1. 社長に聞く!in WizBiz
  2. 第377回 加藤公一レオ氏(株式..
2024-04-10 19:31

第377回 加藤公一レオ氏(株式会社売れるネット広告社代表取締役社長CEO)【前編】

spotify apple_podcasts youtube

今回は、株式会社売れるネット広告社の加藤公一レオ氏にお越し頂きました。

独立前からダイレクトマーケティングに従事し、担当した全てのクライアントのネット広告を大成功させ、その実践経験とノウハウをもとに独立。
売れるネット広告社を創業し、上場まで導いた経歴から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。
■経営者インタビューメディア「経営ノート」
https://keiei-note.com/
■WizBiz社長塾
https://www.youtube.com/channel/UC16VkcI4PaUISDD4UL7pFvQ




00:05
社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、株式会社売れるネット広告社代表取締役社長CEO 加藤公一レオ様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。
ブラジル・サンパイロ生まれ、アメリカドス・ロサンゼルスでお育ちになられました。
その後、西南学院大学経済学部を卒業後、三菱商事にご入社。
その後、ハーベス・ワールドワイト・東京株式会社ADKホールに加えて、売れるネット広告社を創業されていらっしゃいます。
そして、2023年には東商グロース市場に上場されている上場企業の社長様でいらっしゃいます。
加藤社長様、よろしくお願いします。
まず最初のご質問は、ご出身はサンパイロということで、サンパイロでもお過ごしになったんですか?
そうですね。両親がたまたま海外のビジネスを商売していまして、
その時に私はブラジルのサンパイロに生まれて、そこから7歳まで実はサンパイロに育ちまして、
7歳の時にアメリカの方に移住しまして、小中高は実はアメリカの方で育って、
大学から日本に初めて住み始めたということですね。
なるほど。サンパイロ時代は覚えていますか?
実は意外と記憶力が良くて、実は幼稚園に行っていたんですよね、ブラジルの現地の幼稚園。
なので、幼稚園の風景とか、南米を家族旅行したという記憶は結構あったりしますね。
どんな少年だったのか覚えはございますでしょうか?
そうですね。少年時代はハマったらものすごくハマる。
例えばロッキーって映画を見て、ボクシングを見たらボクシンググローブ買ってきてボクシングをすぐやっちゃうし、
本当にラジコンにハマったらもうラジコンにずっとボッと押してやっていくし、
釣りにハマったらもうずっと釣りの本ばっかり読んでるし、みたいな。
そういう感じで収集するとしたら、もう一回ハマったらガンガン突き詰めるという少年でしたね。
社長らしいエピソードでいらっしゃいますが、ロサンゼルスに移られてから小学校、中学校自体は覚えていらっしゃいますか?
覚えていらっしゃいます。それもものすごく覚えていますね。
面白いのが、ブラジルで生まれてポルトガル語がペラペラだったんですよ。
まだ7歳だったので、アメリカに移って半年間でポルトガル語を全部忘れちゃいました。
その代わり、英語がたった半年で発音まで含めて完璧になったんですよね。
小さい頃ってすごいですよね。脳の仕組みが違うんでしょうけどね。
そこでアメリカで小中高を過ごしてすごく良かったなとは思います。
ポルトガル語と英語は今でもペラペラであるんですか?
ポルトガル語も本当に7歳で完全に忘れてしまったんですけど、英語は未だに18歳までいましたので、やっぱりペラペラで話せますね。
03:02
ロサンゼルスでの小学校、中学校自体はどんなお子さんだったと思いますか?
小中高は色々ありまして、まず生活そのものは小中高で、何が良かったかというと、
当然英語力はアメリカに住んでいたので自然につくんですけど、
小学校の頃からアメリカでプレゼンをさせるんですよ。
例えばショー&テールとか行って、自分の趣味とか持っているものをプレゼンしなきゃいけないという、
小学校からそういうトレーニングというかクラスがあるんですよね。
私とかは日本のガンダムのプラモデルとか持って行って、これが飛行機に変わるよみたいなことを小さい頃からプレゼンされたので、
また当然中学と高校もディベートとかあるんですよね、クラスの中で。
なので自然と日本に僕は今住んで、ずっと日本で社会人になって企業をしてという中で思ったのは、意外と英語は使わない、あんまり。
