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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、バルテス株式会社代表取締役社長 田中社長様でいらっしゃいます。
まずは、経歴をご紹介させていただきます。
1967年、大阪府生まれ。高校卒業後、中小ソフトハウスに就職。4年間、SEPGとして従事する。
その後、2年間、フリーランスのエンジニアとして仕事をした後、最初の起業を経験。
共同経営者との方向性の違いから退任し、1990年に2社目となるソフトウェア開発会社を起業。
約15年間の経営の後、更新に需要状況。ソフトウェアテストプロ集団の必要性を実感し、2004年にバルテス株式会社を設立。
代表取締役社長に御就任され、そして、2019年5月には当省マザーズに上場されている社長様でいらっしゃいます。
本日はよろしくお願い申し上げます。
どうも、バルテス株式会社の田中です。よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身は大阪でよろしかったでしょうか。
小学校・中学校時代の幼少期はどんなお子さんでいらっしゃいましたか。
実は今、1967年とおっしゃったような気がしたんですが。
1962年ですね。正解です。
昭和37年で。結構小さい頃は貧弱で、少二全足を患っていたので、
かなりガリガリの病気がちな弱い子供でした。
あまり運動とかもされない感じですか。
そうですね。すぐ運動するとゼイゼイになったりしますし、
結構学校もよく休んでいました。小学校の低学年の頃。
中学時代の思い出は何でございますか。
中学の時にもうそろそろ全足治ったかなと思って、
運動部に入ろうと思ってサッカー部に入ったんですけど、
3ヶ月でやっぱりこれはちょっとゼイゼイになって辞めました。
なるほど。じゃあ勉強ばっかりだったんですか。
勉強もアホだったので、何も得意なことはなかったという。
そうでらっしゃいますか。
ジョジョ記号の社長さんなんてそんなことはないと思うんですけども。
高校は大阪の高校であったんですか。
高校の私立の高校です。
高校時代の思い出というのは何かございますか。
高校はやっと運動部ができて、やっぱり弱かったので、
割といじめられっこだったので、ちょっと何とかそれを克服しようと思って、
柔道をやり始めました。1年で初段苦労を身をとって、
その時は健康有料児になって、
本当に学校も請金書みたいな形でやり遂げました。
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なるほど。高校後そのままエンジニアになられたんですか。
そうです。
何かそれはエンジニアになろうなんて、その時代だと割と先進的であったような感じなんですが、
何かエンジニアになる理由というのは何かありますでしょうか。
実は高校の時は工業高校だったんですね。
工業高校なんですが、1年の時は基礎的な工業の勉強をするんですけれども、
電気系なんで、電気の関係の基礎的な勉強をして、
2年目から各学科に希望で入れるんですけれども、
その当時電子工学科というのがすごく人気で、2クラスぐらいだったんですけれども、
その学校は私立だったので、1クラス定員とか特に決めなくて、
希望者は全部入れるという方針になったので、人気のあるところは60人とか70人ぐらいになるわけです。
それでも無理やり入れるような感じであったので、ちょっとそこはやめとこうと思って、
その時、情報処理科というのがあったんですけれども、
ここが全く人気がなくて、1クラス37名からスタートしたので、
これはゆったり学べるなと思って、電子工学科に行くのをやめて、
情報処理科に行ったのがエンジニアになるきっかけで、
その時に東北の当時、コボルという言語とフォートランという科学計算用の言語があるんですけれども、
そういうのを学ばせていただいて、その技術を活かそうと思って、
そのままちょっとそんなに頭が賢くなかったので、そのまま就職しようということで、
親に大学に行くのか就職するのかどっちにするのかと言われて、
大学に行くと言われそうだったので、就職しますということで、
たまたまそういうプログラマーとして働かせていただいているところを見つけて、
そこに就職したという形ですね。
ある意味今のバルテスさんの現形は、高校時代の情報処理科の時という感じでいらっしゃいますかね。
ある意味文明的ですし、割と先進的ですよね。その当時は少なかったんじゃないですか。
だから全然誰もコンピューターというのは雲の上のものという風な見方をみんなしていまして、
私が結構コンピューターを学んでいて、そういうコンピューターの会社に行ったと。
プログラムを作っているという親戚に言うと、それ何やっているの?
