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はい、というわけでイタラジやって参りたいと思います。
今回はですね、ニヒリストとモンクの話をしたいかなと思ってるんですけども、
まあなんだそれはっていう感じだと思うんですけど、ニヒリスト、モンク、なんでしょうね。
まあとにかくやっていきたいと思いますけれども、最近はですね、
埴谷雄高の『死霊』をですね、2巻目を読み終わりまして、最近ですね。
非常に面白かったんですけども、やっぱりいい作品、いい小説だなと。一番好きな小説なんですけども、
これぜひ皆さんも現状に不満を持っていてね、うつうつたる気持ちになっている人なんかね、
すごく良い影響が出るんじゃないかという感じがしますけども、
非常にね、耽溺できる作品なんじゃないかと思っておりますけれどもね、
ぜひ読んでみてください、宣伝も兼ねてというわけですけどもね。
ニヒリストについて
まああれですね、ニヒリストっていうのは、ニヒルのね、もうどうでもいいよみたいなね、
価値観を失ってね、どうでもいいと思っている人のことなんですけどね。
これはわかると思うんですけど、モンクって何かっていうことですよね。
文句、最近ね、私の経験から言いますとね、
実は経験というか、リアルでもネットでもね、やっぱりね、非常にね、つい文句出ちゃう人っていう人がね、
すごくそういう人と会うことが多いんですね。
僕だって、それはたまには文句の一つや二つ、愚痴や二つ出ちゃいますけど、
なんなんだよーみたいなね、出ちゃいますけど、
そうじゃなくてね、なんかこう平気で、
なんか物議をかもしそうな文句とか、
なんか全然ここで言うことかなみたいなことをね、
ポロッと文章とか言葉で言っちゃう人っていうのはね、非常に現在ってのは多いですね。
まあこれ別に、じゃあそれ直せっていう説教道徳な話じゃないんですけど、
多くなっちゃってるんですよね。
タガが外れてしまってる人が多いですよ。
これはもう一見まともに見えてても、そういう人はいるし、
もちろんなんかそう言いそうな人でも言わない、
意外とそこを制御してるっていう素晴らしい方もいらっしゃるんですけど、
まあ大体の、大体というか結構そういう人多いんですよね。
で文句、僕文句って、だから僧侶の意味でのモンクと、
その文句言う人の陰に文句って呼んでるんです。
呼んでるっていうか勝手に考えてるんですけど、
なんで文句、僧侶と文句っていうのをかけて冗談みたいにしてるかっていうと、
半分冗談なんですけど、
そういう文句を言う人って何かを信奉してるんですね。
僕の見たてではね。
つまり文句が出るってことは何か価値観の根底に絶対的なものがある、
絶対的なものというよりは、よすがにしてるものがあるですね。
やっぱり価値観とか道徳かなんかがあるんですけど、と思うんですね。
でそれを僧侶と見たててね文句って呼んでるんですけどね。
別に悪口みたいになっちゃうから、別に人にはあんたモンクだねって言わないですけどね。
そういう分類をしてるわけですね。
でニヒリストっていうのは一見文句と正反対のように見えるかもしれませんね。
だから価値観がなくなってね、
そういう絶対的なものが失われた人間みたいな構造に見えますけど、
でもニヒリストだって文句を言うんですね。
文句を言うとか皮肉とか、アイロニー皮肉を言うんですね。
フッみたいな、やれやれだぞみたいな感じを言うんですね、そういう人たちはね。
だから僕はニヒリストと文句っていうのは、ニヒリストも多いと思うんです、現代は。
すごく価値がない人というか、何でも冷笑するような人というか、
ただ傍観しているけど、たまに捨てゼリフを吐くみたいな人とかもすごくDRでも出てても多いんです、見てるやつが付き合ったりしてね。
そういう人たちは結構似通ってるんじゃないかなっていうのが今日のテーマなんですね。
モンクっていうものとニヒリストっていうものがすごく近いんじゃないかっていう、僕の印象なんですよね。
文句とニヒリストの類似点
それは何でかっていうと、やっぱり両方とも中途半端な、中摺りの状態になっちゃってる人たちなんです。
人たちなんですって、僕らって中途半端なところがめっちゃくちゃあるんで、別に私が例外にしたくはないんですけど。
ニヒリストとか文句っていうのは普通の人なんですね、正直言って。
