1. 余白のエクリチュール
  2. 「褒める」と「存在の承認」の..
2025-11-28 52:26

「褒める」と「存在の承認」の違い?——あるいは贈与について

#29 / 「褒める」について / そもそも「褒める」ってなに? /「あなたはよくやっているね」  / 仕事において起きる話? /  「褒める」がよくない頑張りへの助長になりえてしまう? / “承認欲求”と”存在の承認” / アドラー心理学では「褒める」は否定されている / 相手を認める = 「褒める」? /「フィードバック」= 個人の感想? /  「フィードバック」が不足している? / 「クリティカル」 = 芯を食っている / その人のありのままを肯定したいという欲求とのコンフリクトと矛盾 / いつからその矛盾は生まれている? / “認められなかった”という感覚 / 他者の抱える”尖り”を肯定したい / なすびさんゲスト回『Z世代化する社会』後半に引き続き大いなる矛盾の中にいたので褒め回リターンズをやります by ぽむ /「俺が”良い”と思ったものは”良き”であれ」  / 自分の”記憶”は信用していないが、唯一”感性”は信用している / しょーごの思想にかなりの影響を与えた本『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』 / 受け取る側から考える / “感性”の訓練 / ※完全にぽむさんの疑問に答えられていないので、Discordにかきます byしょーご / “感想”の重要性 / SNS・AIにより、客観的であることの価値が落ち、個人的なものをベースにしたものにしか価値が宿らなくなってきているのでは / このPodcastの意義 / 個人的なものと社会的なもののバランスに”美学”が宿る


▼Discordコミュニティ「よはちゅるーむ」

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://discord.gg/W92Jc3EQBd⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠


▼X

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://x.com/yohachuru⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

#よはちゅる で感想いただけると、とても嬉しいです!


▼お便り(Google フォーム)

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://forms.gle/Tb4ByffXZugB4kpV6⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠


▼「余白のエクリチュール」(通称:よはちゅる)とは?

普通の会社員2人が様々なテーマの感想や解釈を交わしながら、埋まりきらない“分かり合えなさ”さえも楽しむ記録。

発信が溢れる時代だからこそ、“聴くこと”に価値を置く。まだお互いのこともよく知らない2人が、互いの余白に触れながら楽しむ対話を、あなたも。


▼クレジット

やぎしょーご Shogo Yagi @sho5_midday ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://x.com/sho5_midday⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

𝑃𝑜𝑚𝑃𝑜𝑚 🍮@pompomreading ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://x.com/pompomreading⁠⁠

サマリー

このエピソードでは、「褒める」と「存在の承認」の違いについて考察され、アドラー心理学の視点から賞賛のあり方が探られています。特に、褒めることが他者評価に依存するリスクについて考え、より健全な承認の形を模索しています。また、他者へのフィードバックや倫理的なコンフリクトについても深く掘り下げられています。クリティカルな視点から、社会における自己評価や他者の評価のズレが個人の感性に与える影響についても言及されています。贈与の概念が重要視され、自己の感性の表現や受け取る側の意義についての理解が促されています。リスナーには、自分の意見や感想を自由に表現する重要性も語られています。

