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2023-04-06 33:22

【764】瞬時レビューと瞬時プラン

リアルでない空想はレビューもプランもしない
タスクシュートの考え方について
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
えー、4月の6日の、木曜日の、まあそれはいいんですが、夜19時半、まだなってないか、20分くらいですね。
やっと今お風呂に入ってきて、出てきたところです。
はい、まあ、よしとしましょう。で、えーと、
4月の8日開催ではなくなったんですが、
第8期か、8期の書き上げ塾を開催します。スタートします。
で、えーと、これ4月始まりだから、4、5、6、7、8、9月に終わって6ヶ月で一冊の本を書くといった、えーと、
倉園圭三さんとの企画に、あの、塾ですね、えーと、オンラインと参加もできて、えーと、月に1回のですね、
オフラインの講義もあって、まあそこに集まってみんなで、えーと、今お題を、お題を設定して、えーと、
1時間ほど文章を書くという時間を設けておりまして、えーと、6回の講義、いずれも、えー、4時間と、
いったものになっています。違うな、17時半、13時半から4時間ですね。
いや、あの、なかなかこう、がっつりで、えーと、濃密な会議なので、あの塾なので、よければ、あの、
まだご参加いただけますんで、ご参加いただければと思います。あともう一つですね、私の、えー、
吹き送りせず夢を叶える日、3ヶ月チャレンジと、夢を叶える人になる3ヶ月チャレンジですね。
えーと、こちらも4月の30日に、えーと、キックオフというのかな、えーと、オンライン、オフライン合わせてのミートアップが、
えー、スタートして、それから3ヶ月で、まあ、えーと、一つ、その3ヶ月間の講座を、えーと、オンライン、オフライン交えて提供をします。
まあ、オフライン参加ばかりだったんですけどね、第1期は。第2期からも、引き続きオンライン、オフラインです。
で、あのー、まあ、こちらは、えー、私との、多分計12回ほどのセッションがメインになって、週に1回の作業タイムというものの中でですね、私が、こう、短いレクチャーを交えて、えーと、
まあ、作業タイムをしていただくといったものを、えー、提供します。で、月に1回ですね、えーと、はっきりと私がレクチャーを入れて、
作業タイムを3時間トータルで取ると、2時間かな、2時間強取るといった月に1回の、えーと、レクチャーと作業タイムの、えーと、まあ、特別版みたいな、こちらはオンライン、オフラインの、えーと、
両方どちらでも参加いただけるという内容にしてます。ただ、オフラインの会場が多分関東の、東京の真ん中ではなくて、多分周辺でやることになります。
第1回会場は小田原を予定しております。えーと、そういったものですね。これを、えーと、まあ、4月、現、大体、イメージとしては5月から、5月の1から、えー、8月の1まで、7月の30日ぐらいまで続けるといったものになります。5、6、7ですからね。はい。
この2つが、えーと、とりあえず今日のお知らせかな、といったところですね。
で、えー、本題に入ります。ちなみにこの書き上げ塾の方は、えーと、まあ、書き上げ塾と検索していただければ、絶対出てくると思います。
あの、3ヶ月チャレンジの方は、佐々木翔吾でPTXで検索かけていただくのが一番早いとは思うんですけども、あとは3ヶ月チャレンジでもきっとするんじゃないかなと思っております。
はい、えーと、でですね、えーと、今日のお話、あ、そうそうそう、今日はですね、えーと、瞬時レビューというものについてかなりタスクシュート的な用語なんですけど、
ていうか、私がタスクシュートについて、えーと、昔の本の中で言及している用語なんですけどね、まあ、瞬時レビューから文字通り、あの、えー、なんていうんですかね、まあ、あ、文字ったということですね。
えーと、瞬時レビューというものを簡単に触れてみたいんですけれども、私は今ですね、タスクシュートの中で一番メインに考えているのが、今何をやっているのかというものと、自分が実行していること、行為を、えーと、なるべく、えーと、合わせる、同じにするということね。