現代病というかね、普通、現代に生きてたら結構そういうふうになっちゃう。
別に環境のせいにするとかそういうのじゃないんですけど、自然にそうなってる。
じゃあ何でそうなってるのかっていうと、やっぱり中途半端なんですね。
掘り下げというか、絶対的なものを信奉してる文句も、信仰まではいかないし、
名前だけを、名詞だけを信奉してるような状態。
つまり神様をその人が絶対的な様子がとしているなら、神様、神様っていう名前だけを神様って念仏みたいに考えてる。
神、念仏みたいに神様ってちょっとおかしいですけどね。そういう状態だと思うんですね。
つまり夢でね、夢で神様に触れたとかね、現実に触れた人はそうですけど、そういう体験とかがない。
でも神様にとにかくすがりたい。そういう人がね、やっぱり言葉の中で非常に中心的な概念みたいなのを信奉してしまっていて、
それによってすごく何にでも反発するような、文句を言うよう垂れるような状態になってしまってる、心がね。
非常にこれは病的だと思うんですよ。別に具体的な名前がついてないんですけど、これは非常に現代的な病なんだと思います。
これはほとんど全ての人がそうなんだと。それはニヒリストも同じでして、ニヒリストもね、ニヒルってものは信じてるんですよ、空虚。
ニヒルってものは空虚、虚無みたいのは信じてるとか、寄りかかっちゃいしまってるんですね。
これはね、非常に微妙な、難しいところなんですけどね、大事なところなんですけども、私の見立てでは。
つまり、空っぽ感っていうのは、には甘えてるんですね。わかりますかね。
これ、非常に重要だと思うんですけどね、この空っぽ感すら否定し尽くせたら大したもんだと思う。
それこそ文学者とか哲学者に宗教家になれると思うんですよね。それ以外の大した人にはなれると思うんですけど。
逆ものは確かにですね、文句だって本当に神様とか仏様を本当に心から体験できたら、体感できたら、モンクにはならない。文句に甘んじてはいないと思うんです。
つまり徹底さが足りないんです、こういう人たちは。我々全員そうなんです、現代っていうのは。
日本なんかは特にそうですよね、わかりやすい国ですよね、日本というモデルとしてね。
非常に空っぽな、何も作ってないみたいな、何も生み出してないみたいな、実は作ってるように見えてるっていう感じ。
作ってるぞとかあるぞっていう人はいいです。そういう人には別にこの話はいいです。それは皮肉じゃなくて本当そうなんです。
大丈夫、肯定感がある人はいいです。でも何を作ってますか?何を生み出してますか?文化、文明、それ以外でも、物でも、心でも、形じゃない物でも、ある物でも。
何を作ってるか、何を生み出してるか、何を実感があるか、何を食べてるか。何を食べてるかぐらいはわかってると思うんですけどね。
でも、生きてる実感がないとかね。なんかもう生きてる喜びがないとかね。そういう人たちって何でしょうね。なんでそうなるんでしょう?空虚感。
でもその空虚感があるっていうのは信じちゃってるんです。もしくはその空虚感を埋めるために神様じゃないけど、神様じゃなくてもいいんですよ。ある種の価値観倫理観とかね。何でもいいんです。
国とか宗教とか、哲学とか思想とか文学とか、何でもいいんです。もっとヘッチマとかでもいいんです。もう何でもいいんです。くだらないものでも、くだらないと思われてるものでも何でもいいんですけど、そういうものによりかかってる。
でもそれを突き詰めてない。だから他の物事が人に対して文句が垂れるんです。甘えてるんです。
でですね、まあなんかちょっと宗教じみてきましたけど、そうではないんでね。別に大話なんで、別に勧誘がないんで、勧誘タイムはないんで大丈夫です。安心してください。
ニヒリストも甘えてるんです。何にも過信じてないんだ俺は。だから自由だ。何でも許される。でも実はそれは甘えなんです。
本当に虚無的だったら死んでしまっているかもしれません。それはもちろん自殺を肯定することは私はしませんけれどもね。そうではなくて、何か全力で身を操じていつの間にか寿命を迎えていた。そんな人生になってるかもしれない。つまり完璧に文句だったり完璧にミヒリストだったり。本当の意味で。
しかしそうはなってないです。なってないから文句をたれたり気に食いったりする。関心がバラバラになっちゃってるんです。向かってないんです。一つの方向に行ってないんです。僕はそう思いますね。
