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2024-10-09 15:45

第403回 花原浩二氏(マークスライフ株式会社代表取締役)【前編】

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今回は、マークスライフ株式会社の花原浩二氏にお越し頂きました。

空き家が増えている状況をなんとかしたいと、ハウスメーカーを辞めて独立。
不動産業の知識がない中、不動産ビジネスを成功させたお姿から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

■経営者インタビューメディア「経営ノート」
https://keiei-note.com/

■WizBiz社長塾
https://www.youtube.com/channel/UC16VkcI4PaUISDD4UL7pFvQ




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社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、マークスライフ株式会社代表取締役 花原浩二様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。兵庫県豊岡市ご出身、流通科学大学卒業後、台湾ハウスにご入社なさっていらっしゃいます。
その後、現在のマークスライフ株式会社を創業なさっていらっしゃいます。創業社長様でいらっしゃいます。花原社長様、本日はよろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いいたします。
まず、最初のご質問ですが、ご出身は豊岡ということで、小学校時代はどんなお子様でいらっしゃいましたでしょうか。
ちょっと変わった子供だったかもしれないんですが、山田とか川とかにひたすら遊びに行ってですね、授業を抜け出して川に遊んで、学校に戻ってこないような、そんな子供だったですね。
割とガキ大将みたいな感じですか。
そうですね。ガキ大将ほどではないんですけども、なんか変わった、例えばスズメバチを捕まえてですね、羽を掘って手で持ってペットにしてみたりとか、またスズメバチを針を抜いてですね、糸をつけて蜂の散歩だとかって言いながらですね、そういうなんかちょっと変わった遊びをするのが好きで、それを周りを巻き込んでるような、そんなちょっと変な子供だったかもしれないです。
割と独創的でいらっしゃったんですね。
そうですね。どっちかというとそうですね。
中学時代はどんなことをして過ごしたなんて思いでございます。
中学1年生はですね、ちょっと一瞬ヤンキーに憧れた時期が2、3ヶ月あったんですが、ちょっと自分に向いてないことに気づいてですね、もうバスケットをやってたんですけど、そこにもう全力でやってましたね。
当時スラムダンクが始まったようなタイミングで、あとマイケルジョーダンが人気が出たタイミングだったので、もうどっぷりバスケット生活だったですね。
なるほど。じゃあ運動神経もよろしかったんですね。
運動は得意な方ではあったと思います。
なるほど。ありがとうございます。高校も兵庫県の高校でいらっしゃいましたでしょうか。
そうですね。高校は隣町の伊豆市高校という高校だったんですけど、そこも自分の友達、他の中学の友達がですね、みんなバスケットのキャプテン、副キャプテンがそこに集まるみたいなところがあったので、バスケットをしたくてそこの高校に行ったみたいな、そんな感じだったです。
なるほど。高校時代はどんなことをしてお過ごしになられましたでしょうか。
もうカッコつけたようにバスケットばっかりやっていまして、今思ったらですね、もっと恋愛いっぱい楽しんだらよかったなと思ってるんですけど、本当に恋人はバスケットみたいなことを平気で言うちょっとバカな、今思えば反省点のある高校生だったですね。
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でもバスケやってる方って表になるというイメージなんです。そんなこともないんですか。
自分で言うのもなんですけど、割とですね、やっぱりモテるところはあったんですけど、それを結果に結びつけていないので、モテたはモテたと思うんですけど、何もメリットが残ってないというわけですね。
じゃあちょっともったいない高校ですね。
そうですね。中学、高校ともにもったいなかったなと思ってますね。
なるほど。ありがとうございます。その後大学は流通科学大学にお住みになってらっしゃるんですが、流通科学大学を選ばれた理由というのは何かございましたでしょうか。
その大学はですね、大英創業者の中内さんが作られた大学なんですが、その中でも情報学部というのがあって、私が大学1年生に入ったのが1995年ということで、Windows 95が出る、まだ前だったんですね。
