サマリー
村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」では、丸谷才一の短編『樹影譚』について議論されています。この作品は三章に分かれ、作家や登場人物の視点を通じて木の影に対する独特の思いが描かれています。このエピソードでは、村上春樹の作品における構造や語り口調が深く掘り下げられ、特に丸谷才一の短編小説「樹影譚」に触れられています。また、物語の視点の変化やオチの巧妙さも議論され、リスナーに魅力的な文学の視点が提供されます。村上春樹の作品に関する考察を通じて、物語の描写方法や作者の意図についての議論が展開され、特に「樹影譚」における視点の変化や不器用さが焦点となり、読み手に新たな理解が促されます。
村上春樹の短編小説案内
今日で1、2、5作目ですね、村上春樹の若い読者のための短編小説案内っていう本があって、ここで村上春樹が短編小説について話し合う講義、大学の講義をしてるんですよね。
で、それの書籍か版でいくつかの作家の短編小説を読んで解説するみたいな話をしてるので、僕らもそれに習って小説を、原作を読んで、その解説を読んで感想をしゃべるという試みを、今まで4作やってきて、今回5作目です。
で、この5作目が丸谷才一ですか、これ。
はい。
の、樹影譚っていう作品ですね。僕はこれ今回初めて読んだし、そもそも丸谷才一読んだことないです。
私は文芸師のインタビューでそういう文章を読んだことあるけど、小説は初めてでしたね。
翻訳読んでましたよね。
そっか、翻訳も、ユリシーズの翻訳を何人かでやってるうちの一人なんで、そうですね、翻訳も読んでますね。
なんか結構、翻訳書が出てたなと思って。
そうですね、すごい色々、エッセイもいっぱい書いてるみたいですね。
そうですね。で、一応この短編小説案内で紹介される作家がみんな、第三の新人っていう戦後の作家、その中の一人ですね。
これ短編やけど、めっちゃ長かったですよね。
そうですね、今まで取り上げてきた中で一番長かったですね。
文春文庫で買って読みましたけど、自衛担っていうタイトルの短編集やけど、ちょっと字がでかいから長さも分かりにくいけど、この字がでかいやつやけど100ページぐらいだいたいあるんで、中編ぐらい。
そうですね。
中編いかないぐらいか。
100ページぐらい。
結構長い本でした。
で、僕は一応今回これ薄かったんで、この自衛担に入ってるやつは全部読んでいきました。
あ、そうですか。
はい。
私は自衛担だけですね。
特にこの他の二つがすごい短いんで、読みるなと思って。
鈍感な青年と夢を買います。
多分この短編集で河童や砂利賞取ったみたいです。
そうなんですか。
ウィキペディア見たら書いてます。
全然違う話ばっかりでしたね。
あ、そうですか。
それぞれ。
自衛担、そうですね。
これすごい変わった作りですよね。
三章に分かれてるやつですよね。
そうですね。
だいたい全部村上春樹がちゃんと解説してくれてるんで、
どんな話かっていうのをここで喋るとどうしてもそっちの話になってしまうんですけど、
三章立てで主人公が、第一章の主人公というか、第一章は作家の語りなんですよね。
そうですね。私ですね。
まず、著者だろうっていう想定で、作家が自分の好きな話というか。
なんかもうエッセイみたいですよね。
そうですね。霞が関の高速道路かなんかの話から始まって、
そうですね。
で、その時通る壁に映る並木の影が好きみたいな話をいきなりしだすんですよね。
で、なんかその好きな理由とかが分からないとか。
なんで好きなのか覚えてないとか。
壁に映るのが好きだっていうこだわりがあって。
影が好きってわけでも木が好きっていうわけでもなくて、壁に映る木の影が好き。
そうそうそう。
で、それを小説のネタにしようと思ったら、さっきに書かれてた。
だからずっと諦めてたというか、二番煎じになるのが嫌やからみたいな。
ナボコフにそういった小説が確かあったみたいなことを言うんですよね。
なんかね、この辺がすごい。
第一章は一応変わってるなというか、本当にエッセイだなと思って読んでましたけど。
そうですね。
結局ナボコフにどうもなさそうなんですよね、木の影を題材にした小説が。
めっちゃ探したりとか翻訳者の人とかに聞いたりとかしても、そんな小説はないっていう。
しかもでもあらすじめっちゃ覚えてるんですよね。
こんなあらすじなんですけどって言っても、でも確かにナボコフっぽいけどそんな話は聞いたことないみたいな。
有名なのかなみたいなと言って。
だからちょっと書いちゃったし、こんな風に書きましたっていうので、じゃあ第一章は終わる。
書いてみようみたいな。
この話の構成みたいなのを知らんと読んでるから、これ前置きやったんやって。
17ページあってここまで。
