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2023-10-04 24:37

第351回 國京紘宇氏(株式会社ナルミヤ・インターナショナル代表取締役執行役員社長)【前編】

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今回は、株式会社ナルミヤ・インターナショナルの國京紘宇氏にお越し頂きました。

50歳手前でナルミヤ・インターナショナルに入社し、その後、同社の社長に就任。成功の秘訣では「お客様の満足をどう得るのかを考えること」と語り、その姿勢を貫くお姿から経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

■経営者インタビューメディア「経営ノート」
https://keiei-note.com/

■WizBiz社長塾
https://www.youtube.com/channel/UC16VkcI4PaUISDD4UL7pFvQ





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社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、株式会社ナルミヤ・インターナショナル代表取締役執行役員社長 国京浩貴様でいらっしゃいます。
まずは経歴のほうをご紹介させていただきます。
1990年、積水科学工業株式会社がご入社。
その後、2001年、東松コンサルティング株式会社がご入社。
その後、株式会社有賃ご入社。
こちらは現在の宝富アーツさんでいらっしゃることです。
そこで、当社の常務執行役員をなさっていらっしゃいます。
その後、フィールド株式会社などのほうを起任され、
そして、2023年、ナルミヤ・インターナショナル代表取締役員社長にご就任された上場企業の社長様です。
今現在、ナルミヤ・インターナショナルさんは、東松スタンダード市場に常常なさっている上場企業様でいらっしゃいます。
金城社長様、よろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますか。
東京都、荒川区です。
なるほど。小学校時代はどんな少年でいらっしゃいましたでしょうか。
はい、母方の祖父が荒川区のほうで果物屋を営んでいまして、
僕は小学校は赤羽小学校という、今結構トレンドになっちゃっているところに通っていました。
小学校の時は下町で、それで祖父が商店街なので、みんないろいろな商売をやっているという中で育っていたので、
どちらかというと会社がどうのこうのというよりは、
空き内の原点みたいなところで、いつもいろいろなおじさんたちに怒られながらみたいな、そんな感じの小学校だったと思います。
何かガキ大将的な感じでしょうか。
いやいや、逆に全然ガキ大将じゃなくて、体が弱かったので、どちらかというと後ろから追っかけていくというような感じだったと思いますね。
なるほど、ありがとうございます。中学時代も赤羽小学校でしたか。
小学校6年生の時に父親がいわゆるお家を作ったというか、千葉県の松戸というところに引っ越しまして、中学高校から千葉の松戸です。
なるほど、松戸の中学時代はどんな少年でしたでしょうか。
そこの引っ越したところがまさに新興住宅地で、小学校がですね、3年か4年間に乱立するという、なので転校した小学校もほぼ全員転校生で、
中学校の入学の時は南中というところにいたんですけど、2年生になったらまた北中というのができて、そこでまた分断されて北中に行くと。
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そこにまた全国から転校生が来ると。そうすると入学の時の制服がですね、みんな違う。
そんな感じだったんで、今まで下町で育ってたのが、急に要はサラリーマンの人たちがお父さんになっていうところに入ってですね、すごく戸惑ったのを覚えています。
なるほど、何かこう難しさとかそういうのはありませんか、3年間で。
結構だからそういう意味ではコミュニケーションなんかなかなか取れなかったかなと思いますけどね、下町で赤羽小学校なんていうのは商店街のど真ん中にあったんで、
結構やっぱりパン屋さんだったりとかクリーニング屋さんとか、そういったところでの子どもたちが多かったんですけど、
こちらに新松堂に行ったらほぼほぼみんなサラリーマンになっちゃったんで、会話がね、お父さんどこの会社とか、そんなこと聞くのとか、何を言ってるんだって相当中学の時は戸惑いましたね。
なるほど、ありがとうございます。高校は千葉県でしたか。
高校千葉県でした。
高校千葉県で、ちょっと遠いところ、遠くはないんですけど、みんながなかなか行かないような松戸じゃなくて市川の高校に行ってですね、そこは面白かったですね。
昔から下町じゃないけど、結構そういう素朴な子たちばかりで、授業は授業であれだったんですけど、とにかく笑いを取るのにどうするんだっていうことばっかりを考えてたみたいな方向、3年間だったと思うんですけど。
つまり、お笑いとか好きな子は?