なんだけどそのプレゼンの能力という、あとは人とはやっぱり打ち合わせとか交渉とかする能力は、やっぱりアメリカに育っていないのではの能力かなというふうに思っていますね。
なるほど、ディベートとかをお得意でいらっしゃってますね。
そうですね、もうさせられたので授業ですね。なので自然とビジネスの世界に入っていくとそれが役に立ちますよね。
なるほど、ありがとう。高校時代はどんなことをして過ごしたかというお思いでございます。
高校はですね、結構真面目に部活をしておりまして、当時私は水泳部に入りましてですね、特に強い高校でしたので水泳が。なので1日10キロ、毎日泳いでました。
じゃあ私も水泳部の長距離出身なんですごい人ですね。
1万メートル泳ぐというのは相当大変ですが。
そうですよね。
競技は何をやられたんですか。
私はバタフライ専門で。
バタフライで1万メートルはすごいですね。
バタフライだけで1万メートルじゃなくて普通のクロールも含めてなんですけど練習はですね、でも試合はバタフライ。
多分私よりも上手だと思いますね。
大学は日本ということなんですが、日本に戻るという言い方が正しいのかどうかわからないですが、日本を大学に行こうと思ったきっかけと何かございますか。
生まれた時から高校卒業まで日本というのを1回も住んだことがない。
と言いながらも英語のほうが得意でしたし、ただし両親が日本人なんですよね。
なので自分のアイデンティティーは何人なのかというのは常に葛藤がありまして、その中でやっぱり自分は日本人なので1回は日本を見てみたいということで。
正直どちらかというとですね、留学のつもりでこっちに来たんですよね、日本に。
4年間。
4年間日本大学に行った後はまたアメリカに戻ろうと思ったんですよね。
ただしたまたまその時にですね、1つは今の上さんと出会いまして、やっぱり一緒にいたいなと思ったのが1つ。
あともう1つはですね、日本に大学4年間過ごして、特に就職活動のとき思ったんですけど、結論と言うと全部泣いてもらったんですね。
06:09
面接したら全部泣いてもらえる。さらに英語も話せる。
ということは日本のほうが競争力があるんじゃないかと単純に思ったんですよね。
アメリカで過ごすよりも日本に来たほうが僕自身はビジネスマンとして成功できるんじゃないかという直感を持ちまして、そのまま行き続けたということですね。
なるほど。その西南学院大学時代の思い出とか、そんなことして遊んだとかそういう思いでございますでしょうか。
そうですね。当然大学生なんで一通り勉強はもちろん全部やったっていう感じなんですけど、思い出に残っているのは意外と私表舞台に立つのが好きで、
普段だったら社会人に任せないような仕事をどんどん面接に行って自分で売り込んでいったんですね。
具体的に得た仕事が、いろんな世界大会とか世界会議の司会をやったりしたんです。英語を話せるから。
あと一番当時思い出にあるのが、実はマイケル・ジャクソンの通訳だったんですね。
当時、今はなくなっちゃいましたけど、当時福岡ドームでコンサートがあったときにマイケル・ジャクソンの通訳。
当時きっとマイケル・ジャクソンって世界で一番有名な人だったんですね。なのでその人と会えたっていうのはすごく思い出に残ってますね。
なるほど。ありがとうございます。その後三菱商事にご入社されたんですが、三菱商事を選んだ理由は何かございますか。
そうですね。就職活動の当初は広告業界志望だったんですよ。
なんですけども、当時はどちらかというと総合商社の先に面接とか始まってて、やはり英語が話せますので。
なので実は総合商社は結構内定をもらいました。
その中で当時三菱商事は就職人気企業のナンバーワンだったんですよ。当時。
さらに総合商社って汎用的なビジネスを覚えるんですよね。
例えば営業も覚えるし、経理も覚えるし、マーケティングも覚えるし、総合的な内容を覚えるので一番最初のキャリアはそこはいいかなということで、
そこで3年ぐらい働いた上で広告業界に移ったって形ですね。
なるほど。三菱商事での思い出なんてございますでしょうか。
一番の思い出は意外と同期ですね。
同期が130人いて、その方々とのコミュニケーションっていうのはすごく飲み会も含めてやりましたし、
あと何がありがたいかというと、今私48なんですけど、現在は私の同期が全世界に散らばってるんですよね。
しかも全産業に散らばってるわけですよ。
なので、どこかに例えば海外出張行っても同期と会ったりできるし、情報交換できるし、
特定の業界のことを知りたかったら、そういう同期の誰かに聞けば情報入ってきますし、
そういう意味ではそこがやっぱり一番の大きな価値だったかなという気がしますね。
三菱商事さんらしいエピソードらしいですね。
09:02
その後がハーベスワールドワイド東京、これはどんな会社でらっしゃるんですか。
