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2024-01-17 22:43

第365回 富永順三氏(ナレッジパートナー株式会社代表取締役)【前編】

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今回は、ナレッジパートナー株式会社の富永順三氏にお越し頂きました。

阪神大震災の復興支援で、兵庫県に提案した復興支援事業が採択され、所長に就任。
その後も様々な活動をし、2004年に経済産業大臣賞を受賞。2008年にはナレッジパートナー株式会社を設立し、事業を続けるお姿から経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。
■経営者インタビューメディア「経営ノート」
https://keiei-note.com/
■WizBiz社長塾
https://www.youtube.com/channel/UC16VkcI4PaUISDD4UL7pFvQ




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社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、ナレッジパートナー株式会社代表取締役 富永順三様でいらっしゃいます。
まずは、経歴をご紹介させていただきます。
大阪市立大学大学院卒業、その後、民間企業にお勤めになり、
その後、自らが設立した関西DTP協会の事務局長に専任、マルチメディア関連産業の振興に取り組まれました。
その後、ナレッジパートナーを創業、そして、今現在は任意売却支援機構株式会社の代表取締役もあります。
そして、数々の会社の役員さん、顧問さんもやっていらっしゃいます。
富永社長様でいらっしゃいます。本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身は大阪ですか?
大阪の堺市というところですね。
小学校時代はどんなお子さんでいらっしゃいましたか?
基本的には大人しい。ただ、冒険心があるので、知らないところに行ったりとか、夜中まで自転車であちこち遠くまで遠方まで行って、親に怒られたりとか、そういう記憶がありますけど。
なるほど。わりと一人で何でもやる感じの独立心のある感じですか?
一人っ子でしたので、親も友だるきだったので、独立心というか、新しいこととか面白いものに関心があったので、常に夢見てるみたいな少年だったかもしれませんね。
社長らしい少年だったんですね。
中学時代はどんなことをして過ごしたかと思いますか?
その延長ですけど、春休みとか夏休みは友達とキャンプに出かけたりですね。基本的にはそんな感じで、別にごく普通の少年だったように思いますけど。
なるほど。高校も大阪ですか?
はい。
高校時代はどんなことをして過ごしたなんてございますでしょうか?
高校時代は、学園祭とかそういうものには力を入れていたのかなと。高校時代に文化祭とかで映画をクラスで作ろうとか言って、なぜか監督役をやらせていただいたりとか。
何かをみんなで作り上げるというのが好きだったですね。
じゃあ、高校時代からリーダーシップを発揮された?
いやいやいや、そんなわけじゃないですけど。
そうですか。
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あとは、父も授業をしていたんですけど、父の授業が僕の小学校ぐらいのときにすごく悪くなって。
常に小学校の頃からですけど、僕の記憶の中には、家には借金取りが毎日連日連夜やってくるということの記憶の方が学生時代は多かったですね。
本場大阪ですから、今みたいに、今は法律の規制があるので、夜の8時以降とか取り立てはしないようにといろんな規制があるんですけど、当時は何もなかったので。
僕が小学校から帰ってくると、中学校のときもそうですけど、まず小さなアパートに住んでたんですけど、
アパートの部屋の入り口には金返せ、泥棒とか張り紙がしてあって、そういうのをビリビリ破いて家の中に入って。
夜中とか深夜にも取り立てがやってくるので、父は割と逃げているような感じだったので、母と僕がイルスというか窓に張り紙をして光が漏れないようにしながら世を過ごすというような。
それは本当に何は金融道のような感じのお兄さんたちが毎晩やってくるのを対応していたような記憶。
そういうこともあって、割と友達と夜出かけたり、休みの日になるとキャンプに行ったりとか、そういうふうな感じだったので、リーダーシップというよりも学生時代は借金取りとのやり取りというのが記憶にそういうほうが多いですね。
なるほど。ドラマの世界ですよね。最近ですと金返しなんてあるのはほぼないと思いますけど。
まあまあ今だと捕まるんじゃないですかね。警察ね。
ドラマで皆さん見てる感じがあるので、リジスタントの皆さん方も多分そんな世界は本当にあったんだって感じかもしれませんけど。
続きがありまして、僕は高校3年の時に東京の大学、大阪にいたんですけど、東京の大学に受験をしに来て、2月ぐらいでしたかね、高校3年の2月ぐらいに東京の大学の受験をしに来て、
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そのままそこで下宿先を探したり、東京に転校した友達に会ったりして、3日ぐらいしてから実家の境にある実家に戻ったんですけど、
両親が共働きだったので、夜遅く毎晩帰ってくるんですけど、その日は僕が帰った時は帰ってこなくてですね、
ただ高校3年の男の子なんで、別に両親が帰ってこなくても、息子が受験してるのにどこに遊びに行ってるのかなというふうな感じだったんですけど、
結局その置き手紙もないし、当時携帯もメールもないので、そのまま翌日、次の日も結局帰ってこず、3日目になっても帰ってこないので、さすがにこれどこに行ってるのかなと思って、
