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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、指定服、指定学生服のない学校の生徒さん向けに、学生服を販売している、大変変わった、園見という会社様の相浦社長様です。
先日は、松子デラックスさんがやっている松子会議にもご招待された企業様で、大人気、高校女子高生、男子高生に大人気のお客様様でいらっしゃいます。
まずは相浦社長様の経歴のほうをお話しさせていただきます。
1948年、明光市、新潟県の明光市、旧新井市にお生まれになっていらっしゃいます。
その後、平成12年に明光市で創業され、平成19年には東京の原宿で製服専門職、この業をオープンし、今では大人気ということになっていらっしゃいます。
平成26年は上海の高島屋でも販売会社を置かれていらっしゃって、経済産業省のガンバリオ中小企業300社にも選ばれる企業様でいらっしゃいます。
本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
では、最初のご質問なんですが、ご出身は新潟の明光のほうでいらっしゃいますが、小学校、中学校時代はどんなお子様でいらっしゃいましたか。
そうですね、本当に人口も少ないですね、本当に雪ばかり降るですね、田舎町で、本当に小学、中学、高校までそうなんですけど地元で育ってですね、
何はともあれ本当に野山を駆け巡るというか、そんなようなやっちゃな子供でした。
そういうガキ大将というか。
ガキ大将とはまでは言わないですけど、いろんなことをやってですね、いろいろ叱りをいただいたふうな感じですね。
高校時代もそういうやんちゃな感じでしたか。
そうですね、高校に入ったらだいぶですね、そのやんちゃも忘れてきたかなとは思ったんですけれど、やっぱりやりたいことが高校から少しずつ変わってきたかなというふうに思っております。
やっぱりスポーツがまずすごい好きで、今まで中学生まではスポーツも一生懸命やって、比較的スポーツとしても強かったんですけれど、
熱中するというのにハマっていったのかなと。部活以外にもですね、自分でやった、やっぱり雪国なんでスキーなんかにハマりこんでてですね、
勉強そっちのけでそればっかりやってた感じがしますね。
スキーは距離でしたけれども、スピードのほうは。
もうアルペンスキーでですね、本当に一番行った年なんかはワンシーズンに100日くらいスキーに出かけて行ったと。朝行ったらもう本当に夜まで帰ってこなかったという。
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じゃあアルペンってことは格好とか回転とか大胆点とかそんな感じでやってたんですか?
競技も多少はやったんですけど、どちらかというとインストラクターみたいな技術的なところでやっていて、本当に高校生のときからずっとインストラクターで教えてたみたいな感じでしたね。
なるほど。スキーをやってて学ばれたことなんて何かありますか?
もう何がともあれ忍耐力ですね。
スキーはやっぱり忍耐力が必要な競技でした?
そうですね。まずは氷点か柔道とかっていう中に出て行くっていうまず心構えがないといけないスポーツですし、行ったらなかなか山の中なんで帰ってこれないっていうのと、
やっぱりそこでスポーツ全般そうだったんですけど、やり始めてうまくいかないから面白いんですよね。
少しずつうまくなっていくっていう過程がすごい面白くて、そこから本当に10年、20年といろんなことをやってきたかなというふうに思っております。
なるほど。そうですか。今の社長さまの姿に何か重なっている部分があったりするんですけど。
その後、高校卒業後、東京のほうで新宿の会社さんの務みになったというふうに聞いているんですけれども、それを提供した後でしょうか?
そうですね。学校を卒業して新宿量販のほうで、今ではやっぱりアパレルといったらユニクロさんですとか島村さんというと、
当時はアパレルの一番の先端に新宿量販店というのがあったので、そこに商売の秘訣というのが隠れているんじゃないかと思って、
まずはそこで就職して、いろいろ学ばせてもらったというような形ですね。
なるほど。今のアパレルといいますか、制服の免許はその当時に学ばれたんですね。
そうですね。物の販売の仕方とか、管理の仕方とか、本当に利益の生み出し方というのはそういう部分で学ばせてもらったような気がしますね。
その後、平成12年に宮本市のほうで創業されているんですが、創業に至る何か経緯といいますか、そういうのが現れたんですか?
そうですね。当時、本当に新宿でやっていたときは、まだアパレルって実はノルマがあったり、報奨金みたいなものがあったりしていた時代なんですけれど、
周りの土器よりものすごい売るんですよね。それでも何倍というくらい売れると。
でも、やっぱり評価されるのは1.何倍、1.1倍とか1.2倍と。やっぱり自分の実績に対する評価というのがまだまだ寂しいなとも思いましたし、
独立志向も非常に初めから強かったので、いつしかというタイミングはもうそろそろ何じゃないかというのは常に思っておりました。
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入社されて何年くらいですか?
4年目に独立したいと言って、そこから少し修行もさせてもらっているんですけれど。
早いですよね。
そうですね。本当に学校にいた学生のときから、やっぱり僕のルーツは大阪におじおばが富人福天を経営していたと。
やっぱりそれを見て、自分の家庭と全然違うなと。やっぱりこういうことをやって、もっともっと田舎にだけいるんじゃなくて、
広いところで職がしたいなと思っていたので、早いほうがいいんじゃないかというふうには思っていました。
大変びっくりな話ですが、もうちょっとだけお聞きしますと、新宿の会社様でも大変成績を残されたと思いますが、やっぱり営業力が元々あられれば安いですか?