褒めるとは何か
はい、始まりました。余白のエクリチュール、略して余はちゅる。この番組では、普通の会社員の2人が様々なテーマに対して、それぞれの感想や解釈を緩く交わしながら、対話を深めていきます。
今回のテーマは、「褒める」について語ろうです。よろしくお願いします。
お願いします。
はい、「褒める」なんですけど、これはね、しょうごさんがね、クリティカルって言葉を前に使っていて、そこから、「褒めるってどういうことだろう?」っていうのをテーマにちょっと持ってこようかなって思ったんですけど、
まずね、私の褒めるってことに対して、私は結構ね、褒めるってことをするんですけど、それを後輩に対してするっていうのはあります。
で、後輩ができたことに対して、私は意図的に意識して、よくやっているねっていうことを言うようにしています。
ただなんか、最近私が感じている課題もあって、むやみに褒めるって本当に良くないなっていうのを感じているんですよね。
ちょっと私の具体的な話をするとですね。
ちょっとその前に聞いてもいいですか?
その前に、褒める、意識的に褒める。
褒めるって何ですか?ポンさんにとって。
褒めるは、あなたはよくやっているねということを認めること。
ちょっともうちょっと話した方がいいかな。
いいですよ。一旦それで送って。
これは基本的には仕事の場において起きる話ですか?
そうですね。仕事の場においてですね。
でも日常会話でも、話の干渉剤とか円滑に進めるための言葉として、なんかすごく面白いねとかいうこともあるけど、
どうかな、干渉剤とかそういうのでもないかな。
それは何かもしれない。
なんか今のちょっと気になったんですけど、これ面白いねみたいなのも褒めるなんですか?ポンさんにとっては。
いや違うな、それはなんか褒めじゃないな。ちょっと待って、私ちょっと混乱しているんですが、すみません。
いえいえ。
それは多分私は思い返して、日常では逆に褒めるはないかな。
本当に自分が思ったことを出しているから、仕事では意識的に褒めるっていうことをやるんですけど、日常会話では確かにもしかしたらないかな。
承認欲求の理解
あんまりないな。逆に仕事の人と話しているときはあるかな。
じゃあ一旦そうしましょう。
そうしたときにもう一個聞きたいのが、僕は仕事において褒めるっていう感覚がまだないですし、
意図的に多分褒めるという言葉はあんまり使わなくて、逆に僕はフィードバックとかっていう言葉を使うんですけど、
フィードバックという言葉はポンさんの辞書にあるのかっていうのをまず聞きたい。
フィードバックは多分私の辞書には今まだなくて、
何でかっていうと、私が指示を出しているわけじゃないんですよ、私が褒める対象の人たちは。
上司からの、私が褒めるのはメンターをしている後輩に対しているんですけど、
私が別に指示を出しているわけじゃないから、それに対して私が何か評価をするという立場ではないんですよね。
だからフィードバックすることはない。それをやるのは上司の役目だから、
ただ単に私はあなたの仕事量とかやってきたことに対してよくやっているっていうことをする。
それが私の中で褒めるですね。
なるほど。よくわかりました。
一応言っておくと、僕は別にフィードバックは評価とは別だと思っているので、
多分そこの差異が明確になったなと思ったので、後でもう少し喋りたいんですけど。
それは気になります。
とりあえずポムさんのさっき話そうと思った具体の話を聞いてもいいですか。
そうですね。褒めるってあなたはよくやってるねっていうことを言うのはいいんですけど、
それが後輩の頑張りの過剰な助長にならないようにしないといけないなっていうのはすごく思ってて、
褒めるってことが、それが他者評価の依存につながってしまい、
これをやったら褒められるからもっと頑張ろうみたいなことになるのはすごく避けたいって思ってて、
後輩がですね、例えば休日も仕事をするとか、
それに対して私がここで褒めてしまうと、これはやっていいことなのだと思ってしまう後輩が、
それは絶対避けたいから、それをどうやって言えばいいかなっていうのも過去に考えたことがありますし、
それをね、すごいねを言わないようにしてる。
それは直接にダイレクトに他者からの評価につながってしまうから、
すごいねじゃなくて、あなたは本当によく頑張ってるよっていうことを伝えるようにしている。
これちょっとこのニュアンスが伝わるかわからないんですけど、
私そのツイッターで中島さとしさんっていう人類学者の人がいて、
フォローしてよく好きなので見てるんですけど、
その人がよく言ってるのが、
承認がね、いるねっていう承認といいねっていう承認があるって話をこの人はよくしてるなっていう印象があって、
承認欲求と存在の承認っていうのは違うんだって。
いいねは承認の欲求を満たすこと。
いるねっていうのはあなたのやっていることっていうか、
何だろうな、その存在に対してあなたは頑張っているねというその承認を違うと。
この人が言ってたのは、話はちょっとずれるんですけど、
チャットJPTは承認欲求は満たすけど、存在の承認は満たしてはくれない。
存在の承認を満たすことが大事なんだということを前に言っていた記憶があるんですけど、
私はどっちかというと、存在の承認っていうのをするようにしている。
これがね、褒めると私は結ぶ。
でもなんか褒めるではない、今思ったんですけど、
これは褒めるではないなっては思いました。
たぶん私は褒めるっていうのを手前に持ってきたけど、
アドラー心理学とフィードバック
