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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光洋です。さあ、今月の放送も後半に差し掛かってまいりました。引き続き、渋沢資料館顧問井上潤さんにお話を伺ってまいります。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
さて、館長の裁判年というと言い方があれだけど、ここでですね、まずは新一万円札の肖像に渋沢栄一さんがなるという、こういうお話が出てきて、続けざまにNHKの大河ドラマの主人公として取り上げられる、晴天おつけが放映をされる、こういうお話が出てきたんですね。
井上さんは晴天おつけの時代交渉を担当されたということなんですけども、どんなお仕事をされたということなんでしょうか。
一番の仕事はですね、毎回毎回のお話の脚本を読み込んで、その中での時代的なニュアンスがちょっとここは違うよとか、またこういう言い方はしないだろうというようなところを確認して、それをチェックするというようなのがメインの仕事だったんですけども。
この時代交渉の役割を担ってからというものはですね、とにかく渋沢に関係するもの、脚本家の大森さんも途中書くのに困ったときにはその質問が飛んできたり、書いたものもまたやり取りをするわけですけども、そのほかキャストに決まった方々が事前にインタビューを受けるといったときのその話した、答えた内容を
どうまとめればいいのかっていうのを相談を受けたりとか。
これちなみに、放映は一応1年じゃないですか。
制定お付き合いはちょっとコロナの関係で短くなっちゃったんですけど、井上さんのお仕事としてはどのくらいの期間かかっているんですか。
一番最初にプロデューサー政策統括の菓子さんという人とお目にかかって、この話をし始めたのは2019年の6月の十何日だったですね。
それから終わってしばらく総集編、それからDVDにまとめるというところまで入れると2年半ほど。
そんなに長い期間かかわられたんですね。なるほど。
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でも本当に毎日のように、制定をつけて、というか支部さん関連なんですけれども、お仕事されてたという感じですか。
最初の頃はですね、実際にNHKの方に足を運んで何十人というスタッフとともに会議をやってたんですけども、
それこそコロナで一時期それが停滞してしまったんです。なるほど。
前のドラマも撮影が中止してということで、いつ再開できるかわからなかったような状況の中で、しばらくちょっと空白がありました。
その後、実はこのドラマはオリンピックの後で放映する予定だったんですよ。
重なっちゃったんです。
同じ年になった。しかもそれが開催されるかどうかもわからなかった。
NHK側もいつまでやりますとか、何回でやりますってそれまで発表控えてたんです。
ようやく開催式があった時に、この制点を付けば12月の26日までの段階ですよってことで回数が決まったんです。
すると、当初予定してた回数から7、8回減ったんです。
残念だったんだよね。
慌てて後半の組み替えが始まるんです。
そこからはもう自転冊を、撮影も順番通り1話ずつ撮っていくんじゃないんで、
ちょっと先のやつも先にチェックしてほしいとかっていうことで順番が入り組んでいく中で、
毎日のように会議、オンラインだったんですけども、夜遅くまでやっぱりやりとりはしてましたよね。
あれ確か11月に入ってから飛鳥山が舞台になってくる感じ。
11月の14日の放送です。
大河ドラマ館のほうもコロナで中断したりとかで、なかなかこういう人が来ていただくようにできなかったんですけれども、
ちょうどあのタイミングだけコロナが収束して、集められるようになったんですよね。
だからもう11月からのあっという間で7万人ぐらいの人が来ていたから、
もうこれが1年間きちっとできてて、今の7、8話削除した部分がちゃんとできて、
あれしたら本当に何十万人かの人が飛鳥山に訪れてくれたんじゃないかと思って、
今でもね本当に残念なんですけどね。
でもすごく僕ら多少身引きもあるのかもしれないけど、よくできた番組だったし、
井上さんとしての手応えはどんな感じでしたか?
資料に忠実に描きましょうっていうのが最初からの方針であったので、交渉の違いはあったかと思います。
ただそうは言ってもプロデューサーの思いつきで、実際の最後の撮影のところで大どんでん返しがあったりして、
放映を見てえ?っていうふうに思うところもいくつもあったのが事実なんですけども、
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でもですね、あのドラマ化していただいたおかげで、
いくら我々が論文で書いたりとか、講演等で語ってもですね、
描ききれないようなところ、渋沢栄一をなかなかイメージとして掴みきれないようなところを、
あの映像で皆さんに分かりやすく伝えられたかなっていうところでは大きな意義があったと思います。
地元民としても飛鳥山の洋館とか出てきたじゃないですか。
やっぱり今までも写真とかで見てても白黒だし、もう一つイメージがわからなかったのは、
あのあれが描かれたことによってすごい身近になりましたよね。
そうですよね。
そういうのがやっぱりテレビの力ですね、ドラマの力というかね。
なるほど、いや本当に井上さんのお力とあっての晴天をつけがあったんじゃないかなというふうに思いますけれども、
さてですね、ここからはいよいよ渋沢栄一さんの様々なお仕事といいますか、
実績についてお伺いしていきたいと思いますが、
最近井上さんは渋沢栄一さんのキャッチフレーズを、
日本資本主義の父じゃないよということをおっしゃり始められた。
少し前からなんですけど、
実は自分の著書を表すときに、サブタイトルで日本資本主義の父っていうのは絶対使いたくないなと思ってたんですよ。
というのは、実は渋沢栄一って人間は資本主義を日本に根付かせたような人でもあるんですけども、
本人の口から資本主義という言葉はほとんど発せられてないんですね。
使っているときは、やはり個人第一主義みたいなところが強いイメージとしてあったのか。
むしろ批判的に使っているということですね。
そういうことなんですよ。
だから、それとどうしても日本資本主義の父というような言葉からイメージされる渋沢蔵というのは、
やっぱり世間で言われる実業家、経済人としての位置づけがわりと強く鮮明に伝わってしまう。
裁判でお金を集めたというのと重なりますよね、イメージは。
でも、実際の渋沢はそうじゃないでしょうと、いろいろ紐解いていく中において、
一番長く関わったのは、実は福祉の事業だったりもするし、
他にも人を作らなければいけないということでの教育や医療や、
というようなことで、さまざまな分野、日本全体をうまく形作っていった人、
近代日本社会を創造した人、クリエイトした人であり、
それをうまくまとめたオーガナイザーとしての役割なんだよ、
というようなことを表現したくて、自分の著書の中では、
近代日本社会の創造者というふうに表現したんですね。
なるほど。ぜひ地元としても、まだね、
渋沢さんの複読本とか、帰宅も作りましたけど、
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やっぱりそこも、近代日本資本主義の地地とか書いちゃってるんで、
これちょっと少し時間かけてですね、井上さんの近代日本社会の創立者、創設者ですか?
