吉政忠志の背景
社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、プライム・ストラテジー株式会社代表取締役 社長 吉政忠志様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。
サラリーマン時代に、LinuxなどのOSSの会社のマーケティング責任者を歴任、
その後、吉政創生株式会社を創業、
そしてその後、スタンダード上場企業のプライム・ストラテジーの代表を押し継ぎになり、
今現在、上場企業の社長様でいらっしゃいます。
吉政社長様、本日はよろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いいたします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますでしょうか。
出身はですね、東京になります。
ただ東京生まれてすぐですね、父親の仕事の都合で転勤をいたしまして、
もう東京には3ヶ月、4ヶ月くらいしか実は住んでおりませんでした。
その後、引っ越し実は20回ほどやってまして、
多いですよね。
そうなんです。
父親が某大手企業の新しい支店を作る仕事をしてまして、
一人で乗り込んでいって、そこで支庁上営業所支店になったら次の場所みたいな感じでやってまして、
その会社とともに私の引っ越しも増えて、さすがに転校生だったような人生ですね。
これがちょうど実は良い結果にもなっているんですけどね、また機会があったらお話ししたいと思います。
小学校時代は、転勤転勤で1年以上いた小学校なんてあんまりない?
ありますよ。あるんですけども、まず家族が引っ越して、その市内でちゃんとした家に引っ越すとか、
実際拠点で言うと20拠点くらいですかね。
学生時代の経験
ただおかげさまで、どんな新しい環境に行ってもすぐお話ができるようになったりとか、すぐ友達ができるとか、
たまにはあまり良い環境じゃない学校があったりとかして、その時にどう解決するかなんていうのは、
子供の頃にちょっとだけしかったようなことがあるような気がします。
なるほど。ありがとうございます。小学校時代はどんなお子様だったなんて思いでございますでしょうか。
小学校の時から企画をよく立ててた小学校であり、中学生もそうですよね。
当時学校の校則は結構厳しくて、眉毛がかかんないようにしなきゃいけないとか、女性はスカートがとかってありましたけども、
生徒会で靴下のワンポイントを外す生徒会議員を立ち上げまして、校則変えたりとか、
あといろいろ文化祭の企画とかもやったりとか、結構企画を出すということが割と多い子供でした。
これちょっと話が深くなっていくんですけども、うちの父親の方針で企画になりなさいということがありまして、
例えば子供の頃に、今度こういうとこ遊びに行きたいと思ってます、もしくはこの高校に行きたいですと思った時に、
企画書を持ってきなさいと。それで父親から企画の指導を受けて、当時は新聞の広告の裏側に何か行きたい目的とか理由とか、
どういう方法でそれを達成するかというのが書かされてたっていうのは結構多くて、
そういった習慣っていうのは結構今でも生きてるような気もします。
おかげさまで出版社さんのほうで、ITエンジニア向けの企画書の教科書みたいなのを出して、
Amazonで結構売りたいとかしてまして、そういったのも企画やってよかったなって思います。
なるほど。当時はパソコン、ワープフォンなしで手書きですよね。
手書きです。なので新聞の広告の裏に書いてましたね。
ただ父親がコンピューター関係の会社で仕事をしてましたので、他の子どもたちが手にする相当前にパソコンを買い当てられました。
なるほど。ありがとうございます。
中学時代はどんなことして過ごしたなんて思いでございますでしょうか。
中学時代はちょっと恥ずかしい話なんですけども、中学時代マージャンやってましたね。
ちょっと早いですね。
早いですね。転校した時にあんまり良くない友達が、良くないと言っても、法律違反するようなことはやってないんですけども、
割と最初にできた友達がマージャンが好きだったりとかしまして、その友達の親が先生でして、その中学校の先生のところでマージャンをやってました。
掛けマージャンじゃなくてゲーマージャンですね。
父親もマージャンが好きで、父親の遺言もマージャンパイと一緒に埋めてくれだったりとかしますし、
おじいちゃんもマージャンが好きで、マージャン大好きな感じ、頭使うのが好きな感じですかね。
高校はどちらの高校にお住みになったんですか。
高校は千葉県船橋市の高校で。
なるほど。新学校ということは、勉強もすごくお出来になったんですか。
新学校の人の方なので、まあまあできましたね。
ただ数学だけは全国申し出20番とか10何番とかが何回かあって、数学は得意でしたね。
英語は全然ダメだったんですけどね。
なるほど。高校時代はどんなことをして過ごしたのか覚えてございますか。