たぶん褒めるをしないようにしたいっていう私の気持ちがありますね、今思ったけど。
褒めるはしない。
ちょっとどうしようかな、いくつか話したいことがあるんだけど、
今の流れから先に言うと、
僕もたまたまこの間トゥヤッターのまとめを見に行ったんですって、
へーって思ったんですけど、
アドラー心理学っていうのがちょっと前にめっちゃ流行ったと思います。
僕もあんまり詳しくはないんですけど、
アドラー心理学っていうのは褒めるっていうことを明確にそんなに推奨していないらしいですと。
褒めるっていうのは、たぶんホームさんがさっき言ってくれたことに近くて、
相手を操作する、ちょっとそういう言い方はしてて、
僕はちょっとそれ以上の語りがうまくできないんですけど、
相手の対人操作、褒める目的は対人操作であるみたいなことを言ってるみたいなので、
それに近いんだろうなと思ってるし、
僕自身も、僕は褒めるって言葉をさっきも言ったかもしれないけど、
使わないんですよ。
やっぱりすごい上下関係がある感じがするし、
俺がホームさんのことを褒めるって、
俺にどんな権利があってそんなことができるんだって思っちゃうから、
別に僕は人を褒めるということは基本誰に対してもしてるつもりがないなっていうのがまず聞いていて思ったことかな。
タッシャーの操作っていうのは、
この前、前回言ったビジネスコミュニケーションの話で、
最初にチームユーザーにありがとうとか言って、
やっぱりあれなんですよね。
そういうのが生まれちゃうから、
ふっとよくないなっていうのは思いますね。
そうしたときに、ぽんぽんさんは何で褒める、
スカクトムは今褒めるって言葉を今も使っていたのは何でなんですかね。
それは褒めることが良いことであるみたいなことをどっかで教わっている?
褒めるという言葉を使っていた、
私が使っていたのは、褒めるが良い。
スカクトムは褒めるっていうことをしているわけですよね。
ある程度意識的に。
それは何でなんでしょう。
メンターの研修で、
あなたがちゃんとやっているということを認めてください、
認めてあげることが大事ですというのを言われていたと。
それはイコール褒めるなんですかね。
これがね、これがちょっと私の中でも今こんがらがっていて、
これは褒める、これが何なんだろうな、
褒めるではもしかしたらない?
なんか聞いていてもそう思ったし、
さっきぽんぽんさんが言ってくれた中島さんの例を取ってみても、
今のぽんぽんさんから出た表現はイコール褒めるじゃないだろうなと、
僕は今聞いていて思いましたね。
ぽんぽんさんの中でさっきそのメンターで聞いた話が、
どこかで褒めるという言葉に変換された気が、
今の言葉だけ聞くとそう聞こえましたね。
変換された。
いや、どうなんだろうな。
褒めるに変換された。
いや、それはなんか私ちょっとピンときていない。
ピンときていないな。
ピンときていない。
あれ、私がどういう、こんがらがっている。
じゃあ僕の話はもうちょっとすると、
だからなんだろうな、
その僕が見たときやったわけも書いてたんですけど、
僕は人に対して褒めるとかはしなくて、
仕事においてはフィードバックっていう言葉を使いますけど、
さっきぽんさんは、評価する立場じゃないから
フィードバックはしないんだみたいなことを
言ってくれたという理解ですが、
全然僕はそう考えてなくて、
フィードバックイコール個人の感想なんですよ。
僕があえて言い換えるとすると。
俺はこう思ったっていうのを伝えることが
フィードバックだと思っているので、
ここはいいと思った、
ここはもうちょっとこうした方がいいんじゃないかと思った
っていうことを伝えることが
フィードバックだと僕は思っている。
だからそれは結構意識的にいろんな人に対して、
上の人に対してすることはないけど、
後輩とか具体で言うと、
日経の会社とかだと2年目とかになると、
いろんな人の前で発表させられて、
去年1年間どんな仕事をしましたみたいなことを
発表する機会があるのではと勝手に思っていますけど、
それ発表して何が起こるかっていうと、
別に特に無風で頑張ったねって言われるぐらいなんですけど、
僕がせっかくだからその発表がどうだったのか
みたいなことは伝えてあげたいなと思うので、
個別にフィードバック、ここでフィードバック。
僕はこう思った、ここはいいと思った、
ここはもう少しこうした方がよかったんじゃないか
みたいなことは伝えるようにしているという意味での
フィードバックみたいなことは結構意識的にしますかね。
えー、それは、それはそうです。
まずね、これは別に言ってもあれではあるんですけど、
まずそのフィードバックをするっていうのはすごい、
そういう人がいてくれると本当にいいですよねって
思ったんですけど。
いいのかな、いいのかな。
それも分かってはいない、いいのかどうか分かってない。
いや、あの、私はそれめちゃくちゃありがたいです。
私はあの、私も発表する機会はあったんですけど、
それ新人の時に。
で、それに対して、やったことに対して、
その人事の人がとりあえずコメントをくれたんですね。
それもなんか詳細のコメントをくれて、
自分がやったことに対しての、
それは多分フィードバックと言っていいと思うんですけど、
あなたの方が良かったと。
で、それをやってくれたらすごく嬉しかったっていうのがあって、
それをね、なんかなかなか多分やる人はいないんですよね。
仕事において。
いないと思いますよ。
あの人の、その仕事は良いね、