17ページ全部なんでこの話書いたかみたいなその前置きっぽい感じで続いたと思って。
結構ここからいわゆる創作っぽい話が始まるっていうのは、本当に最初だったらエッセイかと思ったんで。
なんでこれを第一章を入れたのかなっていうのは気になりながら2章と進んでいきましたけど、
どういう意図があってこれの第一章をつけたのかは結局私はピンとこずに。
ただ一章自体は面白かったんで、エッセイとして読めば。
なかなかこうどういう風にこの作品を理解すればいいのかなっていうのはちょっとハテナが残りますね。
そうですね、そういう意味みたいなのはわかんないですね。
ほんまになんか前書きみたいな感じで、一章は。
でその第2章から一応小説っぽい話になって、老作家古谷一平の話が始まるっていう。
その人が木の陰を好きっていう話が一応創作として始まるっていう、そういう作りでしたね。
古谷一平もその第一章の私を元にしたような登場人物で、
私と同じように古谷一平も木の陰に昔から何かこう惹かれるものがあったっていう人物として出てくる。
この名前もなんかもじってるんですよね多分。
マリア・サイチュと古谷一平っていうのは矢が一緒やし、位置も一緒やし。
まあそっか、なるほど。
けどまあ年齢とかは全然。
多分この時のマリア・サイチュよりも年齢上の設定ですかね。
そうですね、結構な高齢のもう老作家って書いてましたよね。
だからまあそのまんま重なるっていう感じではないですよね。
だから人物は全然違うけど、名前はもじってるし、そういう木の陰が好きっていう設定というか話も一緒っていう。
で、そのなぜ木の陰が好きなのかっていうのがわからないっていうとこも同じっていう。
そういう話を書く題材として自分の好きなものがあるっていうだけ流用してるんです。
で、そこから話を始めるというか。
で、その後に2章でこういう作品を古谷一平は書いたっていう作品の紹介がいくつかあって、作品はそれぞれに木の陰が出てくる。
なんかね、これちょっとぼーっと読んでたらなんかその3つ4つ出てきますよね。
木の陰が古谷一平が書いたっていう短編の紹介が3つぐらい出てきますよね。
ああそうですか、あんまり覚えてないですけど。
この辺すごいサラッと読んでたんで。
古谷一平と木の影
私もややこしかったというか、いくつか出てくるからぼーっと読んでると話が変わってるのになんかこう気づかないというか。
いつの間にか話変わってるなーみたいなのがあって私もよくわからずに読んじゃったのがあったんで何回か読み直しました。
本人の実体験の話も結構出てくるじゃないですか。本人というかこの古谷一平なんですけど。
京都やと思ったらバンコクやったんだよね。
第2章に関しては本当にプロフィールめっちゃ書いてるっていう感じだったじゃないですか。
私もね最初読んだ時第2章が一番ややこしくて、とりあえずもう3章進もうっていう気分になっちゃったかな。
ずっとどういう人かっていう話をしてるんだなっていう感じでしたね。
まあ短いんですけど一番3章がほとんどメインなんで。
3章が一番小説らしい小説の形を。
そうですね、物語。
なんかこの第2章のこの漢字ってソラリスの時のソラリス学とかの説明してる時とかに近い、ない物語とかを説明してる。
なるほど。
存在しない作品の表とかを書いてるじゃないですか。作品表とか。
だからその漢字がちょっとあったなと思って。
ソラリスの時は確かにその辺が一番ちょっと流し読みしちゃったかなって今思うと。
そうですか。
なんかやっぱり本筋が気になるから細かいところはちょっとまた後で読もうかなっていうのがあったりしました。
目が滑るところもあったり。
昼食みたいな感じですね。長い昼食みたいな。
なんかその中で出てきた話としては割と、これ最初の方ですけど、少女に気にあるがられたっていう。
84ページなんですけど。
そうですね。
なんかその木の影を見つめてて、視野の隅に少女の顔があってその顔を出し抜けに驚きの表情を浮かべた。
その途端、彼は自分が今木の影、木の影、木の影と一人言を言ったことに気づいたのである。
おそらく彼を狂人だと思っとったのだろう、怯えていたんだろう。
自分の口癖に相手の表情を見て気づいたっていうところですね。
それぐらい好きやけど思い当たる節がない。
これほど魅惑されるのはなぜなのかと考えてみたが納得のいく答えは得られないっていう。
で、ずっと何かわからんまま3章に入るっていう感じですね。
1章からですけど、この何点でしょう。自分が理由もなく寄せられるものがあるっていうので、木の影が今回使われてて。
私は木の影にそんなに今まで意識したこともなかったですけど、
自分にとってそういうのあるかなと思いながら読んでたんですが、
特に結構思い当たらなかったんですけど、何かあります?
