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はい、こんにちは、カズです。 今回は、「働くことがイヤな人のための本」という中島よしみちさんという方の書かれた本の感想とか、
軽い紹介なんかを交えながら、この本の感想をお話しするような回にしていこうと思います。よろしくお願いします。
この著者の中島よしみちさんは、一応これはスピリチュアルのチャンネルなんですけど、この方は全然スピリチュアルな感じの人ではないというか、その畑の人ではなくてですね、
あのめちゃめちゃ現実路線の哲学者の方ですね。哲学者であり作家であるそんな方です。中島さんはね。
僕は哲学は前からちょっと好きだったので、他の本も以前からちょこちょこ読んだりしてたんですけど、
まあなんかね、暗いなーみたいな、かなり悲観的な人だなーみたいな印象の哲学者の方です。だから好きなんだっていうこともあるんですけど、僕がね。
そんな中島さんの、「働くことがイヤな人のための本」というね、この本についてちょっと喋っていこうかなと思います。
で、一応哲学の本なんですけど、ここで取り上げるからにはやっぱりその共通した部分、感覚的な問題意識だったり、そういうものがあるからちょっと取り上げてみたら面白いかなっていうことでですね、
ちょっとたまには読書家ヒーラーっぽいような配信、ちょっとわかんないですけど、そんな感じでやっていきたいかなと思います。
で、一応ね、その、「働くことがイヤな人のための本」というタイトルなんですけど、
なんかね、そんなに単純な、働きたくないですみたいな、働いたら負けですみたいな、そういう労働が単純に嫌だからどうしましょうみたいな、そういう浅いレベルの問題意識じゃなくてですね、実は。
前書きにこういうことが書かれています。ちょっとまず前書きから引用して読ませてもらうんですけど、こういうことが書かれています。
「働くことが嫌な人はたくさんいるであろう。しかし、私が本書でテーマにしているのは、そのうちの一握りの人なのかもしれない。」
斉藤美奈子さんというある方が、ある書評で、「賃労働者として働くことが嫌な人のための本というタイトルにした方がいい。」と票していたが、当たっているかもしれない。
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もっと正確に言うと、会社や役所をはじめ、いわゆる勤め人として働くことが嫌な人のための本である。
そして、言語や音楽や絵画や芝居や服飾などによって自分を表現したいという欲望を持っている人のための本である。
っていうように前書きに書かれています。
いわゆる勤め人として働くことが嫌な人のための本であるというのが、一番わかりやすくて当たっているところかなと思うんですけど、
サラリーマンみたいなことですよね。
本当にこのサラリーマンで人生いいのかなみたいな、そういう疑問を持っている人のための本というか、それが嫌な人のための本。
内実はもっと深いんですけど、これから見ていくんですけどね。
ざっくり言うと、この本の問題意識はそんなようなところにあると、まずは思っておいてください。
軽い本の紹介をしたいなと思うんですけど、どういう本かというと、
まず冒頭で4人の人が出てきて、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんって出てくるんですけど、
みんなこの本で言うところの働くことが嫌な人なんですよね。
でも微妙にその置かれている状況とか問題意識はちょっと違ってくるので、
この4人、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの4人と著者中島さんとの対話みたいな構成になっている本になります。
軽くこの4人を紹介しておくと、Aさんは20代男性という設定で、法学部の留年学生です。
紹介をちょっと引用させて読ませていただくと、法学部の学生、過去男だが、留年を繰り返しているうちに25歳を過ぎてしまったと。
特別勉強してこなかったし、法学に特別興味もないので大学院に進んでも仕方がない。
司法試験や公務員試験は受かりそうもないので、初めから諦めている。と言って、いわゆるサラリーマンにはなりたくない。
あらゆる人間関係が煩わしく、会社という組織にがんじがらみになって生きるのが恐怖なのだ。
会社員の反奴隷のような薄汚い生態が嫌でたまらない。
だからなるべく就職を先送りにしたい。誰とも関わらずひっそり暮らしたい。できれば一生寝て過ごしたい。
そういう自分の希望にふさわしい場がないかどうか、時々頭が変になりそうなほど来る日も来る日も考えているが、答えは見つからない。
というふうに紹介されています。まずAさん、20代男性でした。次、Bさん、30代女性です。
