1. 余白のエクリチュール
  2. 「批評」も「10年代」も分から..
2025-07-04 49:16

「批評」も「10年代」も分からない!よそ者ふたりの"批評会議室"

※今回やや音量バランスが悪いです、すみません。。。次回から改善予定です!

#8 / 「2025年に批評は存在できるのか?」「いま批評は存在できるのか」 / 動画とテキストそれぞれから受けるニュアンスの違い / 三宅さんの大きな特徴の一つ「見た目もひっくるめた親しみやすい語り口」 / ビジネス的なストレートな言葉遣いが出ていた? / ビジネスとアカデミックの違い? / ※批評を全然知らんひとの感想です / 登壇後記に”すべて”が出ていた / ステイトメントで良いと思った / 「未来」に向けて語って欲しかった / 結局「批評」が何かはよくわからなかった / 「批評」はロマン? / 三人の重なる場所からの発展がみたかったかも / 「流通会議室」 / 「三宅さんが作る世界をもっと見たいな」 / 「批評の文体をひらきたい」 / 三宅さんは「文体」を軸にした語りが一番面白いと思う / 三宅香帆 = 「文体」の実践者 / 「必然性」 / AIが出す文章には文体がない  = 必然性がない / 10年代の話 / 今の若者にはエネルギーがない? / 「ゾス」 / 世代論の功罪 / 30代前半で一度総括したくなっちゃう説 / AIの発展により、人間に残されたのは「時間」しかない / 「世代」が必然性を持ちすぎる / 区切りをつけたい? / 「なぜ三宅香帆はあんなに働くのか?」 / 「読むこと」と「書くこと」の重要性


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やぎしょーご Shogo Yagi @sho5_midday ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://x.com/sho5_midday⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

𝑃𝑜𝑚𝑃𝑜𝑚 🍮@pompomreading ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://x.com/pompomreading⁠

サマリー

このエピソードでは、三宅嘉穂の「今批評は存在できるのか」イベントについて、批評の位置づけや文のスタイルの違いが議論されます。特に、三宅さんの親しみやすさやビジネス経験に基づく語り口が強調され、批評の未来についての見解が述べられます。現代の批評のあり方や様々なスタイルについても議論され、松田さんと三宅さんの異なる批評観や、イベントでの対話を通じて未来の批評の可能性が模索されています。三宅さんの文体への興味や批評の多様性についても語られ、AIの文章や文体の重要性が議論されています。また、世代間の経験の違いが文化や心理に与える影響についても考察されています。このエピソードでは、10年代という時代の理解と共感の難しさについて議論され、特に世代論や文化的背景がもたらす影響が考察されています。さらに、AIの進化に伴う社会の変化や、その中で個人が抱える不安についても触れられています。

批評イベントの考察
はい、始まりました。余白のエクリチュール、略してよはちゅる。後半は、今批評は存在できるのか、言論の今批評は存在できるのかというイベントとか、流通会議室のイベントについて考えたことを話し合っていきたいと思います。
前半は、三宅嘉穂さんの、なぜ働いていると本が読めなくなるのかについて話してきました。このなぜ?についてざっくり振り返ったり、ここで言われている半身で働くということだったり、文脈ノイズを取り入れるにはどうしたらいいかということについて語ってきました。
後半を今から始めたいと思います。よろしくお願いします。
お願いします。前半は三宅嘉穂さんのなぜ?について話して、後半は位置づけとしては、もう少し広く三宅さんの活動とかに触れながら、それぞれの思想とか、それに対して考えたことを話していけるといいのかなと思って、
まず最初は、さっき話した批評イベント、2024年1月19日にあったやつかな。京都で2025年に批評が存在できるのか。
あとはその後、文振りで出した今批評は存在できるのかという本とか、そこら辺に触れながらちょっと話してみますかっていうのがまず最初のトピックかなと思いますが、どうですか?
ぽのさんはこれは動画を見たんでしたっけ?動画を見て。
動画を見ました。最初なんかこの今批評存在できるのかが、Kindleで電子で配信ってなったときに、一回これを見たときに、なんかその動画だとどうなってるのかなっていうのを知りたくて、単純に自分のコミュニケーションで。
なるほどね。
動画を見てみましたね。
こんな感じです。
どうでした?実際見てみて。
動画とテキストの違い
実際なんか、どっちも面白かったんですけど、どっちもなんか微妙にニュアンス違っていたなっていうのがあって、結構なんか電子書籍の方が、もうちょっと植田さんの思想が出てるかわかんない、編集者の植田さんの思想が出てるかわかんないですけど、
結構なんか、もうちょっと対立を感じる感じの。
ある感じで書かれていたのかなっていうのは思いました。
なんかね、私がね、この動画の、多分このイベントがあったときぐらいなんかTwitterで見ていると、結構なんか三宅さんがなんかめちゃくちゃ言っているみたいなコメントをしている人がいたんですけど、
私はその動画を見た限りそういうことはあまり感じなかったなっていうのが私の率直な感想でした。
そうなんですよね。
いや、多分まぁちょっと問題から若干あれだけど、やっぱテキストに落とした文章、三宅さん自身も言ってたけど、それと動画で撮るニュアンスってやっぱ全然違うよねっていうのは結構これを見てわかるんじゃないか。
僕は動画から入っちゃったからちょっとあれなんだけど。
なんかちょっと話したんですけど、やっぱりその、なんていうか三宅さんの一つの特徴って、やっぱなんか、なんていうんだろうな、あの親しみやすさみたいなところだと思うんですよね。
やっぱり外見含めた、持ってる雰囲気含めた親しみやすさだと思うので、それがテキストだけに立って出てくる三宅さんの言葉と、あの三宅さん自身から発せられる言葉っていうのはやっぱりこっちで受け取る言葉の感じとか全然違うよなっていうのがやっぱあるんじゃないかなっていうのは思いますね。
めっちゃそうですよね、本当に。本当に三宅さんが多分動画で出ている三宅さんはうなずきながら、うんとうなずきながら聞いていたし、その私の本当に印象としては、本当なんかコメントとかで三宅さんが詰めているみたいなこと言ってる人いたんですけど、絶対そういうことないんですよ、私は本当に思ってたんですけど。
三宅さんがめちゃくちゃ優しい感じで言っているなって、むしろ別に詰めているとかではなく、あなたはどう思うのかということをただ聞いていただけであって、全然ね、そんな感じは受けなかったですね。
分かんないですよ、結構雑な語りをしちゃうけど、やっぱ三宅さんはビジネスの世界を経験しているから、ストレートに言葉遣いが多かったのかもしれないという気は今聞いてて、なんでそう思うのかみたいなことをバチッと聞く感じ。
それがもしかしたらなんか分かんない、僕も批評に詳しくないからなんか分かんないんだけど、もうちょっとこう違う言い方の方が批評の世界では好まれるみたいな話があったりするのかなみたいなことをなんか今聞いていて思ったけど。
ちょっと柔らかな言い方がってことですか?