そして、えーと、その中で、終わっ、その、今やっていることが終わったところで、瞬時にレビューをして、以降レビューは私はしない、これをね、はっきり言ってしまうと、えーと、タスクシュート協会等との、えー、整合性の問題がありますので、佐々木はそういう方針という話で。
あと、合わせてですね、ずーっと別に言ってこなかったんですけど、私がやっているのはこれだなと思ったんですが、瞬時プランというのがありまして、つまり私はデイリープランというのはもはやあんまり意識しておりませんで、これもちょっと整合性の問題があるから、私がやりたいのは、えーと、今やったことをレビューして、これからやることをプランして、今やっていることと、あの、今スタートしたこと、なんていうんだろう、
今実行していることにしたことを、今は実行するという状態を、えーと、ずっと維持する。これが、えーと、私の考えるタスクシュートなんですよ。えーと、実行中タスクと瞬時レビューと瞬時プランで、これしかしないでいいんじゃないかと思っています。
で、いいんじゃないかというか、えーと、もう一歩踏み込んでしまうと、これ以外のことをするべきではないと思っています。まあ、私もこれはできてないんですよ、完全には。
よくよくこれに近づけていって、どんどんこれに近づけてはいるけれど、こうはまだなってない。えーと、私の感じではですね、えー、今年中にはここまで持っていけるんじゃないかなと、最近、まあ調子がいいからね、春だからってこともあるんですが、この春だからって言ってる段階ですでにそうはなってないんですよね。
えーと、冬を意識していなければこういうセリフは出てきませんから。ただ私は今レビューはしてないですから。えーと、この、なんつうんですかね、頭の中でやることはもうほとんど全く当てにしない。ここら辺も非常にタスクシュート伝統的なんですよね。
プラス、タスクシュート上でやることも、えーと、今やったことと、今やってることと、今からやることにしかフォーカスしない。他は、えーと、原理上ね、あのタスクシュートリストの上にあるんですけれども、ちらっと目に入ればそれでいいって思ってます。ちらっと目に入るのはいいと思うんですよ。
瞬時レビューとプラン
これは私たちが記憶の中でちらっと参照する記憶というものが実際にはあってなければ困りますから。えーと、それを前意識って言うんですけどね、思い出そうと思えば思い出せる記憶、それだけを頼りに生きていけば多分十分なんではないかと。
たまにずっと昔のことを調べなきゃならないことは出てくるんですよ。保険証を更新したのいつだっけとか、そういうやつですね。自動車保険って前にどういうふうに書いたっけとか、多分前意識にはないんですよ。思い出そうとしても思い出せない人の方が普通じゃないですか、それを。それはいいんですよ。いいというのかな。よしよしの問題ではないんですが、えーと、ちなみにこれPDCAをやるやらないの話でもないですよ。それをやるのは構わないと思うんですよね。
僕はこうしてませんという話であって、えーと、こうしなければうまくいきませんよという話をするつもりはもうないんですね。実際私は今まで別に瞬時以外のレビューもしてたし、瞬時以外のプランも立ててたんですが、えーと、私はこれが肝だと思うようになったのは瞬時なんですよね。
今やったことをレビューして、今からやることをプランして、今やってることを今はやるっていうだけ。これを繰り返す。つまりタスクシュートのあの後ろと前の幅をぐっと狭めていくってことですね。
できれば3項目にしちゃう。さっきのタスク、今やってる行動、次にやるタスクぐらいでいいんじゃないか。つまり3列でいいんじゃないかっていうことです、究極的にはね。他のもあるんですよ、タスクシュートには。それがちらっと目に入る。それはもうアットアグランスってやつですね。しょうがないっていうのか。まあいいんですよ。
いいんですが、私が思うところでは瞬時だけでいいと。で、今日はどうしてなのかという話、特にレビューの方です。少しだけ話したいと思うんですけど、えーと、これはどうしてそうしたほうがいい?いやー、そうしな…うーん、それがいいと思うかというと、要するに私が思う、私たちのミスリードというのかな、自分自身をミスリードしてしまう。