僕はどっちかっていうと、なんか全部そういうの自覚的なんで。
自分が好きなものとかは大体。
それも理由込みでちゃんと意識できて。
そうですね。なんか思い当たるなんでかなみたいなのが大体。
知ってるかな、理由を。
ありそうでないのかな、こういう木の影。
なぜか自分が見せられてしまうもの。
確かにこれを読んだ後に木の影を見たら、なんかちょっと見入っちゃいそうですね。
やっぱりそういうのって自分の憧れやったりとか、もしくは幼い時に育った環境の近くにあったとか、
なんかそういう影響がやっぱ大きいんで。
だから僕はただ海に行って眺めるだけとか、
僕は海全然近くにいなかったからちょっと憧れがあってみたいな。
そういうのは結構理由がはっきりしてる。
だから海って泳ぐっていうよりも普通に近くにいるだけでいいみたいなのは。
それは…
なんかそういうのが多いかな、確か。
なんでかわからんけどみたいなのあんまないですね。
でもその海をなんとなく眺めることに惹かれる理由っていうのが実は、
幼少期の忘れた記憶として何かあるかもしれない。
いやー、ないですね。
まあ、死って言えばだからもう子供の時とかももう滅多に行けへんかった家とかそんなんでしょうね。
で、たまに行く、一緒に行く、家族旅行とかそういうのはありましたけど。
でもどっちかっていうとそうかな。
だから馴染みがあるのはどっちかというと山なんで僕は、京都生まれなの。
山はずっと近くにあったし、親と一緒に行ったりとかも一緒だから、
なんかその辺もでも自覚的ですね、やっぱり。
あんまりその理由なくっていうのは理由がわからないみたいなのはないですね。
あとはこういうピンポイントなこういうのないですけどね。
そのフェチみたいな。
フェチみたいなのはほんまに理由わからんと思うんですよ。
なんか精神分析みたいな話になりそうですけど。
それこそ年上が好き年下が好きとかそんなんに近いじゃないですか。
それって理由ないやろみたいな。
性格。
髪の毛短い人が好きとか長い人が好きとか。
そんな感じで2章が終わって、3章が93ページかな。
これではローサッカーが公演を地元ですかね。
そうですね、市長に頼まれて。
地元で公演会をすることになって、
でその公演会をするしようと思ってたら手紙が届くと。
その前に94ページの最後から、
なんか公演の話に絡んで評論が書いてるじゃないですか。
フランスの某女流批評家が云々って始まるところ。
ここはちょっと読んでて難しいなと思って、
ちょっと読み飛ばしちゃったんですよね。
これでも読み飛ばした話分からなくないですか。
なんかね、後で追って読みましたけど、
最初読んでてもなんかちょっと頭に入らなくて。
ここだってね。
最後のあれでしょ、そのおばあさんと話す。
すぐ後で繋がるんで。
どんな話を公演でするかみたいなことを考えた時の。
結構詳しく書いてあるんですよね。
小説の起源みたいなのは。
そうですね。
私は捨てられていたのかもしれないみたいな話。
子供の時とかに自分は実の子じゃないのかもしれないみたいな、
そういう空想で怖がるみたいな、
そういう話とか。
あとはいろんな物語でそれがテーマになってるとか、
そういうシンデレラとか、
だからその小説の起源っていうのは、
物語の導入
自分が本物の子じゃない、実の子じゃないんじゃないかっていう、
そういう説があるっていう話ですよね。
っていうのが、ここに結構6ページぐらい、
それなりにちゃんと分量を割いてあって、
手紙が届くと。
ぜひ会ってほしいっていう手紙が。
そうですね。
作家のファンを名乗るおばあさんから。
おばあさんから。
会ってほしいって言うけど、ちょっと面倒だなって思ってたら。
断るんですね、1回。
1回断って、でもまた手紙が届くと。
なんかショックでね、こんだからみたいな。
ちょっとやったらいいよみたいな感じで、
しょうがないし、受けるっていうんで、
地元の人、
だから地元の公園に行ったついでに、
その家に寄ることにしたい。
実際、家に寄るんですよね。
で、そこですごい古い家、
地元の名家みたいなとこのおばあさんで、
会ってしゃべるっていうとこで、
しゃべってたら、それがオチになるっていうことなんですけど。
これは別に簡単に言ってしまうと、
自分がキノコギが好きだった理由がそこで明らかになるっていう、
そういうオチだったんですけど、