あなたがやったことは良いねっていうことはあんましないと思うんですよね。
だから、そういう人がいることは良いと思うし、
私もそれは意識的にやっているっていうのはあって、
えっと、うん、って思いました。
で、それが、それがなんか自分の中の褒めかどうかは、
ちょっとよくわかっていないのですが、
何だっけ、評価をすることを詳細意識的にしている。
評価じゃない、評価ではない、別に。
評価ではなくて、あくまで個人の感想を言ってるって感じかな。
はい、そうですよね。
何かがぽんさんの中にすごく引っかかっているらしいのだから、
あんまりそれが、わかってないけど。
何かがね、引っかかって、そう。
もうちょっと僕の話をしますか。
クリティカル、そこの話の中でのクリティカルは、
フィードバックとクリティカルな視点
だから僕はあくまでフィードバックとして、自分の感想としての言葉の一つであって、
やっぱり褒めとかそういうのとは別に、言いそうが違うんですよね。
単純にこう思ったということの言葉のバリエーションの一つであって、
何かやっぱりそれはすごく芯を食った話であるなと、
僕が思ったときにクリティカルっていう言葉を使う。
芯を食う、もしくは何だろうな、すごい妥当である、もしくは影響。
影響じゃないな。
でもなんか、かなり何かに対する芯を食ったということになっちゃうかな、やっぱり。
それをクリティカルって呼んでいるから、
それが褒め言葉って言われると、別に必ずしもポジティブなのも限らないですしね。
そうであることの方が多いとは思いますけど、
そういう意味合いで使ってるわけじゃないから、
クリティカルという言葉が褒め言葉であるというふうに言われると、
若干違和感があるって感じかな。
そうですね。
ちょっと私今すいませんね、本当に頭が働いてないっていうか、すいません。
本当に申し訳ない。
別にいいんですけど。
私が多分、このポッドキャストのこの回で何を何か話したいかとかが、
存在の承認と倫理的コンフリクト
多分今、明確に全くなっていなかったなってことに気づきました。
そうですか。別にいいんですけどね、なくてもそんなもの。
いいんですけど。
褒める?褒めるね。だから褒める難しいな。
褒める、何でだろうな。
ポムさんの中での褒めるって何なんでしょうね。
褒める、褒める。
多分私の中でも変わったのかなって思ってて、
多分、私が何でその頑張りの過剰な受長にならないような言葉が必要だと思ったかっていうのは、
私の前に同期がいたんですけど、同期がめちゃくちゃ頑張る人で、
休日も頑張り、残業もめちゃくちゃやりみたいな人で、
私は何だろうな、多分そこに対して、難しいな。
えっとね、
僕が思ったことを喋ってもいいですか。
僕が思ったことをちょっと喋ると、
なすびさん回の話とすげーつながってるなと僕は思って聞いています。
ポムさんはものすごくその人のありのままを肯定したいという、
根源的な何か欲求じゃない気がするけど、根源的な思想が多分あるので、
多分だからこそその人の存在みたいのをそのまま肯定してあげたいみたいな欲求があるんだろうなと聞いていて思うんですが、
多分そこにもコンフリクトが発生していて、
それをしたことによって、
さっき言った休日出勤しまくる人は、
その休日出勤を良いものとしてさらに頑張ってしまうとなると、
ポムさんの倫理的にはそれは良いことじゃない方向に行ってしまうみたいなコンフリクトがすげー起きてるんだろうなと聞いていて思いますが、
やっちゃそうなんですよ。
昨日感じた、那須美さんとの会話で感じた、自分の中に抱える矛盾っていうのが、
今ずっと続いてるんですよね。
言葉が出ていないという現象が多い。
なるほどね。
そこは結構深い部分なんじゃないですか。
そうなんですよね。
これはどうしていったらいいのか、
どうしていったらいいのかわからないというか、
どうしたらいいんだろう。
多分自分の中で、
そうなんです、大いなる矛盾が発生している。
コンフリクトが発生している。
大いなる矛盾。
そうなんですよね。
これは。
じゃあちょっとそこの話をしていきましょう。
そこの話をまだ時間あるからしていくとすると、
それはいつからそんな感じの感触があるんですか。
昔からですか。
昔からではない。
これはいつからなんだろうな。
昔からではない。
やっぱり社会人になってからな気がするなって思ったんですけど。
一番可能性があるのはそこだろうなと聞きながら、
という見立てを聞いてみましたけど。
やっぱりそこなんですよね。
これはさっき言ったNBTIの自分が変わったみたいな話とも、
多分もしかしたら通じるかもしれないんですけどね。
そうかもね。
そうなんですよね。
ここで私がね、相手をね、
いやなんだろうな、相手を元からの、
いやなんだろうな、
多分私の人生として認められなかったみたいなところがあり、
それに対してやっぱり、
自分を救うために人を、
あなたは本当にそのままでいいんだよみたいなことを、
やっぱり言いたいみたいな気持ちがあるんですよね。
面白いな。
いや、これはちょっとね、
私の中の深いところに通じる気がする。
今の僕が一応気になったのは、
認められなかったという感覚というところが非常に気になるんですけど、
それは何か話せることはあるんですか?
なんかね、
私が何か言ったときに、
友達とかに話したときに、
なんか、
私の考えを引くとか、
あなたは本当に、
その友達とあなたの心と私の心を入れ替えた方がいいみたいな。
すげえな、それはそれで。
言ってその友達が、
なんかね、
自分の、
昨日も言ったと思うんですよ、
