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2025-09-17 22:42

第452回 久保良介氏(株式会社オンデック代表取締役社長)【前編】

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今回は、株式会社オンデックの久保良介氏にお越し頂きました。

 

卒業後にJCBや大阪府警を経験。

自身の適性を探す中で、相談した方から起業の道を示され、株式会社オンデックを創業。

M&A事業で業績を上げ、上場へと導いたエピソードから経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

 

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

 

■経営者インタビューメディア「経営ノート」

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サマリー

久保良介氏は、学生時代の野球経験や大学選びの理由、JCBでの業務、そして大阪府警への転職についてエピソードを紹介しています。特に、社会活動への関心や犯罪被害者心理への興味が彼のキャリアにどのように影響を与えたかを深く掘り下げています。また、彼は自身の経歴や大阪府警での経験、さらにその後の起業に至る道のりについて述べています。さらに、松田産業での経験やビジネスプロジェクトの成功に向けた取り組みについても語られています。

久保良介の学生時代
社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、株式会社オンデック代表取締役社長 久保良介さまでいらっしゃいます。
まずは経歴をご紹介させていただきます。大阪府ご出身、関西大学卒業後通社を経験、その後オンデックを創業。
そして、2025年には東商グロース市場に上場している上場企業の社長さまでいらっしゃいます。久保社長さま、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、大阪府ご出身ということで、小学校時代はどんなお子様でいらっしゃいましたでしょうか。
そうですね。小学校から大学に出るまで、学生時代はずっと野球をやっていたので、プロを目指すというわけではなかったですが、
講師園に憧れてみたいなところで、小・中・高・大と一貫して野球部で泥まみれで過ごしていたみたいな、そんな形ですかね。
小学校時代のポジションはどんなことだったかと思っています。
ピッチャーが一番多かったですね。
じゃあ、一番お上手でいらっしゃったんですね。
小学校の間でそそるぐらいですね。
中学時代も野球付けでいらっしゃいました。
そうですね。
中学生でもピッチャーでいらっしゃいました。
中学生でもピッチャーだったんですけど、途中でよくある話ですけど、肩を壊してからピッチャーもやりながらですけど、他のポジションも並行してやるようになった。
複数やられるものですか。
そうですね。ピッチャーとショートというのが多かったですね。
運動神経一番いい方でいらっしゃるんですね。
ありがとうございます。
中学は全国大会とかそんな感じで行かれたんですか。
中学校は大阪出身なんですけど、奈良県で農学校立中学校に行ってましたんで、奈良県って結構、いわゆる公式野球よりも学校の難式野球部、普通に中学校にある野球部というのが盛んなエリアなんですね。
そこで普通に部活動として野球をやっていて、難式野球をやっていて、県大会に行ったぐらいまでの話ですかね。
なるほど、ありがとうございます。
高校は奈良ですか、大阪ですか。
高校も奈良ですね。
奈良のどちらの高校になったんですか。
奈良の郡山高校という学校があるんですけど、私がちょうど学生の頃は結構甲子園を比較的常連というか立て続けに出ていた黄金時代みたいな時だったんですけど、
その頃に郡山高校で野球入っていたんですね。
ちょうど今週6時が甲子園の時期なんですが、甲子園目指してというか甲子園も出られたんですか。
2年生の時に出ましたですね。
レギュラーでいらっしゃいますか。
ベンチには入っていたんですけども、レギュラーではなかったんです。
でも相当上手でいらっしゃいましたね。
ライバルとしては奈良県だと千弁学園とかそんな感じですか。
そうですね、千弁、天理、私が通っていた郡山、三郷と当時は言われていたので、そのどこかが出るというのがパターンでしたね。
すごいですね、たぶんリスナーの皆さん方も高校求人もいっぱいだった方もいらっしゃるので、たぶん憧れみたいな感じだと。
いやいや、高校時代はそんだけ野球を上手だと表にもなったんじゃないですか。
でも大体学生の時って運動できれば相対的にはモテると思いますので、モテない方ではなかったかもしれないですね。
私からすると大変羨ましい人生でいらっしゃいますが、大学は関西大学を選ばれていらっしゃいました。何か選ばれた理由ってございましたか。
そうですね、野球で行ったというのがあるので、野球で当時お声掛けをいただいていた、あるいはこちらからお願いすれば入れる状態だったところというのが何個かあって、