柔らかなのか分かんないけど、なんかもうちょっとそのもう少しもありくどく言うとか、分かんないけどね、もう少し難しい言葉を使うとか、分かんないけど、そういうちょっとその批評で良しとされるそれこそ文体となんか批評で良しとされる文体とビジネスで良しとされる文体みたいなのって絶対違うじゃないですか。
三宅さんは結構僕はビジネス的な文体を内面化している気がするので、内面化してないのか意識的かもしれないけど。
思いましたね、確かに。本当に三宅さんはビジネスをやっていた人の語り口であって、松田さんとかは本当になんかアカデミックでやってきた人のロマンを追求する感じみたいな、ちょっとあの三宅さん本当になんかビジネスの経験があって、自分はこうしてきましたということを自分がなんかやったその実績から示していくみたいなところはあったんですけど、
そこの語り口の違いっていうのもあったのかもしれないですね。
そうですね、そこら辺が結構如実に出たイベントだったんだろうなと思いますね。
一応僕のスタンスみたいなことを言っておくと、イベント僕も動画は出た直後とかに見て、なるほどなと思って、文章の方、テキストの方はKindleで僕も読んだんですけど、いずれにしても僕がいいなと思ったのは三宅さん、圧倒的に三宅さんだったっていう感じだったんですよね。
そこをもうちょっと詳しく知りたいですね。
動画の方は、動画のテキストも根本は同じなんですけど、結局このイベントは何なんだろうみたいなところを一番捉えているのは三宅さんだったんじゃないかなっていうのが僕の感触ですと。
僕は批評のことは何もわからないので、そういう人がこのイベントに興味を持って見たっていう前提で話すんですけど。
そうですね、私もそうですね。
それって結局批評っていうのに興味がある人に向けてどういう言葉を発するかっていうことだと思うんですよね。
その中でやっぱり三宅さんは、このアドバヒロキとか言ってることとか、言語がやってることとも近しいからっていうのもあるし、そういうことはイベントの中でも言ってた気がするんだけど。
やっぱりその観客みたいなことをすごく意識して言葉を選んでいたと思うし、そういうことを言ってたと思うんですけど。
ちょっと批判するつもりはないんですけど、松田さんとか森明さんとかは、そこら辺があんまりよくわからなかったというか、本当にピュアに批評について語っている気がしていて。
批評の未来を探る
それはそれでいいと思うんだけど、このイベントとして何が言いたかったのかなみたいなのがあんまりよく見えなかったっていうのが僕の感想だったんですよね。
イベントですね、イベントの話。
もうちょっと言っちゃうと、テキストはそれがもっと充実に出たなというのが僕の感触で。
座談会のほうはイベントがもうちょこっとされてるだけなんで、まあまあって感じはしたんだけど、
これ登壇講義ですよね。これがちょっと見た時に、こうなったのかみたいなのがめちゃめちゃ面白かったんですけど。
面白かったですね。
中身は置いておくとして、まず文量が全然違うんですよね、これ。
前者2人、松田さん、森明さんは結構な文量を抑えていろいろ書いている。
一方で三宅さんはかなり簡潔に終わらせている。
まずここに何かいろいろなあれがあるよなって思ったんですよね。
思いましたね。森明さんとか松田さんとかは本当に多分自分のロマンがあり、それを多分言えなかったのかな、出せなかったのかなっていうのは思ったんですよね、その動画で。
出せなかったからこそ、自分の思ったことをこの登壇講義で書かれているのかなっていうのはすごく思いました。
結局、僕のさっきの話に結びつけちゃうと、結局何がしたかったんだっけがあんまりよく分からなかったんですよね、このお二方については。
そういう話じゃないんだよって言われたらそれまでなんだけど。
僕がちょっとさっき思ったのは、松田さんは登壇講義でこのイベントの感想を書きたいって書かれている。
森明さんは、これはそりゃそうだよなと疑問するけど、もともとイベントが2025年に批評は散財できるのかっていう話だっていうのもあったから、その批評とは何ぞやみたいなことを改めてここで語っている。
っていうので、三宅様まで全然違う角度から話してるんですけど、別に俺聞きたいのはそれじゃないんだよだと正直思っちゃったんですよね、この二人の話を。
どういうことを聞きたかったってことですか?
