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2026-02-04 24:23

第472回 大賀康史氏(株式会社フライヤー代表取締役CEO)【前編】

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今回は、株式会社フライヤーの大賀康史氏にお越し頂きました。

論文の概要部分をヒントに、本の要約サービスに需要があると考え、「flier」を展開。順調に事業を伸ばし、株式会社フライヤーを上場へと導いたエピソードから、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。
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サマリー

今回のエピソードでは、株式会社フライヤーの大賀康史氏が自身の経歴や東京での成長について話します。早稲田大学での学びや大学院進学の理由、アクセンチャーでのキャリア選択についても述べています。また、大賀氏はアクセンチャーとフロンティアマネジメントでの経験についても話し、特に企業再生やコンサルティングの厳しさと面白さを強調し、リスペクトの重要性についても触れています。

大賀氏の経歴と出身地
社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、株式会社フライヤー代表取締役CEO)様でいらっしゃいます。
まずは、経歴をご紹介させていただきます。
早稲田大学大学院理工学研究科卒業後、アクセンシャ株式会社にご入社なさっていらっしゃいます。
その後、フロンティアマネジメント株式会社を得て、株式会社フライヤーを設立。
2025年には、東京証券取引所グロース市場に上場している上場企業の社長様でいらっしゃいます。
大賀社長様、本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問なんですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますでしょうか。
自分自身は東京でして、両親は京都出身なんですけれども、ずっと東京ですね。
東京のどちらら辺ですか。
東京というと石神井公園というところなんですけど、練馬区ですかね。
その石神井公園時代は、小学校はどんなお子さんでいらっしゃったかなと思い出していますか。
クラスの取りまとめ役みたいな、当時、高校まで野球をずっとしていたんですけれども、
少年野球小学校で入っていて、手打ち野球とか、南球でみんなで試合をしたりとかするときには、
土日に人を集めて、オーダーとかを自分で決めて、みんなにやってもらうみたいな、そんな役回りをしていました。
当時からリーダーシップを吐きなさっていたという感じでしょうか。
そうですね。取りまとめ役をしたりとか、あとゲームを作ったりとか、
昔から戦国武将のゲームとかが好きでですね、
自分で画用紙で日本地図みたいなのを作って、シミュレーションゲームみたいなのを作って、
休み時間にみんなで遊んだりとか、そんなこともやっていましたね。
じゃあ、ボードゲームをご自身で作ったって、そんな感じですね。
そうですね。
なるほど、ありがとうございます。中学時代はどんなことをして過ごしたなんて思い出はございませんでしょうか。
基本的には野球部中心で野球をしていたことが多いんですけれども、
例えば塾とかもですね、野球部のメンバーと一緒の塾でですね、
地面に低いテーブルが並んでいるような、寺小屋みたいな塾だったんですね。
半分ぐらい自分が教えるみたいな、お金払って塾講師をしているみたいな、そんな塾で学んでいました。
割と珍しい塾でいらっしゃいますね。
そうですね。個人の人がやられている塾で、どんな人でも一定の高校に行けるようにということをサポートする形でですね、
ちょっと変わった塾かもしれないですね。
教えるということは逆には、ちゃんと理解しないと教えられないから、余計理解できるという感じでいらっしゃいますか。
そうですね。
その当時から教えるのもお上手だったんじゃないですか。
そうですね。自己流でやっていた感じなんですけれども、
一緒に学校の勉強とかを一緒にしているので、比較的分かりにくいところとかがつかみやすいということでですね。
大学生の講師の方とかも来ていたんですけれども、一緒に塾に入っているメンバーを教えるみたいなことはしていましたね。
なるほど。ありがとうございます。
高校はどちらの高校にお勧めになられましたか。
都立の西高校という公立高校なんですけれども、すごい自由な学校っていうんですかね。
運動会とかも結構奇抜なっていうか、すごい自由な応援団みたいなのもそれぞれ特色のあるですね。
応援をしたりダンスをしたりとかしたり、あとは全然進学指導みたいなのがなくてですね、もうその人にお任せみたいな感じでしたね。
なるほど。ありがとうございます。
ちょっとリスナーの皆さま向けに一応解説をしておきますと、その地域でいうと西富士といったら東大やバイオルから一番トップの都立高校ですので、
