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2022-06-08 21:48

第283回 栗栖義臣氏(株式会社はてな代表取締役社長)【前編】

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はてなブログ・はてなブックマークなどを展開し、東証グロース市場に上場をする企業の社長様です。

さらに、ポッドキャスト「Ossan.Fm」のパーソナリティとしてもご活躍をされています。
学生時代にHPなどで日常生活を発信することに魅了され、IT業界に飛び込まれた栗栖氏。挑戦を恐れず突き進まれてきたエピソードから、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。


なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

■経営者インタビューメディア「経営ノート」
https://keiei-note.com/




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社長に聞く＀inWizBiz
本日の社長に聞く＀inWizBizは、株式会社はてな代表取締役社長)吉尾美さまでいらっしゃいます。
まずは経歴をご紹介させていただきます。
1978年鹿児島生まれ、大阪大学原子力工学科卒業後、大手システムインフレーターに御就職。
2008年にエンジニアとしてはてなに株式会社はてなさんに御入社されていらっしゃいます。
ディレクター、プロデューサーを得てサービス開発本部長としてはてなのサービス開発を統括。
2014年より現職代表取締役の社長に御就任され、2016年に東証マザーズに上場されている東証マザーズ上場の社長さまでいらっしゃいます。
栗栖社長さま、本日はよろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身は鹿児島ということで、小学校時代はどんなお子さんでいらっしゃいましたでしょうか。
そうですね、鹿児島で小学校で一つ自慢があるとすると、当時日本で一番児童数が多い小学校だったんですね。
なるほどザワールドという番組が取材に来て、最初の数字当てクイズの問題になってですね、校庭で喋ったんですけど、とにかく児童数が多くて、
一学年10クラスぐらいあったのかな、という中で、鹿児島のいわゆる住宅街というか、当時すごく若い方が集まってた住宅の中の小学校で育ったんですけども、
そうですね、小学校時代は割と勉強が好きだったのかな、あと塾とかにも通ってまして、友達に誘われて私立の中学校を受験しようみたいな感じで、一生懸命やっておりました。
なるほど、中学校は受験で私立で。
そうなんです、鹿児島の私立の中学校に行っておりました。
中学校なのか、お名前は聞いてもよろしいですか。
大丈夫です、池田中学校ですね。
私は中学してから、その中学校が高校を作ってですね、何でもそのまま中学高校と同じ学校で過ごしておりました。
なるほど、中学時代はどんな風に過ごしたなんて思いでございますでしょうか。
そうですね、中学校時代はちょっと変わった学校というか、当時の鹿児島の学校はですね、公立は本当に男子生徒は坊主にしなきゃいけないとか、今のこの時代に考えられないんですけど、当時はそういう髪型もそうしなきゃいけないとか、割と規律が厳しい時代だったんですけど、私が通ってた学校はすごく自由な校風を歌っておりまして、
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その中で、そういうところに来る生徒さんは結構変わったというか、感性が独特な方が多かったんですけど、その中で私が友人に誘われて、演劇部というか、お芝居の部活動をやってみないかと誘われて、それに取り組んだのが中学高校みたいなところだったかなと思っております。
中学時代も高校時代も演劇部で。
そうですね。
部に正式になったのは高校ですかね。
中学校の時は本当にもう部活動もなかったんですけど、好きな演劇が好きな友達が脚本を書いて、学園祭へ舞台をやりたいから、ちょっとクリスも手伝わないかみたいな感じで、こうやってたという形ですね。
将来的に役者になりたいとか、そんなことはお考えにならなかった?
いや、もう当時は思ってましたね。
夢見る少年じゃないですけど、そういうエンタメ系の世界、特に自分が演者みたいな形になるといいなと、当時の中学、高校生ぐらいの時ですかね、には思ってたかなと思いますね。
なるほど。高校時代の思い出というのは何かございますでしょうか。
そうですね。高校時代は演劇部とバスケット部両方掛け持ちしてました。
一生懸命運動と文化的な部活動と勉強ということで、すごく切磋琢磨して過ごしたのを覚えてますね。