この後の話につながるんですけど、先に言っちゃうと、さっき思ったのは松田さん、森明さんは比較的過去に遡って話をしていて、三宅さんは未来に向けて話をしてるって思ったんですよ、僕これ読んだ時に。
私のスタンスちょっと違うかも。
私は松田さんが過去で、三宅さんが現在で、森明さんが未来かなって思いました。
それはちょっと置いといて。
批評とは何かみたいな話って、もう良くないって思っちゃったんですよね。
オールドスタイルの批評が、今までこういう歴史があってみたいな話ってことですね。
それを松田さんとかがやられていると。
批評の定義みたいなことを今晒す、意味はあると思うけど、これを読む道とかそれを求めてる人がどんだけいるのか、僕はよくわからなかった。
僕の立場から言ってるから、全体で見たら違うかもしれないけど。
僕からはそれよりも、結局今批評は存在できるのか、もしくは2025年に批評は存在できるのかみたいなタイトルに対して、
あなたは結局どういうことをやっていくんですかね、みたいなところをもう少しクリアにしてもらって話してもらう方が、
僕としては、そういうことをしていくんであれば批評っていうことには未来があるんだ、みたいな風に思えた気がするんだけれど、
そこらへんが書いてる気もするんだけど、あんまりいろいろな情報量が多かったから、あんまりよくわからなかったっていうのが松田さん、森明さんのところ。
で、ひるがいて三宅さんはっていうと、ものすごく個人的な感情に対して自分はこうやっていくんだっていう、
もうステートベントじゃないですか、これはもう完全に。僕はもうこれでいいと思ったんですよね。
なんか、その別に批評がなんだとか正直あんまりもう、ぶっちゃけどうでもいいような気がしていて、僕の中では。
僕は批評に興味があんまりない人だからかもしれないけれど、じゃなくて、
じゃあ結局そういう土俵の中にいる人たちが今後どういうことをやっていきたいのかっていうことが聞きたいなと思ったので、
三宅さんのこの短い中で、三宅さんのものすごく個性みたいなのが、三宅さんの文体がすごく見えたんで、いいなって思った。
ずっと僕は三宅さんは未来の話をしていると僕は思っているので、っていうところですね。
そうですね、このイベント、ここの発言のことはまだちょっと今置いておくんですけど、
このイベント全体のその所感としては私もすごく似たものを感じていて、
批評の多様性の探求
この私が多分批評とすごく距離がある人間から思うに、
このイベントがその批評の歴史の中でどういう位置づけにあるかというのがちょっと見えないというか、
今批評が存在できるのかっていうタイトルだから、
これから批評をどうやっていきたいのかっていうことが見えなかったなっていうのは本当に私も思って、
見えなかったというか、それを見せてほしかったなっていう気持ちがあって、
せっかく結構いろんなスタイルの人がいたんですよね、今回集まってたんですよ。
私はその今回初めてこのイベントを見て初めて批評っていうのにもいろんなスタイルがあるんだなっていうのがすごい知れたんですよ。
それがちょっと私の中では結構良かったんですけど、私はどちらかというと批評というと本当に松田さんがやっているオールドスタイルの、
本当に昔の人の批評のことの文脈を取り入れつつ、
歴史を語っていくみたいなイメージを持っていたので、
私のこの所感ではちょっとショウゴさんとは違うんですけど、松田さんはオールドスタイル、
三宅さんはビジネスとか、本当に三宅さんはいろんな批評をいろんな人に開きたいからいろんな文体を試している。
私もさっき三宅さんは現在のことに視点を置いているって言ったんですけど、
現在に軸足を置きつつ、未来のことを考えているなって三宅さんはそういうふうにしているなって今思ったんですけど、
松田さんは結構未来のことを語っているのかなって思って、
松田さんは結構過去のことというより、今自分がいろんな音楽とかそういう批評とはちょっと離れた位置から、
いろんな分野のことをつなげていって、松田さんは20年後、30年後、もっと先のことを考えている。
先に批評が読まれるにはどうしたらいいかみたいなことを考えているっていうようなことを言っていて、
結構3人ともにそのスタンスが批評をやっている立場ではありながらスタンスが異なるなっていうのはすごく感じたので、
じゃあこの3人が集まった時にこれからの批評ってどうしていけるのかねっていうことを、
もうちょっと同じ未来に向かって何ができるのかっていうことを語っているのを見たいなっていう気持ちがすっごくありました。
未来に向けた批評の議論
それはそうか。あれさっき松田さん言ってたけど森明さんのこと言ってたのかな。
森明さんだ、そうそう森明さん。
森明さんといろんな分野をみたいな話をしてた。そういうところがほとんど見られなかった感じがしましたねとは僕も思う。
だからそこら辺もったいなかったんだろうなっていう気はするけど、
まあそうでしょうね。ちょっといろんな言い方はあると思うけど、なんとなく思っていることはしかし気がしますね。
そうですね。今批評はそんなにできるとか、
Kindle の方の、この京都のイベントを振り返って、
あずまひろきさんとかが入ってやったその反省会みたいなやつを見てすごく思ったんですけど、
このイベント自体、その三宅さんがなんかすごいその部数出しててすごいみたいな話になって、
ところどころそういう流れになっていくっていうのはすごくもったいなかったなっていうことを言っていて、あずまひろきさんは。
言ってましたね。
すごく納得したんですね。もっとなんか部数の話で、部数部数言われたらもうそれがまたせいじゃないですか。
お土産さんが割とできずになっちゃうから、そうじゃなくて、
もうちょっとその未来に向けてこの3人だったらどうしていけるかみたいな話を聞きたかったなっていうのは思いますね。
新しい視点の重要性
だからなんか全体的な所感はそれですね、私は。
まあでもそうだなっていう。だから僕、めっちゃもとんこないこと言うと思うけど、批評とか別に正直どうでもいいなと思っていて、