自分の中に眠る、
尖りとかなんだろうな、
そういうことやっぱり、
ひたんでもっと出していいし、
それを認めてあげたいみたいなのがあるんですよね。
まあ、そうなんでしょうね、というか、
だから、ぽんぽさんは結構尖ってるんだと思うし、
まあ、なんだろうな、
それを、
どうなんだろうな、
一定表出してるってことなんだろうな、今の話だと。
それが、
ぽんぽさんの友達とかに、
あんまり受け入れられてないっていう感じなんだろうね。
受け入れられずに、
たぶんそこで私は、
1回自分の中で閉ざすっていう選択をしたんですよ。
で、閉ざすっていう選択を、
したからこそ、
やっぱり、
他の人は別に閉ざさなくてもいいよ、
みたいなことを思っている。
で、たぶん私も、
閉ざさないでいいよって、
他者に言うことで、
私が閉ざさないでいいってことを認めてあげて、
自分の中で認めてあげたいみたいな、
自己評価と他者評価のズレ
そういう気持ちがすごくある気がする。
言ってることは分かるんだけど、
僕が今悩んだのは、
閉ざさなくていいよということと、
その人そのありのままを肯定するっていうのは、
なんかちょっと違う気がするんだよな。
認められてない感みたいのは、
僕もずっと感じているし、
特に、
もうここ10年ぐらいもずっと感じていることであって、
僕は、
友達とかに別にそういうのを基本出さない。
なぞび3回でも話しましたけど、
ものすごく出すトピックとか話題を、
あんまりよくないのかもしれないけど、
かなりコントロールしているので、
そこらへんは、
あまりある程度その場の遠間にあった話しかしないんですよね。
それはそれでいいやって思っちゃってるから、
そこはちょっと違うんだろうな。
その…
翔太さんの…
でもやっぱり…
どうぞ。
認められないっていうのは、
別に誰かに否定されたわけではなく、
そうですね。
そうだと思います。
自分が…
それは…
それはなんだろうな。
あの…
認められ…
それはなんか自分が認められないと感じている。
自分の中で感じている。
自分が認められない。
ちょっとニュアンス違うかもしれないけど、
別に僕自身が認められる必要性はそこまであんまりないと思っているのだが、
俺がいいと思ったものは、
良きであれって思っていることは結構強くあり、
だからもっと具体の話をすれば、
音楽とかでも、
いやこれはいいでしょ、もっと売れるべきでしょみたいなものが売れないには、
フラストレーションがたまるっていうのは結構ある。
なるほどね。
それもなんか自分の…
なるほど。
自分の評価と社会の評価がずれていることのフラストレーションで、
でもなんか松本さんはそれをやっぱりなんか別にそれを他社から認められる必要はなくて、
それはそれとして自分の絶対的な価値基準があって、
それを他社からのそこに何かしらの別に評価というと違うと思うけど、
必要ではなくて、
それをなんか自分で満たせて、
自分のその価値基準を自分で信じることができているみたいな話なのかな。
どうだろうな。
まあむずいな。
ちょっと違う気がしたけど、
俺の言葉で言い換えると、
別に僕自身を認めてほしいという気持ちはないつもり。
別に僕がどうこうはどうでもいいのだが、
俺がいいと思ったものは、
そういう意味だと何だろうな。
結構ちょっと話が飛ぶけど、
自分自身のことはまず基本的に信用していません。
僕は自分自身のことをあんまり信用しておらず、
自分の考えとか記憶とか、記憶とかそういうものは基本信用していない。
だけれど、唯一信用しているのは自分の感性だと思っている。
自分がいいと思ったものは結構信用しているというか、
むしろそれしか俺のよりどころはないと思っている。
唯一のアイデンティティと言っていいかもしれないぐらいに、
そこだけは思っているので、
それはいいのであろうと思うから、
それは別に必ずしも社会と一致してほしいとも思わないけど、
もう少しちゃんと評価されるべきではみたいなことは思っていて、
だからこそその価値を認めさせたいみたいな気持ちは一定あるって感じかな。
なるほど、それはすごく興味深い話。
それはやっぱりしょうごさんは表現しているんだなっていうふうにすごく感じますね。
表現している?
音楽はこれが自分の感性で、これが良いのだということを文章にして表現をしているし、
多分それ以外でも文章にはせずとも、
自分の中でその感性を大事にしているんだろうなと、
自分の内面世界があるんだろうなということをすごく感じましたね。
それはそうかもしれないというか、何個もか前にも言ったかもしれないけど、
基本的な僕の根源要求はもう一言で表せていって、
いいものをいいと言いたいっていう、ただそれだけなので、
いいものをいいと言いたいし、いいとあってほしいという感じなので、
それに全部通ずるんだと思いますね。
そうなんですね、なるほどな。
その指針でしょうごさんは生きているっていう感じですね。
だからさっきのフィードバックとかも全部そうで、
俺がこの人のここがいいと思ったのであれば、それはちゃんと言いたいっていう、
ただそれだけじゃそれだけなんですよ。
なるほどね、わかりました。
それが他者に対して何かをしてあげたいとか、
別にそこで他者の気持ちとか思いが変わるということを
別に想定しているわけではなく、しょうごさんが良いと思ったものを
良いと伝えることが大事なのだと、
そっちの方にしょうごさんは重点を置いているっていう話ですね。
それは全くその通りだと思います。