私のお芝居とか演劇に誘ってくれた友人が脚本を書いて、当時演劇部なかったんですけども、彼が活動をして演劇部を作りたいと。
作って大会に出たいというので、一緒に手伝わせていただいて、本当にゼロから演劇部立ち上げて、活動して大会に出たというのがすごくいい思い出に残ってますね。
なるほど。ありがとうございます。その後大学は大阪大学に進みましたが、大阪大学の原子力工学科ということでちょっと変わった部ですが、こちらを選ばれた理由は何かございましたでしょうか。
これは実は大学を選ぶときに、最初は全然違うところを志望してたんですね。
九州大学の建築学科、建築の方に興味があって、そこに行きたいなと思ったんですけども、当時の仲の良かった社会の先生が、
クリス君、これからは建築は流行らないよってよくわからないアドバイスをされまして、今なら裏を取るところなんですけども、
当時はインターネットももちろんありませんし、先生が言うならそうなのかもと思ってですね、
自分はどこに進もうかなと思って、家に帰ってテレビをつけたら、たけしの万物創世記っていう番組をテレビでやってまして、そこでですね、
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大阪大学のレーザー核融合研究所っていうものを特集してたんですね。
レーザーを使って核融合を起こして未来のエネルギーを作るんだみたいな特集をしてまして、
すごい設備とか装置の大きさとかですね、やってる研究の面白さに、その番組を見て、これはここなんじゃないかと思って、
大阪大学のレーザー核融合っていうことは原子力工学科なのかなってことで、そこを選んで受けたという感じになってますね。
判断に行かれるということは、お勉強も結構できたということでよろしいでしょうか。
頑張ってはいましたね。はい、頑張っておりました。
大阪大学時代はどんなことをしたなんて思い出ございませんでしょうか。
先ほど高校の時に演劇部に参加していたという話をしたんですけども、実は鹿児島を県外に出たいという理由の一つが、県外でそういうお芝居の活動もしてみたいと。
やっぱり当時の鹿児島はまだお芝居といっても、ちゃんと活動してる劇団の数も東京とか大阪に比べると全然少なかったですし、
そもそも見に行こうと思ってもやってないっていうことが多かったので、大阪に出まして、そういうお芝居を見たりですね。
その大学、よその大学のお芝居を見に行ったりとか、演劇部にも入ってですね、大学でもお芝居をちょっとやりながら勉強もしてという感じで。
ちなみに先ほどのレーザー核融合研究所の話をしたんですけども、入ってからわかったんですけど、実はレーザー核融合研究所は基礎工学部だったということが
後で判明しまして、思ってた設備のところは実は違う学部で使っていて、原子力工学は全然違う内容を勉強するんですよと教えてもらって、全然違ったんだと思ったのを覚えてますね。
じゃあ大学時代はやっぱり演劇中心の。
最初の頃はそうですね、特に1回生2回生ぐらいの時は割とお芝居を中心にやっていて、3、4回生ぐらいになるともうちょっと学問の方にということで、
キャンパスが変わるんですね。大阪大学は豊中キャンパスからスイーターキャンパスに変わるんですけども、普段活動しているサークルが活動している場所が豊中という場所だったので、
そこからちょっと離れてしまったんで、週末とか平日の行ける時に参加するという形に変わっていって、だんだんと勉強の方にシフトしていったという感じになりますね。
新卒でシステム会社にお勤めになられるわけですが、原子力系に行こうとは思わなかったんですか。
そうですよね、実は私院まで進んでまして、当然親はですね、高い教育費を出して私立の学校に行かせ、大阪にも行かせてですね、将来自分の息子はそれこそ原子力系の電力会社で、
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そういう固い仕事をするものだろうと思っていたみたいなんですけど、やっぱりやっていく中で、もちろん面白い領域でして、
興味はあったんですけども、自分が一生かけてそこに情熱を注げるかというと、ちょっと違うかもなっていうのが、大学院のやっていく中で思ってきたんですよね。
なので、ちょっと就職は全然違う分野に挑戦してみたいなと思って、いくつか会社を見ていく中で、いった最初の会社に出会ったという感じになっています。
なるほど、システム系というかIT系と言いますか、今のお仕事にも何になると思うんですけど、IT系を選んだ理由というのは何かございますか。
そうですね、当時ちょうど私が大学院に進んだあたりで、格安のパソコンが売り出され始めたんですよね。
割と手に入りやすくなったので、大学の研究室に1人1台パソコンを持っていくような時代に入っていって、
当然パソコンを研究とかにも使うんですけども、普段自分でホームページを作ってみようと思って、
自分で日記を書いたり、そういうのを発信することは当時好きだったので、日記を書いたりっていうのをやってホームページを作っていく中で、