最大の、えーと、勉強というのも言い過ぎなんですが、まあ原因はですね、えー、部分対象ってやつだと思うんですよね。部分対象とは何かというと、誰かのイメージを持っちゃうことですね。一番わかりやすいのが既読スルーだと思うんですね。
まあ、血股にあふれてる言葉として、私が部分対象で一番問題視したいのが既読スルーってやつだと思うんです。世の中で話題になってるものとしては一番イメージしやすいのがあれだ。つまり、えー、私がメッセージを出したのに、なぜあの人は読んだの?何にも返してくれないんだろう?私のこと飽きたんだろうかとかって言うじゃないですか。これが部分対象ですよね。
部分対象というのは、相手の全貌がわかりもしないのに、相手の一部を推測し、あたかもそれが相手の現実であるかのように見出してしまう。これを私は部分対象だと思うんですね。精神分析の用語です。部分対象。
うーん、お母さんが怒ったと。だからお母さんも嫌になったっていうのが部分対象ですね。赤ちゃんの場合には。つまり、お母さんがなぜ怒ったのかとか、お母さんにはどういう事情があるのかとか、赤ちゃんには知る余地もないですね。
全貌がわからないのに、お母さんのある面だけを、お母さんの現実のすべてを代表するものと勝手に見出して、お母さんのことが全面的に嫌いになり、そのお母さんに全面的に頼っている自分のことを全面的に捨ててしまいたくなる。そうすると赤ちゃんは絶望する。赤ちゃんの鬱ですね。
こういう状態に私たちを陥らせる最大の原因の一つが僕はやっぱり部分対象ってものだと思うんですよ。中でも一番いけないのが長寿がっていうやつだと思うんだけども、その前にですね、まず部分対象からスタートしているところがありまして、
部分対象の落とし穴
例えば、よく言うところで言うと、ツイッターで誰かが私のことを悪く言ってる。その悪く言っているという判断自体がもう部分対象的なんだけども、悪く言ってるとしましょう。その悪く言ってる人の全貌を私は知る余地もないじゃないですか。
ツイッターのアットマークなんとかさんが佐々木の本はクソだと書いていましたとして、こういうストレートなものはどってことはないんだけど、書いていたとして、その人はどうしてそう書いたのか私には分からないですよね。
その人はそもそも私の本について書いたのかすら本当は私には分からないわけですよ。その人の性別も分からない。その人の年齢も分からない。その人のその時の心境なんて分かるはずもない。その人そもそも誰なのかを知らない。年も分からない。学歴も知らない。名前も知らない。何も知らないんですよね。
なのに何かその人の全貌を知った気になって、この程度の本を読んだだけでこういうことを書く人はきっとしょうもない人だとか思おうと頑張る。その推測をする。小さな小さなパズルの一辺を使って相手の全体像というものを作り出していくっていうこの作業をできる人間って偉大なんですけど。
人間の脳ってすごいんですけど、でもこれは完全にファンタジーの世界に入っちゃっている。そしてこのファンタジーの世界、つまりその本について言及されたのは事実なんですよ。そこから作り出した一人の人間像っていうのは全く全然現実と相入れないものなんですよ。おそらくはね。
例えば私はその人のことを30代半ばのなんかきつそうな女性だとか思ったとするじゃないですか。でも実は10代後半のお兄ちゃんかもしれない。全く違いますよね。リアルには全くいない人を作り出しちゃってますよね私は。これが部分対象のなせる技ですね。
これを絶対やんない方がいい。私はもういろんな人のお話を聞いているうちに絶対にこれだけはやめた方がいいと思うようになったんですよ。だけどここもまた難しくてそれをやってしまうと不幸になりますとか、それをやってしまったらグッドバイブスでありませんとか、それをやるのはタスクシュートとしてダメですとかそういうことは言えないんですよ別に。
グッドバイブスは私の範疇の中ではないとしてもですね、このタスクシュートに関しては別にそんなことやったってできるし、これを今まで僕も散々やってきたくせにですね、これをやってはいけないみたいな話はする資格はないと思うんですね僕には。