多分大川社長さん、勉強も相当できたんじゃないですか。
いや、得意と不得意がすごいはっきり分かれていて、覚えるものが少なくて応用系の学問というか教科は得意だったんですね。
数学と物理がすごい得意で、一方で興味はすごいある、今でもすごい歴史は好きなんですけれども、世界史とか日本史とか、
何でしょうね、なんかそういう英単語とかも今でも全然覚えられなくてですね、そういう科目があんまり得意じゃないみたいな、結構デコボコがある感じでしたね。
でもリスナーの皆さま方にお伝えすると、日史にはそう簡単に含まれませんという大変頭の良い言い方でいらっしゃると思うんですが、
なんかこう、日史高校で少しお話いただきました。こんな思い出が一番強烈だったなと思いでございますでしょうか。
そうですね、高校では公式野球部と軽音楽同好会を始め1年生から2年生の途中ぐらいまで、野球は3年の夏までやるんですけど、
なんか見聞のような形でしていて、高校1年の時っていろいろバット持ったりとかウォータークーラー持ったりとか、
1年生が練習とか試合のために荷物をたくさん持つんです。パッシリみたいなことをするんですけれども、
それを持ちながらギターを担いでですね、アンプを持って学校に自転車で30分ぐらい行ってですね、
結構親からは心配されまして、荷物が自転車こいでるみたいな感じになっていてですね、
本当に荷物をたくさん持ちながら学校に通ったり、野球の練習場に行ったりということで生活をしていたのと、
あと高校3年になる時ですね、コーチとして、顧問の先生はあまり野球の経験者じゃなかったので、
出身の大学生が監督をしたりとかコーチをしてくれる野球部だったんですけれども、
そこでみんな春休みの練習の時にですね、春季講習とか受験を意識し始める人もいて、
春季講習で野球の練習を結構な人数が休んだことがあったんですね。
そこで監督がすごい怒ってですね、来なくなっちゃったので、選手兼監督みたいな感じでですね、
3試合ぐらい自分が野球の栽培をしたこともあります。
大河社長さんはどこ行ってもリーダーシップを発揮するタイプってらっしゃるんですね。
いや、多分天性のリーダーっていうタイプじゃないと思うんですよ。
カリスマみたいなんでグイグイ引っ張っていくっていうタイプの人間ではないんですけれども、
作戦を立てたりとかするのが結構好きでですね、ゲームを作るとかも少し近いところはあるんですけれども、
なので野球の試合でどうすれば自分たちの強いところで相手の弱いところと勝負ができるかっていうのを結構サインの中とかで考えて、
いかに遠類とかで揺さぶるかとか、一人の乱とかするかとかですね、そういうのを楽しみながらやっていた感じですね。
大学と大学院での学び
なるほど、お聞きすると社長になるべくになった戦略家ってそんな感じでやってますね。
そうですね、結構読んでた本もですね、歴史小説とかが多くて、
自分は大将みたいな戦国武将っていうよりかは軍師っていうんですかね、そういう存在に結構憧れてたっていうところがあってですね、
ゲームとかでも出てくるんですけど、戦国ゲームとか三国志のゲームとかやると必ず軍師っていうのがいて、
基本的には何らか一決定をしようとするとアドバイスしてくれる存在ということでですね、
そういう存在に憧れていたこともあってですね。
なるほど、ありがとうございます。今の大河の豊臣の黒田寛兵衛。
そうですね、武中寛兵衛とか黒田寛兵衛とかそういう存在ですね。
本来黒田寛兵衛は須田雅樹がやるらしいんですけど。
ずいぶんかっこいい。
須田雅樹ですね。
ありがとうございます。その後、早稲田大学にはお進みでよろしかったでしょうか。
早稲田大学を選ばれた理由は何かございましたか。
そうですね、理工学部ということで、自分は物理の中でも力学っていう分野がすごい好きでですね、
あれって何かっていうと、運動方程式ってニュートンが編み出したですね、素晴らしい方程式があって、
ほとんどの物体の運動を一つの方程式で表すことができるって、なんて美しい学問かと思ってですね、
物理とか力学を応用して何か社会に貢献するようなことがしたいと思ってたんですね。
そもそも自分は当時環境問題にすごい、今でも結構されていると思うんですけれども、中高ぐらいでですね、
環境問題で二酸化炭素がすごい多くなっているとか、オゾン層が破壊されているとか、
そういうニュースをすごい見ていたりとか、学校で勉強したりしてですね、
一番インパクトのある環境問題に対して産業は自動車産業じゃないかなというふうに思ってですね、
そういった自動車会社とかに勤めて、環境に優しいエンジンとかを作れるようなエンジニアになっていきたいと思って、
機械工学というものを専攻すると。大学は数えるぐらいしか受けていなくて、
自分は夏まで野球の試合があるじゃないですか、夏の甲子園の予選が7月の下旬ぐらいまであってですね、
なのでもう一年浪人して準備するんだろうと思っていたので、
とりあえず受けていたところがいくつか合格してですね、その中で早稲田を選んだという感じですね。
なるほど、ありがとうございました。早稲田大学時代の思い出なんてございますでしょうか。