こういうのって自分の性に合ってるのかもなみたいな、そういうプログラミングまではいかないんですけども、
そういうIT系の分野で特にシステムを作るみたいなのって、もしかすると面白く取り組めるのかもなと思ったのが、
そういうところに興味を持ったきっかけになりますね。
なるほど。大手のシステムインテグレーターの会社さんでの思い出なんてございますでしょうか。
本当に業界未経験で入って、5,6年いましたのでいっぱい思い出がありまして、
当時の会社の同期の数が250人ぐらいだったのかな。会社の規模も全体でいうと2500人ぐらいの当時会社でして、
本当にいろんな人が同期でいたんですよね。最初に3ヶ月間ぐらい、みっちりと研修をして、
システムエンジニアとして鍛えてもらうんですけども、本当にそこで出会った人とは今でもつながりがあって、
一緒に研修で一つでプログラムを作ってみたりとかっていうのも経験しました。
そういった出会いがあったというのが一つあるのと、
あともう一つは大規模プロジェクトに最後の方で関わらせていただきまして、
要件定義からリリースまでが2年、3年ぐらいかかるような大きなプロジェクトで、
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関わる人間もすごくたくさんいると。
特に関わる会社さんもたくさんあるっていうところに行きまして、
お客さんから自分の同僚、あるいはパートナー企業の方含め、
いろんな人間模様とかプロジェクト、単にシステムを作るっていうと、
本当にそれまでのイメージって仕様書をもとにプログラムを書くだけみたいな世界から、
いや実はそうじゃなくて、もっとその世界には要件を話を聞いてまとめて、
合意を取りながらうまく調整をして、かついついつまでにスケジュールと人員とか、
いろんな数字を見比べながら前に進めていくっていうものの大変さとか、
そこにこういうことを気をつけなきゃいけないよっていうのを身をもって経験させていただいてたのが覚えてますね。
じゃあプロジェクトマネージャーのお立場でやってらっしゃったみたいな、そんな感じでらっしゃいますか。
プロジェクトマネージャーまでいかないですけども、そういったものを横で見ていて、
お手伝いさせていただいたとかですね。
特に当時はプロジェクトマネージャーの方、どんどんIT系のツールとかが、
どんどん周りが発達していた時期でもあったので、そういう若い人間が早く飛びついて、
上司にこういうの今あるんですよって言ってですね、
じゃあちょっと使ってみて、こういう情報を出してくれないかっていうのを、
じゃあ分かりましたっていうことでまとめて、
プロジェクト振興の役に立ててもらうといったサポート業みたいなんですかね。
それをすごくやっておりました。
ありがとうございます。
その後、株主さんにご転職と思ってよろしいんですか。
そうですね、転職して入りました。
転職する理由というのは何かあられたんですか。
前のシステムインテグレーターの中でやっていく中で、
やっぱり会社の方針がですね、外の会社さんをうまく使って作っていくと、
自分たちではあまり行動をかかないっていう方針に、その時は変わっていってたんですね。
一方で私はどうかというと、全くの未経験からプログラミングを覚えさせていただいて、
社内で小さい開発から中規模の開発まで自分でプログラミングを書く、
行動を書くっていうことをやっていく中で、やっぱりこの領域ってすごくまだもう少しやってみたいなと。
ただこの会社にいるとやっぱりそれはやりにくくなるなっていうのも肌で感じておりまして、
一方でインターネットを見ていくと、当時株式長はてなという会社が出した新しいサービスを
自分で触ってみて、ユーザーとして、海外の会社がやるような取り組みを日本の会社がやってるんだみたいなことを
当時衝撃を受けて、こういう会社で働いてみたいと思ったのと、
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当時のCTOが私と同じ年だったんですけども、Googleさんが主催室でのカンファレンスで
登壇してお話しされているのを見てですね、
自分と同じ同世代の方がこんなに最前線で活躍されるような、できるような会社なのかと思いまして、
当然エンジニアのレベルも高いだろうし、やってることは技術レベルも高いんだろうけど、
そこで挑戦しようかなどうしようかなみたいな、迷ってたと。
もちろん私は結婚して子供もおりまして、特にその時は2番目の子供が生まれたばっかりだったので、
東京から、もし転職するとなると京都に引っ越すことになるので、どうしようかなと。
妻は働いてたので、それをやめてもらって、どうしようどうしようと思ってたら、妻がそんなに悩んでるんだったら、
とりあえず受けてみたらと。受けてみないことには何も前に進まないんだからと、