お笑いは好きなんですけど、高校の時はバンドをやってたんで、中学の時にビートルズ聴いてレッドゼッペリンになってストーンズに行ってみたいな、その時に高校1年の時にレッドゼッペリンのズタ袋で学校に行ったら誰も知らなくて、
ただ同じズタ袋を持っている奴が隣のクラスにいるぜっていうような感じになって、その辺でだんだんハードロック好きがちょこちょこ集まり始めて、高校の時はバイトとほぼバンド活動みたいな感じの生活でした。
楽器はギター?
ギター、はい。
王道的な感じですね。
ありがとうございます。大学はどちらに?
大学は明治大学です。
学部は何学部?
政治経済学部です。
明治大学の中でトップクラス?
いやいや、そんなことないですよ。基本的に僕たちの時の明治って、わざわざ慶応に行きたかった奴が残念で明治に来たっていう奴が圧倒的に多かったので、
ただ大学明治に入ってすごく良かったのは愛好心とか、六大学の伝統っていうのは本当に最後の世代じゃないかなっていうぐらい肌に感じさせてもらってて、
当然のことながら六大学は春と秋しっかり要員に行かないといけないし、秋からラグビーが始まるとラグビーはしっかり行かないといけないし、
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高校の時からラグビーはそういう意味では総名戦だ総計戦だ競名戦だっていうのは結構テレビでやってたんでね、
そこはしっかり見て、15歳ぐらいからラグビー見始めて、大学受験の時は総計名のどっかに行きたいなみたいな考え方を持っていて、
たまたまギリギリ明治に向かったので、それからずっと今でもそうですけどラグビーをずっと追っかけてますんで。
なるほど、明治は大変ラグビー強い。
いやでもね、この20年ぐらいは全然強くないんですよ。
そうですかね。
もう全然なんですよ。本当にこの間2018年か19年ぐらい久々に日本一になれたっていう感じだったんで、それまで20年ぐらい全然勝てない暗黒な時代があったんで。
そうですかね。うちの母も明治出身なんで、軍教社長様が母の後輩に当たりますが、多分明治が本当に強かった時代のラグビーですね。
そうですね、80年後半ぐらいっていうとね、一番強かったんじゃないかなと思いますけどね。
北島監督にも。
そうですね、今と違ってインターネットがないんで、北島さんの武勇伝みたいなのはね、先輩から聞くしかないし、当然野球の方は島岡さんっていうメールの監督がいましたんで、島岡さんが最後に優勝したのが僕現役の大学2年生ぐらいの時かなと思うので、
そういう本当にギリギリ政府の良い時代の、今だと確実にパオハラで訴えられちゃうだろうと思うような野球の監督さんでしたけど、今でも伝説でね、面白いと思いますけど。
なるほど、ありがとうございます。政治経済学部を選んだ理由はないかございましたか?
いや全然ないですね。何ってことはないと思いますけど、たまたまだったと思いますよ。
何を勉強した思い出とかはございますか?