結構面白いことをどうやってやっていきますかねみたいな、なんかもうそういうことな気がしたしているので、
三宅さんがやってるのは、批評批評って言ってるけど別になんかそんなに批評にこだわりあるんだと思うけど、
なんかそれだけじゃないとは思うから、なんかそこら辺のやっぱりギャップ。
松原さんと三宅さんはやっぱり批評にすごくこだわりがあるんだなっていうことをちょっと思った。
それはイベントでもテキストでもっていうところがあるんだけど、
結局これ読んでも僕は批評が何なのかよくわかんないんですよ。
だからそこにボタン押しのどこにあるんだろうなみたいなことはちょっと思っちゃうんだよな。
私が思うんですけど、私の周りに批評好きな人がいるので、
その人たちを見ていると、批評が好きな人は本当にロマンを求めているんだなっていうふうに思ってて、
たぶん一番最初に読んだ本で、この語り口が面白いとか、こういうふうな読み方があるんだって、
その感動に動かされてここまで来たっていう人が本当に批評好きな人に多いんだなっていうことを、
私は実感として思っています。
それはどういうことなんでしょうね。
僕はそれがピンとこないのは、言ってることはめっちゃわかるんですけど、
ちょっと突っ込んで話をしちゃえば、この後の話に繋がるかもしれないけど、
それを縮小再生産しようとしているように聞こえてしまっているっていうのが、僕の感じるところなんですよね。
同じことを後世にも伝えたい。自分が感じた感動を同じことを伝えたい。
そういうのは無理じゃないですか、現実的に考えて。全く同じことは絶対無理なはず。
時代は変わっているので、同じことをやってもそれを受け入れられないとは思いますね。
時代もそうだし、自分が感じたものそのまま他の人に伝えるって、現実的に絶対無理なはずなので。
そうじゃないやり方で、そこで自分が感じたようなものと近しいものを、
ちょっといろんなやり方を踏まえてやろうみたいな話だったら何となくわかるんだけど、
本当に自分がやったやり方、自分がたどり着いたやり方と同じようなことを後世にも伝えたいみたいな。
それで重要だと思うんだけど、そういう話があまりにフォーカスされすぎているように聞こえて、
それとは違うようなやり方を三宅さんはやろうとしているから、何か話がかみ合ってないみたいな、
何かそういうふうに見えちゃうんだよなって。
それはあるかもですね、本当に。松田さんはもうそれこそ批評の歩き方っていうことで、
いろんな批評家の、今の批評家の人を集めて地図を作るっていうことをやっていて、
一方で三宅さんは、三宅さんは確かに批評ではないなって、
批評をやっているんだろうけど、批評のやり方ではなく、でも確かに将吾さんが言うように、
批評を広めるという意味で、本当に広めたい、これが面白いんだよって言いたくて、
いろんな方法を試しているのが三宅さんだから、三宅さんの方が未来のことを考えているように感じるっていうのはすごいわかります。
そうですね、そこの話は後でもうちょっとしたいなと思ってたけど、でもそうだと思うんだよなと思うし、
そういうやり方でないと、何かを広めたいのであれば、そういうやり方がまず成功法だよねとは思うなっていうので、
だから普通のことをやっている、ビジネス的には普通のことをやっているなっていう感じがするんですけど、三宅さんは。
だけど三宅さんからすれば、何かあんまりそれが理解されていないみたいなふうに思っているんだろうな、みたいな感じがめっちゃするなって。
一方で三宅さんも、森明さんとか松田さんとかが言っている、三宅さんが本を読んでほしいという結論に、
集中してしまうということを言っていて、それを確かに何かわかるかも。
もうちょっと何か、さっき前半で言ったように、それ以外のことを三宅さんが語ってほしいというのはすごくわかるなって思いました。
それはそう、確かに言っておいたほうがいいと思うけど、それは本当にそうだと思っていて、
だから何かもっとそういう話をすればよかったのにとかって思うっていう感じがする。
だから何かそこがうまく噛み合ってない、何で噛み合わなかったのかもよくわからなかったけど、
もうちょっとそこに関しては三宅さんの話をもっと聞きたいなと思うポイントだと思うので、そこは本当そうだと思いますけどね。
じゃあちょっと話を、
いいですか、私は森脇さんの話すスタンスみたいなのが結構いいなと思っていて、議論を前に進めるっていう意味では、森脇さんの疑問の提示の仕方っていうのはいいなと思って、
三宅さんが批評更新していくっていう中で、
三宅さんが社会にどういう問題意識を投げかければいいのかが見えないっていうことを言っていたのは、
この批評のイベントの全体として、今批評は存在できるのか、未来に批評は存在できるのかっていうことを語る上では森脇さんの疑問の提示の仕方っていうのが私はすごくいいなと思いました。
そうですね、スタンス的には森脇さんといろんなジャンルを繋ぐみたいなところとかはめっちゃ好きだし、なんか面白いなと思うんだけど、
その問いの投げ方は、ちょっとそれは誰がやったか覚えてなかったんだけど、森脇さんがやってたのをすると、それは全然いいなと思い、それが先にうまく繋がらなかったのは何でなんだろうなっていう感じなのかな、やっぱり。
そこがあんまりクリアにならなかったなーって感じが、印象が僕の中ではありますね。
なんか言葉が合ってない感じがしたんですよね、やっぱりなんか全体的に。
わかりますね。本当に自分の大切にしているものがここにあって、それはすごくそれでいいんだけど、もうちょっとね、もうちょっと3人のフィールドが重なり合う部分みたいなのを見つけて、そこから発展みたいなことを見たかったなっていうのはあります。
それはそうかもしれない。
ちょっと話展開させて、全然違う話にいったときに、最近我々2人が見たイベントだと、三宅さんとタイタンがやった律会議室も、批評は全然違う話だけど、三宅さんの活動としては結構根本的な話をされてたなと思うんですけど、あの会議室どう思いました?