これは外資系の広告大典でして、いわゆるフランス本社の東京オフィスで実は働いてまして、
総合商社を得て英語を話せるということで、外資系の広告大典、もともと広告業界行きたかったので、
そこで働きまして、そのときにインテル入ってるの。
インテルっていうブランドを担当しまして、テレビCMを作りましたし、
あとは今のUSJってあるじゃないですか、その最初のオープニングのホームページ、
サイトを立ち上げたっていうのはあって、そこから次は、
いわゆる総合的な、いわゆるダイナミックなことをしたいということで、
総合広告大典のエリゲンを作ったって感じですね。
ハーベスワールドワイド東京での思い出なんてございますでしょうか。
やはり一つは、まず上司が外国人。
社内、日本なんですけど、社内のメールも社内の会話も全部英語だったんですよね。
なので、意外と総合商社って日本企業ですので、
当然日本語でのコミュニケーションは社内では多いんですけど、
やっぱり外資系の広告大典だった瞬間、全部が英語なんだと。
しかもう一つ思ったの、面白いなと思ったのは、
他のハーベスワールドワイドっていうのは、全世界、アメリカ、ヨーロッパ、アジアに
いろんな視点支援があったんですけど、
それは全部データベースつながってるし、
他の国の人からも情報交換が気軽にできる。
そういうカルチャーができあがったのは、
これが外資系、しかもグローバルな広告大典の実態なんだと思って、面白かったですね。
なるほど。ありがとうございます。
その後、DKフォーリング、アサツDKに移られたんですが、
これ移られた理由は何かございますか。
そうですね。実はアサツDKの方は、
ちょっと共通の知り合いがいまして、
結構応援屋さんになったんですけど、その人からスカウトが来て、
いわゆるこれからADKは、外資系のクライアントをどんどん取っていきたい、
プラスインターネットを強化したいっていう話があったんですよね。
当然私は例えばUSJの立ち上げのホームページを作ってましたので、
当時でデジタルやってる人はあんまりなかったので、
そういう意味といわゆるグローバルデジタル人材としてADKに移ったっていうことですね。
ADKホールでの思い出なんて何かございますか。
そうですね。やっぱり一番の思い出はですね、
僕が一番長く言った会社はADKなんですけど、
当時は実は広告代店、しかも若手も含めての人材が全部入りたがる仕事が、
いわゆるマスメディアのブランディングだったんですよね。
いわゆるイメージ広告。
最初そういう仕事も私当然やってたんですけど、
やっぱり途中から気づいたのは、
でもこれだとナンバーワンになれないと思ったんですよね。
12:00
何したかというと、もう正反対である、
実はマスメディアの正反対であるデジタルの、
しかもブランディングというイメージ広告じゃなくて、
逆でコテコテのダイレクトマーケティング、売るための広告の方に行ったんですよ。
当然会社内でも人口少ないです。
なので元々結構ネットの知識がありましたので、
そこでインターネットと、当時結構立ち上がったのは、
いろんな通販会社が立ち上がったんですね。
日本国内で。
そこら辺をクライアントにしていって、
思いっきりデジタルと売るための広告をやってた。
当時はニッチだったんですけど、
でもそこからずっと年数が経っていって、
ぶっちゃけ日本がどんどん不景気になるほど、
実はクライアントさんの費用対効果の意識がものすごい上がった。
プラスデジタルの悩みがどんどん来た。
昔はニッチって最初に入社したばかりだと言われたんですけど、
どんどん年当たりついて、
逆に一番波に乗っている領域になったんですね。
その波に乗れたというのは、
結構その9年間の面白いことですね。
なるほど。ありがとうございます。
その後、創業なんですが、
創業のきっかけは何かございましたでしょうか。
はい。創業のきっかけは、
実は本当にきれいなストーリーがあったらいいと思うんですけど、
正直言うと一番成功したかった、
成り上がりたかったというのがあります。
それはお金の面でもですね。
ひとつだけストーリーがあるとしたら、
私はもともとアメリカに来た後、
実は父親が会社を倒産させて離婚したんですよ、両親が。
なのでアメリカで母子家庭で育ってきたんですね。
やっぱり母親はずっと内職しながら、
子供3人はアメリカで育ったので、
結構グループの中で、
3人はアメリカで育ったので、
結構貧乏だったってなりますけど、
あまり贅沢をしてこなかった母親だったんで、
だから意外と高校、大学の頃から、
俺はいつか成り上がって、
めちゃくちゃ稼いで、
で、母親をめっちゃ贅沢させるよっていう思いで、
実は頑張ってきたっていうようなんですね。
ただしやっぱり父親が会社を倒産させたっていう過去がありますので、
うちの母親から絶対に企業なんかすんなと。