背中を押してもらいまして、何とか入社にこぎつけたという感じになっています。
なるほど。京都にご引っ越しされたんですか。
そうですね。引っ越しました。妻に後で聞いたら、受かるとは思ってなかったと言ってましたけども。
そうですか。良い奥様でいらっしゃいますね。
3分コンサルティング。みずみずが社長の悩みを解決。
本日の3分コンサルティングはK様です。人材採用活用のコンサルティングだそうです。
昨年1月にそれまで勤めていたベンチャー業を辞め、独立しました。素晴らしいですね。
人材全般活用についてのコンサルティングを行っています。
採用を行う際の動画活用プログラムを広く推進したいと思います。
そのためのプログラム開発や撮影機材の購入に300万円ほどかけたいと思っています。
現状手元式は心もとなく優秀を受けたいと思っています。
ただ、銀行融資を受けたことがあるか、どのように優秀を受けたら良いのか、金利と有利な世界どこなのかと知識がありません。
その辺りを教えていただく何卒よろしくお願い申し上げますということです。
創業したばかりですので、創業融資みたいのがあります。
日本政策金融庫という国の金融機関がありますが、そこにご相談されたらいいんじゃないかと思います。
あと民間金融機関でも創業融資やっているところ少ないですが、たまにあります。
ちょっと探してみてください。信用金庫さんとか信用組合さんとか知人さん、銀行さん、中にはありますので探してみたらと思います。
あと創業補助金というのがあります。
これは中小企業庁が出していたり、東京都とか何々県とか都道府県とか、あとは市とかですね、また区とかですね。
創業補助金みたいのを50万とか100万とか200万とか300万とかでやっているケースがあります。
その辺も活用してみてはいかがでしょうか。創業補助金ですので返済義務がないのがほとんどですので、ほぼ100%ですので、それもいいんじゃないかなと思います。
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普通に融資を受けようと思うと、通常は昔は3期分の決算書がないと無理と言われました。
最近ですと2期分と言われるケースもあるんですが、3期分の決算書ということは3年経過してからしか借りれないですね。
じゃあどうやって借りるかというと、私なんかは創業したばっかりの時に自分の土地を担保にして500万借りました。
1年間で未曾有銀行500万借りて、その500万使わずに1年後に返済をして実績をつけて、担保外してもらって、そこから普通のプロパーの融資を受けていったと。
こういう経験があります。
だから担保を活用するという、担保権の土地とかですね、マンションとかですね。
そんな活用するという方法はあります。
でもそういうのもないと借りれないということになります。
ですので、創業時が一番融資を受けにくいというのは覚えておいていただきたいなと思います。
かつ年賞が550万ぐらいということですので、年賞のだいたいですね、昔バブルの時は3分の2ぐらいまで借りれたんですが、
バブルの崩壊後リマーシュすることは3分の1ぐらいしか借りれないと言われています。
半分以下になっているわけですね。
ですからそうなってくると200万ぐらいが、前後ぐらいがせいぜいかなと思えてきますので、200万か250万か。
そういうふうに考えていくと、補助金とか創業融資とかで、複数借りることによって、
初期補助金でまず100万受けて、創業融資で100万受けて、普通の融資100万受けるみたいな感じとかですね。
そういうことを考えていく以外、難しいんじゃないかなと思います。
ですので、まずは創業補助金、創業融資をですね、狙ってですね、動いていただく。
普通の通常融資は簡単ではないと。
まずはその実績を指し、そして返済を終わらせ、次の融資を狙っていくというようなことをお考えいただくのはいいんじゃないかなと思います。
この辺ちょっと細かい話ですので、もしよろしければ具体的にZoom等をつないで、
無料の経営相談も出させていただきますので、なんないとおっしゃっていただければと思います。
本日の3分コンサルティングはここまで。また来週。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、
KAノートでも閲覧いただけるようにしております。
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音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索でKAノートスペース社長インタビューと入力いただき、
KAノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。また来週。
21:48

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