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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、株式会社Mマート代表取締役社長 村橋孝嶺様でいらっしゃいます。
まずは経歴をご紹介させていただきます。
20代から飲食業を中心に幅広く経営に携わり、成功に導かれていらっしゃいます。
その後、2000年に63歳で株式会社Mマートを創業、
そして2018年には81歳で東京証券取引所マザーズ市場に上場なさっていらっしゃいます。
現在の東証グロス市場に上場なさっていらっしゃいます。
上場企業の社長様でいらっしゃいます。村橋社長様、本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まず最初の質問ですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますでしょうか。
私は生まれは東京中野区なんですけれども、本籍地は山口県の法府市というところですね。
毛利の家臣だったらしく、法府の方に本籍がございまして、墓もございます。
お過ごしになったのは中野区でいらっしゃいますか。
私はもう転々としておりまして、生まれてすぐ法府に帰って、
そこから今度は父が全部売り払って満州へ行きまして、
その満州に本郷通したもんですから、私はお袋の里にしばらく預けられて、
そして1年か2年後に迎えに来てもらって満州に行ったんですが、
その1年後には今度は日本は敗戦になるということで、
慌ただしく日本人がみらない地に引き上げ始めましたので、
ほとんど最後ぐらいまで頑張ってたお袋もやっぱり危ないから帰ろうということで、
終戦の直前になって日本に帰ってまいりました。
それからはお袋の里である島根県の岩見銀山というところがございますが、
その岩見銀山で中学校卒業15歳、高校の一部を過ごさせていただきました。
ありがとうございます。小学校時代は島根ですか。
そうですね。岩見銀山ですね。
小学校時代はどんな少年だったなんて思い出ございませんか。
少年時代と言いましても山の中の学校ですから、とにかくワンパクばっかりですから、
もう遊ぶものもありませんし、毎日山に行ったり乗っ端で木で振り回して遊ぶのが、
遊ぶ道具なんて何もないですからね。自分で冬はスキーを作ったりですね、
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手作りのおもちゃで遊んだりですね。
ということで、小学校、中学校を過ごしておりました。
学期ダイソー的だったとかそういう感じでいらっしゃるんですか。
そうですね。小学校の5年生の時から山の中ですから泳げるとこはないんですよね。海が遠くて。
そしてプールももちろんその当時ないですから、泳ぎたい連中が何とかしてくれってことなので、
川をせき止めましてプール作りましてね。そしてみんなに集まらせて泳がしてたら、
川下の方の百姓の親父が2人と乗り込んできましてね。水が来ないと思ったらお前たちかってことでね。
だから冗談言うなと。川はせき止めてるけど水は流れてるぞと。こっちのせいにするなって。
お前たちが水の取り方が下手くそなんだなんて言い返しました。そういうような子供でしたね。
なるほど。ありがとうございます。中学時代もそんな感じでいらっしゃったんですか?
そうですね。中学時代もずっとそんな感じで。1回中学3年の時に師匠尊合併が進んで中学校が合併しまして、
相変わらず対立をして3年生のボスがみんなを守るという形で、そういう形のことをやっていました。
なるほど。もう当時からリーダーシップを取っていらっしゃったんですね。
そうですね。もう自然とそうなったという感じですね。
高校も島根でいらっしゃいましたか?