なるほど、そこが私は今しょうごさんとは違うところなんだなって思いました。
で、その褒めるっていうのが多分その他者への、
他者が何かしらそれを対して受け取って、
先のことを想定するっていうところに褒めるとそうでない、
フィードバックとかの違いがあるんだなっていうことは今思いましたね。
多分私はあなたが良いというしょうごさんとはちょっと違っている。
あなたが良いっていうことを私が言いたいっていうよりも、
あなたは良いの、ちょっとニュアンス伝わってほしいんですけど、
ちょっと先のことを想定して、
その相手に対してものを言っているのかなっていうふうに思いましたね。
もう一回いいですか。
ポムさんは先のことを相手が、
相手がそれを受け取ってくれて、私の言葉を受け取ってくれて、
何かしら、自分は頑張っているし、
このままでいいんだなと思ってもらいたいっていうところが、
褒めると承認の違い
私は強くあるんだなって思いました。
私が良いものを良いって言いたいっていうのとはまたちょっと別で、
受け取った他者がそれに対して何かしらの肯定的な考えを
発生すればいいなみたいな。
だけど、それを過剰に肯定しすぎるっていうか、
そこで過剰に頑張ろうとか、これもっとやるみたいなことにならないような、
その中間のところで、私は何かことを投げかけたいんだなっていうことが
分かったって感じですね、今。
それが整理できた気がします。
正直今の話、あんまりピンときてないんだけど、
関係するかもしれない話につなげると、
僕のさっきの根源欲求の話とちょっと近いんですけど、
僕の多分今の思想にかなり影響を与えた本の一つに、
ちかうちゆうたさんっていう人が書いた、
世界は雑用でできている資本主義の隙間を埋める倫理学っていう本があります。
読みたい本です。
これは僕の多分、少なくとも人生読んだ本の中の3本の指には入る本ではあるんですけど、
すごい、それはすごい。本に説明めっちゃ気になるが。
内容自体も面白いんですけど、
僕がここですごくそうかと思った話は、
雑用の話なんですよね。
雑用の話で、僕はこれを読むまでは、
雑用っていうものは、僕がポムさんに何かを雑用するっていう言葉の使い方であるし、
そういうふうに世の中が動いていると思っているのですが、
この本で言っているのは、雑用っていうのは受け取る側から考えるものである、
みたいなことを言っていたと思っています。
つまり、雑用っていうのは、
受け取ったことによって雑用というものが成立する。
僕がポムさんに雑用するじゃなくて、
ポムさんが雑用、何かを受け取ったからそれが雑用として成り立つんである。
そういうことを言ってるんだと思うんですよね。
ちょっと伝わらないかもしれないけど。
えー、与えるところでは成立しなくて、受け取ったところで。
でもそれが何なんでしょうね。
受け取ったところで成立するっていうのは、
私にもヒントが来ていない。
理論としてはそうなのかって思うけど、
与えるだけで意味がないってことですかね、それは。
与えるっていうのは、そもそも受け取ったことによって成り立つものであって、
例えば僕が何かをポムさんに言ったとして、
雑用って言葉がちょっと強いかもしれないけど、
何かを伝えるみたいなのも同じだと僕はここで捉えるんですけど、
何か僕が言ったこととか、さっきの感想とかも全部そうなんですけど、
僕が言ったことは、僕が言っただけじゃ成り立たなくて、
それを受け取る人がいて初めて、
それはそれとして成り立つものなんだというふうに、
僕はこれを読んで理解したんですよね。
だから何を言おうとしたんだっけな。
客がいないと成立しないみたいな、そういう話か。
そういう話です。
全部同じ話。
それを雑用という文脈で話しているのがこの本だと思っていて、
だからさっきのポムさんの話聞いてて思ったのは、
ポムさんは比較的どちらかというと、
ポムさんから相手に何かを与えるというところに
フォーカスが当たっている気がしているんですけど、
僕はだからそれは意味がないことだと思っていて、
結局僕が何を言おうが、
受け取る人がいて初めてそれは成り立つものなので、
あれ何を言おうとしたか分からなかった。
だから何て言うんだろうな。
受け取った側がどう思うか分からないよねっていう感じ。
そうですよね。
だからそこに対してどうこう言ってもしょうがないなと思っていて、
だからこそ僕は僕が思うたいということをただ言う。
それをどう解釈してどう受け止めるかはその人次第だし、
受け止めないかもしれないし、
もしくは今は分かんないけど、
10年後に分かるのかもしれないし、みたいな。
そういう捉え方をしているから、
だから褒めるってちょっと違う気がするんだよな。
褒めるってものすごく近視眼的に相手に何かを影響を与える、
与えようとする行動な気がするんだけど、
だからそれがピンとこない。
っていうそんな話かなと。
雑用と贈与の理解
ちょっとうまく伝えられなかった気がするけど。
私も今ちょっとしょうごさんのピンときていなくて、
これ多分私の理解できてないだけなんですけど、
贈与は受け取らないと意味がないけど、
しょうごさんは良いと思ったものを伝える。
そこには、
それってしょうごさんからの矢印はあるんですけど、
そこに対して受け取る側のことをしょうごさんって想定しているのかっていうのが、
分からなかった。
そういう意味だと矢印がないんだと思っていて、
結局受け取る側が決めることなんだと思う。
要は僕が別に書いたものを受け取ってもいいし、受け取らなくてもいいし、