卓球部でした。卓球部であって、あと生徒会だったりしましたので、運動をしながら生徒会でまた高速会場とか。
割と小中高等生徒会とかでリーダーシップを出す、すごいリーダー格の少年だったみたいな。
そうですね。なんか積極的に身の甘いでるのも大好きでしたね。
なるほど。
コンクールに参加するのも結構好きでして、ポスターコンクールの賞状の厚さって積み重ねると5センチくらいあるくらい賞状をたくさんいただいております。
例えばどんなコンクールが出てらっしゃったんですか。
それは市のポスターコンクールとか、県のポスターコンクールとかで賞をいただきましたね。
ポスターということは絵も描かれたってことですか。
そうですね。交通安全ポスターとかよくやってるじゃないですか、子どもが描いてる。
ああいうので賞をよくいただいてました。
あと100年後の未来都市、その都市の、当時金沢市にいたので、金沢市の100年後を描きましょうとかっていうので、いろんな大会でコンクールが結構あったんですね。
それでもう勝ちたくて勝ちたくてしょうがなくて、美術部の先生にどうかコンクールないですかって聞いてはその課題に。
授業と関係なく、美術部ではなかったんですけども、勝手に応募とかさせていただいてやっておりました。
ちょっと才能あふれる少年でいらっしゃったって、そんな感じでいらっしゃいますか。
目立ちたがり屋なんです。表彰されたい人なんです。
なるほど。ありがとうございます。大学はどちらにお勧めになられたんでしょうか。
大学は専修大学経済学部ですね。数学が得意だったんですけども、英語はいつも赤点でして。
結局その大学になったというところです。
大学時代はどんなことをして過ごしたなんて思いでございますでしょうか。
大学はですね、授業も参加してたんですけども、英語部に入ってまして、弁論大会と討論会っていうのをやっておりました。
そこの大学の部活は結構厳しくて、大会が市販機に1回くらい、3ヶ月に1回くらい参加するんですけども。
ビリとビリから2番目は強制退部みたいな感じでしたね。
私は部長の時も、下から2番目の人は全員クビにしてました。
なので、1年生が20何人入って卒業するのは4人くらいになったりとか、そんな感じでしたね。
英語の弁論部ですか。
そうです。
先ほど英語得意ではない的なお話があって、英語の弁論部って。
英語で散々苦労したので、社会人になった時にはこれから英語が必要だと思ったので、絶対にサークルは英語部だって決めて、
もう入社してすぐその足で英語部に行って、サッサッサって言って、入れてくださいみたいな感じ。
割とそういうところは自分を変えようとする、チャレンジ精神と言いますか、そういったところが企業家っぽいんですけども、
もともとそんな感じの剛性格でいらっしゃったって、そういう感じでいらっしゃった。
やらないことには始まらないっていうふうに思ってました。
子供の頃に企画書をいっぱい書かされられたので、その企画の結果、高校に入学したりとか、あるわけじゃないですか。
なので、今思えば小さな成功体験、計画を立てて成功した、成功で完了したってことですね。
これがすごい数が多かったんだと思います。
何かお聞きになっていると、企業家になるべくして、社長になるべくして、成功社長になるべくして歩んでいった少年時代、そんな感じで。
そんなにいいことばっかりじゃないですけどね。
例えば英語部に入りました。最初の大会でビリが2番目だったんですよ。
そこでもうビリが2番目は、初め加入分の時に退部になるからと言われてまして、
1回目の大会で部長に呼び出されまして、申し訳ないけど吉政君、君は退部だからということで、
今日をもって助手席とします、みたいなことを言われたんですね。
そこで本当にすごい良くなかったんですけども、当時の部長に次の大会、次の大会って一、二年生合同なんですよ。
合同大会で入所必ずしますので、それまで部長の部屋に泊めてくださいと。
毎日指導してくださいと言うんで、一年生だけの大会でビリが2番目で、一年合同で入所するのはすごい大変だったんですけども、
その部長さんの指導のおかげで、大会で任意に取りまして首がつながりました。
最後3年生の時ですか、引退の年には全国大会まで行ってます。
全国大会、関東大会勝ち上がりまして、全国大会に行きまして、決勝で失格で負けたんですけどね。
結構楽しかったですね。
部長さんの家に泊まりに行くっていうのは相当根性があらゆるってことでいらっしゃいますよね。
絶対英語ができないとビジネスマンとして成功しないと思ってたので、ここで泊まるわけにはいかない。
そもそも幼稚園時代から父親に、ただしはIT業界のビジネスマンになるからと。
俺の仕事をよく見てなさいとか、父親の仕事にもよく見学させられたりとかしてですね。
なのでビジネスマンで成功するしかないっていうふうにずっと洗脳されてたんですよね。
なのでそのためには英語できなきゃいけない。
そんな感じでした。
インテックでの成長
なるほど、ありがとうございます。本当に上々企業の社長様らしいエピソードなんで大変、ちょっと私も興奮してきてますが。