高校も半年しか行ってないんですけどね。島根県に大田市ってところがあるんですけど、真ん中辺りに。
そこが一番近い高校でそこに入学したんですけれども、入学して2ヶ月目ぐらいに、その当時大学で学生紛争が非常に盛んでしてね。
先輩がみんな土日は学校に帰ってきて校庭で味演説やるわけですよね。
非常に殺伐とした大変な学生がストライクばっかりやってるような時代でして。
ちょうどうちの学校も大田市県入学して2ヶ月目にストライクをやるってことで、
理由は何だって聞いたら、その拘束が厳しすぎるというようなわけのわからないことで。
じゃあどうしたらいいんだったら、学校が飲んでくれたらストライクやめるって言うから。
私1年生でまだ西も東もどこに学校のトイレがあるかもよくわからない時代でしたけど、
それを聞いて不合理が偉大な立ちだったんでしょうね、子供の時から。
すぐ校長室で一人で乗り込んでいきましてね。
で、校長室にこの学校誰のもんだと。
嫌な子供だったと思いますが、先生のもんじゃないだろうと。
また不敬なもんでもない、俺たち生徒が勉強するもんだと。
なぜストライクなんかやらせるんだって言ったら、
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いや、生徒会がいいこと聞かないって言うから。
言うことを聞けば、学校の方もちゃんと生徒会に言うと聞くのかったら、
生徒会の会長と副会長がどうしようもないからこの2人をやめさせてくれと。
この2人をやめさせたら、生徒会の希望は全部飲んでストライクは終わりにしようって。
しょうがないからわかりましたってことで、3年生の会長と副会長は図書室にいましたんで、
図書室に行ってから、校長はこう言ってますけどもどうしますかって言ったら、
お前本当にそう言ったんかって言うから、はいそうですって言ったら、
2人で相談してから、俺たちは飲んで2人ともやめるから、
校長にストライクやめろっていうことで、お前の中に入れってことで、はいわかりました。
校長に言ってきますって言ったら、松井っていう会長が、
ちょっと待って、お前が新聞部の部長やれってことで、
その人が生徒会の会長兼新聞部の部長だったんですね。
私に新聞部の部長やれって言うんで、これは無理ですと。
入って2ヶ月ですと、こんなもんが学校の構造がよくわかってないのにから、
部長なんてできるわけないでしょって言ったら、
いやお前がやらなかったら俺はやめないなんて言い出したんですね。
しょうがないから引き受けますよって言って、
校長のところに行って、2人ともやめるそうですって言ったら、
びっくりして校長も、これで平和解決に行こうってことで、
ストライクがなくなりましてね。
高校に入ってすぐそういうことをやって、
あと全学年の全学生新聞連盟というのがありまして、
東大の教授なんか相当左がかった人がみんな拘束してですね、
学生新聞連盟というのがあって、
日高の御用程を初めて民間に開放するということで、
お前行ってこいってことで、先生とそれから副部長と3人で、
全学新年の新聞大会に参加したりですね。
あっという間に半年が過ぎて、
ところがもううちが貧乏だったもんですから、
生活費も起こってこないし、学費も払ってないし、
食べるものは友達がみんな持ってきてくれて、
昔は班号ってのどこにもありましたから、
班号で小店があればご飯を炊いて、
それでその人なんですが、何せ授業料も払ってませんし、
ついに半年で学校を辞めざるを得なくなって、
半年くらい学校を去りました。
なるほど、もう何か企業からしいエピソードばかりで、
ちょっと今私興奮し始めておりますが、
辞めた後はどんなお仕事をなさったんですか。
辞めてね、父がその当時山口県にいたんですね。
山口県に帰れって言われてしょうがないんです。
金がないから家に帰ったんですけども、
結局働かされて給料は親父の小中大に消えてしまうというような
家庭でしてね。
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このままやってたら俺はダメな人間になるなと、
抜け出してから東京に帰って、
東京で自分で一人で何かやってみようと思って、
片道の切符代だけ貯め込んで、
論考で東京に行き始めたんですね。
途中から非常に活腹のいい紳士が乗りましてね、
いろいろ話しているうちに、
君はどこ行くんだって言うから行くわけありませんって言ったら、
じゃあお前俺のところに来いって言うので、
どこですかって言ったら別府ですって言うわけですよ。
別府で旅館とか大きな喫茶店とかたくさんやってるんで、
お前来て家でマネージャーやれって言ったんだって。
で、そのまま行くわけもないからじゃあそうしますわってことで、
東京に着いてその人が用事済まして、
待って、また一緒に別府へ引き返しましたね。
そこの別府で一年間、
そこのマネージャーやったんですけど、
そしたらこんだけ喫茶店なんて、
ちょっとしたことでお客さんがこんだけ満員になるのが分かったけど、
体験しまして一年間で、
これは飲食店やりゃ誰だって成功できるなと思いましてね。
まったくあらめくらへびに落ちずで、
とにかくもうこんなところへ別府に寄ってもしょうがないからということで、
その当時、父親が、
お父さんが、
お父さんが、
その当時、父親が福岡県の小倉におったもんですから、
一旦小倉まで一人で帰りましてね。
そこで、
なんとか一人で小さな店にやろうと思って探してたら、
屋台に毛の生えたような店を一つ手に入れることができましてね。
それを、
ねじろにして、
それでちょっと一杯飲み会やりましてね。
とにかく仕入れが、
安いもんじゃないと儲からないからと思って、何がいいかなと思って考えたら、
牛の内臓とか豚の内臓その当時は、
ただで、
ただ同然でくれたんですよね。今はね高いですけども。
それをただで、
つてを頼ってもらってきて、それを竹串だけ買って、
竹串に通して、
塩焼きにしてですね。
それで、
焼酎とか日本酒を売り始めて、
結構馬鹿売れに売れましてね。
安いもんですから。
仕入れはただ同然でるもんですからね。
結構儲かりまして、それがスタートだったんですね。
じゃあ、
16歳とか17歳でももうつやき屋さんをやったみたいな感じですか?
