勲野口について何も知らなくても、とりあえずこの3つだけ押さえておけばめちゃくちゃ楽しめるんじゃないかなって思います。
私も本当に何も知らなかったんですけど、この3つだけ押さえてみたらすごく楽しめました。
この本を書いてきてから読み返したんですけど、新美流が最初に提示した運動的な舞踊身体って本当にそうなのかなってことを、新美流自身が迷いながら書いている本でめちゃくちゃおすすめです。
私は評論とかの手をなしている本に何かしらの著者の迷いみたいなものが入ってきたときに、それがただの評論じゃなくて、著者自身の記録みたいになる瞬間が好きで、
和志田清和とかもそんな感じだと思ってるんですけど、作者の妥交とともに自分も妥交するみたいな体験ってめっちゃいいなって思ってます。
で、ちょっと脱線するんですけど、迷いの話で言うと、今白い巨島を見てて、その白い巨島の中で2人人物が出てくるんですけど、
自分の起業に絶対の自信を持って野心を原動力になり上がっていく財前五郎と、意思としての在り方に日々迷いながら自分の正しさを追求する江口洋介っていう、この対立なんですけど、この江口洋介めちゃくちゃかっこいいから是非見てほしいです。
で、私そのモチーフとして主題、モチーフじゃなくてその主題として政治があるっていうドラマがめっちゃ好きで、白い巨島を好きな人なら松坂トーリーが主演した
今ここにある危機と僕の好感度についてっていうドラマがめっちゃ面白かったんですけど、これらが好きな人で、他にオススメのドラマがあったら是非教えてほしいなって思います。
ちょっと旅の話に戻るんですけど、私はその芸術作品と空間の関係性っていうのにすごく興味があって、伊勢室口美術館を実際に回って、その考えがアップデートされたのが良かったなって思ってます。
私が好きな芸術作品といって頭に浮かぶのは中根錦作が策定した庭園なんですけど、庭園は自分と作品との間の空間というより、自己が庭園という空間そのものに取り込まれるイメージがあります。
で、伊勢室口美術館を回った時に自己と作品の間に空間が立ち上がることとか、そこから自己と作品の間で円環的な対話が生まれることの趣を知りました。
私は今まで人間は一人一人音差を持っていて、対話をする中でその音差が共鳴し合うイメージを持ってたんですけど、実は芸術作品にもその音差があって、響き合うことで一つの空間が生まれます。
それをある石の彫刻の前に立った時に強烈に感じました。
それは鏡台、鏡の台のような造形をしてて、縦に長い立方体みたいな造形の上に三面鏡みたいな形で石が配置されて、近くに行って覗き込むとその立方体の上部に穴が開いていて、井戸のような空間があります。
これが無垢造で針が大きいアトリエの中に入って、少し進んだところに置かれてたんですけど、なので必然的に鑑賞者はその作品と対峙する形になります。
私はこの三面鏡の側面が自分とその作品の間に隔てられた一つの空間を演出するように思いました。
そこで向き合って進んで、よく見たらここの立方体のところに井戸のような空洞があって、これは私は人間を表してるんじゃないかなって思いました。
井戸って村上作品に起きる無意識のメタファーだと私は思ってるんですけど、私はその石の作品を見て鑑賞者が自分の中に抱える無意識の部分とか、
自分の中の欠落とか不在とか喪失と向き合う機能を果たしているのかなみたいな気がして、この作品がむちゃくちゃ好きでした。
私は自分の中でこの作品を見た時にすごく不思議な環境が沸き起こりました。
その後、イサムの口が地球を彫刻したとされる広大な丘とか光を彫刻したとされる明かりという照明のインテリアを見ました。
自分が中根錦作の庭園が好きなのは、あくまで自然を自然のままどう形作るのかに力点が置かれてて、
そこに自分の力で自然を造形させるんだっていうエゴがないところが好きなんですけど、
イサムの口の空間にもそれを感じました。
私はわからないなと思ったことをすぐそこの人に聞きたくなる立ちなので、
の口が地球を彫刻するとか光を彫刻するとかっていう概念は自分が知っている彫刻の概念と違うんだけど、
どういう思いを持ってイサムの口は彫刻をしたんですかっていうことを聞いたんですが、
時の回廊っていうのは建築のインスタレーションで、
コンクリートで作られた回廊にフィルム写真が展示されています。
地中美術館は自然と人間との関係を考える場として、
瀬戸内の景観を損なわないように建物が地下に埋設されています。
で、これは安藤忠夫の建築を見たことがある人はわかると思うんですけど、
どっちも安藤忠夫の建築全としているものです。
金質的で無装飾で内部の空間が外部の自然と遮断されていて、
モダニズム的な趣があるんですけど、
ここが伊佐室口のポストモダン的なカウンター性のある
開かれた庭を作ろうとする試みと、
決定的に違うところかなって私は思いました。
時の回廊も地中美術館もめっちゃ期待していったんですけど、
私はその安藤忠夫の2つの建築物にはあまり環境を得ることができなくて、
そこに気づけたのも良かったなって思ってます。
時の回廊にはガラスの茶室って言って、屋外の火の当たる場所に
全面ガラス張りの中に茶室が展示されてて、
その時の回廊は時間を空間として経験させるっていうコンセプトがあるらしいんですけど、
茶室って障子とか針とか含めて趣があっていいのに、
それを壁全部取っ払って、これが茶室ですって言われても、
何の感動もないなって思いました。
あと、地中美術館は内部の構造が結構複雑で、
これ私が方向音痴ってことを抜きにしても、
今どこにいるのかがよくわからなくなるって構造になってて、
そういうふうに人工的に作られた空間を歩くことの没入感みたいなものは得られたんですけど、
一番楽しみにしてた、
モネのスイレンもあんまり楽しめなかったなって思う自分がいました。
