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2019-12-25 22:35

第155回 山本正喜氏(Chatwork株式会社代表取締役CEO兼CTO)【前編】

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今回は2019年9月に東証マザーズに上場を果たした、Chatwork株式会社の山本正喜社長にお越しいただきました。

当初は自己資本のみでの経営を心掛けておりましたが、自己資本のみではChatworkを円滑に運営できないほどユーザーが増加。お客様に不便をかけないためには資金が必要だと、信念を曲げてベンチャーキャピタルからの資金調達したお話などから、経営のヒントが得られます。ぜひ、山本正喜氏の経営者インタビューをお聞きください。





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社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、2019年9月、マザーズ上場のチャットワーク株式会社、山本様です。
まずは、経歴をご紹介させていただきます。
電気通信大学情報工学科卒業、大学の在学中に、お兄様と共にECスタジオ、現チャットワーク株式会社を2000年に創業。
その後、CTOで多数のサービス開発に携わり、チャットワークを開発。
2011年3月にクラウド型ビジネスチャット、チャットワークの提供開始。
2018年6月、当社の代表取締役、CEO兼CTOに御就任され、そして2019年9月にマザーズ上場された社長様であります。
本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まずはご出身から聞きたいのですが、ご出身はどちらでいらっしゃるんですか?
大阪ですね。
大阪の方で小学校、中学校時代をお過ごしになったと思いますか?
そうですね。本当に地元の小中高というところですね。
小学校、中学校時代はどんなお子さんでいらっしゃいましたか?
そうですね。小さい頃はすごくおとなしかった。あまり記憶はないんですけれども、おとなしかったと言われていて。
特にゲームが好きだったので、ファミコンがブームになった世代なので、できる限りゲームをしたいんだけれども、
親からは1日1時間と言われて、その親の目をいかに盗んでゲームを長くするかというところを頑張っていたというところが、初期の頃で。
そこから小学校の頃で言うと、親がパソコンを買ってくれたというか、会社で使っていたオフルをおもちゃとしてくれたというところが、
小学校3年生くらいの時で、それに夢中になったというところが、僕がコンピューターの世界に入るような契機になったのかなと思うんですけれども、
当時はWindowsとかも全然ない時代だったので、ベーシックというプログラミング言語をいじりながら、
わからないなりに本を読みながらいじくっていたというところが、おもちゃとして遊んでいたというところが、初めてのプログラミングみたいなところが小学生でしたね。
なるほど。当時だとNECとか富士通とかのパソコンでしたか?
そうですね。シャープでしたね。
大阪らしい感じですね。
5インチフロッピーをガチャンとやって、ベーシックが起動するみたいな、今の世代の人は全くわからないようなパソコンでやっていましたね。
聞いているベテランの社長さんたちは、懐かしいみたいな感じでお聞きになられていると思いますけれども、
チャットワークさんの原型といいますか、小学校3年生の時に買うパソコンですか?
パソコンでプログラムを触ってみるというところであったり、
ゲームが好きすぎてゲームを作りたくなっちゃったんですよね。
こうなっていたらいいのになって思うようになって、
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当時ゲームを作るゲームであったりとか、ゲームを作るパソコンのソフトウェアみたいなものが出だした。
プログラムができなくてもゲームを作れるみたいなものがあったので、
それで一生懸命自分の考えたゲームを作って、
僕の今の働くということの現体験にもなっているんですけれども、
自分が作ったゲームを友達を家に呼んで、対戦ゲームを作って遊ばせて、
自分がプレイしずに後ろで見て、
当時オリジナルのゲームだったので友達も夢中になって遊んでくれて、
面白かったと言ってくれるんですけど、
それを見ながらちょっとゲームバランスが悪かったなとか、
こうしようみたいな感じでチューニングして、
また次の日遊びに来た時に直しておいたからやってみたいな形で、
いろいろと自分がゲームクリエイターになって調整をして、
友達を楽しませるというのはすごく面白くて、
これは楽しいなと思って、将来はゲームクリエイターになりたいなというところが原点としてはありますね。
なるほど。それは中学ぐらいですか?