あれはめちゃくちゃ面白かったですね。しかも、何だったっけな、多分三宅さんはずっと同じことを一貫して言ってるなっていうのを、この言論のイベントとその律会議室で思って、三宅さんは、三宅さん自身、世界を、ちょっと切り口を変えて世界を見ることがすごく面白くて、
それが個人、一人で生きていく、一人の世界を作っていくために大事。この共同体ではこう言われているけど、本当はこういう見方もあるし、その共同体で言われていることだけを信じないで、自分の思った考えとかを持っていていいんだよっていうことを伝えているなっていうのがすごく思って、私もその考えにはすごく共感するから、
三宅さんが作る世界をもっと見たいなっていうのはすごく思いました。
そうか、そんなこと言ってたか、なんか言ってたような気もするし、あれなんだけど、それを聞いてもやっぱり思うのは、なんか別に批評、それを批評と言ってもいいのかもしれない、ちょっと違う語り口、切り口から物事を見るみたいな話を批評と言ってもいいのかもしれないけど、
文体と批評の多様性
僕なんか前にもXでポストしたんですけど、別に僕としては批評も考察も感想も全部一緒じゃんって、なんか僕は思っちゃってる。
だからその、それの心はやっぱり今言ったように、ちょっとなんかいわゆるちょっとこれが生徒されるような見方とはちょっと違う切り口から物事を捉えたら面白いんじゃないかみたいなことを全部やってるような気が、
僕はそれは、その3つの本質はそれだと思うので、やっぱそういう意味では別に三宅さんはなんかこう批評とかってよりかは、やっぱそこがやりたいんじゃないかなみたいなことをなんとなく思うし、そこには僕はすごく可能性があるような気がするなーって思うんですよ。
ちょっとさっき三宅さんが、塩昇吾さんが言ってた、三宅さんはそのなんかいろんな、なんだろうな、いろんなその語り口でやっている、ちょっと待って、私が言いたいことがわかんなくなっちゃったすみません。
三宅さんの、僕が一番三宅さんが最近書いた文章で面白いなって思った文章は、ノート、有料ノートで書いてた、批評の文体を開きたいっていう、さっきの批評イベントに対したやつで、僕が中で一個腹打ちしたのは、なんで三宅さんはみんなに本を読んでほしいと思っているのか、僕もよくわかってなかったんですけど、
一個前に済んだなと思ったんですよ、あれを読んだ時に。それがなんでかっていうと、三宅さん自身は文体にしか興味がないんだと。文体にしか興味がない。面白かったのは、私も音楽にはあんまり興味がないみたいなことを言っていて、なるほどねって思った。
僕は逆に言うと結構リズムとかにしか興味がないから、なるほどねみたいなことを思ったんですけど、それを置いとくとして、私はいろんな文体を読みたいんだみたいなことを言ってて、そこが根幹にあるからなんだなって僕の中で落ちたんですね。
それはどういうことかっていうと、要は多分いろんな人が本を読んでくれないと、その本のテキストに残すっていう文化が途絶えてしまう。そうすると三宅さん自身がいろんな文体を見たいのに、そういう文体がなくなってしまう。だからいろんな人に本を読んでもらって、その本の文化っていうのを継続させたいんだ、みたいなロジックは僕の中では結構腹打ちしたんですよ。
だからみんなに本を読んでもらいたいっていうのは、なんか僕の中では結構しっくりきたので、なるほどねって思ったし、もうちょっと言っちゃうと、やっぱり三宅さんの活動の中で文体っていうのは結構キーなんだなと思っていて、直近三宅さんのポッドキャストとしてそうこうっていうのでもそういう話をしていて、僕はやっぱりこの三宅さんの語りは文体というものを軸にした語りが一番面白いと思ってるんですけど、
やっぱりそこなんだよなと。三宅さん自身が今やってることもポッドキャストやったり、YouTubeやったり、テレビ出たり、なんとか出たり、いろんなイベント行ったりみたいなところで、たぶんその自分の文体、三宅家宝という文体をいろんなフィールドでいろんな出し方をすることによって、
ある意味実践をしている、自分が思っていることを考えていることを伝えるっていうことを実践しているんだなって僕は捉えているので、何を言いたかったか忘れちゃったけど、やっぱりそこが三宅家宝という人の根幹で、そこが一番面白いところ。他にそういうことをやってる人ってなかなかいないなって思ってるところかなって。
そうですよね。文体に興味があるって言ってる人は、たぶん私は三宅さんが初めてですね、そうなんだって、文体にそういう本当に固有性があるんだっていうのは、ちょっと私は三宅さんのノートとか三宅さんの語りを聞いて初めて発見があったことで、面白いなって思いましたね。
三宅さんがこういうことを言っているっていうことと、三宅さんがやっていることっていうのがすごく一致していて、そこが個人的な所感ですけど、私はそういうところを三宅さんは応援したいなっていうふうに思っているんですけど、今。
いや、本当そう思います。最後の言ってた一致してるみたいな話は僕も本当にそう思っていて、僕は時折、必然性みたいなことを大事にしてるみたいなことをたまに言うんですけど、たぶんそこなんですよ。
三宅加保という人がやってることに必然性を感じるのはこの話なんですよね。やっぱり自分がやってること、言ってることがすごく全部一致してるのがこの話だと思うので、なぜ旗とかもたぶんもともとビジネスで仕事してたからっていう文脈で考えると、何となく必然性はある気がするんだけど、それよりもやっぱり今、一番面白くやってるのはこの文体の話だなと思うのと、