その中でちょうど高校の監督の母校にあたりますので、どこにしようかという相談を監督にしたら、
こだわりがあるわけではないのであれば、自分の母校に行ってはどうかという話があったので、ぜひと言うことで進学したという感じですね。
じゃあ関西大学4年間も野球づけでいらっしゃいますか。
そうですね、ただ先ほど申し上げたように、高校支援に憧れてみたいなところが強かった。野球をする動機としては強かったので。
そっちも言って、高校までのときほど情熱を持ってやれたかというと、ちょっと違うかもしれないですね。
当時もまだピッチャーもやられて、ショートもやられていらっしゃいましたか。
いや、実はショートで推薦というか、野球で行ったんですけども、ショートって大変なんですよね。ものすごく忙しいポジションで、ものすごくしんどいのでですね。
ショートで入ったくせに入った瞬間に外野やらせてほしいと言って、外野にコンバートしてもらったみたいな経緯がありますね。
バッティングは良いから外野でも通用されるという感じでしたか。
そうなんですよね。とりあえずは認めていただいて、外野のポジションでやっていましたけれども。
大学時代の思い出は何でございますか。
大学は唯一小、中、高、大という野球をやった中でいくと、純レギュラーみたいな形でバリバリのレギュラーがなかったんですよね。
それって情熱を失っていた部分もありますし、進学の選択肢みたいなところで周りの後押しもあって、
もったいないから行っときなという世界で行ったというのは正直なところもありましたのでですね。
そうすると実力の方も落ちていきますし、周りは頑張れば伸びますし、こちらはやらなければ落ちるしというので。
高校までのようにバリバリのレギュラーではなかったんですけれども、それをすごく後悔しましたんですよね。
当時はすごく後悔して、この4年間すごく無駄に過ごしてしまったなというのを痛く反省したんですけれども、
逆にこういう時間を無駄にしたというか、もっと何か成長できる機会が本来ならあったはずなのに、
本気でやらない、全力でやらないことで時間を捨ててしまうような経験は二度としたくないなというのは、
そのとき強く思いましたので、ある意味その経験が今につながっている部分はあると思いますね。
今でもこの大学時代の後悔は思い出している時はございますか。
ありますね。たまに夢もまだ未だに夢も見たりしますし。
じゃあ相当強い後悔でいらっしゃったんですね。
そうですね。当時は本当にはっきりとミスったなと、もっとちゃんとやればよかったなと、
4年間とか長いので、ものすごくもったいないことをしたなというのは常に思っていた感じですね。
大学からの経歴
割と真面目なご性格でいらっしゃるんですね。
どうなんでしょうね。やると決めたらやらないと気が済まないタイプではあるので、
そういう意味では真面目といえば真面目かもしれないですね。
周りからどう映っているかはわからないですけどね。
上場企業の社長様らしいエピソードというか真面目さだと思いますが、
大学卒業後はJCBでよろしかったでしょうか。
そうですね。JCBから最初就職していますね。
騒ぎボケだと思うんですが、JCBにお勤めになった理由というのは何かございましたでしょうか。
これはあまりかっこいい話はなくてですね。
野球ばっかりずっとやっていましたし、今ほど就職活動はものすごくスタートが早いじゃないですか。
情報もあふれていますし、結構皆さん積極的に、私どもも採用しますけど、
インターンに応募されてやったりとかってあったんですけど、
結構ギリギリまで部活動もあって、そちら優先でずっとやっていたので、
ろくに野球を終えてから、社会に出てからのことをどう生きていこうかというのを
深く学生時代に考えることは正直なかったんですよね。
それは自分自身も分かっていたので、とりあえずただ時間が迫っているので、
正直、いったん手ごろなところに就職して、そこで社会に触れながら
自分、今後どうしていくかというのを考えようと、そのとき思って、
JCBさんには申し上げないんですけども、とりあえず入ったというのが正直な経緯ですね。
でもJCBさんですので、ご友人だからスッと入ったんだと思うんですけども、
JCBでの思い出なんてございますでしょうか。
はっきり印象として持っているのは、すごく素晴らしい会社だったので、
最初は今申し上げたように、いったん腰掛けてというか、
考える時間を作るためにとりあえず入ったみたいな動機というのは
素直なところなんですけども、入っていろいろと業務に触れる中で、
ものすごく勉強になったというか。
一番最初、債権回収というか債権管理系のセクションに行ったんですけども、
その中でデータマイニングが結構しっかりやられていたんですよね。
なので、債権回収といってもひたすら取り立てに行くとか、
そういう話だけではなくて、JCBさん特に金額はそこまで大きくないものの、
すごく数多くのお客様の債権を管理しているので、
どの層に対してどういうアプローチをすれば延滞率が下がるかとか、
あるいは回収率が上がるかとかというのを膨大なデータを分析する中で傾向をつかまえて、
仮説を立てて、その仮説に基づいた施策を立案してやってみると。
当然、その結果がどう数字が変化したかというのを追うという、
データマイニング的な業務が中心だったんですよね。
それが定量的にものを見るというか、