その段階で情報学部というのはなかなか全国でも珍しい中で、自分自身が未来を見たときにこの情報学部というところに、このパソコンに未来を感じてですね、その大学を選んだと、その学部を選んだということになってます。
なるほど。じゃあコンピューターとかそういう系を学ばれたという感じでいらっしゃるんですか。
結果はですね、学んではいないんですけど、学びたいと思って入ったところまでは事実です。
なるほど。大学時代はどの年過ごしたなんて思いでございます。
そうですね。あまり授業は参加はしてなかったんですけど、友達と旅行行ったりとかですね、一緒にゲームしたりとか、そういう学生で、世に言うちゃんと勉強して、ちゃんと努力した大学生ではなくですね、アルバイトもなかなか続かなかったですし、ダメな学生だったなというふうには思ってます。
あまり勉強もバイトも真剣にという感じではなかったですか。
そうですね。情報学部に入ったと先ほどお話ししたんですが、当時まだパソコンがそんなに店舗で売ってるような時代じゃなかったんですけど、入って1ヶ月目ぐらいですかね、学内でパソコンを販売すると。
そのパソコンを全員買って、それで授業を受けることによって、みんな知識つけていこうみたいな感じだったんですけど、親から送ってもらったパソコン代金20数万だったんです、当時。
それを買う日に寝坊して、買えなくて、気づいたら使ってしまって、もうパソコンが買えない状態の中で、卒業間近までパソコンがなかったので、情報学部なのにもかかわらずパソコンできる環境がない中で過ごしたという、ちょっと軽減な存在かもしれないんですけど、そんな学生だったということですね。
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じゃあちょっとダメダメな学生。
そうですね。
ありがとうございます。
新卒でダイバーハウス工業さんにご入社ということでよろしいでしょうか。何かダイバーハウスを選んだ理由は何かございましたでしょうか。
今思うと人生を分ける瞬間だったなとは思っているんですけども、関西の方ならみんなインパクトが残っているんですが、1995年というちょうど私が大学を入る直前ですね、試験を受けているタイミングぐらいに、1月17日に阪神淡路大震災が起こったんですね。
受験をするために大学に向かうのも、電車が全部もう止まっているというか動かない状態の中で、送迎バスで向かって試験会場に行ったみたいなところから、私が田舎の豊川から神戸の都会に行ってですね、学生生活がスタートしたんですが、もう神戸の大学の近くに住む場所すらなくてですね。
もう1時間半ほど離れたところの兄のところに下宿させてもらって、ずっと大学生活を過ごしたわけなんですが、その中でやっぱり街がむちゃくちゃな状態だったんですね。
三宮の街とかですね、それこそコロナと同じような感じで、みんなマスクをしないと歩けないようなそんなひどい状態でしたし、自分の友達の家族が亡くなったりとかっていう話もあったり、もう本当に建物がボロボロだったんですね。
それを見たときに、僕はたまたまちょっとバイトしてたときのマスターがですね、自信に強い家をダイワハウスが作ってるっていう話を聞いたのがきっかけで、自分が何やりたいかなって考えたときに、自信に負けない家を作ることが、その家族の命を守ることだったり生活を守ることだったり、もう何よりも大事だなと思って選んだのが、このハウスメーカーでありダイワハウスだったというところです。
なるほどありがとうございます。ダイワハウスでの思い出なんてございますでしょうか。
自分の中ではですね、1年目から絶対トップセルスマンになると思って、実際ある程度はできたんですけど、特に働いていく中でより責任感とかを強く感じることがあったんですけど、ある日本家屋の地元の名士みたいなオタクの息子さんが弊社の建物を買っていただいたんですが、
古い昭和の初期からある屋敷のですね、長い柱が震災の時に、お父さんの上に落ちてきたらしくてですね、そのお客様、息子さんなんですが語られてたのが、木が大きすぎて避けたくても避けれない中で火の手が回ってきてですね、目の前でお父さんが火の海に入っていったみたいなんですね。
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本人は反響したような状態で、狂った状態で火の中に飛び込んでいったんですけど、無理やり消防の人に3、4人に破壊爪にされて何とか引き離されて、結果としてそれで命を助かったんだなんていう話を聞いて、自分たちが提供しようとするこの住宅がですね、本当に大事だというか命を守るっていうことをしっかりとお客様からの言葉で理解するというような、
ところもあってですね、思い出としてはやっぱりここに責任感というのが、というかやってることの使命感みたいなものを受けるきっかけになったですね。
なるほど。ありがとうございます。ご出世なさった後、現在のマークスライフ株式会社の元になる会社さんを創業なさったんですか。