お前の頭でそれができるのか?みたいなことを言われて、そんなすごいことをやっているのか?みたいな感じだったので、
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私の高校時代の1年の時は全然皆さんそこに入ってこなかった。
ただ1年でガラッと景色が変わって、2年目から大人気。
情報処理科というのがもうテインオーバーで大人気になったというところなんですね。
それぐらい変革期だったので、そういう意味ではすごくラッキーだった。
インターネットもまだ全然始まる前じゃないですか。
全然始まる前です。
学校に置いてあったコンピューターが、メインメモリーが15キロバイト。
ちょっと1500バイトというような、今から考えるとありえないような、そういうコンピューターが1億円していたらしいです。
そんなに好きなんですか。
コンピューター室は冷暖防寒美で、常に21℃とかに温度コントロールされていました。
そういう意味では快適な時代でした。
そのとおりまだ学校にエアコンなんかなかった時代ですから、扇風機とかしかなかったし、ガスのあるしかなかったので、
そんな時代にエアコン寒美の部屋で実習をやっていましたので、すごく快適でした。
すごい話ですし、今の時代、このインターネット時代が来ても、いわゆるDXとか当たり前に言われて、コロナで余計DX時代と言われて、
こんな全ての人がインターネットを触らないと生きていけないぐらいの時代になるなんて予想は高校生の時はされていましたか。
全く、そのとおりネットワーク自体がもうなかったですから、高校卒業して、社会人だとしばらくして、
パソコン通信みたいなのがようやく一般の電話会社に使って、テキストベースのパソコン通信があったぐらいなので、
ここまでになるとは想像もつかなかったですよね。
中小のソフトハウスに就職して、4年間従事した後、その後フリーランスのエンジニアとして2年間ということなんですが、
4年でフリーランスになぜなられたか、何か理由があられたんですか。
その当時一緒に同じ現場に入っていた先輩が、他社の会社の先輩が、
やしお月給で働くとフリーランスになったら良い給料をもらえるよということを言われたので、
自分もやってみようと思ってやり始めたら、給料が3倍になりました。
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そういう時代ですかね。
はい、時代ですね。
今だとあまり。
今だとそこまでもらえないですよね。
4年ですぐフリーランスというのは、かなり度胸があられたんじゃないかと思うんですが、そんなことはないですか。
もともと私、実家家業もそうですし、祖父の事業もそうなんですけど、
もともと起業家の家系に生まれたので、特に独立するということに対しての恐怖心とか、
そこに対しての不安感というのは全くなくて、
祖父は祖父で自動車収支交渉をやっていまして、成功していましたし、
うちの父は鉄骨の骨組みを作る事業をやっていて、それも成功しましたし、
そういう家系だったので、そこに対しての抵抗感は全くなかったです。
じゃあ、もともと起業しようとか社長になろうという思いはあられたんですか。
そうですね。もういずれは社長になるぞというふうに思ってまして、
もともと入った会社の結構小さなソフトウェアハウスだったので、
そこを乗っ取ろうかなと思っていたぐらいなんですけど、
同族企業だったので途中でこれは無理だなと思って、
さっさと企業の準備、資金を貯めようということで、
フリーランスになったというわけです。
なるほど。その後、最初の企業でいらっしゃるんですが、
共同経営者という方がいらっしゃったということで、お二人ですか、お三人ですか。
いや、お二人です。最初に入社した会社の先輩とたまたまフリーランスをやっていたときに、
同じ現場で知り合って、こんなとこでやってみたらいいし、
じゃあ一緒にやらないかみたいなとこでやりましょうみたいな話で一緒に出るようになりました。
最初の企業のときの業種は何業に当たられたんですか。
ソフトウェアの開発ですね。25歳のとき。
なるほど。それはいわゆる受託のパターンでいらっしゃったんですか。
そう、そのときは受託のパターンでいらっしゃっていただいて、
一緒に、どちらかというと今で言うコンピューターでいうとオフコンというオフィスで使うようなコンピューターの仕事と、
一部パソコン、その当時はパーソナルコンピューターといったんですけど、
それの自宅の事業をやっていました。
なるほど。その後、方向性の違いからお別れになるといいますか、
どの辺が方向性とは違われたんですか。
その当時、ようやくパーソナルコンピューターがビシビシと言われるようになってきて、
私はパソコンの時代が来るんじゃないかというふうに思っていて、
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そっちの方に軸足を通した方がいいんじゃないかと。
でも先輩はオフコンがその当時もうガンガン伸びていたので、これでいきたいと。
それでちょっとオフコンにするかパソコンにするかみたいなところの見解の創意というか、
方向性の違いというのが出てきたので、
私はパソコンを使った、パソコンでできるシステムを作って、
そういうソフト会社を作って起業しますということで、分かりました。
なるほど。それで2社目の起業ということになるんですけども、
15年間はパソコン側のシステム開発みたいなことをやっていらっしゃったということですか。
パソコン中心としてはそうですね。パソコンを使ってというところで。
なるほど。それもソフトウェアの、いわゆる住宅というか。
住宅もそうですし、SESみたいなことも両方やっています。
最初は住宅だけだったんですけど、だんだんSESも。
派遣。
その当時は派遣とかっていう、派遣会社みたいなこと。
派遣法はあまり整備されていなかったので、
そういう委任契約みたいな形ですね。
はい。向こうに。
なるほどなるほど。
15年後、事業相当で更新のお売りになっていらっしゃるんですが、
これ15年間経営した後、何で売られたのかなというところなんですけども。
一つは、やっぱり後輩と一緒に設立して、