創造者。
創造者という言葉に置き換えていければなと思いますが、
さて、いろんな側面という意味で、まず一番目としてですね、
企業家としての渋沢栄一。この企業家はいわゆるアントレプレーナーといいますか、
要するに事業を起こすですね。
先ほど来、いろいろお話をしてきましたように、渋沢さん、
幼少期から青年時代、深谷の豪農と言っていいんでしょうかね。
いわゆる藍玉を販売するとか、そういうところで商売の素養が培われた部分があると思うんですけれども、
20代半ばで士官をした一橋家でですね、
これまた非常にその後の基本になるような事業をスタートしていくと。
欧州視察の、要するに経験も後には生かしながらね。
これにちょっとお話を伺いますでしょうか。
はい。やはり村社会の中に生きている中においても、
領主からいろいろ搾取されたりするのを体験してきた。
でも実際に世の中を支えているのは一般の農民であり、
職人であり、商人であるというような、
その庶民の生活を支えていくためには、
その生業をちゃんと立たせなければいけないというような思いをずっと持ち続けているところがあるんですね。
そんな中で、小島さんがおっしゃった欧州での体験。
これがやっぱり先進国において、とりわけその当時のフランス、第二帝政期のフランスにおいては、
産業の振興がものすごく力を入れられていて、
流通機能がどんどん高まり、そして様々な情報が展開するというような情報社会の中で、
まさにこういう社会をまずは気づかなければいけないんだと。
政治や軍事で国力が増したというふうな時代ではなくて、
経済、産業というものを基盤に据えて国が世の中が豊かになる。
これを目指さなければいけないということで、
企業の創設、そして育成というところに力が向いていったところがあるんですね。
それを持ち帰って、いち早く帰国してすぐ静岡に出向くんですけども、
そこで具現化させて商法会社というのを立ち上げるというところでは、
帰国してすぐにそういう今という会社の定管のようなものをまとめられるというところでの理解力というところでは、
やはり培ってきた少年期からの経営というようなところに携わっていた人間だからこそ、
なせる技だったんじゃないのかなというところはありますね。
本当に僕らも曲がりなりに商売をやってきた人間からしても驚異的ですよね。
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全くゼロだったものを、ああいう静岡版の中で仕組み化して、
自分一人じゃ当然できないわけですから、地域の商人たちを集めて、
それにちゃんと適切に理解をさせて事業として進めていくという、
あれは本当にすごいなというか、この間も静岡の商業会社をやってたお寺とかに行って、
場の力を感じてきましたけどね。すごいなという感じがしますね。
明治維新後も、官庁にも身を置いて改正係ということで、
いわば国の仕組みのスタートをしたり、
それからもちろんその後第一国立銀行をはじめとした企業を500以上作ってということなんですけども、
渋沢さんが特徴的なのは、自分が創設して関わった会社がある程度安定すると、
株を売っちゃって、それでまたその資金でまた次のものとか、
そうですね、その循環がありますよね。
これは井上さんから見るとどういう?
渋沢栄一自身が目標に掲げたのは、世の中の生活をする人にとって必要な事業を会社組織で、
というのが本人が望む姿だったんですね。
その際に一つずつ、まずは金融から手掛けていって、銀行が軌道に乗ったら、
自分の持ち株を売却して、それをまた次の事業に追い込んでいくというような形の循環で、
一つ一つ形にしていく。
しかもそれを自分で経営をずっと続けていって、自分のものにするという考え方は一切なかった。
まさに事業自体を世の中に定着させるという発想だったので、
自らは後進、ちゃんと人を育てて道がちゃんと開けていくようなシステムだけは整えた。
何かあったときには指導的な役割は取るんだけども、
少し一歩引いたところでそれを見守り続けて、
新たにまだ足りないというところに目を向けて、そこに事業を立ち上げていく。
それが数が増していって、500というような数になっていったということで、
やはり何が原点にあるのかというと、人々の生活、それをより豊かなものにするまして、
平穏な生活が送れるようなものとして、こういうものがなくてはならないというところに目を付けて、
それを一つ一つ会社にしていくためには、そういうやり方しかなかったんだろうと思います。
なるほどね。
企業家として数々の名言も残しているんですけれども、
商売をする上で重要なのは、競争しながらでも道徳を守るということだと。
こういうお話もあってですね。
これがさらに言えば公共活動、当時は事前事業とかでいろいろ書かれたところですけれども、
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そちらにも事業が広がっていくと。
この辺はまた来週お話を伺いたいと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。