たぶん中学校ぐらいだったと思いますね。
小学校、高学年は中学校ぐらいの頃でした。
やっぱりチャットワークさんが上場しているだけあって、
さすがそういう方が社長なんだなと感じさせていただくエピソードなんですけれども。
社長というよりは僕はエンジニアというかクリエイターになりたかったというところで、
ずっとクリエイター、エンジニアというところにこだわって、
ものづくりの人というところでやってきて、
社長になったのは先ほどプロフィールでも触れていただいたんですけれども、
1年くらい前なので。
社長としては実は新人なんですけれども、クリエイター社長ということですね。
なるほど、そうです。
高校の方も大阪の方ですか?
そうですね。大阪の大阪東院という野球中央というところに入りました。
高校時代はどんなことを過ごしたかなという思い出でございますか?
高校でいうと、あまり良い学生ではなかったというところがあって、
非常に勉強に厳しい学校でしたので、
勉強づけの毎日というところがあったので、
とあるオンラインのネットゲームにハマってしまってですね、
オンラインで何万人もの人がRPGで、ドラクエみたいなRPGでゲームをするという、
初めて出たゲームがあって、ウルティマオンラインというゲームがあるんですけど、
それにものすごくハマってしまってですね、感動して、
いわゆるネトゲ廃人と言われているような人になってまして、
当時はインターネットが1分いくらみたいな、
そういう重量課金の時代だったので、その中でもテレ放題というのがあって、
夜11時から朝7時くらいまで定額になるというサービスがあったので、
それを家で申し込んでもらって、11時からインターネットにつなぐと、
コンデってつながらないので、10時半くらいからつないで、
そこから朝7時くらいまでゲームをして、そこから学校に行って、
学校で寝て、家に帰って、夜ご飯食べて、ちょっと寝て、
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10時半に起きてゲームをするという、そういう日々を1年くらい続けてですね、
全く学校では全ての授業寝るということをやっていて、
そんな1年間、高2がそんな感じだったので、
勉強も完全に遅れて、ひたすらゲームのほうがどっちかというと
リアリティがあるというか、そっちの生活が最重要みたいな感じで、
高校生活を過ごしていましたね。
そこも今の原点なのかなと思うんですけれども、
先生とか親御さんはお叱りになったりとかはなかったんですか?
そうですね、親はすごく心配していましたね。
先生からもよく、学校どうしてるかって親は気づかないので、
そこはあんまりずっと寝てたとはバレてないと思いますけど、
休みの日もずっとゲームをしていたので、心配をしていたと思います。
その電気通信大学、これはもう完全な理系と思ってよろしいですか?
そうですね、コンピューター系の東京の。
そちらを選ばれた理由というのは何か?
プログラムを勉強したいと思ったんですよね。
当時はゲームを作りたいと思っていて、
いろんなゲームを作るツールでたくさんのゲームを作っていて、
雑誌に載ったりとかもしていたんですけど、
プログラム自体はできなかったんですよ。
それをちゃんと勉強したいなと思って、
情報通信というかコンピューターサイエンスの学科を中心に選んで、
その中でも自分のレベルとかそのあたりにあった学校を選んだというところですね。
大学の大学中にお兄様と創業をされていらっしゃるということなんですが、
お兄様もそういうゲーム好きというか。
全く真逆で、兄はもう体育家系でバレエ部キャプテンで、
高校は日本憲法出生で、
友達も多く、彼女はギレズみたいなクラスの人気者みたいなタイプで、
僕はひたすらゲームをしているオタク、家に引きこもりみたいな感じで、
完全に真逆の性格で、