僕はだけど、大学入ってから何をしてたかっていうと、コピーライターになりたかったので、文章を書くサークルというかゼミというか、マスコミ研究会みたいな感じで文章を書いてたんですよ。
だから別に政治経済に入っちゃったんだけど、コピーライターになりたいなと思って、そっち側の勉強をずっとしてて、そこはずっと書いてました。
なるほど。放送作家になろうとかそんな感じで。
コピーライター。高校の時に、電通の佐藤雅彦さんが朝日新聞の広告大賞を取ったのが84年とか85年くらいで、
それが前段階でペチカって、ロシアの民謡の雪の降る世は楽しいペチカって、あれの楽譜が書いてあって、最後にちっちゃくカルピスのマークがぺたってくっついてたんですよ。
それの候補が何かって言ったらホットカルピスなんですよ。
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それに結構衝撃を受けて、ホットカルピスって一言も書いてないのにこれを見た瞬間にみんなホットカルピス飲みたくなるんだろうなみたいな。
ちょうどその前後くらいで伊藤さんのいろいろな言葉の理論みたいなの知り合って、
彼のおいしい生活っていうセール百貨店の、あの辺の言葉のキャッチコピーとかで世の中が動くというか、みんなが感動するし、商品がそれで売り上げが違うみたいな、
これかっこいいなって思ってそっちの勉強をずっとしてたって感じですね。
じゃあ電発朝通DKあたり行こうみたいな感じじゃないですか。
はい。就職活動はそこをメインに制作経緯っていうので一生懸命動いたんですけど、
僕はこれは当然バブルの世代なんでね。
他のメーカーとかいろんなところから内定5社ぐらいもらったんですけど、そっち側の制作経緯は一個ももらえず、
大学の就職課に行ってどうしたらいいですかねっていう。
大学の就職課の人が国業一番のこの5つもらった中で、どう一番何やってるかわかんないって聞かれて、
脊髄って何やってるか全然わかんないですって言って、じゃあそこ行けって言われたんですね。
自分の中で思いが強いものをそのまま引きずって、そっち行きたかったのになっていうよりか、
そこで一回何かダメだって言われたんだったら、何にも知らないとこ行った方がいいって言われて、
じゃあわかりました脊髄行きますって脊髄に入ったっていう感じですね。
はい、なるほど。東大って脊髄科学ですかね。日本のカップ企業の一社ですからね。
そこにご就職なさってるってすごいことなんですが。
あの時はバブルだったんで。
脊髄科学工業での何か思い出は何でございますか。
特注成形品っていう部署に入ったんです。いわゆる脊髄科学ってプラスチックのパイオニアって言われていて、
歴史をひもぞくと今は後期のプラって言ってどっちかって言ったら中間学だったりとかなんですけど、
僕が行った時はまだ射出成形で部品を作るっていうところの事業部に配属されまして、
お客さんはキャノンさんでね、キャノンさんのLBPとかBJPのプリンターの部品を開発の段階から
いろいろと一部技術者と一緒に訪問して試作をやらせてもらったりしながら、
最後量産のところの部品を金型作って毎日毎日部品を工場で作ってもらって、それを納品するっていう。
今で言うと本当にまだバブルじゃない、バブルが崩壊してみんなメーカーが日本から中国に渡る直前の、
最後の最後の日本のメーカーの力強さみたいなのを本当に底辺で体験できたっていうのが、
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今はすごく骨にはなってますね。本当にあの時三直連装って言って、
キャノンさんはずっと24時間動いてるし、それに合わせて部品も毎日届けなきゃいけないし、
難しい整形品なので、しょっちゅう不良品だとか不具合があると対応でトタバタしなきゃいけないし、
僕東京にいたんですけど、関西の工場も担当だったんです。
茨城の工場と関西の工場と、僕の工場が東京の埼玉の工場と静岡の工場と奈良の工場が担当だったので、
一週間に必ず一泊二日だか二泊三日くらいで、新幹線乗って静岡行って奈良行って、
向こうのお客さんのとこ行ってみたいな、そういう生活をしてて、
あれ今マイルとかJRポイントとかがあったらすっげえお金持ちなんだよなって、
10年くらいそういう生活してたんで、その辺は結構大変でしたね。
すごいストレスというか、日々の大きに追われるというか、そんな感じでした。
なるほど、ありがとうございます。
その後、東松コンサルティング、デルト東松コンサルティング事業所現在にお移りになっています。
これ何かきっかけとかありますか?