えーっと、そうですね、ざっくり3年間はサークル中心に、
テニスサークルの副幹事長というのを3年生の時にやっていてですね、
150人ぐらいいる結構大きなサークルだったので、それが中心だったのと、
残りの3年間は研究室に入ってから大学院までなんですけれども、ひたすら研究室にいたって感じでしょうかね。
特に土地柄っていうんですかね、1年生の時は高田のばばってものすごく居酒屋と斬草の多い町だった。
今ちょっと斬草どれだけ残っているのかわからないですけど、
多い町で同期の友人が3人しかいないから、あと1人足りないから来いっていつもメールが来てですね、
語学、英語とか自分はドイツ語だったので、外国語はドイツ語だったんですけど、
語学の授業以外は出させてくれないっていう字が、そんな大学1,2年だったかなというふうに思います。
大変楽しい時代でいらっしゃいましたね。
そうですね、申し訳ない大学生活だったかもしれないですね。
その後大学院にお勤めになっていましたが、大学院にお勤めになった理由と言いますか、そういうのはございましたでしょうか。
研究室でやっていたことはですね、元々志していたようにエンジンの環境に優しいものを作るっていう研究室に入れたので、
まず3年生の途中から4年生までだと1年ぐらい研究はするんだけれども、
例えば学会で発表するとか、時代の最先端の研究をするというところまではまだ及ばないんですね。
自分の中でまだ研究をしっかりやりきったっていうところまで行っていないなと思ったので、大学院に進学する。
5、6割の人がそのまま大学院に理工学部の場合に行くんですけれども、そのまま引き続き研究したいと思ってですね、大学院の方に進んだ感じですね。
なるほど、ありがとうございます。大学院時代の思い出はなんてございましたか。
そうですね、本当は1年間どこか海外の大学に留学したかったんですけれども、
やっぱり海外に留学するってすごいお金のかかることなので、親からは明確に反対されてですね、やめろ、やめろみたいな感じでですね、
あと先生にも相談したんですけれども、そうしたら大学院3年になるねって言われてですね、
ちょっと1年増えるんだったらやめようかなと思って、でも夏休みがちゃんと取れたので、
夏休み1ヶ月、サンフランシスコとかですね、行って、留学というか語学留学みたいな形でですね、行って、
ニューヨークに最後の1週間行ってですね、そこはもうほぼ観光なんですけれども、
一通りニューヨークも観光して、当時貿易センタービルとかもあったんですけど、それ登ったりとか自由の女神行ったりとかで、
帰ってきて1週間後にテロがあったっていう感じでですね、結構ずれてたら結構動きにくくなってたり、
場合によっては何らか関わることがあったかなというふうに思うので、本当に何というかタイミングとか運命みたいなものは、
どういうふうになるかっていうのはわからないものだなっていうふうには感じましたね。
なるほど。ありがとうございます。その後、外国族語アクセンチャーにお勧めになっていらっしゃいますが、
アクセンチャー選ばれた理由というのは何かございますでしょうか。
そうですね。高校時代とか歴史小説とか読んで、軍師のようなものに憧れていましたっていう話のその先でですね、
アクセンチャーという会社ではいろんな部分があってですね、
アクセンチャーでの経験
はじめは自分はプログラミングをしっかりやりたいと思ったので、3、4年プログラミングをやるっていうのは入る前から決めてたんですけれども、
その年先でいわゆる経営コンサルタントのような仕事をしたいって思ってた。軍師みたいに。
企業参謀になりたいって思っていてですね。
いくつかコンサルティング会社を受けさせていただいた中で、一番自分が若かったからそれがいいって思ったのかわからないんですけど、
実力主義だし、当時の外資系っぽいですね。厳しい世界だというふうに思ってですね、せっかく行くなら一番厳しいところに行こうと思ってですね、アクセンチャーを選んだっていう感じでした。
なるほど。やっぱり社長らしい社長さんもいらっしゃいますね。選び方が。アクセンチャーでの思い出というのは何かございますでしょうか。
結構はちゃめちゃな当時ですね、会社だったらと。今多分国内で3万人ぐらい従業員がいるんですけれども、当時は2000人ぐらいでしたかね。
それでも徐々に増えてきているタイミングではあったんですけれども、研修で会社の初めの入社時の研修から人がいなくなり始めるんです。
当時3年でだいたい半分になると言われていてですね、研修でもう脱落する人が出てくるっていうすごい、別にそんなに夜遅くまでやる研修じゃないんですけれども、結構期限とかが相当タイトだったりとかしたので、そういったところが面白いなと思ったのと、
あとですね、その研修の最後に海外研修がついていて、2週間から1ヶ月ぐらいですかね、当時はシカゴの近郊のセントチャールズというところに研修施設がアクセンチャーであってですね、そこに行くんですけど、