ですからね、私が尊敬する文学者、例えば埴谷雄高とか、サミュエル・ベケットとか、ロベルト・ムージルとか、こういう人たちだって、すごく虚無感とか、信仰とか、信仰は信仰とかね、悩んだと思います。
でもね、この人たちは徹底的に否定したり、徹底的に懐疑して、徹底的に掘り下げて、徹底的に突き詰めて、その地点まで行ったんです。ある心とか体の地点まで行ったんです。
私はそう見てる。だから彼らたちを尊敬してるというか、一目をおいてるって言い方は偉そうですけども、見てるんです、私は。そういう人たちを見てる。そういう人たちが面白い。
彼らは別に悪い意味で群れはしないんです。彼らは人々に文句をたれたりつまんないこととか言ったりにかかずりすぎないんです。
もちろん批判し合ったりみたいなのは、その人たちの経歴を見ればあったりもするかもしれませんけどね。
でも、私の見る限り彼らの人生とかを見てると、伝記などを見てても、私は結構、この人だからこういう人生をおくったんだなって感じがします。
だから文学を見てもそうです。もちろん作品が全てってもありますから、そういうものを見ても全然違うんです。
その文句とかに比率、生半可な文句とかニヒリストではないんです。だから僕は好きなの。そういう人間いますかね、今。
いや、いるっていう人はいいです、本当に。さっきも言ってました。いるよとか、俺がそうだよとかいう人は全然いいんです。
それはそうなの。そう考えられてればいいんです、その時点で。それで生きていけばいいんです。違う、そうじゃないよなっていう人がいればね。
私はプラスのものをマイナスにしようとしてるんじゃないんです。マイナスの自覚をさせようとしてもらいたいというだけです。
プラスをマイナスにするんじゃないです。マイナスにマイナスをかけてプラスにしようとしてるっていうだけです。
もちろんプラスもいいものではないっていうこともありますからね。ゼロにしてもいいんだけど。
とにかくね、そういう徹底的な否定力が、徹底的な肯定、こういうものが足りないんです。
モンクとニヒリストはね、現代にいっぱいいますけど、これは現代病だと思います。
それは別に、お医者さんにあなたがこういう病気ですって言われるようなものではないです。
現代の風潮です。非常に。何かに一言一家言を言わなきゃしょうがない。皮肉を言わなきゃしょうがない。文句を言わなきゃしょうがない。
何かを、自分の信奉してるものを第一に考えなきゃしょうがない。くだらないと思うんです。
いや、私も含めてくだらないです。全然意味がないです。そんなものは。
価値の創造と闘争
それこそ全く腐った卵みたいなものです。腐った卵に価値があるっていう人は、それでもいいんです。いいんです。もちろんそれはいいんです。
何かに価値を見出す、価値を作り出すっていうことが大切なんです。
フリードリッヒ・ニーチェという哲学者が、こんな名前を出さなくてもいいんですけどね。何か価値を作り出すことが大事です。
こう言ってますけども。その通りです。彼もニヒリズムを研究しました。突きつけた人間。それでいいんです。
そうやって我々は価値を作り出して生み出していく。
もちろん、その作り出した価値に合わないから戦いが生まれる。そういうことはあるかもしれません。
でもそれはもうニヒリズムとか文句の生半可な喧嘩とかレスバではないんです。
言い合いではないんです。もっと存在をかけた闘争だと思うんです。
だからもう本当に、もちろん実際的な暴力的な戦争とか、そういうものを私は肯定は別にしません。
そういうものは別にそれこそ複雑な理由がありますけど、私は別にそこまで突っ込むほどヤボではありません。
しかし、我々はまだバトルフィールドには立ってないわけです。現代人というのは。
何か本当に全存在をかけて後悔なく生きられる、没入できるものを持ってないわけです。
だからモンクやニヒリストが生まれるわけです。
いや、生まれるからニヒリストがいるからそういう状態になってるかもしれない。それは分からない。
分からないというか、この分からないという態度はかなり現代的だと思います。
何か決めつけるってことを嫌いますから、我々は相対主義的に。
しかし、たまには絶対的なものがないと何もできない。だから絶対的なものを求めてしまう。
しかしそれが中途半端だから、余計にふんわりした善意とか、
ふんわりした安心感とか、ふんわりした日常生活。
日常生活がおくれてる人はいますか?現代に。