いや、
その間にね、
お店を建て直してくれっていう話が舞い込んできましてね。
お店の再建屋みたいなこと、
本当に若いのに、
どういう風の吹き回しか、
キャンバレーの再建とか、
その、
クラブの再建とかですね。
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そんなことをやりましてね。
で、
そのうちにそのお店をやって、
結局は、
両方やってたんですけども、
北九州でこんなことやっててもしょうがないということで、
また北九州を去って東京に帰ろうと思って、
東京に帰りました。
東京に帰ったら、
新宿は私はもともと生まれなかのですから、
新宿よく知ってますんで、
新宿をねじろにしてたんですけども、
銀座のクラブがちょっと左前になってるとこがあるから、
建て直してくれっていう話がきて、
じゃあいいですよってことで、
銀座のクラブへ行って、
そこで、
建て直しました。
そのときに、
銀座の制度ってオール制って言いましたよね。
ホステスさんが客を持ってるんですね。
ホステスさんの売り上げで、
店は設けるという形だったんですね。
だから客を持っているホステスさんを引き抜いてくると、
一番豪華なわけです。
それを銀座でナンバーワンというホステスさんを、
みんな契約金1000万払っても動かなかったやつを、
そこの社長に1回連れて行ってもらってから話をして、
その後1回食事をしたときに話を聞いて、
本音で話したら、
お宅へ行きますって言ったんでね。
うちへ来てもらって、
一遍で建て直しが済んで、
そしたら、
銀座っていうのはその当時まだ怖いところだったですから、
いろんな噂が立って、
あいつは自由の女の子を契約金なしで引き抜いたっていう噂が立って、
あるところからお呼び出しがかかって、
大阪に大きなキャバレーが倒産しかかってるから、
救えて建て直せって話になりました。
しょうがないから、
いかんと怖いから、
とにかくちょうどいいや、
銀座をさがしたほうがいいなと思って、
そして、
大阪へ行きましてね、
そしたら、でっかいキャバレーが潰れそうになってまして、
社長専門に会ったら、
地震あるかって言うから、地震なかったら来ませんよって言ったら、
社長の息子がマネージャーやってるから一緒にやってくれって言うから、
じゃあ私帰ります、こんな話は受けられません、帰りますって言って帰るとしたら、
専門が慌てて、どうしたんだって言うから、
社長の息子さんがやってて赤字なんでしょうと、
そこで私と二人でやったら、
従業員はどっちの言うことを聞くと思いますか、
社長の息子の言うことを聞くのに当たり前でしょうと、
その建て直しなんかできるわけないでしょうと、
私に任せるんだったら社長の息子、
辞めさせてくださいと、
言ったら社長と総発説、
そこまでお前自信があるのか、
じゃあやってみろということで息子を外して、
もう入った月からすぐ黒字化しましたですね、
で、あふる月からもどんどんどんどんも黒字が積み重なっていって、
で、半年経ったら相当利益が出てましたんで、
専務に、これでも私は一応約束を果たしましたから、
建て直しになって、
やめますと言ったら、給料3名出すから残ってくれって言われたんですけども、
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いや建て直すことが仕事だったんですから、これでさせてもらいます。
で、やめて、東京に帰ろうかなと思ったけど、
その時に東京帰るとまだフリー仲間がいっぱいいて、
誰も知った人がいない大阪で、
東京に帰ると、
東京に帰ると、
東京に帰ると、
東京に帰ると、
誰も知った人がいない大阪で、
商売でもやろうかなと思って、
で、大阪で商売を始めたんですね。
14年間ぐらい、商売してました。
なるほど。
いやいや、今風に言うと事業再生コンサルタントみたいな感じですね。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞き下さり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズビズが運営するウェブサイト、
k-noteでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく、文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索でk-noteスペース社長インタビューと入力いただき、
k-noteのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。また来週。