受け取ったことによって初めて僕からその人に矢印が向いていたんだと決まるみたいな。
全然僕が関係ないことを想定して書いたことであったとしても、
それを読んだ人がこれ俺のことじゃんみたいに思うことはあるわけじゃないですか。
はい。
別に僕はそれを意図してなかったとしても、
誤配みたいな話もそうだと思うんですけど、
そういう話かなという感じです。
でもそれで受け取った側が俺の話なんだと思ったら、
それは何か増援をされたみたいな、そういう考え方ができるんじゃないかなと。
なるほど。
フィードバックをするにしても、別に何かその人に届いてほしいとか、
ちょっと待ってよ、これは私の言葉なので多分違うと思うんですけど、
届いてほしいとかではなくて、
もしそれが昇吾さんが言うことで、その人に対して言わないよりも、
言ったことのほうが機会が生じる。
その人に対して言うことで機会が生じる。
その機会を生かすかどうかは別にして、その機会を生むことが大事で、
その後はその人による。
その機会を増やしたいのかなっていうのを私は今思いました、昇吾さんは。
別にその人にダイレクトに届きたいということを期待しているわけじゃなくて、
受け取ってもらえたら、それはその時初めてとか価値を持って、
そのことが嬉しいみたいな、そういうことなのかなって、
今私の中で理解をしたけど、その理解が合っているかどうかがわからない。
半分合ってて半分違う気がしていて、
もちろんそういう気持ちはないわけじゃないと思うんですけど、
深くとも僕が意識していることとしては、
別にそれが届いたら嬉しいとかっていうこともあんまり考えてない。
あくまでもっと自己中心的に、
俺は俺がいいと思ったことをいいと言いたいっていうことを中心に添えていて、
それは何でかっていうと、俺は俺の感性は信じているし、
それが信じられなくなったら終わりだなと思っているから、
ある種の自分の感性の訓練みたいな位置づけかもしれないけど、
それは自分はこれがいいと思ったんだっていうのをちゃんと表現する。
それが別に相手に届いたら、もちろん嬉しいんだと思うけど、
別にそこまであんまり想定してやっていない気持ちの方が強いかもしれない。
なるほど、すみません。
2つ思ったんですけど、1つ思ったのは感性の訓練って面白いなって思ったし、
多分それをやることで松本さんはその感性を自分の中で途絶えさせず、
醸成させるために文字にしたり話すっていうことをやられているんだなっていうのは1つ思ったっていうのと、
松本さんのその俺が思ったものをいいと言うのだということと、
という意見を持っているという前提で、
じゃあなんでその像余の話が刺さったのかっていうのが、私はよくわかっていないかも。
像余って、その話を聞くと、
それはやっぱり受け取ったことで話がぐるぐるしている気がするか、
これは私が理解できていないのが、だと思うのだが、
本を読んだらわかるかもしれないけども、
今の話を聞くと、像余というのは言ったことには意味がなく、
言うだけでは意味がなく、受け取ることで価値が生じる。
なんか、松本さんがその本を読んですごく良いなと思ったことを、
なんで良い、松本さんが考えている前提と、
それがなんかその本で書かれていることが一致したから良いなと思ったのか、
なんか違っていたから、新しい視点だったから良いなと思ったのか、
どっちなんだろうっていうのが、私は今見えていない状態。
校舎、明確に校舎ですね。
SNSとの関係
明確に校舎。
だからそこに関わったことはそもそもなかったし、
だからなんていうか、結局だからこれによって、
つまり俺が良いと思ったものを良いということに対して、
別に俺はそれで良いと思っているんだけど、
もしかしたらどこかで何か違う価値が生じるっていうことがありえるんだなっていうことが、
分かったって感じかな。
なるほど。
なるほど。
それは、それが5杯の話であり、
なんかそれをコンテクストでどんどん通じるかもしれないですね。
そうそう、全部通じていると思います。
なんか分かった気がする。
ありがとうございます。
分かんないけど伝わったのか、分かんないけど、
俺も自分の中でうまくグルグル、
俺の中でもうまく整理できているのかは自信がないけれど、
でも僕の中では自分、なんていうか、
この本を読んでからなんですよ、
結構明確に自分が感想というものをもっと言うべきだみたいなふうに思ったのは。
その感想って結構どこまでも個人的なものでいいと僕は思うし、
それでまず一時的に成り立つものだと思うんですけど、
この話を踏まえると、それが誰かが受け取ったことによって
雑魚になり得るっていう構造は普通にめちゃめちゃ面白いなと思うんですよね。
それはコンテクストデザインも同じ話だと思っていて、
自分の個人的なものが何か別のものにつながるっていうことが、
あそこでは肯定されていたんだと思っていて、
なおさら今のこのSNS的な世の中においては、
もうそれしか価値がないだろうなと思っているので、
そうしているっていう感じかな。
SNS的な世の中で。
そうですよね。
そうですよね。
あまりピンときてないと思うけど。
SNS的な世の中でそれの価値が高まるっていうことは、
よくわかっている。
それはSNSがあるから、
そういう発信ができる機会があるから、
それを生かそうっていう話ってこと?
違うな。
それもあるけど、どっちかというと、
結局、SNSって言ったら多くないかもしれないですけど、
AIもそうだと思うんですけど、
要は、日記的な話もそうだと思うんですけど、