当然持ち分は遥かに9割は私持っていたので、
ほぼほぼオーナー経営者ということでやったんですけど、
だんだん15年もやっていると、彼は彼でしたいことが出てくるわけですね。
だんだん色々、意見の対立みたいなところもあったので、
その当時、私は相当会社で品質問題ということを課題もいっぱい抱えていたので、
それを解決するために、いろいろとエンジニアにテストを十分にしないと、
納品号にいろいろトランプルになるので、
ということをいろいろと働きかけして、勉強しなさいということでやっていたんです。
なかなか開発のエンジニアの人というのは、開発プログラムを作るとか、
システム設計を作るとか、いろいろ新しい言語が出たらどうのこうのとか、
新しいOSがどうのこうのとかというところは一生懸命勉強するんですけど、
テストはどっちかというと嫌い、やりたくないというところで、
テストについて勉強も全然しない、ということは品相が向上しない、
そこで問題が解決しないということで、
それを問題解決するためにはテストの専門の会社を作って、
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プロ集団を作らないと、第三者でテストしていくということで、
品数を上げていかないといけないんじゃないかということで、
今の会社を起業すると。
なのでちょうど私がやりたいことと彼らやりたいことがあったので、
お互い一言を別れて、結局開発のエンジニアの人はテストを嫌いですから、
テスト会社はそのまま取り替えることができないので、
あなたに作ってと言うと思うんですね。それで譲ってということです。
今すぐ商品サービスの提供を中止しろとございます。
本当に世の中いろんなことがあって、バイトテロとかいろんなことが起こっていますが、
やっぱりクレームがどんどん出るというのは何か問題があるわけですね。
1個ならいいです。でも1個出るということは、その下に10個ぐらいあると思ったほうがいい。
10個出たら100個以上あるかもしれない。毎年1000個以上かもしれない。
そう思うべきなんだと思うんですね。
そういう意味では何個もクレームが出た場合には手を打たなきゃいけません。
そのときにはやっぱり商品の提供、サービスの提供を止めるんでしょうね。
止めるというのは大変インパクトがあります。
どこにインパクトがあるかというと、もちろんお客さんにもなんですが、
社員たちに、幹部たちに大変影響がある。
だからその社員たち、幹部たちの教育のためにも、
食料法で商品サービスの提供を止めるという決断をし、
それを全社員に説明をし、大変な危機があるということをしなければいけない。
そして社長自ら、社員たちに説明し、
何としてもここの失墜しているブランド価値を上げにいかなきゃいけないということを説明し、
プランを説明すべきだと。
そういう意味で商品サービスを必死こいて、
みんなで修正していかなきゃいけない、直していかなきゃいけない。
そういうことをやるべきなんだと思います。
逆に考えると、クレームとか発生して商品サービスの提供を中止したことによって、
逆に業績が上がっていくことはよくあるんじゃないかと思います。
なぜかというと、社員に危機感が出るし、自分たちは悪かったんじゃないか、必死になるし、
必死になって商品サービスを修正した、もっといい商品ができたお客さんたちが、
さすがということになって、A社さんはさすがだねということで、
ブランド価値が上がっていくみたいなことはあるんじゃないでしょうか。
そういう意味では、このスピードというのは大変重要ですね。
スピード早くやると、こういう問題は収まるんじゃないかと思います。
昔、焼肉屋のチェーンで食中毒が起こったときに、
つぶれた企業とすぐに開発した企業と両方ございます。
つぶれた企業、倒産した企業は、やっぱり食中毒が出るべくして出たわけですが、
ある企業さんで私は驚いたのは、食中毒が起こってすぐに閉鎖して、
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1週間止めて保健所に呼んで、保健所に検査してもらったら、
保健所側がこんなに正しくやってて出ちゃうんだったら仕方ないねって言って、
約1週間から2週間したらオープンしてOKというのが出て、
オープンすぐできました。特に問題ございませんでした。
でも、年少30億円くらいやっている焼肉チェーンが食中毒が起こって、
保健所の指導が入り、そのまま倒産したケースもございます。
この違いは何か。やっぱり商品サービスの提供に、
真摯さというのが求められて、真摯にちゃんとやっているのか、
お客さんに迷惑がかからないようにきちっとやっているのか、
みたいなことが差がついた事例なんじゃないかと思います。
そういう意味で、クレームというのは大切なお話でございますし、
クレームからファンに変えることもできますので、
ぜひお客様のクレームを大切にしていただければと思います。
私ども会社もクレーム発生数、クレーム台帳というので、
必ず記録が残るようにさせていただいていますので、
皆さん方はそんなことをしながら、クレームを大切に扱っていただければ
いいのではないかなというふうに思います。
本日は社長の孤独力番外編はここまで。また来週。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり、
誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューを
お届けしてまいりました。
この内容はすべて適当化いたしまして、
私どもウィズビズが運営するウェブサイト、
KAノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく、文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトのほうにもさせていただいています。
ぜひネット検索でKAノートスペース社長インタビューと入力いただき、
KAノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。
また来週。