日常生活がおくれてる人。おくれてるって人はいいんです。何回も言いますけど。
いや、これは日常ではないかもしれない。実感がない。そんな人が多いと思います。
これはもう本当に生半可に生きてるからだと思います。
いや、お前が生半可に生きてないのか。いや、生半可に生きてる。
しかし誰しも生きてる。この自覚が大切だと思います。
中途半端との闘い
そうじゃないと我々は、燃え尽きることはもちろんできませんし、水のような自由の拠地にもなれない。
燃えることも濡れることもできない。中途半端。中途半端、中庸がいいんじゃないか。それを考えます。
しかし中庸と中途半端は大きく違います。これは一言言っておきます。
中途半端というのは苦しみですね。非常に苦しみ。
中庸というのは努力しつつもどこか楽しみがあります。
素晴らしい心良い境地であります。もちろん努力には苦しみはあるかもしれませんが、
しかし何も生み出さない苦しみという中途半端とは違いますので、そこは注意した方がいいと思います。
とにかく我々は中途半端と戦っていかなきゃいけないと。
しかし中途半端とたらかうということは、中途半端に文句を言うこととか、中途半端に皮肉を言うことではないんです。
私のこの試みだって、そもそもモンクやニヒルストに文句を言ってることだって別に、
そんなに大したことはないんです。もちろんそうです。
ここまで聞いてくださる方にとっては何か得ることがあって、ここに聞いてくださったかもしれませんけど、
私に言わせてみればね、そんなことをやってる場合だったら、もっと何かを見つけ、何かを作り出してね、価値を。
そして我々はもうそれに向かって生きていく。それしかないと思うんです。
ここで現代人が必ず言うことはあります。じゃあどうすればいいんだ。
じゃあどうすればいいんだ。そこを自分で考え、自分で生み出す。これだと思うんです。
だからまあ、じゃあどうすればいいんだ。それだとすごい冷たすぎるんでね。
言いますと、埴谷雄高とかの死霊とかロベルトムージルの特性のない男。
こういうものをね、読んでみて。サミュエル・ベケットの文章、音楽とか。
こういうものをですね、触れて。
そして我々は、まあそれが詰まらなかったら別のものを読めばいいと思うんですね。気になかったね。
しかしこういうものを読んでね、何か得るものがあるとかする。そこから突き詰めていって。
徹底的な否定、徹底的な肯定。これらをしてね、何かを生み出す。
何かの心、体を変革する。
そういう非常に、まあ埴谷雄高の死霊とかロベルトムージルとか、
そういう非常に、まあハニアユイとかの存在の革命と言ったんですけど。
存在の革命、革命を突き詰めて悟りみたいになっちゃったら意味ないかじゃないかっていう感想があったんですけど。
それは大間違いでしてね。存在の革命を目指してるわけですから。
自分自身が革命を突き詰めていくと、その先に意識の革命があるっていうような話ですから。
全然その問題がスライドしてるってことは全然ないんですね。
まあそれは余談ですけど。ちょっとそういう感想があったので、ここで言っておきますけど。
とにかく我々に言えることはですね、モンクにもニヒリストにもかかずり合いすぎずに、
我々を突き詰めていく。自分の道を、自分の生き方を。もちろん日常を生きるだけでもいいです。日常を突き詰めていく。いいじゃないですか。
日常。もうヘチマでも、腐った卵でも突き詰めていく。これでいいんです。我々。
日常が輝かしい黄金だとすれば、それを突き詰めるだけでいいんです。何でもいいんです。比喩なんか幻想ですから。
だから本当に生きていく。これだけでいいんです。
いや、生きていくって言うと、なんか生きてればいいんだって感じになっちゃいますからね。そうは言いませんけど。
ただ死ねばいいんだとか、生きていけばいいんだってのはすごく危険だと思うんです。両方危険だと思うんです。僕。
僕はそういうものは全然信奉しません。ただ死ねばいいとか、ただ生きればいい。信奉しません。そうです。
突き詰めていくってことで自分は考える。などなど。
少々今回は長々と語ってしまいましたけれども、皆さんに何か参考になるものがあれば是非。嬉しいと思いますけど。
ということで、今回イタラジ、ここら辺で終わりにいたします。
埴谷雄高の死霊。是非。文庫で3巻出てます。3巻まで出てます。
完結してないですけど、3巻ですけど、是非楽しんで読んでみてください。では皆さんありがとうございました。