個人的なものにしか価値がなくなっていると思っている。
少し客観的なものとかは、
もうAIとか全部できちゃうし、
そこにあまり価値を感じなくなっている、
少なくとも自分自身は。
だからこそ、その人の文脈においての言説にしか、
どんどん価値がなくなっている。
というのが僕のSNSAI志向なので、
だから結局感想とかそういうもの。
感想も僕はあえて言うと、
ライブレポート的な感想って全く意味がないと思っていて、
このイベントでこういうことが話されました、
こういうことが話されました、
こういうことが話されました、
非常にいい回でしたみたいな、
全く意味がないと思うんです。
ニーズは多分そっちの方があると思うんですけど、
全く意味がないと思っているから、
そこにはそういうじゃなくて、
お前がどう思ったのとか、
あなたの経験と踏まえるとそれはどう解釈できるの、
みたいなことにしか価値がないと思っている、
みたいな話かな。
それはわかる。
納得できたし、
将吾さんはそれはずっと言い続けていることだし、
私もそれを大切にしたいと思っていることだな、
ということが今すごく思っています。
思います。
固いな。
すいません。
褒めると存在の承認
今この話し方しかできない。
ごめんなさい。
そうなんだ。
全然いいですけど。
これは僕の中では一応全部つながっている話。
フィードバックとかも全部そう。
僕の行動原理で全部つながっている手はある。
今回の回で私はすごくぐるぐるしたけど、
将吾さんの価値観というのは見えたというか、
確かに今まで言ってきたことも、
一部ではありますけど、
つながって、見えてきて、
こちらに伝わってきたなというのはすごく感じました。
なるほど。
感じたし。
ありがとうございます。
感じたし、
やはりこういう話をしていきたいなというのはすごく思ったし、
昨日、那須美さんと相対主義の話をしたんですけど、
その客観的にものを言うことが、
ゼッとしてしまっていたみたいなこととも本当にすごく通じるんですけど、
そういうのを私は本当にやめていきたいという、
今時期だなって思ってて、
そのためにもこのポッドキャストがあるのを、
それをやめ、
自分の意見を、
自分の思ったことを客観と切り離して、
私はこう思うんだよということを伝える場にしていきたいみたいなことを、
今、今日、その気持ちを改めました。
いいんじゃないですか。
いいんじゃないですかってちょっと軽いかもしれないけど。
やっぱりそこをどうバランス取るのかが、
結構やっぱり現代じゃ難しくなっているんだと思う。
客観的なもの、視点がゼロになったら、
それはそれでダメだと思うんですよ。
さっきの感想の話も、
本当に全部が全部個人的な話だと、
マジでわけわかんなくなっちゃうから、
そこのバランスをどう取るか。
僕の中では、
ある種、自分の美学みたいなものはそこに宿らせているつもりであって、
ギリギリ伝わる個人的なもの、話をしているつもりなので、
そういうところのバランスを自分の中でどう取っていくかが大事なんじゃないかなと。
聞いていて思いました。
本当ですね。
私は本当にしょうごさんのノートには、
しょうごさんの美学があふれているなということを思い、
私はこの人の見方は本当に素晴らしいなと思いました。
別にいいですけど。
その世界を守り抜いてください、本当に。
私は本当にこれです。
わかんないけど、
今のところはそう考えていますという感じで、
考え方変わるかもしれませんが。
いいんじゃないですか。
何の回だったんだろう。
褒め方の話から、
何かわかんないけど、
何だろうな。何の回になったんだろう。
ちょっと振り返ってみないとわかんないけど。
わかんないけどね、こういう回がね、
もう絶対全然。
いいんじゃないですか。
こういう回がいいんじゃないですか。
と思います、私は本当にすごく。
本当に私が今回は、
全然自分の言いたいことを、
あまり軸足を定めないままテーマを持ってきたことに、
私は前半すごく反省したんですが、
何か思いがけず、
こういう話になって、
よかったなって、
こういう話ができて、
よかったなって本当に思っています。
聞いている人は何を聞かされているんだって思うかもしれないですけど、
リスナーへのメッセージ
本当にすみませんが。
いいんじゃないですか、たまには。
たまにはね。
じゃあ終わりましょう。
ということで今回はここまでです。
ヨハチュールではディスコードに行って、
2人の放送ごと感想を書いていったり、
エピソードの中に出てきた参考リンクを載せていたりしますので、
ぜひお気軽に覗いてみてください。
お好きな場所であなたの感想も聞けると嬉しいです。
Xではハッシュタグはひらがなヨハチュール、
Googleフォームでもお便りを募集しています。
ディスコードと合わせて概要欄にリンク、
URLを記載していますので、
ぜひお待ちしています。
80パーセントぐらいがスポーティファイで聞かれているらしいので、
ぜひ。
そうなんだ、コメントお願いします。
この回の感想があるか分かりませんが、
もし思ったことがあれば、
ぜひお願い致します。
でも褒めるみたいな話はちょっと面白いかもしれないので、
そうですね。
褒めるとかそこに関して思うことがあれば、
ぜひお聞かせいただければと思います。
じゃあここまでお聞きいただきありがとうございました。
次回もぜひお会いしましょう。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
52:26

コメント

スクロール