その理由っていうのは、昔この家に住んでた。
子供の頃ここで生まれて、
で、銀行部に写された盆栽の影を見て、
キノコギ、キノコギ、キノコギって言ってたっていうのを聞かされたっていうやつですね。
結構ここまでの語りが、
すごいしっかり語ってるんで。
この会話は結構テンポもいいし。
そうですね。
ちょっと他のとこと違った、
ドライブが入ったような、一気に読んじゃいました。
この3章は大体こんな感じで駆け抜けていく感じだったんですけど、
物語の分析
そこそこ3章が長いんですけど。
最初は古谷一平は、
おばあさんがあなたはここの家で生まれたっていう話をしたときに、
虚言だろうと思って、
適当にちょっと話をつき合うんですよね、自分。
反論ですよね結構。反論する感じですよね。
ついていく矛盾をついていこうと話すけど、
だんだん真に迫ったような話し方をしていって、
最後ちょっとあっと思う木の陰、木の陰のところまで。
古谷一平は最初は嘘だなと思ってたけど、
ちょっとそれが揺らぐ。
最後の一文がかっこいいというか。
これどう思いました?
実際どうかってことですか?
いやまあ感想というか、このジュエータン最後まで読んで。
私はねジュエータン面白かった。
なんかやっぱり一二三ってことは、
一を作った理由がよくわからない。
わからないっていうことでもないけど、こういう作家なのかな。
もともと私もあるやん。
なんとなくこう作家の雰囲気は知ってて、
小説書くだけじゃなくて翻訳したり、
結構その文学者としての側面もあるってのは知ってたから、
なんかこう単純な小説を書くタイプじゃなくて、
結構作り込んだような作品をどういうふうに組み立てるかっていうのを
意識的にするタイプの人なのかなっていう、
そういうイメージはあったんですよ。
だからこれ読んで、
こういうちょっと最初にメタ的なものも入れて、
そういうふうに最初の3章だけで終わらせても成立するような小説に
そういう立て付けをして書くっていうのが、
これがいわゆるマリア最一の小説なんだなっていうイメージでしたね。
ああ、そうなんですね。
そういう語り口調なんですかね。
結構いろんな、
そういう英米文学、すごい造詞の深い人だから、
そういうのを全部いろいろ自分の中で咀嚼して作るときに、
やっぱりちゃんとこう、
意識的に構造をちゃんと作り込む人だなっていうイメージと合ってましたね。
それが私の好みかっていうと、
どっちかっていうと、
小島信夫の馬みたいな方が、
なんかこう、ひゅーんと変な方向にいって終わっちゃったみたいな、
ちょっとナンセンス感のある方が好みなんで、
まあまあ、面白かったけど、
これ1個だけではちょっとまだマリア最一のファンにはならないかなって感じですかね。
この他の2つもちょっと読んでみないとなっていう、そんな印象です。
文学の影響
まあでもそうですね、確かにこの構成というか、
最後の最後の締めまではもう出来すぎじゃないですか。
あの落ち方が。
なんかその辺のなんか、
僕はだからこれ読んだときに落語っぽいなって思った。
なるほど。
最初に本人が自分の話をして、
こんなことがありますよねみたいな、
前置きというか自分の話をした上で、
いや実はこんな話がありまして。
なるほど。
みたいなのを語りに入るっていう。
でこの人がこういう人でっていうプロフィールの紹介から始めて、
その語りの主人公の。
でそこから物語が始まっていく。
で最後めっちゃ落とすっていう感じ。
そうですね。まさに落語です。
落語っぽいな。
確かに落語っぽいですね。
でこの話はなんかそんな感じ、
すごい構成がそういうふうに見えたんですけど、
でも他の話は全然そんなんじゃなかったですけど。
じゃあやっぱり色々かけ分けられる。
鈍感な青年はちょっとそういう感じでした。
視点が変わるんですよ途中で。
後半から主人公になる男女のカップルの話になるんですけど、
最初の方はその2人を見守ってるスタッフみたいな、
こういうカップルがいてみたいな、
俯瞰から入って中に入っていくっていう。
作者と作品みたいな感じではないんですけど、
周りから見てる人から当事者に変わっていくみたいな、
そういう視点の転換はありましたね。
その辺はジュレータンの1章、2章、3章みたいな、
ちょっと近いとこありましたね。
3つ目の夢を買いますは、
全然ずっと同じ主人公でした。