これ独立ということだと思うんですけども、何か独立するきっかけみたいなのはございましたでしょうか。
2016年の10月に結果として独立してるんですけども、理由は、きっかけというか、そもそもですね、当初は人の命を守るための住宅を販売してるつもりだったものが、
皆様も分かる通り、少子高齢化が進んでですね、空き家が増えていったと。私の地元の豊川市は田舎なのでですね、過疎化が進んで、私の小学校、母校の小学校は今度は閉校になるんですけども、
あとは新卒で建てていただいた、命を守るための家がですね、空き家になっていくのを見て、もちろん家を作るのも大事なんですけど、今あるものをしっかり大切にしながら、空き家問題を何とかしたいなと思ってたんですね。
そんな時に、独立する3年前ですね、2013年に父親が亡くなったんですね。前日までは元気だったんですけど、ある時、1日で亡くなってしまって、
その経験をした時にですね、私の中学とか小学校の友達とかが来て、葬儀で泣いてたんですね。
なんで泣いてるのかなと、どこで繋がってたかなっていうような友達も結構来てたんで、それを友達に後で聞いたらですね、
おっちゃんが居酒屋で出会ったら急に声かけてきて、同級生だってわかったら飲ましてもらったんだって言って、送ってもらったんだって言って、すごいおっちゃんにお世話になったんだって言いながら泣いてくれててですね。
その時に自分の家に全くお金残ってなかったんですけど、親父はお金を稼いでなかったと思うんですけど、でもこうやって人が亡くなった瞬間に泣いてもらえるっていう、そんな人生かっこいいなっていうのは初めてその時に思ってですね。
またその葬儀が終わった後のお坊さんが説法で、親は子供に対して教育するのが仕事だと、でも人生最後の教育は自分の死をもってですね、残された方に命には限りがあるんだということ。
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またその残された限りある命をですね、どう過ごしていくかが大事なんだという、そういうメッセージだと思って受け止めてくださいっていう言葉を聞いた時にですね、そもそも空き家問題なんとかしたいなとか、本当にお金儲けのための人生じゃなくて困ってる人を助けてとか、人に喜んでもらって最後死にたいなと思って独立するために会社に交渉させていただいて、
辞めるのにちょっと3年かかってですね、結果独立できたのが2016年ということになるんですけど、それで不動産で独立をするかIT業界になりながら、空き家問題なんとかするかとかっていうのを考えたんですけど、自分の中ではITがそもそもできない、勉強してなかったのでできないっていうのもあるんですけど、不動産の方がちょっと実があるなと思ったところと、
業界自体にまだまだ不動産業界に対するイメージがあまり良くなかったところもあってですね、であれば不動産業界に行こうということで、不動産業界として空き家問題をなんとかしたい、それで作ったのが今の会社ということになります。
ありがとうございます。先ほどもおっしゃっていらっしゃいました。3年かかったとおっしゃっていらっしゃいましたが、独立に向けて反対は相当あったんじゃないでしょうか。
そうですね。もう最初、直続の上司とかに聞いたら、ちょっとお願いだからもう1年待ってくれみたいな話があったりとか、それで時間がかかったのもあるんですけども、最後は本当にもう強引に辞めざるを得ないぐらいまで行ってしまったんですが、
ただ、辞める前の1年間は僕はDAIWA HOUSEの中で一番働いたなと思っていて、その瞬間に1700人営業がいたんですけど、一番の成績を出してですね、感謝の気持ちを持ってDAIWA HOUSEに対してちゃんと恩返しして独立しようと思ってやったので、余計にですね、頑張れば頑張るほど辞めにくかったっていうのがあってですね、ご迷惑かけてしまったっていうのはあるんですけど。
なるほど。ありがとうございます。
本日も社長に聞くinWizBizをお聞きくださり誠にありがとうございました。この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもWizBizが運営するウェブサイト、KAノートでも閲覧いただけるようにしております。音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
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ぜひネット検索でKAノートスペース社長インタビューと入力いただきKAノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。本日の社長に聞くinWizBizはここまで。また来週。
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