実際今でもやってますから。ただこれをやった方がいいかやんない方がいいかで言ったらやんない方がいいなぁと。ほぼ間違いなくそうだなって感じがやっぱりいろんな方のお話を伺っていて、つくづくそう思うようになったと。これ以上のことはもうあんまり言えないんですよ。
もちろんこの話のきっかけはフラゾノさんのグッドバイブスによってもたらされた認識なんですよね。こういうのをやめた方がいいんじゃないだろうかというような提案ですよね。これを受けるにあたっていろいろ見てきたわけですよね。
その中で私が精神分析で部分対象という不思議な言葉を知ったわけです。お母さんのおっぱい。おっぱいがいいおっぱいと悪いおっぱいというふうにどっちも部分対象です。
いいおっぱいからいいものを取り込むと自分は善人になった気がして、そして悪いおっぱいというものを出くわすとそれは悪いやつだから、かじって破壊してしまおうという気に赤ちゃんはなるんだという例え話ですね。これが部分対象のほぼ全貌です。
例えばミトコウモンとか見てると、この間もたまたまテレビでチラッと見たんですよ。大画面だったから。ラーメン屋さんかお蕎麦屋さんかでやってたんですよ。で、いかにも悪そうな人がいかにも悪そうな顔をしていかにも悪そうなことを言う。あれが悪いおっぱいのティピカルな、大人の見るティピカルな、あんな人はいませんけどね。そこら辺歩いてたりしないじゃないですか。いかにも悪人ですって感じの様子で歩いている。
あれが部分対象です。彼を見てなぜ悪人だと言えるのか。私たちはほんの一瞬だけ彼を見てるわけじゃないですか。そこから彼の全貌を作り出す。まあ男ではあるでしょうよね。でも年齢も正確にはわかんないし、もちろん生命も知らない、何にも知らない人のことを一瞬で判定できる部分対象というものを使って、そしてあれをやっつければ世の中が良くなるというストーリーですよね。ミトコウモンというのは基本的に。
良いおっぱいと悪いおっぱいというわけですよ。
部分対象というものを僕らが今のように使う。つまりその人の一瞬のスナップショットを使って全体像を勝手に推定して、モンタージューサシみたいですよね。
しかもものすごく素早くやっちゃいますね。モンタージューサシとかってえらい時間かかってそうじゃないですか。
はい、入ってやって、鼻とか口とか目とかやって、この顔でしたか、この顔でしたかみたいな。昔のドラマではよく出てきたんですけど、今はああいうことやってるのかどうか知りませんけど。
あれの遥かにいい加減なやつですよね。パチャッとこう一瞬だけ、一歩間違うとSNSの一言だけを捉えて全像がわかるという、言わんばかりなわけですよ。
この話が人間関係を壊すし、仕事をする意欲を失わせるし、人によってはこうも聞かれないし、いいことないわけです。
SNSの悪い側面
これはでもみんな思うんですよね。それはSNSで言及するやつが悪いんじゃないかと。かもしれないんだけど。
なくならないじゃないですか、そういうものは結局。私たちにとって部分対象のきっかけになるような現実の知覚を無しにすることってできないじゃないですか。
でも私たちはもしかすると、そんなきっかけなどなくたって部分対象を作り出して、あの人はこんなに素晴らしい人だと思ったのに、実はセクハラの部長だったと。
水戸公文がやってきて、懺悔とかすればいいのにって思うんだけど、実際は懺悔をさせるわけにはいかないし、何よりもいけないと思うのは、その部分対象を僕らが使うことによって、
単純に、ものすごくシンプルな形で、私たちに不幸が訪れるルートを自分に直結させるんですよ、現実という顔をさせて。
不幸というものにこれから行く道ができてしまいました、みたいな感じなんですよね。
それが多分そういう感じすると思うんですよね。
うまく伝えられてるかどうかわかりませんが、僕が嫌な漢字のレビューとか見るとヒヤッとするんですよ。
このヒヤリには色んな意味がある気がするんです。
単純に悪く言われて嫌な気持ちがするとか、この悪く書かれている私に関する評判を、私の仲のいい人に読まれたくないとか、
例えば私がよくよぎっているのが、編集に読まれたくない。変な気持ちだなって思うんですよね。
だって編集さんは多分、何にも思わないと思うんですよね。
なぜ僕は編集さんに読まれて恥ずかしいと昔は思ったんだろうと思ったんですよね。