あるいは仮説を仮説で終わらせずにしっかりと根拠を持って証明するとか、
それをもとにPDC、いわゆるPDCですね。
当時はPDCという言葉は定着していなかったんですけど、
後になって思えばまさにあれがPDCサイクルの典型的な形なんだなというので、
本当に面白いなというか、ビジネスって面白いなというのを強く思ったのを鮮明に覚えているという感じですかね。
なるほど。今風に言うとビッグデータとか、統計学の最先端の会社さんで、
クレジットカーブ会社さんだからこそなんだと思うんですけども。
JCBは何年ぐらいいらっしゃったんでしょうか。
そんなに長くなくて、1年半ぐらいじゃないですかね。
公務員としての活動
その1年半後に次の転職が大阪府警でよろしかったですか。
そうなんですね。先ほど申し上げたように、一旦取りあえず就職して、
今後自分がどう人生を生きていくかみたいなのをしっかりそこから考えようと思ったので、
入社してから先ほど申し上げたように、すごく勉強にはなるし、
面白いなと思うような業務には取り組んでいる一方で、
自分の長い人生、どういう方向で生きていこうかみたいなのをよくよく考えていたんです。
自分がやりたいなとか興味を持てることって結構、いわゆるソーシャルワーク的な傾向が強かったというか、
社会保護士という言葉があるかもしれないですけれども、
社会活動的なところでやりがいを生み出すようなことに自分は関与したいんだなという精力が自分の中でついていったんですよね。
とはいえ一方で、飯は食っていかないといけないので、
特に日本って当時は特にですけども、そういう社会活動、ソーシャルワーク的な活動っていうのは
ボランティアでやるべきものだみたいな空気がすごく強かったんですよね。
アメリカなんかだとソーシャルワーカーっていうのは一つ、ちゃんと職業のカテゴリーとして確立してたので、
別にその方向で関与しながらもちゃんと飯が食っていけるだけの収入を確保するような形で確立されていたという記憶なんですけど、
どうもやっぱり日本はそういう仕事をする中でお金をもらってるっていうのは何かよくないみたいな空気がすごく強かったと。
なので、ちゃんと自分の生活も確立させながら、
そういう社会活動的なところに関わっていける手段って何があるかなっていうのを
いろいろ探している中で、大阪府警というのが一つ選択肢に上がったという。
ちょっと私、心理学を若干かじってたりして、犯罪被害者心理とかいうところにすごく興味を持って勉強してた時期があったんですけど、
当時大阪府警が全国で初めて犯罪被害者対策室っていうのをつくって、
要は被害に遭われた遺族であったりご本人というところの心理的な後のケアですね、
そういうのを専門にするセクションを立ち上げたというニュースがあったんで、
まさに結構やりたいことだなと、今やりたいというかやりがいを見いだせることだなと。
かつ現実的な話でいけば、大阪府警の職員という形であれば十分生活もちゃんと食べていけるということでいいんじゃないかということで、
1年復帰して、そちらへの転職というのを進めたという形ですね。
なるほど。ありがとうございます。公務員職になるんですか?
そうですね。大阪府警から地方公務員。
地方公務員のテストがちゃんと受かっているということですか?
受かっていますね。
ということは勉強もできるということですね。
どうなんでしょうね。倍率もすごかったんで、通れるかどうか不安だったところも何とか通ったんで、
努力が報われたのかなという感じですけど。
大阪府警での経験
大阪府警での思い出なんてございますか?
ただ、大阪府警といっても、今実際に大阪府警に勤められている方、警察に勤められている方からすると、
大阪府警に勤めたって言うなというぐらいの期間なんですよね。40何日とか、本当に短いです。
当時、何歳ですか、24とかなんですかね。若気の至りみたいなところもあって、入ってみたはいいんですけども、
いろいろと納得がいかないことが多くて、それにことごと反発してしまっていたので、
毎日呼び出されて議論をするというか、怒られるんですけど、
いやいや、それは仕組みがおかしいと思いますとかいうような話を消しかけて、
呼び出され続ける40数日みたいな感じでした。
ただ、今思うと正しい、向こうが正しいというか、
普通の一般企業とは違うので、本当に命の危険のあるような局面でも身を投げ出してやらないといけないという、
本当に事実ある世界の中で、多少一般観客だと理不尽であろうことも、
規律というのをより重視するとかいうことで、今思えば正しい在り方だったんだなと思うんですけども、
何分若かったんで、そういうのに対して納得がいかないとなったら納得できませんみたいな感じですごく反発しちゃってたんですよね。
そういうのが積もり積もって衝突してしまって、半ば机をひっくり返す形で辞めたみたいな、そんな形ですね。
起業の決意
なるほど。ありがとうございます。
その後、上場勝者を務めというふうになってますが、こちらはどちらの勝者でありますか?
今、東証プライムに長寿がいると、松田産業というお会社さんなんですけど、
当時私がそのお会社に入ったときは、まだ年賞1,000億なかったぐらいじゃないかなと思うんです。
二部上場か、当時一部二部っていうプレーでしたから、東証二部上場で一部を目指してるみたいな時期だった、