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ここからはざっと紹介していこうと思うんですけど、Bさん、30代女性はどういう方かというと、小説を書いている主婦ですね。
自己実現、自己表現したいという、もやもやした感覚のある小説を書いている主婦です。
他の女性のように何の疑問もなく結婚して子供を持つという道を歩むことができない。
だから今は会社勤めしているのだが、どうしても興味を抱けずにうつうつとした日々。
最近、小説を書き始めた。そういうBさん、30代女性の方。
次にCさんは40代男性という設定で、家族のために気乗りしない仕事をずるずると続けて、そして40を超えた。
このままこの仕事をだらだら続けていっていいのか、どうにかしなければならないと思うのだが、何をどうしていいのかわからない。
というCさん、40代男性ですね。
Cさんは、どういう方かというと、真の意味で自分で決断したことがないという方ですね。
周りに合わせてその通りに生きてきたというような方。
なのでここに至って自分の本当の望みが何なのかわからないということになっちゃったのがCさんですね。
Dさんは50代男性。少し前まで自分の人生は間違っていないと確信して、真面目一本で働いてきた小さな会社の経営者。これがDさんですね。
Dさんは学生時代に真理の探求こそが生きる唯一の意味であると考えて、一度ね哲学の道を志したが、その時親の大反対にあってそれを諦めた。
そして親の経営する会社を継いだという経歴があります。
つい1週間ほど前に医者からねガンと診断されたが、そのぐすぐに誤診であることがわかった。
だからまあ、ああ良かったっていうことなんですけど、それを機に一瞬死がちらついたわけですよね。
それを機にその時の、だから真理探求こそが生きる唯一の理由だっていうその時の気概が蘇って、それで不安になったと。
このまま自分の人生を終えてしまうことに疑問と虚しさを感じているっていうのがDさんですね。
このように4人のキャラクターが出てきて、この4人と著者中島さんが働くことが嫌な理由とか、気持ちだとかどうすればいいのかみたいなのを対話で語り合うような内容の本になってますね。
次はその中身をちょっと見ていきたいんですけど、何が良いかって、そのなんかモヤモヤした感覚とかやりきれない気持ちとか、そういうでもなんか変にこじらせちゃってる感覚とかがすごい言語化されてて、それがわかりみが深いっていうかね、その辺が面白いんですよねと僕は思ったんですよね。
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ちょっと引用させてもらいます。これから。ちょっと長く読みますけど、中身を引用した方が、その言語描写みたいなのが見事な本なので、いいかなと思ったんで、ちょっと読みますね。
このように4人の働きたくないA、B、C、Dさんの訴えを聞いて、著者中島さんはこう言うわけです。
私の考えでは、日夜膨大な数の人がこうしてつぶやいている。いや、これまで何億の人がこうつぶやいてきたのだと思う。
しかも、その大多数の者がこのつぶやきを真剣に受け止めず、大学に合格した途端に、転職が成功した途端に、孫が無事誕生した途端に、「ああ、これでいいのだ。」という欺瞞的な態度に逆戻りしてしまう。
真剣に悩んでいたことをふっと忘れるフリをしてしまい、そのまま自分をごまかして死に向かって駆け抜けるのだ。
だから、あなた方のように人生において何らかの壁にぶち当たり、つぶやき続けていることはとても貴重なことなのだよ。
そのぐちゃぐちゃした感じを決して忘れてはならない。
あなた方の周りには鈍感で善良な市民たちがうようよ生息していて、直してあげよう、もっと幸せにしてあげようと手ぐすねひいて待っている。
もっと前向きに、もっと明るいことを見て、という鎖に腐った言葉をあなた方に投げつけて、あなた方を救おうとしている。
この辺のアイロニーというか、皮肉に満ち満ちた表現がすごい中島さんらしくて、僕は結構好きなんですけど。
はい、続き読みますね。
こう続きます、これ。
その手に乗ってはならない。
あなた方の悩みはとても健全な悩みなのだから、それを大切にしなければならない。
あなた方は悩み続けなければならず、そこからごまかしのない固有の手応えをつかまねばならない。
それには辛抱強く自分の声を聞く訓練をしなければならず、それには世の中で通用している価値を徹底的に批判的に見る訓練をしなければならない。
そこから一旦脱して、何が自分にとって重要なことかをとことん見る訓練をしなければならない。
私の実感なのだが、あなた方のつぶやき、そして今私が挙げた人々のつぶやきは多様なように見えて、その内実は恐ろしく似ている。
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自分がたまたま生まれてきて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。