そもそもなんで一緒にそういった、仲も悪かったんですけど、
ずっとひたすら僕がいじめられていたので仲も悪かったんですけど、
どうして一緒に仕事をするようになったかというと、
兄が当時語学留学でロサンゼルスに留学したんですけれども、
その時に2000年くらいだったんですが、
インターネットの走りというか霊媒期の頃で、
テレビをつけていたら最後CMの後になんちゃら.comという表示が出て、
当時インターネットは彼知らなくて、
これは何だと、なんちゃら.comって何だと、
その.comを入れたらホームページが見えるというのに衝撃を受けて、
すごい世界が変わっていくと。
これに対して何かしたいというところで、
見よ見まねでホームページを作ったらアクセスがあってというところから、
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これでビジネスをしたいというところで、
いろいろインターネットで物を売ったりとか、
情報を提供したりということを一人でやり始めたんですよ。
そのビジネスがうまくいって、手が回らなくなってきたので、
それを仕組み化してくれみたいなところで僕に声がかかった。
お前プログラムを勉強しているんだろうと、
こういうのができると言ったらできるかもと言って、
一緒にやり始めたというのがきっかけですね。
なるほど。
じゃあ一番最初のご商売は、いわゆるECサイト。
というよりも当時の一番最初の創業事業は、
ホームページを作ったときに集客に苦労したんですよね、彼が。
当時はGoogleとかもなくて、
ホームページを作ったらたくさんある検索エンジンと言われるものに
登録しに行かなきゃいけないんですよ。
こういう業界のホームページが集まった検索エンジンみたいなのが
二、三百個当時あったと思うんですけど、
そこにひたすら手作業でホームページを作りましたという情報を
同じような情報をいっぱい登録して、
そうするとアクセスが集まってくるみたいな
そういう世界だったんですけど、
非常に手間が多いというところで、
検索エンジンの登録代行業者というのがいて、
そういうビジネスがあったんですよ。
それを申し上げて、
それを申し込みを受けたら、
代わりにオペレーターの方が入力するというビジネスがあって、
それのビジネスから実は始めているんですよね。
検索エンジン登録代行を、
彼も頼むのが高かったんですね。
当時3万とかして高かったんですよ。
それで何とかならないかなと思って、
彼はロサンゼルス人で英語の方で、
アメリカのはどうやってるんだって調べてみたら、
アメリカだとやっぱりアメリカの方が
日本よりずっと進んでいて、
そういう自動で登録してくれるソフトウェアがあったんですよね。
それが有料であったんで、
それを買って、それを登録すると、
一個入力してポチッとバーって登録してくれると。
これは楽ちんだというところがあったんですけど、
これって日本の人は知らないなと。
何万も取っているんだったら、
これビジネスにしたらいいんじゃないかというところで、
当時検索エンジン登録代行ビジネスというのを始めたんですよね。
その時にワンクリックでできる仕事だから、
そんな何万も取っているなんておかしいから、
当時3万ぐらいだったのを3000円でやろうって。
もう学生だったんで。
10分の1にしちゃったんですね。
そうするとすごい価格破壊だったんですよね、当時としては。
というので、申し込みを殺到して、
うわーって売り上げが上がっていってっていうところから、
でも作業としてはポチポチやるだけっていうところがあったんで、
それがすごくうまくいったので、
申し込みとか解約とかそういったところをシステム化してくれって言って、
私にプログラムを依頼したというところからスタートです。
なるほど。
その後は他にもいろんな事業をやられていたんですか?