頭から最後まで1人の女の人の語りみたいな感じ。
ジュレータンだけ読むと、なんか上手すぎるというか。
オチがね、なんかしっかりしすぎてるんでね。
ミステリー小説みたいな感じじゃないですか。
僕は特にこの実の親子じゃない系の話ってよくあるっていうのは、
作者でも言ってますけど、
4人も奇妙な物語で、なんかそういう話があって、
それもタモリが最初に、
自分は最近こんなことがあって、
実はこういう話がありまして、みたいな感じで、
物語に入っていくっていう構成がすごい似てるなと。
でもこれ読んだ後に、
昨日からちょっとマリア・サイチのこのジュレータンのことを
ちょっとネットで見てたら、
マリア・サイチは千一夜物語が好きで、
私は読んだことないんで、あれ分かんないんですけど、
あれもまず語り手がいて、物語に入るっていう、
そういう伝統があって、
それを多分意識してるんだろうなっていうことが分かったから、
こういう形をちょっと取り入れてみようみたいな、
そういう着想がまずあって、
その入れ物に自分の話を流し込んだっていう。
結構多いんかもしれないですね。
他の作品でもこのやり方が。
そうですね。
小話って感じですね。
短い。よりも奇妙な物語ってめっちゃ短い。
1話完結なんで。
確かに。だから3章の小話感がすごい、
好みが分かれると思うんですよね。
すごい綺麗に落ちて、
それでうまくできてるっていうので、
気に入る人もいると思うし、
私はどっちかっていうと、最初の1章の、
やっぱりこのマリア・サイチーと思われる私が書くエッセイ風の文章が結構好きだったんで。
日常感ですかね。
そこはすごい楽しく読んでっていう、そんな感じでした。
やっぱり2章がちょっと、
なんかこう読むときに読みづらいなと思いながら読んでました。
wikipediaっぽいですかね。
なんか話が並列に並べすぎてちょっと、
これ話変わってるわっていうのが何回かあったから。
それぐらいいいんですよね。
細かいところだと、ナボコフの話をしてるときに、
フルースとジョイス・カフカへの否定みたいなのを書いてて、
65ページの前から3行目。
こういうちょっと世界文学に対することもチラッと書いてるあたりが、
私のイメージするマリア・サイチーと一致してたんで、
文学的な教養がすごいここに醸し出されてるなっていうのを読みながらクスッとしました。
ナボコフって僕読んだことないんですけど、だいぶ新しい。
この否定ってことはそれより後ってことですかね。
20世紀の後ってことか。
77年になくなってるから、
だいぶ新しい。
ソビエトから亡命してるってことかな。
アメリカは僕あんまり読んでないんで。
平成ロシッタ氏はロリータしか読んでないから、
でもロリータが1955年に発表されてますから、
すごい最近。
ロシア人やけどソ連に住んでないっていう。
そうですね、亡命作家。
全然どうでもいいんですけど、
ロシア人作家っていうのが、
昔はすごい大化としてトルストイがいたりとか、
ドストイフスキーがいたりとか、
チェホフがいたりとか、
なんか文学といえばロシアみたいな感じだったじゃないですか。
でもその20世紀以降は全然いないというか知らない。
っていうのがソビエトに入ったから、
そうなんかなってずっと思ったんですけど、
ナホコフが一応ソビエトには住んでなかったけど、
ロシア人の文学作家としては20世紀の人だったと思ってますね。
そうですね。
なんかその有名どころというか、
大化って。
そうです、結構ささのぼりますよね。
氷とか。
そうです、昔から結構いたはずなんですよね。
プースキーとか。
けどほんまに最近あんまり知らんなと思ってて。
そうですね。
それこそ検閲の下で書けへんかったとこあるでしょうけど。
なんかなかなかこの社会体制も、
アメリカとか欧米と違うし、
面白い小説が出てきてもおかしくないんですけどね。
歴史的にはもっといっぱい生まれてもね、
不思議じゃないというか。
もっとそういう土壌があったから、
ロシアには文学の土壌みたいなのがね、
知らんだけなのか、
ほんまにあんまりいいひんのかどっちかなと思ってましたね。
じゃあ解説のほういきますか。
村上春樹の解説の最初のほうで、
3つのパートに論理性で分かれてるっていうふうに言われて、
最初が作者のパートで、
第2章が古谷一平の話、解説ですね。