リースの皆さんも興奮してらっしゃるかもしれませんが。
大学卒業はどちらにお勧めになられましたでしょうか。
大学卒業はですね、父親の障害でインテックという会社がありまして、そこに入社しました。
やっぱりIT大手でいらっしゃいますね。
そうですね。
インテックでの思い出なんてございますでしょうか。
インテックの思い出はですね。
研修中、新卒で入るじゃないですか。
新卒で入って、研修中の営業研修中の電話で自重しました。
それ何で。
積極的な話なんですけど。
まずテレコールからしなきゃいけなくて。
なぜかしなきゃいけないと。
みんなの前で見せしめたみたいな感じで。
みんなの前で電話長官なんかに電話かけたんですよね。
それでアポイントが取れて、訪問したらそこで自重ができました。
それ入社何ヶ月ですか。
入社して1ヶ月2ヶ月だったと思います。
本当に新人研修中で自重しちゃったので。
それは多分インテックさんの中でもギネスブックぐらいの感じで。
早かったですよね。
おかげさまで自重もその後伸びまして最優秀新人賞。
当時460名の中で最優秀新人賞をいただきまして
プレゼンテーション大会でスピーチをやってたので学生と。
優勝もしまして。
非常に先輩方にすごい鍛えられた。
全然優しくないですよ。
父親のコネクションで入ったやつなのに。
もう何ですかね。
1日50件電話かけろみたいな。
それを午前中に終わらせろみたいな。
午後から訪問して自重してこいみたいな感じで。
すごい鍛えられましたね。
本当にインテックの先輩方には鍛えられたっていうよりも
いろいろと教えてもらったので。
提案書の書き方とか企画書、営業の交渉の仕方とか
すごい厳しく教えてもらったのはすごい感謝してます。
最初の3年間ってすごい大事じゃないですか。
結構入社して。
そこで今の素となるものができあがったような気がします。
なるほど。ありがとうございます。
インテックの後はどちらにお勧めになられたらしいですか。
インテックの後はノベルっていう外資系で
当時は世界の売り上げ4位のIT会社でした。
そこに転職をしました。
インテックってすごく給料安い会社なんですよ。
上場給料の中で下から2番目に安い会社っていう風に言われてまして。
すごく手厚いんですよね。福利構成が。
ただ自分の使えるお金が少ないみたいな。
学生の時に社長になって会社に乗って
世田谷にこうやって買うって決めてたので
これいつまで経っても買えないなというので
外資系に転職をしました。
どちらの外資系の会社さんには思い出とかございますか。
そこはちょうどサーバーOSを作っている会社で
世界1位だったんですね。
ちょうどマイクロソフトがWindowsサーバーっていうのを発表し
これからマイクロソフトがサーバーシェアを取っていくと。
ノベルでの成功体験
ノベルはもう終わる会社ですって言われるところに入社をしまして
それですごい先輩たちがどんどん抜けていくんですよ。
どんどんマイクロソフトに転職していくタイミングで
そこで企画を出しまして
当時メルマガっていうのが世の中に存在しない時代に
すごいメールアドレスたくさん持ってたんですよ。
もともとトップシェアの会社だったので
ここに対して人が抜けていくので営業じゃなくて
電子メールで送りましょうみたいな話を企画をしまして
IT業界だとかなり走りのメールマガジンっていうのを始めました。
最初は200通くらいだったんですけども
私がMLコーニングは4万ちょっとくらいまで読者数が増えて
結構応援していただける方もいて楽しかったです。
そこで人の前に出るのがすごい好きな私が
ファンレターとかもあったりとかして
ますます気持ちよくなって楽しかった感じですね。
業績の方も当時NTTグループ担当してまして
私が担当した時には年間の売り上げが2000万くらいだったのが
退職する時には2億ちょっとまで売り上げを伸ばしまして
営業的にもマーケティング的にもいい結果を経験した
私が企画とか言い出した私ですけども
すごい優秀な先輩方々が支援してくれた感じができてます。
でないと26歳くらいの私が回せなくてないので
先輩に非常にご支援いただいたっていう
しかもノベルの全国セミナーでプレゼンテーションをさせていただいて
もともとやってたといっても
プロのプレゼンテーションと学生のプレゼンテーションは全然違うんですよね。
それでやっぱりそこでも当時の課長さんに毎日
10時から22時から1時間くらいずつプレゼンテーションのレッスンを受けさせていただいて
そこでプロフェッショナルとしてのプレゼンテーションの技術を学びました。
これは今では年間の登壇件数って40から60くらいなんですよね毎年。
もうその基礎を作ったのもその先輩のおかげで。
なるほどありがとうございます。
SAPとターボリナックスでの挑戦
弊社もメールマガジンどんどん出している有名企業ですので
リスナーの皆さん是非メールマガジンも読んでいただければと思いますが
ちょっと元の話に戻らせていただきまして
ノベルの後はどうなさっていらっしゃったんですか?