これほどの不条理の中にも生きる一乗の意味を探り当てたいのだ。
充実して生きる道を探しているのだ。
それが何にもまして一番重要なことなのだ。
それは自分の括弧、広い意味における仕事を探していることにほかならない。
というふうに、永島さんはこの本の中で言うわけです。
このね、面白いのが、こういう実存的な悩みですよね。
まず4人の悩みは、私の見るところを共通しているということを言ってましたね。
私の実感なのだが、あなた方のつぶやき、そして今私が挙げた人々のつぶやきは多様なように見えて、その内実は恐ろしく似ている。
だから実は根っこは同じなんだということを指摘しています。
それは、その根っこというのは何かというと、自分がたまたま生まれてきて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだということなんですよね。
だから人生の根本的なぜ生まれてきたのか、なぜどうせ死ぬのになぜ生きなきゃならないのかとか、どう生きるべきなのかとか、生きる意味は何なのかという、そういう実存的な人生の根本疑問ですよね。
それに囚われてしまった人たちということなんですよね。
それは、あなた方の人生の何かの壁にぶち当たりつぶやき続けていることはとても貴重なことなのだよ。
そのぐちゃぐちゃした感じを決して忘れてはならないっていう、まずそれをすごく良いものとして肯定してますね。
だけど、周りには気をつけろっていうことを言ってるんですよね。
あなた方の周りには鈍感で善良な市民たちがうようよ生息していて、直してあげよう、もっと幸せにしてあげようと手ぐすめ引いて待っているっていうね。
もっと前向きにとか、もっと明るいことを見て、という鎖に腐った言葉をあなた方に投げつけて、あなた方を救おうとしているっていう。
なんかね、面白いんですけど、この辺の表現が。
すごいわかるんですけど、そうなんですよね。これが日本の同調圧力っていうやつですよね。
そんなことも考えてもしょうがないから、もっと楽しいこと考えようぜみたいな、とりあえず飲みに行こうぜみたいな、ちょっとわかんないですけどね。
だから、その手に乗ってはいけないって言ってますね。
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なんかね、こういう、中島さんすごく文章が巧みなので、そういう感じにね、このもやもやした、もう頭を持たれてしょうがないような実存的疑問を結構ね、面白い、巧みな表現に原稿化されているような本です。
続いてちょっとまた、しばらく引用させてもらいます。
こんな感じで続くんですよね。
こう語る人に向かって、こう語る人っていうのは、そうそうそう、生きる意味は何なのかとか、そういう4人の訴えなんですけど、
こう語る人に向かって、世の中の鈍感で善良な、つまり嘘で固めた、疑問的人生を送っている奴らは、そんなこと考えても仕方ないや、とか、
とにかく努力してみろよ、いつか報われる時があるから、とか、お前負け犬でいいのか、とか、人生どうなるかわかったもんじゃない、採用が馬だよ、とかとかの、何も真剣に考えていない、世間で赤まみれになった小汚い言葉を投げつける、
おまけに善良な市民特有の優しい軽蔑的視線を投げつける、こうした手にかかって多くのものは自分が変だと思い込む、
そして彼らの助言に沿って生きようとするのだ。
それで世の中が渡れる矢からは、それだけの問題意識しかなかったのだから、それでいいとしよう。
しかし、うまく自分を騙しても、先ほどの、どうせ死んでしまうんだ、どうせ世の中は不平等なんだ、という声がどうしてもまた聞こえてくるもの、
そして膝を屈し、転倒してしまうもの、彼らのつぶやきは本物だ。
彼らはその声を振り捨てるのではなく、むしろその声に沿って生きていくことしか生きる道はない。
今日来ていただいたあなた方は、私にはみんなそんな人々に見えるのだが、
ということですね。
とはいえ、だからいつまでも引きこもっていろ、と言いたいわけではない。
自殺しても犯罪に走っても、閉じこもりミイラのように衰弱しておいていっても、仕方ない、と言いたいわけではない。
そうした問いを体の中に持っていることはかけがえのない宝だと確信して、やはりその宝が進化を発揮するように生きることを考えるべきだと思うのだ。
ある人々にとっては、人生のある時期に数ヶ月あるいは数年引きこもることは必要なことかもしれない、と言っています。
しかし、それに慣れてくると、引きこもり生活に慣れてくると、私自身よく知っているのだが、ずるさがカビのようにびっしり生い茂ってくる。
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楽に生きる方法ばかり、自分が傷つかないで生きる方法ばかり、あわよくば上手く生きる方法ばかり考えるようになる。