こういうことが必ず人間関係を損なうわけですよ。
あれを編集さんが読むと、読めば読んだで、その分編集さんを嫌いになる理由ができちゃうんですよね。
すごく変な話だと思うんだけど、やっぱりそういうことになっていくと思うんですよ。
私があれを恥ずかしいと思うのであればね。
あんな本を出している、つまりあんな本を出したのは編集さんに出してもらったっていう感じを僕の中で少し抱いているから、
そういうふうに書かれてしまうということが、何か社会人として恥ずかしいんではないかというふうに考えるんですよ。
もっと悪いことに、例えばその編集さんが、これは少ない例なんですけどね、
そのように書いた人を著者としても登用した場合、
つまり、私の著者仲間が私の本に対して批判的であり、その著者仲間を今編集さんが仕事をされているってことになると、
レビューの主観性
ものすごく僕は追い詰められていくような気持ちに、もしその本が売れてなければね。
これがまた変なんですよね。
これがどれほど的を得た批判であろうとなかろうと、その本が15万部くらい出ていれば、
編集さんは絶対私の仕事を嫌だとは思わないので、
全然同じレビューが全く苦になったり苦にならなかったりするということが起きちゃうんですよ。
全く苦にならないということは当時はなかったかもしれない。
でも多分、飛ぶように売れてれば何とも思わないんですよね。
非常にこれも変なものなんですよ。
つまりレビューの価値とか評価っていうのは、全然客観的なものではあるんだけれども、
私の外にあるものだから、なのに客観的な意味を帯びてないんです。
私の主観で全部決まっちゃっているんですよ。
私の中の話だから。
こういうのは全部部分対象なんだと思うんですね。
完全に部分対象だとしか思えません。
結局その人がなぜそれを書いたのかは、私には永遠に分かるはずはないし、
瞬時レビューの習慣
それがどういう影響をもたらすのかも、永遠に私には分からない。
その全貌が結局分からないんですよ。
なんだけど、私には分かる感じがしていて、
そしてそれが私の不幸というものにつながっていたような気持ちにさせられてたんですよね、昔。
そういうことが起こるんだと思うんですよ。
単純に嫌だというような意味と、波及的な意味を持つという空想ですね。
波及的な意味を持つという空想ですよね、完全に。
だけれどもそれは空想でないというふうに反論されてしまうんですよね。
でも私はその議論そのものがもう極まりないと思うので、
私の空想についての、空想度について議論しているようなものなので、
そういう方面はもう諦めた方がいいと思うようになりました。
本当に空想かどうかとか、本当に影響を及ぼすかどうかとか、
そういう話はセッションでしかできない。
個別セッションで追求する価値はあるかもしれないけど、
一般論としてディスカッションする価値が全くないような気がします。
それよりも遥かにいいのは、それについて一切考えないことなんですよ。
それについて考えても考えなくても、
波及効果を変えることができませんから。
考えただけで波及効果を下げるわけにいかないじゃないですか。
そして考えないということは実はできるんですよね。
ほとんどの場合、ここでディスカッションしちゃうのは、
実はそれについて考えないということができないと思っているからなんですよ。
怖すぎて。
それについて考えるのをやめたら不幸への道に、
知らず知らず埋まり込んでしまって、
必ず不幸になるくらいに思っているから。
これも完全にファンタジーじゃないですか。
そういう道が存在するわけじゃないですかね。
だからこういうファンタジーを抱かないためにも、
無分対象というものは捨てたほうがいいと思うんです。
で、無分対象を捨てると言っても、
無分対象を持ったときには、
それは今言った通りの理由で結構難しく感じられるので、
いつもいつも同じ習慣をつけておいたほうがいいと思うんです。
それが最初に戻るんですよ。
瞬時レビューの習慣なんですよ。
瞬時しか今やったことについてしか考えないという習慣を
ずっと努力して持っておけば、
たまに無分対象の沼にはまるようなことがあっても、
抜け出すのが簡単になるし、