それぐらいのサイズ感というかステージの会社さんだったんですけども、
そもそも大阪府旗を辞めて、半ば飛び出すように辞めて、
僕はどうするかなと、やっちゃったなと思いながら、どう振る舞っていくかというのを考えて、
たまたまずっとお世話になっていた、目をかけていただいていた経済家の住地みたいな方がいらっしゃって、
友達の親父なんですけど、すごくよくしていただいたので、その方に相談に行ったんですよね。
で、やっちゃいましたと。机ひっくり返し辞めちゃいましたと。
どう生きていこうかなと思っているんですけど、自分何が合うと思いますかという話を相談に行ったと。
最初は何しようと思っているのって聞かれたので、
勉強したらできなくはなさそうなので、司法試験でも受けて弁護士か、
県議員でもなったのかなと思いますとか言ったら、もうやめとけと。
お前のその性格からすると、そういう分野、放送界しっかり、
いっていこう、正しいと思う方向だけでは進めない部分をしがらめてもすごくきついので、
多分向かないよと。またもう一回机ひっくり返し辞めるわみたいな話で、すごく止められたと。
向いていると思っているけど向いていないことで、みたいな感じで言われた。
じゃあ僕何を向いていると思いますかって言ったら、いやもう起業したらいいとさらっと言われたんですよね。
日本は何らかの経済力部ですし、経済の面でビジネスで成功を収めた方なりが
いろんなネットワークを築いて、いい意味での発言力も得ていく。
なので起業して成功して、そこから得た人脈だったり資金だったりということで、
いうところを使って、存分に自分の好きなように社会貢献活動をそのときにやったらいいじゃないと。
一番あなたはそれが向くと思うよと言われて、なるほどなと。
それまで起業するという選択肢が頭になかったんですけど、
そういう道筋もあるかというので、そこからしばらく2ヶ月、3ヶ月考えて納得できたので、
OK、じゃあ起業を目指そうというように判断したんですね。
ただ冒頭申し上げたように1年半のGCB化という経験なんて、
子どもに毛が生えたみたいな世界のビジネス経験なんで、いきなり起業するって難しいので、
一旦もう一度ビジネスを企業に入って学び直したいなと。
あまり大きすぎる企業に入って全体感が見えないような形も嫌だったので、
大きすぎないサイズでも浅すぎない、ある程度ちゃんとした仕組みを持っている会社というのがいきたいなと。
加えて昇竜の、おこりから販売の完了までの昇竜の流れというのを広く見れるような業種がいいなということで、
商社がいいなということで、手頃なサイズの商社がいいなと思ったときに調べている中で松田産業さんというのが身について、
ここをちょっと受けてみようということで採用を応募したらば取っていただけたという感じですかね。
松田産業での業務
なるほど。ありがとうございます。松田産業さんでの思い出なんてございますでしょうか。
そうですね。営業というよりは企画系のところに最初から配属されて、最初は事業部の企画部門だったんですけれども、
途中で経営企画室という前社の企画部門というところに引っ張ってもらって、いろんな業務を経験させてもらったんですけれども、
これもすごく勉強になったなというのが一言で言ってもその思いしかないですね。
特に私は経営企画室で、いわゆる予算統制とか中期計画の策定IRみたいなところというのはルーティンの担当業務としてはあったんですけれども、
プラスプロジェクトを担当するというか、なので最後にやった仕事なんかはいわゆるERPですね、
SAPですけれどもの前社導入みたいなことのプロジェクトの実績のマリーラみたいな事務局をやらせていただいたと。
いろんな畑地が専門では全然ないことのプロジェクトを牽引していくようなポジションでやらせていただくことが多かったんですけれどもね。
そうすると一つのプロジェクト成功率に納めにいくというのは結構一個の事業をゼロから作って成功に導くみたいなプロセスと、
今思えば似たようなプロセスでもありますし、すごくいい経験をさせてもらったなと。
一個の何かを物を売るというのは素晴らしい行為ではありますけれども、何かに特化した形でやるというよりは、
いろんなプロジェクトでいろんな関係部署と調整を取りながらプロジェクトを仕上げていくという、
あの経験をやらせてもらったのはものすごくよかったなと思いますね。
なるほど。ありがとうございます。
本日も社長に聞くインウィズウィズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
その内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズウィズが運営するウェブサイト、
k-noteでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索でk-noteスペース社長インタビューと入力いただき、
k-noteのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くインウィズではここまで。また来週。
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