ちょっと心配になってたんですけど、3日目か4日目ですかね、平屋だったんですけど、平屋でピンポンって鳴るので、やっと帰ってきたなと思ってガラガラと開けると、
知らない男の人たちがずらっと家の前に並んでまして、後で分かるんですけど、裁判所の既執行か、つまり強制執行です。
で、うむも言わさず、たぶん何らかの紙を見せていただいたと思うんですけど、うむも言わさずに自分の家に入ってきて、冷蔵庫とか洗濯機とかテレビとかでね、白い紙を貼っていくんです。
みんな赤い紙じゃないかって言われるんですけど、赤い紙じゃなくて白い紙、同産執行ですね。
で、最後に言われたのが、今日でこの家は開け渡してくださいと、出て行ってくださいと言われて、何の説明もっていうか親からも聞いてなかったし、置き手紙もなかったので、
でもまあそういうことかと、借金がずっとあったので、そういうことかと思って、で、友達を数人声かけて、自分の身の回りのものだけをまとめて夕方、その家を出て、それが18の頃ですけど。
すごい話をしていただいているんですが、その後はどういうふうに生活とかはされたんですか。
親戚が大阪の千里というところに、ちょっと堺から1時間くらい離れたところにいたので、その親戚は状況を聞いていたみたいなので、とりあえずうちに来なさいということで、その親戚にしばらくお世話になってですね。
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で、結局その年はもう大学受験、もうそういう状況じゃなかったので、もう親戚の家で3ヶ月くらいお世話になってから、アルバイト先とか仕事先を見つけて、そこからは、
四条、首都間、トイレ共同、風呂なしの部屋、家賃が1万2、3千円だったかな、ところを見つけて、そこで一人暮らししながらアルバイトしながら、で、何とか学費を貯めてという形で、その後、両親というか父と再会したのは18の時に別れて36の時です。
18年後ですか。
そうそうそう、18年後です。
ちょっと今、私は実は富永社長とはお親しいというのも失礼な言い方ですが、ちょっと長くお付き合いしているので、そんな人生だと初めて聞いて今ちょっと驚いていますけれども、そのアルバイトだけしていた期間は1年くらいですか、2年くらいですか。
いやまあまあ、だから学生自体もずっとですけど、何とかアルバイトしながら学校に行ってきたという感じですね。
じゃあ1年くらいアルバイトした後、大阪一律大学を中堅大学に。
そうそうそう。
大阪一律大学に受かっているということは、頭が大変良くて。
いやいや、そういうことはないですけど、そんなことはないですけどね。
まあ、そのような格でございますので。
でも、アルバイトしながらよく中堅勉強できました?
いやまあ、もう必死でしたからね、とりあえず。
だからその当時は、皆さんからバブルの頃なのですごく良い思いをしたでしょう、みたいなことはよく言われるんですけど、
僕なんかバブルのこう、何かそういう経験というかですね、何か良かったような記憶というのは全然なくてですね。
ひたすら働いていたような感じですね。
アルバイトはどんなアルバイトだったんですか。
アルバイトは町の電気屋さん、マットした電気のよくあるパナショップというかですね。
だからそこで電気屋さんでアルバイトさせていただいて、朝8時ぐらいから夜は10時ぐらいまでとか。
最初の年はもう、一夏で7キロぐらい痩せて、クーラー付けとかですね。
だいたいアルバイトは過酷な方に回されるんで、天井上がられると。
配線とかね、屋根に登ってアンテナ付けとかですね。
まあまあいろんなことを経験させていただいたので、
そこで鍛えられたことは後々自分の仕事にはすごくプラスになるかなと思いますね。
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なるほど、ありがとうございます。
大学はそうするとあんまり通えない感じですか。
いやいや、それは最初の1年で。
あとは大学を行きながら、時間があるときはアルバイトをしながらという生活でしたけどね。
大学時代はどんなふうに過ごしていましたか。
そういう意味では常にアルバイトだけをしていたという記憶しかないですけどね。
なるほど、なるほど。
その後、大学院までオススメになったのは何か理由がございますか。
大学院は結局、一旦大学に出てから企業を勤めて、社会人になってからまた再…。
なるほど、なるほど。何の勉強をオススメだったんですか。
大学院の方は、都市政策、政策は政治のせいに、まちづくりとかですね。
経済学部の園長なんですけど、まちづくりとかそういうものの政策を学ぶというふうな形で。
僕が学んだのは、クリエイティブシティというかですね、
特に経済を発展させるためには、単に効率の良い社会だけを目指していても難しいということですね。
特に日本というのは、新しいものを作り出す。
何かのマネをするとかいうのは得意なんですけど、製造業も含めてですね。
でも、やっぱりナンバーワンになって新しいものを作り出すというのはね、
非常に苦手というかそういう文化じゃないということで、
ただ、やはりそういう新しいものを作り出していくには、
ビジネスのことだけではなくて、例えばクリエイティブなこと。
それは音楽なのか、芸術なのか、
そういうものを新しいものを発想していく人たちを作っていかないと、
企業も町も成長していかない。そういうことを学んでいきましたね。
なるほど。ありがとうございます。
大阪市立大学卒業後は普通の民間企業でした。
そうですね。
どんな系の企業でいらっしゃったんですか。
ゼネコンというか、ゼネコンではないんですけど、
そういうゼネコン系の企業で、当時は本当にバブルの時期だったので、
ヨットハーバーとかの設計とか、そういう需求が非常に多かったので、
そういうものの設計とかを受託するような会社に勤めていました。
大学は設置系の学部でいらっしゃったんですか。