もう大企業のサラリーマン一番だから絶対企業なんかするんじゃないと、
ずっと言われてきたんですよ。
なんだけど、やっぱりどうしても私は企業をしたかったので、
何をしたかというと、
リスクのない企業を私はしようという思いで、
実は売れ手講師を立ち上げて、
リスクのない企業とは何かというと、
実は個人、過度を高位置で言おうとしての、
実力と知名度が圧倒的にあることだと思うんですね。
なので、僕が実は一番苦労したのは、
会社を作ってからじゃないんですよ。
それまでの会社員の時代に、
僕は毎日朝3時、4時まで働いていました。
1日の睡眠3時間。
毎日タクシーで帰って。
本当はブラックな生活ですよね。
本当に自信持っていると思うんですけど、
きっと日本の全会社員の中で、
15:02
トップ5くらい入るくらい働いていたと思います。
時間でいうと、量も含めてですね。
量をいっぱいこなすことによって、
結局私は実績をものすごい残したんですよ。
あとは有名人だったんですね、この業界で。
当時通販周りのネットマーケティングをやる人はいなかったので、
会社員なのにいろんなところで連載を書いたり、
講演をしたり、取材を受けたり、
超有名人だったんですよ。
ADKの加藤光一だったら結構有名だったんですよ。
自分の知名度がものすごい上がったなって感じた瞬間に、
よし、企業だと。独立とも言えますけど。
ということで、売れネット航空社を作った。
なので、思いとしてはまずは金を稼ぎたい。
それは母親を贅沢させるため。
そのためにでもリスクを犯したくない。
なので、リスクのない企業というのは
自分の知名度を上げることなんで、
徹底的に働いて、そろそろ掴んだ。
なので、実は会社をつくって、
初日から実はものすごい問い合わせがいっぱい来たんですね。
あとは当時立ち上がったツイッターとかフェイスブックで
加藤光一が独立したらしいぜとか、
企業したらしいぜとか。
あとは意外と業界史ですね。
周りの業界で通販新聞とかマーケティングとか
いろいろあるんですけど、
みんな記事を書いてくれたんですね。
ADKの加藤光一独立企業みたいな。
それによって、
初日からバンバン仕事の依頼が来て、
実は初月から黒字だったんですよ。
そこから結構順調にずっと黒字経営、
右肩上がりで来れたので、
本来はね、結構みんな
起業したときの苦労話ってあると思うんですけど、
私はどちらかというと、
会社員時代に、
今の地位と知名度、実力をつけるために
そこで苦労したっていう感じですかね。
なので、起業はちょっと遅かったんです。
34歳で起業してるので、
決してネット業界で若い方じゃない。
でも確実、堅実に成功するパターンを掴んだ上で
起業したっていうのがありますね。
なるほど。ありがとうございます。
ADKの皆さんからは
引き止めには合わなかったんですか。
それはありました。
ありましたし、当時、
なんと私、ADKって一応
3000人近くいる会社なんですけど、
実はその3000人いる会社の中で、
一応ネット広告に売り上げる4分の1を
私は買って、
相当の影響力じゃないですか。
なので、当時は、
当然会社から止めに入りましたが、
一応変な辞め方はしたくなかったので、
起業させてください、独立させてください、
伝えた後に、
引き継ぎに1年間来ました。
しっかりと後任を作って育てて、
その上で会社を作ったので、
それを見ると、
1年かけたので円満退社にしたわけです。
1年かけたので、
1年かけたので、
1年かけたので円満退社にした上で、
せいせいどうどうと、
グルーネット広告社に起業しましたね。
なるほど。ありがとうございます。
18:17
本日も社長に聞く、
インウィズウィズをお聞き下さり、
誠にありがとうございました。
この番組は、2017年1月から
毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの
成功社長、成功経営者のインタビューを
お届けしてまいりました。
この内容は、
全てテキスト化いたしまして、
私ども、
ウェブサイト、
経営ノートでも
閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく、
文字で読み返すことで、
新たな発見や気づきがあり、
皆さんの会社経営に役立つヒントが
きっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトのほうにも
させていただいています。
ぜひ、ネット検索で
経営ノートスペース社長インタビューと
入力いただき、
経営ノートのサイトを
ご覧になっていただければ
と思っております。
本日の社長肉インウィズでは
ここまで。
また来週。
19:31

コメント

スクロール