第3章が貴教のパートっていう感じで、
3つで分かるという話を言ってましたね。
私がやっぱり村上春樹の読んで面白かったのは、
自分がちょっとよく評価してなかった第2章を
すごい重点的に語っていて、
その自分と違うギャップが読みごたえありましたね。
これ分かんなくないですか。
言われてもあんまりよく分からなくて。
村上春樹は第1章、第2章、第3章で分かれてて、
第2章で作者から作中主人公の古谷一平に変わるのが第2章であるって言って、
その第2章で古谷一平のことをすごい詳しく語ることで、
スーパーマンが変身する電話ボックスのようなもんだって言ってね。
リスクが貧乏でしたけど。
第2章はコキコキしてるって言って。
コキコキしてるってよく言ってます。
どういうことなの?
163ページでコキコキ。
2章にちょっと読みにくいところがあるけど、
それは意識的にわざわざ話の流れを悪くしなくてはならないのか、
答えは一つしかない。
要するに話がうまく流れてもらいたくないと作者が内心で考えているからでしょう。
作者が分かっていて、
必要があってこういう章を導入してるんだっていう風に推測するんですね。
意味わかります?
言ってることはわかるけど、
そうなの?っていう疑問は残りますよ。
なんでかっていうのはあんまりわからなくないですか。
そうですね。わからないです。
描写方法と物語の流れ
話がうまく流れないことによって命を持つって言ってるじゃないですか。
そうですね。私もわかるって言ってたけど、
意味わかるようなわからない。
わかりにくさというか流れの悪さで我慢することで、
初めてフィクションとしての説得力を持ってくるって言ってるけど、
それってどういうことなんだよ。
そうですね。全権撤回ではわからないですね。
あんまりよくわかんないですよね。
すごい好意的に見てるなっていうのが正直な感想かな。
マリアさん一応すごい文学者だから、
とにかく村上春樹の言ってることが正しいのかな。
163ページの最初から1、2、3、4、5か。
描写が極めて並列的っていう書き方してるじゃないですか。
私もこれはすごい思ったんですよ。
古谷一平が書いた小説の例字がすごい並列で、
ずらずらって書いてる通りだから、
読んでて流れに乗れないというか、
これ何の話だったっけなとか、話変わってるわとか。
時系列とかじゃないってことですよね。
こんな作品もあるみたいなので、何の屈書もそれだけで進むから、
やっぱりここは読みにくいですよね。
それを命を持つ、うまく流れないことによって。
なんでしょうね。
でも落語のところがすごい、コーンさんが言ってた3章の最後の方、
すごい気持ちいいじゃないですか、読んでて。
そうですね。
だからその緩急なんですかね。
そういうことなのかな。
あんま分からなかったんですけどね。
変身の舞台裏みたいな感じで、
すごくバタバタしてる感じっていうことですかね。
なりきりメイクって言ってましたもんね、古谷一平自体は。
しかもなんかこの、これもっと前のとこですけど、
第一章も実はフィクションじゃないかみたいなことを裏画面の人が想像してますよね。
SF風のフィクションってことですね。
私もそれはそうだと思いますよ。
木の影なんか別に好きじゃないんじゃないかみたいな。
確かにちょっといいなと思ったけど、別にそれがマリア・サイチー・イコールではなくて、
そういうふうに思っている人でSF風の話をまず入れようかっていう。
そうですね、この2章、3章につなぐための導入ってことですかね。
でもこの1章2章に関してはそんな感じかなと思います。
一応最後に3章の話もちゃんと解説してくれてるけど、
物語の不器用さと評価
まさし芸同士とか。
この3章はやっぱりこういう物語の作りがすごい上手いって話。
176ページの最後のところで、
マリア・サイチーは小説家として芸が勝ってるという言われ方をよくする。
でも実は僕は実はそう思いませんって書いて。
私はこれ読んだだけだと、やっぱりそのいわゆるそういう世間的な芸が勝ってるとか、
書き方上手いっていうそういう印象で止まっちゃったんで、
村上春樹はさらに読み込んで、
実は不器用な作家なんじゃないかっていうふうにすごい深読みしてるから、
もうちょっと他いろいろ読んで考えたいかなって思いますね。
この不器用ってどういうことだと思いました?
