアップデートがあったら、教えてください。
お伝えします。
以上、リアルアメリカ情報でした。
子どもの頃の遊び
質問コーナーです。
はい、質問します。
ちょっと話出たけど、子供の頃の、小林さんのね、お話のあやかったですけど、子供の頃の遊びってどんなのあったっていう。
まあ俺はその小林さんが言ってたような、クワガタ取り行く、ザリガニ取り行く、ビックリマンシール集める、てかビックリマンシールわかる?
なんか最近、チャットGPTでビックリマンシールを作るっていうのが流行ってたんですよ。
でもそのビックリマンシールは何なのかはわかってないんですよ。
どこから生まれた、何でもらえるものなのか。
まあそうだよな、あと俺はミニ四駆で遊ぶ、あとチャリでやっぱ釣りによく行ってたんだよな。
ザリガニですか?
いや普通の魚釣り。川とか湖とか、まあ池か湖っていうか、船釣り、鯉釣り、バス釣り。
バス釣りすご。
ルアーつけてね。
それ小学生とかですか?
まあ小中ぐらいまでやってたと思うね。
釣りが楽しかったな、とにかく。
ゲームの世界でしかやったことないかもしれない。
釣りしたことないの?
釣りしたことないです。
まじか。楽しいよ。
動物の森でしかないな。
ビクって、あの、餌食ったって時の瞬間がすごいよ。
えー、その餌も触れなくて。
あー、ミミズとか、ゴカイとかあるじゃない。
エビとかそういうのがちょっと。
エビなんてもう死んでるんじゃないの?
いや、なんか握ったりしません?なんかちっちゃいのを切って、なんかその顔、おってなるんですよ。
あ、そうなんだ。
釣りか。
え、何して遊んでたの?
私はでも、おままごと。
あれか、そうか。バービー人形的な。
あ、そうです。バービーじゃなくて、
まあ、メルちゃんとか、シルバニアファイミリーとかって分かりますか?
あー、なんとなく。
そうか。
あともう、私が大きくなった時にはもう、ゲームが結構DSとかVとかがある。
出てきちゃってたんで、
で、DSで、うちは4人兄弟なんですけど、みんな1台ずつDS持ってるんで、
それで通信して、マリオパーティーとか、マリオカートとか、そういう、結構ゲームもしてましたね。
まあ、俺らの時代も一応ファミコンはあったんだけど、
なんか俺はね、あんまりやらなかったんだよね、ゲーム。
まあ、家買ってもらえなかったってのもあるんだけど、あんまりゲームは好きじゃなくて。
だから外に出てたな、よく。
外に遊んでた記憶がほとんどないです。
全部お家の中で、お人形遊びも全部中でできるじゃないですか。
あー、でも小学校の時は、東京?
そうですね、小学校あれ、東京です。
あんまり外に、のっぱらみたいなのはないのか。
でも家の隣、大きい公園だったんですよ。
あー、でも行かなかったんだ。
なんですけど、行かないですね。
へー。
よくない子供ですよね。
いやいや、まあ、都会だとね、しょうがないってか。
だから小学校の時も、なんか20分休みとかあるじゃないですか、
その時も先生に追い出されてました。
あの、出たくなくて教室で友達と喋ってると、外行きなさいって言われて、
それでやっと外行って、なんか外でまた喋れる場所を探すみたいな。
やること一生。
これはあの、鐘が鳴った瞬間にボール持って駆け出してたタイプだけど。
いや、そうですよ。男の子はそうですよね。みんなボール持って、場所取んなきゃみたいな。
そうですか。
まあ、なんとなく。
まあ、東京の子とね、やっぱり田舎の子は違うんだろうなというのもありますけど。
まあでも性別もあるんじゃないですか、やっぱりまあ反対でしたね。
そうですか。
まあじゃあ、皆さんの子供の頃の遊びを教えてくださいっていうことで。
はい。本編とリアルアメリカ情報の詳細はブログに掲載しています。
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今週も聞いてくださってありがとうございました。
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それではまた来週。
じゃあね。
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