それについて考えないという道にすぐ戻ることができるんです。
瞬時のことにしてしかレビューせず、
メモを取らない習慣
瞬時のことにしかプランしなければ、
その変な部分対象の言及に対して、
ああするこうするという、
頭の中でこしらえがちな、
えらい遠大なレビューとか、
えらい遠大な未来構想について考える必要がなくなるんですよ。
メモって声があるじゃないですか。
私もメモはすごく減ってきているんだけれども、
特に私がメモを減らせるようになった大きな理由に、
メモを読み返さないってことがあるんですね。
例えば今みたいな、
ツイッターを見てしまった。
嫌な気分になったら、
大々メモするんじゃないですか。
メモをする習慣がなければ、
覚えておくんじゃないですか。
そしたらどっちも、
なんでそんなことしなきゃならないんだろうって思うんですよ。
それをメモっておいたり、
自分がEvernoteでキャプチャーしたりしておけば、
自分の管理下におけるような、
錯覚をするせいだと思うんです。
自分の管理下におけるような、
特に私たちに対して敵意を抱いているような人を、
コントロールしないこと
自分の管理下における。
そんなことあるはずがないじゃないですか。
それができるのは、
やっぱり某国大統領とか、
初期庁とかだけですよ。
もうちょっと大物じゃなかったとしても、
コミュニティで、
親分とされている人だけですよね。
そういうことができるのは。
それはつまり、
人をキャプチャーして、
人を恐怖で支配できる権力を持って、
初めてできることなんですよ。
その話は、
やっぱり置いておくとして、
結局これはディスカッションする価値はないと思うんですよね。
僕らにとってできることというのは、
そのようなものの、
コントロールをしようとしないことしかないと思うんですね。
ここを受け入れられないという場合には、
自分の管理下における、
自分の管理下における、
コントロールを受け入れられないという場合には、
もうやるしかないんじゃないかと思うんですよね。
その人に二度とそういう言及をされないために、
プランを立てていく。
私はそれがうまくいっていないからこそ、
この種の問題が人間関係やら、
仕事の進捗やらをこじらせるというのが、
世の中からなくならないんだろうなという感じを抱くんですね。
欲打つっぽくなってしまう人が、
世の中から少なくともこういうのが、
有効に手立てを打てるというのであれば、
遥かに今よりも欲打つ的に困ってしまうという、
心理状態は減ると思うんですよね。
かなりの人を参らせるのはこれだと思うんですよ。
結局、プランなりライフハックなりPDCAなりで、
私が今まで今期特に1月からやってきた3ヶ月チャレンジ、
これをやってきて、これだけではなく、
100日チャレンジもそうだし、
それだけではなく、
倉園さんとやっているGood Vibes Factoryでもそうなんだけど、
普通に多くの人がPDCAでやっているのは、
本当にあそこで私が書類の書き損じをしたから、
この部分のレビューをして、
今後書類の書き損じをしないようにプランしていく。
今後書類の書き損じをしないようにプランしようではないんですよ。
これだったらみんなすぐにやれると思うんです。
PDCAと部分対象の問題
これだけだったら。
そうじゃなくて書き損じして、
人が笑ったかもしれないとか、
書き損じしたことによって人に迷惑をかけて、
死にいたら占める危険があったかもしれないとか、
そういうイリュージョンが、
つまり人間関係に頭がいって、
恐ろしくなって初めて、
このPDCAというものがもっと深刻で、
真にやるべきものであると考えられるようになるんだろうと思うんですよね。
決して単なる事務ミスというような話ではないような気がするんです。
いつもここには人との関係が絡んでいる。
そしてそういった失敗こそ、
PDCAなんかで簡単に解決、修正はできないじゃないですか。
例えば私が書いた、
今回の一番新しい本で言うと、
タスク管理の本で、
また佐々木がタスク管理の本なんか書き上がったみたいな、
これを言われたことが失敗だったと仮に私がしてですね、
このPDCAにおける改善プランって何なんでしょうね。
これは単に何かを書き損じたとか、