これちょっと私の適当話で、これ本とか読んでないので事実と違うかもしれないんですけど、
地中美術館に収められたスイレンって晩年のもので、
スイレンって初期、中期、後期で結構作風が変わるんですけど、
初期は風景を描写した抽象画であるのに対して、
後期はスイレンっていうモチーフが交代してて、
抽象ですらなくて、絵というものを解体している時期の作品っぽいです。
で、別の作品でジャクソントロックのナンバーペインティングって作品があるんですけど、
これって絵画が何かを表彰するものであるっていう前提を壊した作品って言われてます。
これが私が地中美術館で見たモネにも通じるところかなって思ってて、
その何か具体なものを表彰していることを楽しむんじゃなくて、
絵の具の色の重なりとかテクスチャーを楽しむ系の作品な気がするんですけど、
こういう作品が白い壁にかけられて展示されていることで、
その作品の運動性が失われるんじゃないかみたいなことを私はすっごく感じて、
イサム野口の作品はある建物の中じゃなくて、
元のアトリエとか庭とかに展示されてたのがめちゃくちゃ良かったんだなって思います。
作品と作品が置かれている空間の関係性って大事だなって思いました。
この作品を壁に展示することについては、
ロザリンとクラウスっていう批評家が、作品は床に置いたら物に見えるけど、
壁に展示することで作品に見えるようになって、
つまり壁に立てかけることは物を作品に高める消化の効果があるって言ってるらしくて、
それも一例あるなって思いました。
この話は地中美術館で言ってた地中トーク美を生きるって本に載ってて、
この本もめっちゃ面白かったので変えて良かったなって思いました。
別に合わなかったから嫌だなと私は全然思ってなくて、
むしろこれ合わないんだなって思える自分の心に気づけたので、
美学的に言うと自分の経験の層がまた一つ積み重なったかなっていうことで、
めっちゃ良い経験だったなって思います。
あとこれ極めて個人的な所感なんですけど、
直島はベネッセグループによって運営されてて、
教育のためのアートの島っていう理念が掲げられてきた場所なんですけど、
実際私が見た時、そこに来てる大半って外国人観光客で、
日本人を見つける方が難しかったです。
地中美術なので教育を掲げるアートが結果として選ばれた大人のための
観賞の消費行動になっているみたいな帰りのことが私は結構気になりました。
地中美術館でもう一つ気になったのが、
スタッフが全員全身白い制服を着ていることで、
それが洗練されて清潔で管理されているんですけど、
これが同時に品質化されてるってことにもなってて、
その個人の顔のなさみたいなところが、
村上春樹のダンスダンスダンスっていう小説に出てくる
イルカホテルっていうのを思い起こさせました。
このイルカホテルって物語の中で資本主義の象徴みたいな形で出てきたと、
私は記憶してるんですけど、
またこの小説を読み返したら、
この直島に対しての思いが深まるのかもしれないなって思いました。
3日目は直島美術館に行きました。
これは渡辺幸太郎さんのコンテクストデザインの中で紹介されていて、
気になって行ってみたところです。
これは彫刻家の内藤玲人建築家の西沢隆衛の美術館です。
建物自体は鎌倉型の空洞状になってて、
天井にある2箇所の開口部から空が見えます。
床は平らじゃなくて少し波打ってて、
小さな穴が無数に開いてて、
超撥水加工が施されてて、
穴から出た水がコロコロと転がり出す、
そういう空間です。
来場者は靴を脱いでそこを自由に歩き回ることができて、
座ったり立ち止まったりしてました。
渡辺さんが言うには、
この作品が何なのかもよくわからなくて、
何かを見つめることが大事で、
来場者自身が無意識的に事故との対話をすることの方が
大きな意味を持つのではないかと言ってました。
何もしない美術館でめちゃくちゃ興味深いなって思って、
友達にそこに行って、
お互いがどういう気持ちになるのかを話してみたいって言って、
一緒に行ったんですけど、
手島はフェリーの数とかが限られてて、
その時間の関係で、
手島の滞在時間がトータルで2時間くらいしかなかったので、
だいたい30分ちょっとしか美術館の中にいられなくて、
施策を深める前に時間が来てしまったんですけど、
個人的に面白いなと思ったことが3つあって、
1つはそこに座っている人がみんなだいたい同じ場所に座ってて、
それが開口部から光が射すんですけど、
その光が射している場所と光が入ってこなくて、
鍵になっている部分のだいたいその境界線上に座っているってことです。
その真理って何なんだろうなってすごく思いました。
みんな境界線上が好きなんですかね。
で、もう1つは湿度の関係で水たまりができてるから、
美術館の端の方にはいかないでくださいって言われてたんですけど、
自分はそういう風に禁止されたらそれを破りたくなるので、
端の方に行って2回くらい注意されたりしたんですけど、
みんなその境界線上に座っている中で、
自分はその開口部の光の中心に行きたくて、
ズンズンと歩いて行ったりしました。
で、その明文化されている禁止事項じゃなくても、
人の行動によって形作られていく規範みたいなものがあって、
それが現状として立ち上がっている場所かなって思ったんですけど、
そこも破りたくなる自分の心みたいなところに気づきました。
で、3つ目は手島美術館って明らかに作品を展示するための美術館じゃなくて、
その自分の試作を起動させる装置として働いてるんですけど、
個人的にはそういう風な建築物じゃなくて、
自然の中に自分を置いた方が試作が深まるなみたいなことを思っていて、
その違いってどこから来ているんだろうってことも気になりました。
っていう風に手島美術館ではめっちゃミクロなレベルなんですけど、
自己の再認識ができるかなって思っています。