空港に、シカゴの空港に着いたら、すっごいでかいリムジンが迎えに来るんですよ。それに乗ってシャンパンとかを飲みながら研修会場に向かうって、すごい経験させてもらえるなと思うんですけど、ちょっと勘違いするじゃないですか、そこで。
何か社会人としてこんなに優遇されるのかと。で、研修が終わって帰ってきた瞬間ですね、もう奴隷のように働くっていう。そこが頂点で、いきなりプロジェクトにアサインされた瞬間ですね、もう本当に下僕のようになるっていうですね、かなり面白い会社だなという。
当時ですね、今かなりホワイトになっているらしいんで、当時はそういう経験でした。
フロンティアマネジメントの役割
相当勉強になったんじゃないですか。
そうですね、本当に視力、体力っていうんでしょうかね。どれくらいの負荷をかけるのが自分にとってのベストパフォーマンスかっていう。
限界ギリギリだったり限界超えたりみたいなことを体験したので、そういう自分にとっての最適なパフォーマンスが出る働き方っていうのが少しずつ分かったっていうところが大きくて、あとは何事に対しても考え抜くっていうんでしょうかね。
ちょっと考えて答えを出す。それで意思決定すればいいものも中にはあるんですけれども、本当にそれが正しいのかとか、もっと考えたら違う施策が出てくるんじゃないかとかですね。
今の環境の中で本当に自分たちにとって取るべきアクションなのかみたいなのを考え抜く。
考え抜くっていう言葉はアクセンチャーの中でよく使われていたんですけれども、そういう習慣が身についたことはその後に生きたかなというふうに思いますね。
なるほど。ありがとうございます。その後、フロンティアマネジメントさんに転職という感じでよろしかったでしょうか。
こちらはどんな会社でいらっしゃいますか。
企業再生に強いコンサルティング会社。今上場している会社になりますけれども、例えば弁護士の方とか会計士の方とかM&Aの専門家の方とか、私みたいな経営コンサルタントのバックグラウンドのメンバーとか、そういうメンバーが集ってですね。
企業のフェーズによって、再生のフェーズによって、一番厳しいというか、もう本当に破綻とかになると弁護士また上がってくるんですけど、そのギリギリみたいな、何とか回復できそうだというと、例えば会計士のメンバーとか経営コンサルタントのメンバーとかがその会社に常駐したりとかですね。
支援をするような形で、何とか業績を回復させていく。そういうことに強みのある当時ですね、会社でした。
そちらに移られたら何か理由というのはございましたでしょうか。
アクセンチャーという会社のときは、もちろんコンサルティングのフィーが一定程度高いというのもあるんですけれども、どちらかというと、しっかり利益の出ている会社をより固せるという案件が多かったんですかね。
コスト削減とかもそうだし、どちらかというと新規事業とか成長戦略みたいなので、より伸ばすということが多かったのと、カウンターパートは一番ハイレイヤーで、私の場合ですね、まだ役職がそれほど高くなかったというのもあるんですけれども、部長さんとか事業部長さんという形なので、全社戦略みたいになることがあんまりなかったんですね。
一方でフロンティアマネジメントは企業再生って会社にとって何回やるか分からない1回ぐらいしか経験することのないフェーズなんですよね。
必ずカウンターパートが社長になります。中堅企業ぐらいの社長がカウンターパートになることが多くてですね。
全社戦略を本当に最適な形で、例えば半年でコスト削減とか進めて、そこから成長戦略を実行するという、非常にやりがいのある、使命感のあるですね、案件が多いということでですね、自分としてはそのチャレンジをしたいというふうに思いましてですね、フロンティアマネジメントに移りました。
なるほど、ありがとうございます。フロンティアマネジメントさんでの思い出なんてございますか。
そうですね、でもすごい良い会社だったなというふうに思っていてですね、今でもとても大切にしているリスペクトという価値観があるんですけれども、やっぱり経営コンサルタントの人は、いかに業績を良くしていくかというところの専門性なんですけれども、
やっぱり法的なところは弁護士の人には絶対かなわないですし、会計署員というんですかね、例えばモデリングとかになると会計士のバックグラウンドの人とか、投資銀行のバックグラウンドの人の方が得意ですし、そういう得意を持ち寄って一つの案件でチームで再生させていったり、業績を高めていくということがですね、とても印象的でですね、
自分一人だと仕事ってそんなに全てのことができなかったり大きなことができなかったりするんですけれども、専門性を持ち寄るとこんなに様々な案件に貢献できるんだということがよくわかったというところでしょうかね。
【佐藤】なるほど、ありがとうございます。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で、経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長肉インウィズではここまで。また来週。
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