そうですね。
ホームページ集客のところを検索に登録代行して、
その後SEOブームが来るんですよね。
ロボット検索エンジンと言われているような、
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いわゆるGoogleみたいな、
もう登録に行かなくても勝手に拾いに来るっていうような仕組みができて、
そういったものの検索に登録代行っていうのが必要なくなってくるので、
そういったロボット検索エンジンに対してどうするんだっていうので、
SEOという概念が生まれて、
それのためにいろいろ調べたり、
どこからリンクされているのか調べたり、
キーワードがどうなっているかとか、
いわゆる調べるようなツールとかがアメリカだと出て始めていたので、
同じようなのを作れないかって言われて、
作れるよって言って作って、
SEOツールのサービスを作ったんです、自社開発して。
それが日本にSEOという言葉が来る前にリリースをして、
当時はアクセスアップツールって言ってたんですけど、
ここから遅れてSEOの波が来て、
ものすごい申し込み殺到しましたね、それも。
当時有料のSEOツールサービスというのが多分日本で初だったので、
僕らしかなかったので、
すごく学生ながらものすごく売り上げがあったと言えば、
とりあえず日本のSEOツールサービスを作って、
すごく売り上げがあったと言えば、
当時僕は1円ももらってなかったんですけど、
売り上げは知らないんですけど、
すごくたくさんの申し込みがありました。
今の話というか、SEOツールでも上場できたんじゃないかと。
当時はすごかったですよ、検索に登録があって、
SEOでもすごく成功して、
SEOもだんだんGoogleが賢くなって、
そんなにテクニックだと上表示が難しくなってきたからっていうので、
オンラインでのメールコンサルティング、
ホームページを見て、
こちらのホームページ診断士という人たちが
アドバイスをするという、フィードバックを送りますという、
オンラインコンサルティングみたいなビジネスをくっつけて、
それも当たったんですよね。
ホームページ作ったけどどうすればいいか分からないという人が多かったので、
プロの目からアドバイスをくれるとうれしいというところがあったので、
そういった形でホームページ、
ウェブサイトにアクセスを集めるという、
集客という軸で検索エンジン登録代行、
SEOツール、ホームページ診断みたいな感じで、
少しずつ時代に合わせて事業を変化させながら、
集客支援事業みたいな感じになっていたのが、
創業の一つ目の柱だったんですよね。
なるほど、なるほど。
チャットワークを開発するまでの間は、
何個ぐらい事業を作ったかというと、
十数個は作ったと思いますね。
なるほど。
大学のほうを卒業して、
そのままお兄さんと一緒に、
そのまま継続してというか。
そうですね。一年だけ就職をしていて、
学生の時にいわゆる副業みたいな形で、
ビジネスは始めていたんですけれども、
まだ法人化していなかったんですよね。
兄も父親の会社を継ぐか継がないかみたいな話があって、
父親が継いでほしいという意向があって、
父親は大阪で音楽スタジオをやっているんですけれども、
それを継いでくれというか継げという話になって、
兄のほうは音楽スタジオで働きながら、
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アルバイトでレジ打ちとかしながら、
夜はインターネットの仕事をするみたいなことをやっていて、
このまま音楽スタジオの社長に引き継ぐのかなみたいな状況で、
僕は学生だったので、
普通に就職活動をしようというところがあったんですね。
就職先をいろいろ就職活動をして探していて、
いくつかのアイテムをいただいていたんですが、
結局行ったのは、
兄と一緒にやっていたビジネスの取引先に就職することになったんですよね。
当時、ジャスター君に上場していた会社に取引先で就職をしたんですけど、
僕らの作っていたSEOのツールをOEMで提供してくれと言われたので、
そのOEMで提供するプロジェクトを入社してやればいいじゃんと言われて、
その会社で働きながらも、
ECスタジオという、僕らの兄と僕の会社の仕事もしていいという、
副業OKみたいな話だったので、
こんな良い条件の会社ないぞと当時兄は、
兄の立場としては、ぜひ行け行けみたいな形で言われて、
僕としても行け行けの会社に、
そこの事業部長の人とか役員の人とか、
学生ながら一緒にビジネスしていたので、
仲良くさせていただいていたので、
面白そうだなと思って入社したというところで、
一年だけ実は社会維持に経験があります。
じゃあ最初からダブルワークで就職ということですね。
そうですね。学生起業して一年就職して、
ダブルワークして、
一年経ってから兄の方が父親に、
俺は音楽を継げないという話をして、
すまんみたいな感じで継ぐのを断念して、
法人化したんです。会社を作った。
会社を作ったから入ってくれと言われて、
僕は当時入社したら3年は居ろと言われていたので、
3年ぐらいは居ようかなと思ったんですけど、
1年で帰ってこいと言われて、
嫌だと言ったんですけど、
当時創業のメンバーで5人ぐらいいたんですけど、
帰ってきてほしいという音声メッセージを
なかなか取ったやつが送られてきて、
もう帰らざるを得ないかみたいな感じになって、
1年で不義をさせていただいてすみませんと、