その前に話してた文体みたいな話は、僕は結構もともと思ってた話ではあって、文体に興味があるみたいな話の面白さみたいなのがあって、僕自身も興味は持っていて、これは何だろうな、いくつかあるけど、先に分かりやすいのを言うと、やっぱりだからAIが出てきたことによって、AIの文章って普通に考えると文体はないんですよ。
それは世の中にある文章をごちゃ混ぜにして、そこから推測して出してるだけなので、僕がAIで出した文章と、ポムさんが出したAIで出した文章、ここは基本的にはあまり変わらないものが出てきてしまう。そこには僕が言う必然性がないんですよね。
僕がなぜその文章を出すのか、ポムさんが文章を出す必要性があるのかっていうのが何にも見えないので、そういうところが出るのが一つが文体だと思うので、そこにはすごく面白さがあるなと思うし、
日焼けさん以外にも、僕が知っている限りだと、宇野光雅さんって映画ジャーナリストの人も、自分は文体にしか興味がない、文体しか読んでないっていうことを前にポストしてたので、もしかしたらサブスクだったかもしれないけど、聞いてて、そうだよねって思う。だから確かその文明は、だからAIの文章とかあまり興味がないんだよね、みたいなことをおっしゃった気がするんだけど、本当にそうだと思うんですよね。
結局もうAIで何でもかんでもクオリティだけ見ちゃえばできちゃうので、結局その先にその人がやる必然性が何があるのかっていうところが見えるっていうところが大事な気がしていて。
そうですね、本当に。情報は本当にAIが全部持っているから、本当に誰がそれを書いたのかっていうのが本当に見たいですよね。これから。
世代間の経験の違い
そうなんだと思いますね。そこら辺の話をしている三宅さんが一番面白いなと思うけど、じゃあまあそうしたら話を、理屈会議室の話をしちゃうと、天然大みたいな話はポムさん的にはどう聞いてたんですか?
私はその天然大で、あんまり実感がないっていうのが正直なところなんですよ、あそこで言われていたことの。
若干世代じゃないですよね。
世代じゃないですよ。私98年生まれなんですよ。で、私のその天然大がどういうものかというと、私が2010年は12歳なんですよ、12歳。だから小学生。
で、そこから2019年は大学2年生か。大学2年生の時に2019年天然大が終わろうとする。
天然大って言っても多分10年の中で一貫した年代ではないんですね、天然大って。
日本人とか人類は2回その大きなことを経験していて、それが東日本大震災であって、コロナなんですけど、その中で多分めちゃくちゃ揺れ動いたんですね、いろんなことが。
だから、私はあそこで言ってるのはあんまり一貫性はないなとは思っているし、しかもそこで言われていた多動力みたいな、そういう大きなキーワードみたいなところからもちょっと離れているな、みたいなのは感じました。
っていう自分の私としてはね、私のその距離感の話で言えばそれですね。
そうですね、いきなりこの話しちゃったからあれだったけど、あの2人が天然大みたいなところは結構ビジネス的な文脈みたいな、その名前でしたらいいと思うけど、オチやヨイチみたいな話だとか、ニュースピックスとか、
そういう話を軸に置いた天然大的な価値観、見方っていうところが面白いんじゃないかみたいなことを話してたというふうに僕は理解をしていて、それについてどう思うかっていう話を聞いてみたんですけど、まあそうですよねっていう感じがする。
世代が若干ちょっと違う。今のニュースピックスみたいな話だと、いわゆる多分大学後半ぐらいからだと思うので、そういうところに興味を持つのは。
だからちょっと世代がずれている。僕はタイタン三宅さんとかとほぼ同年代なので、おそらく世代は同じなんだが、でもその感じは僕は分からなかったというのは正直なところ。
やっぱりニュースピックス的な話とかっていうのが共有されるのは、本当にビジネスのところ、三宅さんリクルートだし、タイタンも広告の会社とかにいたし、慶応で京都大学でみたいなところにいた人たちの間ではおそらくある程度共有されるんであろうけど、
僕はあんまりそっちはそういうのに興味なかったので、特に大学の時とかですね。そうするとやっぱり距離遠いよなみたいなことを思ってたのが正直なところで、もう少し突っ込んでいっちゃうと。
だからでもあの話でさらに物事を展開されても、なんかあんま乗れないんだよなっていうのは正直あるなあって。あの話としてどこに行きたいのかあんまり分からなかったんですよね。
三宅さんでいうと、多分めちゃくちゃマジでやっていくみたいな話。タイタン氏もそうですね。っていうところにつながっていくのかなと私は思ってました。
それが天然大の話とそんなに強く結びつくんだっけっていうのがあんまりピンときてないんだよな。
多分今の時代を見て、今の若者を見て、多分あのエネルギーはないよねみたいなことを思っているのかなとか思ったりして。
ないのかな?なんかこれある気がするんだけどな。
それも私も分かんないんですよ。本当に人によるんですよね。めちゃくちゃ。
いやまあね、もともとはないけど、それはマジである。なんかむっちゃかくさんが広がってるみたいなことはマジであると思う。
なんか二極化してるのはめちゃくちゃ思います。
それはマジでそう思うんだよな。それがもう少し広い層に対してあったのが天然大なんだって言い方されると、まあそうかもという気はするんだけど。
それはやっぱりそういう時代なんであった。2011年に震災があって、僕に震災の年ぐらいが大学の就活のちょっと前とかだったので、やっぱりそれは就活とかに確実に影響を与えたし、みたいなところもあったりするので、やっぱりそういう時代感覚みたいなのがあったんだと思うんですけど。