精神は堕落する。はじめは真剣であった問いも、その鮮度が薄れ、ただの言葉だけとなる。
だって死んでしまうんだよ、とか、才能の違いはどうしようもないんだ、という言葉を殿下の宝刀のように振り回して安心することになる。
ここの展開がね、またそうなんだよな、っていう感じでね、これもすごいわかるんですよね。
ちょっといつの間にか、世間にぐれて、者に構えている自分の方が上だ、みたいな意識になってきちゃうっていうことですね。
はじめは真剣であった問いも、その鮮度が薄れ、ただの言葉だけとなる、ということですね。
続き読みますね。
これは新蘭が最も警戒したことである。
新蘭ですね、新蘭正人。
当時、善人なおもて、王上をとぐ、いわんや悪人をや、という悪人性規制を誤解して、勝手気ままな悪行を重ねたあげく、
俺は悪人だ、だから救われる、と奢り高ぶる輩が少なくなかった。
それを丹仁招の作者は本願ぼこりと名付けた。
それが何であるか、この場合、悪とは、具体的に何であるか、学者たちは細かく議論しているが、それはここでは置いておこう。
仕事を拒否し続けて、あげくの果てに、俺は悪人だ、だから救われる、という心情に近い思い込みに逃げる輩は少なくないのではないか。
自分でも気づかないうちに、はじめ新鮮だった感覚も麻痺して、汗水垂らして働いている世の善人たちを見下し、
仕事でリストラにあって自殺する男たちを笑い飛ばし、そしてそういう小ささを抜け出している自分の方が偉いと居直ってしまうんだ。
こうした人々の体からは、善人以上に猛烈な臭気が立ち上る。
臭気、臭いのキですね。
周りの者は、鼻をつまむしかないんだよ。
善人をさばいたその目で自分をさばくことを忘れ、善人以上にものが見えなくなって彼らは転落していく。
怠惰と疑問という彼らが、最も嫌ったはずの悪徳に向かって真っ逆さまに転落していく。
引きこもりが長引くと、往々にしてこうなるんだ。だからやはりどうにかしなければならない、と私は思う。
と書かれてます。ちょっと長く引用させてもらったんですけど
なんかね自分はすごい分かるんですよね。分かり身が深すぎるみたいな。
最後のところなんかね、
自分でも気づかないうちに、はじめ新生だった感覚を麻痺して、世の善人たち、汗水垂らして働いている世の善人たちを見下し、
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そういう小ささを抜け出している自分のほうが偉いと言い直ってしまうっていうね。
こじらせちゃってる感じですよねこれ。こうした人々の体からは善人以上に猛烈な臭気が立ち上る。
周りの者は鼻をつまむしかないんだよっていうことなんですよね。 この辺の感覚は僕があの大好きなロックバンドのね雨晒し
的ななんかそういうテーマとも近いというかそういう感覚でもあると思うんですけど
周りの価値観と自分は違うんだっていう。周りと同じように生きられないっていう。そのある種の挫折みたいなものを
なんか変に倒作しちゃって捉え直しちゃってるっていう感じなんですよね。 周りの奴らはどうせ人生の意味とかを真剣に考えもしない。
だから俺はもうそいつらに付き合ってらんないんだみたいな。
周りを下に見て居直って、で自分で自分のことを無意識に安心させに入っちゃってるっていう。
まあこじらせちゃってる状態ですね。これがニーチェとかのいわゆるルサンチマン状態なんですけど、
これに対して著者の中島さんはこうした人々の体からは善人以上に猛烈な臭気が立ち上る。
周りの者は鼻をつまむしかないんだよっていうふうに書いてますね。
いや本当そうなんだよねっていう。なんか一番立ちが悪くなっちゃってるいつの間にかっていう感じなんですよ。
なんかこの辺の微妙な感覚が整理されて、鮮明に言語化されているっていうのがすごく本書の面白いところじゃないのかなと僕は思いましたね。
それから、仕事の成功っていうところについてもちょっと面白いことが書かれてあったので、これもちょっと言っておきたいんですけど、また引用させてもらいますね。
世の中とは誠に不合理なことに成功者のみが発言する機会を与えられている。
成功者の発言は成功物語である。
途中いかに苦労しても、いかに理不尽な目にあっても、最終的に成功すれば発言のチャンスは回ってくる。
が、自分の成功物語を個人的な体験として語るだけならまだ無害である。
しかし彼らのうち少なからぬ者は成功の秘訣を普遍化して語ろうとする。
こうすれば成功できるという一般論を語ろうとする。
実は大層な天文とそれ以上に不思議なほどの偶然に左右されてきたのに、誰でも同じように動けば必然的に成功が待っているはずだと期待させる。
それが実現できないものは平らなのであり、努力が足りないのであり、適正を誤っているのだと力説する。