ノベルの後はもうこの辺りから成績が上がって名前もちょっと知れるようになってきた
登壇回数も増えてきたので
そこでヘッドハンターが声をかかって転職っていう感じになりました。
転職するたびに給料が上がっていったので
ノベルの次はSAPという今でも非常に有名な会社がありますが
そこに転職しまして給料を上げてという感じですね。
SAPのことはSAPって社内にも書いてあるんですけどね
SAPは大変苦労した1年半2年弱でしたね。
あんまりその悪いこと言うとですね
その会社から怒られてしまうんですけども
たぶん営業的に厳しい会社でして
当時はハイインセンティブ、ハイリスクみたいな感じで
年収が1億円高いような方もいらっしゃって
売れないともう全然ダメみたいな感じで
売れないと1年以内にどうするかは自分自身で考えてくださいって言われる感じで
だいたい半年で同月入社が30人くらいいて
1年後に残ったのは私含めて3人しかいなかったみたいな感じの
大変厳しい会社でした。
ただ非常に学べた会社ではありますけどね
これが本当のトップエンタープライズセールスだなみたいな
外資らしいお話で大変勉強になるお話でありがとう
SAPPの後そろそろ創業でいらっしゃいますか?
いや違います。まだサーリーマンだったんですよ
その後にマーケティングをやってたので
マイクロソフトがやっぱりマーケティングが非常に上手だったので
マイクロソフトに行こうということで
マイクロソフトのオファーをいただいたんですね
ただもうちょっと給料が欲しかったので
当てるまでターボリナックスっていう
後々上場した会社なんですけどね
そこの方の面接を受けたら社長にですね
吉政くんが思っている絵をこの場で描いてくださいとか
っていうんで即興でターボリナックスの今後戦略を
ホワイトボードでダーって描いたらですね
君にその絵を描いてほしいって言われて
その一言でグッと来ちゃってですね
マイクロソフト蹴って行っちゃいました
そこでもうちょっとこのあたりはしょって話をしますけども
大変順調にいきまして国内リナックスシェア70%を取り
日本から始まったターボリナックスが世界16国まで展開をし
いよいよ成田区上場まで行きましたが
ちょっと形状のミスがありまして上場廃止になり
起業への道
その後会社はバラバラになるタイミングで私は
自分がやりたいことをやろうと思ったら
自分で会社を起こすしかないっていう風に気が付きました
改めて当時はサルリーマンのまま社長になろうと思ったんですよ
でも本当に何かやろうと思った時には
自分で最後責任を持てるのは起業するしかないという風に思いまして
起業する決意をいたしました
そこでとは言ってももう散々結構派手に使ってたので
女遊びとかキャバクラとかそういうのではなくて
よく奢ってたんですよね
もう神さんに結婚したんですけども
なんでこんなに稼いだものがその月のうちに全部なくなっていくみたいな感じで
じゃんじゃん飲んでましたみたいな
そんな感じなので起業しようと思っても
もとでのお金がないんです
当時は1円起業はできない時代だったので
株式会社だと1000万円必要ですみたいな感じで
当然ないわけなんですよね
そこでお金が必要だって言った時に
アステリアっていう会社がありまして常時企業がありまして
常時企業前の平野さんからお声掛けをいただきまして
当時ターボニアックスでかなり名前が売れてたので
辞めるって話だった時に何社かお声掛けをいただきまして
その時に契約金みたいのも実は積んでいただいて
この契約金があれば株式会社できるぞみたいな感じで
1年間で成果を出すっていう前提で
契約金を積んでいただいて結構な金額積んでいただきました
成果報酬もいただきましたみたいな感じで
いよいよ起業しようと思ったんですけども
起業してくれる人があんだけたくさん飲んでたはずの一人しかいないみたいな
仲間がいなかったんです
営業仲間とかマーケティング仲間はいるんですけども
IT関係だとやっぱり技術者がいないと何もできないんですよね
気が付いたら技術仲間が全然いないみたいな感じで
そしたら平野社長のほうから
じゃあもう1年やってみたらみたいな感じで
もう1年お世話になりまして
その中で実は会社を起こそうと思ってて
社長をやってほしい優秀な技術者の人と出会ったんですね
そこで1社目の起業をしました
いっぱい転職してるのでまだ30歳の話なんですけどね
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり
誠にありがとうございました
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております
これまでにたくさんの成功社長 成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました
その内容はすべてテキスト化いたしまして
私どもウィズビズが運営するウェブサイト
経営ノートでも閲覧いただけるようにしております
音声だけでなく文字で読み返すことで
新たな発見や気づきがあり
皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして
サイトのほうにもさせていただいてます
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき
経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております
本日の社長肉インウィズではここまで
また来週