なんかね。
なんか不器用とか上手いはわかるけど、
上手い以上に不器用っていうのがどういうことなのかなと思って。
その2章を書いて単に上手い話で終わらせなかったことですかね。
そうですよね。
その辺の3章いきなり来ないところで遠回りするっていうのが不器用っていうことなんですかね。
第2章の72ページで古谷一平の話のところで、
私っていう語り手が急に出てくる場所があって、
村上春樹も指摘してるんです。
これが1人章から3人章への推移がまだ出来上がっていないっていう、
2章のちょっとごちゃごちゃしたところの話だから、
こういうところが不器用、
第2章の不器用さをこういうところからも読み取れるっていう指摘がありましたね。
2章をすごい考えないと不器用っていうふうな評価はしづらいんじゃないですか。
私は単に読みにくいなっていうので終わらせちゃったけど、
そこをもう少しちゃんと読むと、
村上春樹みたいに生まれ育ちの評価になるんじゃないですか。
全体を通してってことか。
その辺をごまかさないっていうことなんでしょうね。
うまいだけで終わらせる。
うまい人はそれがすんなりうまさで書き切ってしまうけど、
そういうのだけじゃなくて、
全部書かんときがその辺みたいなもんですかね。
間も。
そうかな。
この評価結構笹枕っていう別の作品の話でも踏まえてやってるじゃないですか。
それはそうですね。
いつものことですけど。
いろんな話で出てくるんで。
結構ね、なんかこの迷信の話とかも詳しく書いてるんですけどね。
あとはついに56エゴとセルフの図式一切なくなってるっていう。
今回はなんかわかりづらいからみたいな書いてましたね。
このジュエーターもそうですけど、次もなかったんです。
そう、次もなかったですね。
何やったんやねん。
今まで無理矢理やってたのに。
それぐらいですかね。
そうですね。
ジュエーターについては。
村上春樹の読んで、なるほどって思ったというよりかは、
自分がそんなに評価しなかったところをこれだけ掘り下げて書いてるなっていうのが面白かったですね。
それが納得いったかどうかっていうとちょっと微妙ですけど、
とはいえすごい熱量は感じました。
この辺はどうなんかな。
やっぱり作家目線やから出てくる話なんか、
読んでてもね、僕ら読者としてはあんまりピンとこない2章についての話。
これは作家目線じゃないですか、めちゃめちゃ。
特に創作する時の観点なんかなって思いましたね。
やっぱり自分が書いてる立場だったら、
マリア・サイチほどの人が、なんでこんな第2章書いたんだろうっていうのを考えたくなるんじゃないですか。
自分だったらどういうことを考えて書くかなみたいな。
やっぱりね、読者として読んでたら1章と3章しかね、印象に残らないですからね。
残らないですね。
特に今3章はすごい軽妙やったんで、インパクトも強いし。
強いですね。
1章はエッセイとして読ませる感じやし、
なんでこれが好きなんだろうがとか、日常的な話をしてるんだと思うんですかね。
そのとこですかね。
33:50
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