入社して、それでもまだコピーライターになりたいという夢は残っていて、
仕事をしながら、実は週末に勉強してたんです。
宣伝会議とかコピーライター養成講座に行ったりとか。
27とか8くらいまでは、いろんなところに応募するんですけど、
うまくいくと最終選考くらいまで残ってたんですよ。
まだいけるかな、まだいけるかなみたいな、そういうチャンスあるかななんて思ってたんですけど、
27か8くらいの時に、一気に落選で全然当たらなくなっちゃって、
その時の広告大賞を取った広告が、ちょっと今まで僕が学んでいたことと全く違うセンスになっちゃって、
こっちに来ちゃったんだと思って、これはダメだなって思ったんですよ。
それまでも仕事しながら勉強していたのは、コピーライターになりたいなと思って勉強していたんですけど、
ただ、僕はコピーライターになりたいから仕事を手に抜きますというのはすごく嫌だったので、
俺のやりたいことはもっとレベル上の方のことがあるから、
ここの仕事のところでは絶対に評価されたいと思って、
されたいというよりかは、みんなに迷惑かけちゃいけないと思っていて、
そこをずっと仕事でやっていました。
なので、結構社内的にも表彰状はいっぱいもらっていたんですよ。
だから、コピーライターにどこかのタイミングで行けたらいいなと思っていたのが、
そこの夢が一瞬にスポンと切られて、
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その時に、あれ、俺って右の脳みそばっかり鍛えていたけど、
左の脳みそを全然鍛えていないでカレコレ何年か仕事をしている。
確かに結果は出ていて評価はされているけど、経営とかマーケティングとか、
ちゃんとしたことって何も学んでいないなと思って、
ちょっとあれ、やべえと思ったんです。
その時に、そういう経営とかって勉強できるのってどこにあるのかな、
どういうことを勉強すればいいのかなと思った時に、
中小企業診断士という資格がコンサルタントの資格だなんていうのが書いてあって、
そういうのをモーラー的に勉強するのっていいのかなと思って、
まだ結婚して新婚だったんですけど、
ちょっとお金かかるけど、しかも土曜日とか、
ずっと塾行くけどいいって言ったら、神様どうぞって言ってくれたんで、
勉強しに行きますって診断士の勉強しに行った。
結構大変だったんですけど、当然仕事しながらなんでね、
結構大変だったんだけど、それがこういうことなんだ、
マーケティングってとか、数字ってこういう感じなんだっていうのが
一つ一つ目から動くみたいな感じになって、
へー、経営ってこういうことなんだっていうのが初めて感じ始めたんです。
それで合格して、脊髄のところでも別に全然そのまま仕事はあれだったんですけど、
そういう診断士みたいな資格を当時20年以上前ですから取っちゃったですね。
しかも30前半ですが、31歳とか取っちゃったんで、
どっちかというといろんな人たちがコンサルってさみたいな話がワシャワシャ来るわけですよ。
コンサルっていうのがあるんだ、仕事で。
へー、みたいな、だんだん調べてくると、これすごい面白そうだなみたいな。
で、たまたま日経新聞に中途採用の応募があったんで、
トーマスに出してみたら、面接トントントントンって行って採用してもらったみたいな。
で、経営のコンサル担当っていうののいろはないぐらいは学べればいいなと思ってトーマスに転職したって感じですね。
なるほど、ありがとうございます。
トーマスでの思い出なんてございますか?
トーマスはですね、今の時はまだ僕がいた時は100人いなかったんですよ。
戦略系な感じだったんでね。
ぶっちゃけ言うと本当にね、365日24時間以降ですよ。
もう本当にあの時一緒にやってた連中みんな言いますけど、
もう事業会社の時間軸とコンサルの時間軸が下手したら10倍ぐらい違うんで、
プレッシャーも半端ないでしょ。
それは何かと言ったら、お客さんが何千万を出すようなプロジェクトを動かすのに、
当然のことながらお客さんの業界のことは知りません。
お宅の会社のことはあんまり知りませんみたいなね。
そんな状況でいったら大変な話になっちゃいますから、
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インプットしなきゃいけないことも圧倒的に多いし、
要はそのタイミングで言えばもうある程度は先方からすると、
プロジェクトの窓口の人たちはだいたい同年代の30代ぐらいの人たちなんですけど、
やっぱり当然のことながら品質責任者というか向こうのプロジェクトリーダーは誰ですかって言って役員になってきますから、
役員に対してきっちりかっきりした丁寧なソリューションを出さなきゃいけないっていう、
そのプレッシャーと毎日毎日の膨大な分析の量と、
インプットしなきゃいけない量と、
それはもうあの3年弱ぐらいは一番働きましたね。
ただあそこで学んだことが今でも本当に僕の背骨になっていると思っていて、
よくフレームワークとかロジックとか、
それぞれ自分の中でイエス・ノーを出す時の判断基準は何ですかっていうところの、
そういう軸は本当にあの時にたくさん学びました。
あの時の仲間は結構今でもずっと付き合っているんですけど、
やっぱりみんなすごいですよね。
ちゃんといろんなところで独立してしっかりかっきり成功しているやつもいるし、
いまだに殺されあって、まだ殺されあっているの?みたいな、
なんでそんな体力があるの?っていうやつもいるし、
そういうやつらとたまにまた会いますけど、
結構すごく充実したいい感じになっています。
なるほど。ありがとうございます。
その後、友人さん、今の宝富アンスさんにご入社されていますが、
これは何か移られたりっていうのは何かございますか?