マジでやるみたいな話は、ぶっちゃけどの年代でもそういう話してないみたいな感じがする。
多分今はもう僕の観測範囲だとゾスみたいな言葉がちょっと流行ってたりするけど、コンサルとかはもうなんかちょっとそんな緩いこと言ってないでもうやることやるしかないでしょみたいなことを言ってるのは、
現代の価値観
別にこれは10年代とあんまり関係ないし、結構いろんな人が言っている。それはあんまり世代差わず、若い人がどこまで言ってるかっていうのはあんまりわかんないけれど、そういうことを感じとっている人もいる気がするんですよね。
僕がちょっと触れた某コンサルの人とちょっと働いてたって、結構シンソとかで入った人と話してたけど、別にめちゃめちゃ働きたいわけじゃないけど、全然働くのが嫌じゃないし、むしろ早くキャッチアップしたいからできるだけ働けるなら働きたいみたいなことを言ってて、
やっぱりそういう感覚はあるんだろうなみたいなことも思ったんで、そんなちょっとリモワでヌルヌルみたいな感じを別に持ってる感じではなかったから、やっぱりわかる10年代的なものの、確かニュースピックスみたいなのを総括して話すことに意味はある気もするんだが、それがどこに繋がるのかがあんまりわかんないなーみたいなのが正直な感想なんだよな。
本当にあの二人が生きてきた時代とその環境がそうであったっていう話でしかないんでしょうね。
世代理論って多分そうにしかならないくて、それは多分面白い、特に多分そういうことを実感してた人たちからするとめちゃめちゃ面白いんだと思うのでいいと思うんだけど、
なんか、なんかなーみたいなことちょっと思っちゃう。だからこの話をちょっと世代、下もそうだし上の人が聞いた時にどう思うのかって、ちょっと危ういなーみたいなこと思っちゃったりしちゃったんだよなー。
すごく閉じた世界の話をしちゃってる気がするから。
もうなんかやる気のある人でやっていきましょうみたいな。
結論としてのそこもそうだし、そもそもだからその10年代のところを共有して話せる人ってそんなにめちゃめちゃ多いわけではない気がするから、なんかそういうとこに共有できる人たちだけで話しちゃうのは、まあまあそういうのが一つやりたいことであればそれでいいと思うんだけど、なんかそういうことがやりたいのかなーみたいなことはちょっとあんまわかんなかったっていう感じ。
もうちょっと広く何かをこう話をしたいんじゃなかったっけみたいなこともちょっと思ったし、ちょっとふわっとしちゃってるかもしれないけど。
えーそうか。なんか多分10年代っていうのを多分あんまり押し出しすぎるとよくないというか、多分それを受け入れられないと思うし、多分なんかその、それをそういう環境で、そういう時代で生きてきて、
じゃあなんか今、タイタン氏とか三宅さんがその10年代とかも切り離してですね、それでどういうふうにやっていくのかっていうのをなんか見たいなーっていうのはあります。
本当そうそうそうだと思っていて、でもなんか、ぶっちゃけダンチューのイベントで、まさしくこれに関するイベントをやろうとしてるから、やっぱりやりたいんだろうなーみたいなことをめっちゃ思っているので、そうかーとは思っているんですけど。
ほぼりたいとかであればまあ一旦それでもいいのかな、それでやるだけやってほぼりたいっていう話であればそれでもいいのかなって気がするんだけど。
いやなんかだからそう、あんまり今後多分このちょうど今、多分どの世代もこの30代前半とかで1回こうなるんだと思うんですよ、なんかちょっと人通り。
私まだ行ってないからわからないけど、え、来るのかな?
多分わかる、だから10年くらい仕事をして、結果何となくいろいろな多少の経験を積んで、これ誰かも言ってたけど、そうなんかどっかで、ここで一旦一区切りなんだと思うんですよ。
だからここから多分大きく羽ばたく人もいれば、えっともうちょっともう別にそこまでやる気もないから、ちょっと現状維持になっていくみたいなところ。
で、まあなんか三宅さんとかタイタンとかやっぱり野心があるから、まあ、だし、やっぱちょっとこの数年で実績を積んできたっていう多分自負もあるから、
とはいえまだちょっと若造として見られるっていう中で、えっとここからどうしていくのかみたいなことを多分考える時期なんだと思うんですよね。
だからその中でおそらくお二人はもうとにかくやらなきゃいけないんだみたいなことを持っていろいろやってるっていうところはまあそうだと思うので、
多分おそらくこれだから30代前半とかで結構経験するなんかあれなんじゃないかなーとかを見ているんですけど、
まあだからそれが結構だからそれこそ、まあちょっと言っちゃうけど、だからタイタンが言ってたようなその縮小再生さんみたいな流れとか、
結構昔やってたことと同じようなことをやってないかっていうのには巻き込まれないで欲しいなっていう感じが浮かびました。
そういうことですね。巻き込まれないで欲しいっていう立場ですね。
もちろん、もちろん。
ないんじゃないんですか、でもそれは。あの二人ならないと私は信じないですよ。
まあそばも信じるとか、お二人どこまで期待を抱くかってのはあると思うんで、そばでそうやってもらえればいいと思うんだけど。
どうしてももう一個話しちゃうと、話を1個飛ばしちゃいますが、やっぱりAIみたいな話とかもそうなんだけど、
結局、今人間に残されたものは僕は今時間しかないと思ってるんですよ。時間と情報とかはもうみんなAIが全部持っちゃってるから、
時間だけは平等であるみたいなところがまだ保たれている。時間が平等じゃなくなったらもうどういう社会になるのか僕はイメージが全くできないんですけど、