会社を作る話になったので、
辞めさせてくださいという話をして1年で辞めました。
なるほど。
経営者としては、
本日の社長の孤独力番外編は、
まず3章1項からでございます。
既存客がどんどん減っているということで、
本の中では先に商品サービスの余裕が落ちていないかを
見直せというふうに書いてあります。
既存客が減っているということは、
おそらく飽きが来ているのか、
商品サービスのレベルが落ちているか、
どちらかというと、
既存客が減っているということは、
商品サービスのレベルが落ちているか、
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どちらかの理由が一番大きいのではないかと思います。
やはり長く続けていると、
飽きてきたりすると、
こんなことがあります。
つい最近、ネットで記事が出ていましたので、
もうお読みの方もいらっしゃると思いますので、
具体名を出しても大丈夫じゃないかと思いますので、
出しますと、
いきなりステーキという会社さん、
事業がペッパーフードさんですが、
この会社さんの業績が、
30億円くらいのレーキーが出ていたのでしょうか、
それが今7億円くらいの安価値に転落したと、
いきなりステーキのお客さんが減っていると、
こういう記事が出ていました。
理由としては、
飽きが来ていると、
飽きてきていると、
ステーキが1300円から1700円くらいで、
立ち食いではあるものの、
おいしく、量が食べれるということで、
ブームがあったわけですが、
それに対抗して、
ライバルが出てこなかったのは、
今ではライバルが、
牛丼の吉野が超トップ、
特盛700円くらいとか、
松屋がハンバーグ600円か700円くらいの、
出してきて、
値段的に言うコストパフォーマンス的には、
そっちの方が安くて、
案外いっぱい肉が食べれるということで、
そっちの方にお客さんが寄ったと、
さらにいきなりステーキは、
思ったより1300円とか1700円とか出してまで、
ステーキそこまで食べる、
みたいな感じになって、
急激にお客さんが減っていったと、
いうことを記事で書いていました。
その中では、
飽きということで、
そういう言葉と、
そしてライバルが出てきたという言葉と、
そういうことが出てきているわけです。
それを見ると、
既存客がどんどん減っている理由は、
一つはおそらく、
もちろんサービス商品の低下という可能性がありますが、
その次にやっぱり飽きてこられちゃう。
だから飽きてくるというか、
次々と新商品開発、
新サービス開発をして、
続けて出さない限りは、
難しいということを示しているんだと思います。
かなりライバルが出てくるので、
必ずライバルに勝たなきゃいけないと、
思います。
一時期セブンイレブン、
ちょっと最近、
鈴木敏夫さんが退任されてから、
いまいちなセブンイレブンですけれども、
鈴木敏夫さんが会長社長だった時は、
次々とセブンイレブンは新しい商品を出すわけですね。
彼はこんなことをおっしゃっていらっしゃいますが、
うちのライバルはお客さんだと、
お客さんたちが支持をしなくなった瞬間、
その商品、サービスが廃れて、
ビジネスは終わってくる。
だからお客さんがライバルだと、
お客さんに勝ち続けなきゃいけないんだと、
こういうことを言いつけた。
それが飽きという話だと思います。
そういう意味では、
飽きないようにしなきゃいけない、
こういうことを考えなきゃいけないのが、
既存客がどんどん減っているということではないかと思います。
そういう意味では、
常に全ての企業さんは、
新規事業も新商品も新サービスも、
開発し続けなきゃいけないのが運命だということも、
言えるんじゃないかと思います。
そういう意味では、改善、改革というのが、
常に必要だということを示しているのが、
既存客がどんどん減っていることなんじゃないかな、
と思いますので、
ぜひ皆さん方、
新しいサービスを開発し続けていただければな、
と思います。
よろしくお願いいたします。
21:01
本日の社長の孤独力番外編は、
ここまで。
また来週。
本日も、社長に聞くインウィズビド、
お聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は、
2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの、
生光社長、生光経営者のインタビューを、
お届けしてまいりました。
この内容は、
すべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズビズが運営するウェブサイト、
経営ノートでも、
閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく、
文字で読み返すことで、
新たな発見や気づきがあり、
皆さんの会社経営に役立つヒントが、
きっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にも、
させていただいています。
ぜひ、ネット検索で、
経営ノート、スペース、
社長インタビュー、
と入力いただき、
経営ノートのサイトを、
ご覧になっていただければ、
というふうに思っております。
本日の社長に行くインウィズでは、
ここまで。
また来週。
22:35

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