3年ぐらいそんな生活をしているとですね、
相当しんどくなるっていう部分もありますね。
あの時の会社の中でいうと、結構やっぱりヘッドハンティングの
カモじゃないですけど、慌たれるところが結構多くてですね、
僕の友達が先に出て行って、その友達をヘッドハンティングしたところから、
ふぇさんちょっと会ってみない?って言われて会いました。
もともと僕はおもちゃも好きだしキャラクターも好きで、
母親がちょうどその頃末期だったんですよ。
子供がその時3歳ぐらいだったのかな。
お袋に言われたのが、あんたもうそんな仕事仕事言ってないで
ちゃんと子供と家庭を大切にするような生き方しないとダメだよって言われて、
ああそうねみたいな感じで、じゃあどっかないかなと思った時に
たまたまトミー経由で、友人ってトミーの子会社だったんで、
トミー経由でこんな会社あるんですけどどうですかって言うのが来たんです。
うちの子供にガチャガチャをその前ぐらいにかわしたら、
もう夢中になっちゃって、子供が友人のガチャガチャを握りしめて寝ちゃったんですよ。
その姿がすごい感動して、こんなちっちゃい子がこんな夢中になって
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握りしめたまま寝るようなものを作る会社ってむちゃくちゃ面白いじゃんみたいな。
で行くっていう話をして、それで円が当てます、ポンって入れてくれたんですけど、
その時に東松の連中とかボスからね、みんなこういう会社行きますって言ったら、
やっぱり東松の連中はね、すげえって言ったんですよ。面白い。国境さすが。
ちょうど2000年の3年とか4年ぐらいだったんで、ITがわしゃわしゃって出てる時じゃないですか、
三木谷さんがいたりとか、そんなところにレトロのガチャガチャというところの業界に行くと、
話を聞いて商品を見るとこんなクオリティの良いものを作っている会社がまだ日本にいるのか。
それはもうみんなね、徹産してくれたんですよ。
これがね、赤水化学の大きい会社の前の人たちに言うとですね、
東松に転職するからお前赤水から出したのに、その後何、おもちゃのガチャガチャ行くの?
何お前、転落人生じゃんみたいなね。
そこで対極的に全体を見れるところと、自分の立ち位置みたいな大きい会社、
それはそれでいいんですけど、そういったところの視野の広さというか、
そういったところもそういう反応で結構感じて、
でも視野の広いコンサル出身の奴らからこれすげえって言ってたところだからいいなみたいな。
なのでそこでジャスタックの上場とかいろんなところも経験させてもらって、
その時の友人の仲間は今でも大親友でずっと仲良いですから、すごく楽しかったですね。
本当に楽しかったですね。
毎日のようにみんなで喧嘩して、縦石っていう下町の町なんでね、
今再開発になってどんどんどんどんいいお店がクローズになっちゃってるんですけど、
あの時はしょっちゅう縦石でまさにせんべろの町だったんで、すごく楽しかったです。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズビズが運営するウェブサイト、KAノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
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サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索でKAノートスペース社長インタビューと入力いただき、
KAノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。また来週。
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