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そしてこれは大嘘であるというふうに書かれています。
この辺も今の資本主義社会、資本主義社会ってことは競争ってことですよね。
能力主義というか能力を評価されて勝てばいいんだけど、
そこでその資本主義の競争で負けてしまった者は勝ち組、負け組みたいな、そういう俗な区別をつけられてしまったりとか。
そして最後に書かれているここなんですよ。
それが実現できないものは平らなのであり、努力が足りないのであり、適正を誤っているのだと力説する。
こういうことが世の中言われちゃうんだっていうことなんですけど、これは大嘘であるっていうことを言ってます。
これもすごくなんか僕本当に共感するんですけど、なんかおかしくないですかね。
生まれてきただけなのになんでこんな頑張らないと幸せに生きちゃダメなのっていう。
この社会なんかおかしくないですかっていう感覚がずっとあって、そういう感覚のことを言ってくれてると思うんですよね。
しかもでもそういう世の中において周りが疑問的人生を送っている善良な市民たちなので、いやいや真面目に生きろよみたいなことを言われて。
だからそれが普通なんだと思って、自分の方がおかしいんだって、だんだん思ってきちゃうっていうことも前に書かれていましたけど。
まあこんな感じの、いろいろ引用して読ませてもらいましたけど、
この通り、単純に働いたら負けだと思ってるみたいな、働くっていうのが面倒でだるいから働きたくないですみたいな、そういう浅いレベルでの働くのが嫌な人のための本ではないっていうことなんですよね。
もっと深いレベルの実存的疑問とかそういうジレンマをテーマにした本なんですよ。
実存的疑問っていうのはつまり、どうせ死ぬのになぜ生きるのかとか、何のために生きるのかとかですね。こういうのが実存的疑問、実存的問題なんですけど、こういった人生の根本的な疑問を抱いた人たちが、
しかし世間の同調圧力とか資本主義社会っていう状況なので、僕らの周りはその中で生きていくためには生活費を稼ぐために働かなくてはならないみたいな、そういう難しい状況に陥ってるわけなんですよね。
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だけどこの人生の根本的疑問をやっぱり抱かざるを得ないんですよ、ある種の人たちは。なのでそういう非常に難しいジレンマな状況の問題意識とか感情感覚にフォーカスしてそれをテーマとして書かれた本と言えるのではないかなと思います。
で、この本はハウツー本でも自己啓発本でもないので、この本を読んだからといって、そうかこう生きればいいのかみたいになるわけではありません。
だけど、あの分かり身がね深いっていう、あのすごく自分の中の奥深くでいつまでも渦巻いている、そういう煮え切らないね、もやもやした感覚なんか違うんだよなぁみたいな。
だけど周りはそんなこと気にしちゃいないしなぁみたいな、そういうもやもやした感覚をとても鮮明に言語化してくれているっていう、で最終的には僕らを励ましてくれるっていうね、そういうような本です。
で、最初にもちょっと言ったんですけど、著者は全然いわゆるスピリチュアルな人ではなくて哲学者なので、この実存的な問題に対しては哲学っていう方法でもって対処しようとするんですよね。
僕も当初このような実存的な疑問を直視したときは、いきなりスピリチュアルから入ったわけじゃなくて、まずは心理学とか哲学のあたりから本を読み始めました。
その時の僕は、過去の哲学者はこの実存的疑問に対してこう考えたのかみたいな感じで、その人たちの哲学を入門書とかで学んでいった感じなんですけど、
この時僕が何となく考えていたのは、過去に自分の実存的疑問っていうのは、もうこの4人紹介された人たちと同じように考えないってことは無理だったんですよね。
自分を偽ることっていうのはできないなっていう、これに肩をつけないともうどうにもならないなっていう感覚だったんで、人生を通してでも肩をつける必要があるなっていうことは感じてたんですよ。
だけれども、この時僕が思ったのは、過去にいくらでも僕より遥かに頭の良い天才たちが、その生涯を費やしてこのような実存的問題と格闘してきたんですよね。
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だから自分が全くそのような理論武装とか何もせずに、もう素手でこの問題の解決に時間を費やして、生涯を費やしても、それが解決に至る見込みっていうのはもう限りなく低いだろうっていうことは思ったんですよ。
簡単に言えば、ニーチェとかウィトゲンシュタインみたいな、そういう哲学の天才たちが人生を通して、その精神を病むまでにひたすら考え続けた問題を自分がこの生涯で解決できるとは、とても思えなかったんですよね。