なった時に、やっぱりこの世代みたいな話はあまりにも、さっき言う必然性みたいなのを強く持ちすぎちゃう気がするんですよね。
例えば昨日言った議事とかもそうだけど、やっぱりこのAIが出てきたことによって新卒採用を絞りますみたいな話はもう絶対この後来ると思うんですよね。
氷河期みたいなことになった時に、またこの氷河期みたいなので世代論が絶対できちゃう。
今後どんどん世代論がかなり強くなってきちゃう気がしていて、しょうがない気もするんだけど、結局でもそれをやりすぎると、
やっぱりその社会の分断みたいなことはもっともっと広がっちゃうような気がしているのが、僕はすごく気になっている。
その世代論はしてもいいんだけど、その世代論の先に何をするんだっけがあってほしいなって思ってるっていうところかな。伝わります?伝わらないかな。
私はあんまり世代であんまり見れていない。
だからたぶん、ろうがいみたいなことを言うと、まだぽんさんの感じだとわかんないのかもしれない。
それから30歳を超えたタイミングで何となくそういうことを思っているのが、今僕の年代なんじゃないかなっていう。それが肌感としてめっちゃ感じてるって感じ。
僕も別に20代の頃に世代論なんて一目も考えたことなかった。
個人の視点
私は自分の生活のことしか考えてないもん、今。
だからそれが30代とかになって多少お金も持ったり、余裕が出てきたタイミングで何となくそういうことを考えるんじゃないかなって思っちゃった。
そうなんだ。じゃあ私もそうか。しょうごさんの時ぐらいになった時にはしょうごさんが言ってることがわかるかもしれないってことか。
のかもしれないって思う。それこそだからコロナを、学生の時代にコロナを過ごした世代としてそこを総括したいみたいなことを思うかもしれない。
ああ、そういうことか。なんかわかるかも。やりなくなるかも、30歳になったら。
そうそう、そういうことなんじゃないかなって思ってしまった。
でもこれは、たぶん区切りをつけるってことじゃないかな。
そうだと思いますよ。区切りをつけるって葬り去ろうとするのであればそれはそれでいいと思うけど、そこに執着しちゃってる人がたぶん一定数いて、そうなると危ういなって思ってる。
ああ、そういうことか。
あの古き良きあの時代にみたいな感じになっちゃうと。
じゃあ、しょうごさん的にはその10年代の話を流通会議室でしたはいいけど、その先のことがそのなんか10年代とどう繋がって、これからがどう繋がっていくのかっていうのは流通会議室では語られなかったから、ちょっとそこが気になる?
語ったのかもしれないけど、あんまりそこが僕にはよくわからなかったから、それを語ることに何の必然性があるのかがもう少し教えていきたいと思った感じですね。
社会の変化とAI
なんかただただ自分たちのマインドに合っているものが三宅さんとかタイタン氏のすごいマッチョな思想に合ってたのが10年代であって、
なんかY2K嘘だろみたいな話をしてましたけど、なんか多分それに合っている時代、自分のそのマインドに合っている時代が10年代で、そこに会議しようってことは私は聞いてて感じなかったから、
なんかそういう時代がもうなんか来ればいいよねみたいな、自分がやることをやっていこうみたいな時代が来ればいいよねみたいなことを考えてたのかなって思いましたね。
そうなのかもしれないけど、そういう話をもうちょっとしてもらったらいいかなって。
聞きたいですね、それを。
もしかしたら未来に投げる話、どっちかというと過去に遡る話になった気がするっていうふうに思ったっていう、そういう話。
めっちゃね、今回長くなっちゃったから、そろそろ閉じようかと思うし、今回一応裏の副題はなぜ三宅コホはあんなに働くのかだったんだけど、それについては1ミリも触れなかったが、
でもやっぱり結論としてはそういう、僕の結論としては、やっぱり三宅さんはだから、そういういろんな文体を自分で実践して、
未来のテキスト文化っていうのを作っていきたいんだと思っているので、そこはめちゃくちゃ僕はいいと思っているから、そういうところの活動がもっと見れたらいいなと思っているという、そんな話でした。
すごいですね。
なんかあります?最後の一言。
いやー、でも三宅さんが、三宅さんなんか読むことが流行ると、流行ってほしいと言っていたのですけど、なんかそれと同時に、今なんかめっちゃ書き手が増えているっていうこともあって、
ちょっとなんか全然話変わるんですけど、でもなんか読まないと書けないっていうのはあると思うので、なんかめっちゃパーソナルな話になっちゃいますけど、なんか読むことも書くことも大事にしたいっていうか、やっぱ私が何を言いたいか分かんなくなっちゃったよ。
話は今度しましょう。
読むことと書くことみたいな話は結構重要だと思うんですよね。
ちょっと今回50分になっちゃったから、もうそろそろ終わろうかなと思うんですけど。
あーやば。
まあでもちょっといろいろ話をしているので、まあいいんじゃないかなと思いました。
まあということで、いろいろ話して、三宅さんの活動とか結構面白いと思うので、引き続き見ていきたいなと思いました。
これからも追っていきましょう。
はい、という感じで、じゃあ今回はここまでです。
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はい、ちょっと長くなっちゃいました。ここまでお聞きいただきありがとうございました。
次回もぜひお会いしましょう。さようなら。
ありがとうございます。
49:16

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