そういう話じゃないですよね。
これを真に受けて嫌な思いをしたと言うんであれば、
タスク管理の本を書くべきではなかったとか、
こういう例えば考え方があるじゃないですか。
そうすると本を書くのがすっごい難しくなりますよね。
一気に。
あるいはタスク管理の本を書いても、
何も言われないぐらい私がやたらと売れるような人であると。
でもこの場合はむしろより多く言われてしまう可能性はあります。
結局私はこの種の話の最初の方に戻っていくと、
部分対象が現れるんだなって感じを抱くんですよね。
ある人が私の本のタスク管理なんかまた書いているよ。
ヘヘッて言うような。
見てないですよ。そういうのを見たわけじゃない。
今考えたんです。
考えたってだけでもそうじゃないですか。
これは部分対象なんですよ。
この部分対象をもとに私がある人物像を作るっていう、
そういう余計でややこしくて時間のかかる空想をするからいけないわけですよ。
いけないというか、
その次にではこういう人物にこういうことを、
この人物を想定しているだけでももう空想ですよね。
今私のこの人物なる人は男性になってたんですけど、
女性かもしれないじゃないですか。
女性である可能性は大いにありますよ。はっきり言って。
そしてどっちでもないんですけどね。
そういう人がいないから。
いると想定してかかっちゃうわけじゃないですか。
そして私がいろんなプランをする。
これってすっごい無駄じゃないですか。
大概この種のタスク管理系でBDCをやりたがる人っていうのは、
無駄ってものをあんなに嫌うのに、
こんなに無駄なことをするっていうことに意欲が向いちゃうっていうところが、
やっぱりこの部分対象というのはですね、
非常に破壊的で、かつ矛盾に満ちた、
不妙な性質を持っているんだと思うんですね。
これはでも理由は簡単ですよね。
これは赤ちゃんの頃の情緒に近い。
それを言いたかったんですよね、メラニー・クラインは。
いいおっぱい、悪いおっぱいでしかないんですよね。
いい大人がやるようなことではないってことですよね。
赤ちゃんの頃に近い、フロイドの言葉で言うと固着という、
つまり小さい頃に未解消だった、
情緒的な不安に対する固執がですね、
こういう事態、こういう空想に私たちを引っ張ってミスリードしてしまうわけですから、
それはつまり、およそ50とか40の人間がやるような情緒的空想としては、
なんていうんですかね、あり得ないぐらい間違いなもの、
なんていうんですかね、スペキセツなもので、
そんなに幼い頃に戻ってしまった空想で、
現実の問題が解決できるという風に考えられないんですよね。
やっぱりこれが大きな問題点なんだと思います。
もう一つは空想だってことですよ、これは。
空想と現実
とにかく1から10まで空想なわけです。
良いおっぱい、悪いおっぱいがそもそも空想です。
そしてそれに対する対策は全て従って空想なわけです。
空想の問題に対して解決しようとしている解決策が、
現実的なものであるっていうのがおかしいわけですよね。
空想上のお金を失ったのに対する、
補填措置みたいなものを考えたら、
それは当然現実的な問題ではないじゃないですか。
空想以外の何ものでもないわけですね。
現実を見に行くっていうのが、
こういうときに言われていることなんだと思うんですよ。
私はその現実を当然見に行くべきだと思うし、
現実をそもそも見落とさないようにしたければ、
現実以外のものを極力、極力ですよ、
見ないようにすることだなって思うんですよね。
タスクシュートで言えばですね、
今日はタスクシュートの話を終始したから、
タスクシュートで言えば、
今より過去は全部空想なんですよ。
現実じゃない。
今より未来も全部空想なんですよ。
やっぱり現実ではないわけで、
現実にこだわっていれば、
安心だともしするならば、
少なくとも空想に行っちゃうよりはマシだとするならば、
現実っていうのは、
今今しかないわけだから、
私たちにとっては。
だから、現実にやれることは、
瞬時のレビューと、
瞬時のプランと、
実行中の行為、
その3つだけに絞り込むべきだと、
そういう話ですね。
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