だからそれは最初からやらなかったんですよね。でも彼らがたどり着いた結論を知っていくことはすごく有益なことだと思えたので、そのどういう思考をしたのか、どういうことを導き出したのか、哲学の末に導き出したのかっていうのは学んでおく価値があるなと思ったんで、そういうのは読んできた感じなんですけど。
最終的に僕はスピリチュアルという場所で、この実存的な疑問の解決を見出したわけですけど、それに対してこの著者の中島さんは同じ実存的疑問をずっと抱き続けて、それと格同し続けている哲学者の方なんですけど、これは人それぞれでいいと思うんですよね。
別にどっちが良いとか悪いとかの問題ではないと思うんですよ、まず。個人の主観的な幸福度こそが全てなのであって、別に本人が納得して満足できるんだったら、そのためのツールは何でもいいと思うんですよね。哲学でもスピリチュアルであってもです。
だから、実存的疑問で幸せに生きられないとしたら、それに肩をつけるための手段が心理学だろうが哲学だろうが自己啓発だろうがスピリチュアルだろうが、僕は何でもいいと思います。幸せに生きれたら別にそれで言うことないじゃないですか。
ということなんですよね、僕の感覚は。これはスピリチュアルの分野というか手法についても同じことが言えると思うんですよね。
スピリチュアルを学ぶって言ってもキリスト教でも仏教でも引き寄せでも非人間でも別に何でもいいんですよね。自分が好きなやつ、しっくりくるやつを学んで、それで各々が個人が幸せになってくれれば別にそれで何でもいいと思うんですよね。
それで、こっちの方が上だとか、お前らが下だとか言うのは本当にナンセンスな話だと思うのでね。
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という、ざっと本の紹介から、この本を読んで思った感想なんかを簡単にお話してきましたが、冒頭にも軽くしゃべった通り、この本に別に結論が書かれているわけではないんですよ。
ないんですけど、こういう問答を通して、エリート意識でね、最初に紹介した20代男性法学部の留学学生のAさんですけど、もうサラリーマンにはなりたくないっていうね、でもどうしたらいいのかわかんないみたいな人も、このAさんもですね、最終的にはちょっとなんかわかんないけど、はっきり割り切れたわけじゃないけど、とりあえず働いてみようと思いました。
働くことにします。先生ありがとうございます。みたいに言って終わるんですよね。
何かな、やっぱりこの人が人生の意味はこうですって言うのは簡単だと思うんですよね。
僕は、僕個人の中の話だったら、納得して、自分の人生はこのために生きてるんだなっていう、だからこういう人生にしていきたいなみたいな、すごく得心するところまでありがたいことに幸いなことに言ったんですけど、
それはやっぱり、人から教えてもらうもんじゃなくて、やっぱり自分で見出すもんだと思うんですよね。
そのために、僕の場合は本を読んだりとかだったし、人からいろいろアドバイスや意見をもらうっていう過程はいいと思うんですけど、最終的に決めるのはやっぱりね、自分だと思うんですよ。
まあ、結論のない本なので、この音声にも特に結論はなく終わろうと思うんですけど、でも一つ言えることは、やっぱりね、この問題を見て見ぬふりしたまま人生を終えるっていうのは、
やめたほうがいいんじゃないかな、それはお勧めはしないなっていうのは僕もすごい思います。まあ、これも別に本当に自由意志がすべての上位概念であるので、本人の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとして
自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、自分の考えとしては、縦に見える緊張感を持っているというのはhofにないですかね、もうね、それは別人次第、本人がいいと思えばそれでいいんですけれど、だから人から強要される、生き方を強要されるっていうのは、それはそれこそナンセンスなんで
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僕は違うんじゃないかなと思うっていうことは、本心で思うところであります。
何だろう、ちょっと結論がない感じになったんですけど、とにかくね、
社会の現状、今の世の中の現状っていうのは、こういう感じだなっていうことだと思うんですよね。
こういう状況っていうのは、僕があんまり好きじゃないというか、ちょっとでもいい方向に自分の個人実現を果たしながら、
何かいい影響を与えることができれば、僕は満足かなと思っているので、今後も細々とこの音声も喋っていきたいかなと思っています。
今日はこんな感じで終わろうと思います。
なんかめちゃめちゃ長くなっちゃったんですけど、ここで今回は終わろうと思います。
どうも長らくお聞きください。どうもありがとうございました。