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経済学部ですね。
ご自身で設計を。
設計とかではなくて、僕は営業系というかですね。
なるほど。
その後、DTP協会というのは、創業に近い感じでいらっしゃると思いますが、
これがまた全然違う方向に。
そうですね。
アップルコンピューター、Macですね。
大阪でいうと秋葉原、東京でいうと秋葉原ですけど、
大阪でいうと日本橋というところがありまして、電気屋さん街があって、
そこに少年の頃からそういうのを通うのが好きで、
マッキントッシュというコンピューター、今のようにMacですね。
これ衝撃を受けたんですね。
当時の日本のコンピューターというのは、
市太郎とか、文字を書くとかですね、ワープロといわれるものというのがあったんですけど、
そのMacの中では、画像と文字と文章が自由に編集できると。
それを見たときに、これはすごいなと思ってですね、
すごくこのコンピューターをぜひ触ってみたいと思ってですね、
よく日本橋の方に見に行ったんですけど、高かったんですよ。
1式揃えるたぶんね、150万円くらいしたんですよね。
ご存知だと思いますけど。
それはさすがに買えなくて、
で、そこにMacのことをマッキントッシュの雑誌とか見てたらですね、
そうしたら大阪でMacを使った会社が求人をしてたんですよ。
そこに求人してたので、面白いなと思ってそこの社長に、
小さい会社だったんですけど、ベンチャーの小さい会社だったんですよ。
そこに社長に会いに行ってですね、
ぜひそこの会社で仕事をしてみたいなと思って、
本当に小さい2,3人の会社だったんですけど、
その会社に転職というかですね、企業を辞めて、
もうそのMacを触りたいと思いで転職したんですよ。
それがDTPという技術で、デスクトップパブリッシング。
今では当たり前なんですけど、
コンピューターの中でパークレットを作るとか、
プレゼン資料を作るとか、今では当たり前のことなんですけど、
それがすごく当時は画期的で、
これはこの印刷業界自体を全部変えてしまうんじゃないかなという風に。
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当時の印刷業界というのは、
社職があって製版があって印刷があって、
いろんな工程に分かれてたんですけど、
そのDTPというものはコンピューターの中でほとんどがある。
画像の編集もできるし、文字の編集もできるし、
レイアウトも自由に変えられる。
これはもうこの印刷業界自体を全部変えてしまうんじゃないかなという風に、
これがすごいなと思って、その仕事をさせていただくことになって、
そういうのを進んでいるときに、1990年代でしたかね、
DTPの波というのは、まさしく印刷業界にもやってきて、
どこの展示会に行ってもDTP、DTPというのがテーマになって、
でも印刷業界というのは非常に、
遅れている産業だったので、
DTPはほとんどやっているところが少なかったので、
私が勤めたその会社にDTPのことを教えてほしいということで、
たくさんの印刷業界の方々とか社職業界の方とかが来られたんですけど、
これは一人二人に個別に教えててもキリがないなと思ったので、
アップルさんとか、大日本印刷さんとか、大日本スクリーンさんとか、
ゼロックさんとか、いろんなところにお声掛けをしてですね、
じゃあそういう協会をつくりませんかと。
そういうDTPを普及させるための協会をつくりませんかということで、
お声掛けをさせていただいて、関西DTP協会というのを、
勉強会から発生したんですけど、そういうのをつくって、
そこの事務局長をさせていただいたということで、
これが僕から言うと最初の創業みたいになるのかなと思いますけど。
お聞きしていると行動力もあって、発想力もあって、
全然違う業界に行こうと思ったんですけど、
実は行動力もあって発想力もあって、
全然違う業界に普通に飛び込んでいけるところが、
富永社長らしちゃらしいですけども、
飛び込むのに怖さとかそういうのはあんまりなかったんですか。
当時はそうですね、好奇心がいろいろ旺盛だったので、
ただビジネスのことをね、お金のこととかソロバン会場は
そんな考えていなかったので、ただ単に新しいものとか、
そういうものを作り出していくっていうことか、
そういうことは好きだったので、ビジネスというよりも、
なんかそういうね、ワクワク感だけでやってたっていう、
20代、25とか26くらいの時ですかね、
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勢いだけでやってたので、全然ビジネスに結び、
DTP協会自体はビジネスにはそんなに結びついてはいないんですけど。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり、
誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューを
お届けしてまいりました。
その内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズビズが運営するウェブサイト、
KAノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで、
新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索でKAノートスペース社長インタビューと入力いただき、
KAノートのサイトをご覧になっていただければと思っております。
本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。
また来週。
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