そうですね。本当にお客さんに物を販売するとかというのがすごい好きだったので、実は都内で本当に有名な都寺電気屋さんで、
僕は1日にウォークマンの販売を担当していたんですけれど、ウォークマンですね。昔の、新宿じゃなくて電化製品なんですけれど、それ1日に過去で最高で1人で400台売ったことがあるんですよね。
400台、そうなんですよね。1日にウォークマン2万円、3万円するんで、800万円とか1000万円1人で売ったと。
もう本当に物を売るのが大好きで、何を伝えればっていうのが何か生まれついて持っていたのか、何かしらでどこかで覚えたのか、そういうのがあったんで、やっぱり商売というのがすごい僕の天職なのかなというふうに思っていたんですよね。
記者 すごいですよね。なんでその400台で売れたというふうに考えていたんですか。
一台一台売り上げって個数が書いて誰誰って書くんですけれど、一台一台積極してても全く200台が限界なんですよ。どんなにやっても普通の人200台もあまり売れることはないんですけれど、でもこれ以上売るためにはたまたま当時電車の駅の駅中というか実縁販売をやられていたと。
実縁販売の人たちって売り上げを取るために一斉にみんなおいでおいでって集まるまで実縁絶対しないんですよね。
もうそこで僕3日間くらい実縁販売に修行させてもらったというか、それでこうやってやるんだというのを電化製品屋さんで取り入れて、もう1回の販売の接客で10台売れればいいじゃないかと。
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それを本当に10回繰り返せば100台ですし、40回繰り返せば400台だっていうような感じだったんですよね。
その接客方法がいいのか悪いのか怒られたこともありました。そんなお前失礼だと言って。
でも結果お客さんはすごく喜んでくれましたし、それが本当に認められないんだったらじゃあ認められるところでやろうかなと。
結果、自分でやろうかなというようなところに行ったのかなと思ってますね。
そのまま平成元年に創業されているんですか。これはもう最速化しているお仕事でありましたか。
いや、もともとは婦人服の医療品店、どちらかというとファミリー医療的な、本当に3万人しかいない人口の小さな町で創業したものですから、
本当におばさん、おばあちゃんの肌着や靴下からパジャマまで取り扱うような15坪くらいのお店で創業しました。
なるほど。その後、アクセルが一向止まれたのは何年目だったんですか。
そうですね。やっぱり人口はどんどん減ってきますし、売り上げもほとんどないというような状況で、やっぱりいろんなところに挑戦しました。
例えば、社交ダンスのドレスとかユニフォームを販売したり、シングルオフトなんかもやりましたし、
また都内から本当に有名なモデルさんを本当に来て、オーダーメイドの服、
本当に田舎町で1着20万くらいの服をオーダーメイドで販売していたり、いろんなことをしていたんですよね。
ですけど、将来的にはどんな小さなカテゴリーでもいいので、一番になりたかった。
それになれると思ったのが制服だった。
たまたま僕の市内唯一の高校が、僕たちがいたときは制服があったんですけれど、
制服が自由化されて、その後輩たちが着るものがないんだよね、自由な制服が欲しいんだよね、
だって私服なんだから私服で可愛いの着ればいいじゃないって言ったら、
衝撃的だと心に刺さった言葉があって、高校生なんだから、
私たちが一番可愛く見えるのは制服なんで、制服が着たいんだと。
じゃあ制服あったらよかったの?って言ったら、違うんだと。
自分が一番着たい制服を選べたら最高なんだと。
あのドラマや映画に出てくるようなあんな可愛い制服が着たいんだって言われたときに、
はっと思って、その子にどんなのだったらいいんだって言って、
たまたま一着オーダーメイドしたっていうところから始まったんですよね。
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知事 そうですね。それは想像して何年くらいですか?
高校生 多分4年目くらいの話だと思うんですよ。
知事 その後、制服のない学校の方々向けの制服作りといいますか、
制服の提供が順調に伸びていったということですか?
高校生 初めは一着オーダーメイドで作って、コストが全く合わなくて、
大赤字だった。友達に誰も言うなよと、そんなこと着ても大変だからと言ったのに、
一週間後くらいにはすぐ友達連れてやってきて、私も私もと言い出した。
これはもう大変でダメだからと言って、本当に小さな制服メーカーさんに、
いくつかの制服メーカーさんにこういう需要があるから、
ものづくりこういうふうに一緒にやらせてもらえないかと提案をさせてもらった。
そこで仕入れることから始まった。会社自体も本当にものづくりできるような
レベル感の会社じゃなかったですし、まずは、でも僕は企画の参加をする。
デザインですとかこういうものが必要なんだという企画のところに一緒に入らせてもらって、
他メーカーさんで作ってもらって仕入れたというのが前半戦ですね。
この展開を直営とFCでやっています。自社で培った顧客サービスのノウハウを活かせるのではないかと考え、
事業の多角として今回初めて介護やサービスを中心にM&Aを検討しています。
M&Aに関しては専門のサイトは知事の経営者から情報収集をしている段階です。
自分の中で正しいM&Aの判断基準がまだ確立できておりません。
新谷社長は多くの経営者の方とお会いし、M&Aに対しての見識も法制らっしゃると思います。
賠償するにあたって不利、有利なタイミングや見落としなさな点、気をつける点など、
とにかくこれを抑えておくべきだというポイントを何かお一つでもご教授いただきたいですということでいらっしゃいます。
素晴らしいですね、M&A。
M&Aはまず時代背景がございまして、景気が良いときは実は値段が上がります。
景気が悪いときは値段が下がります。景気が良いときは買いたい人ばかりになります。
景気が悪くなると売りたい人たちばかりになります。
ここが一番考えないといけないポイントでございます。
リーマーショックの後は売りたい人ばかりで値段が本当に安かったです。
値段の付け方はだいたい営業利益プラス原価消却の費用の3年分から5年分というのが今の時代だと思います。
当時リーマーショックの後だと1年分ぐらいから1年半分ぐらいで売り買いなされていて非常に安かったです。
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それが今では3年半分ぐらいから5年分ぐらいで売り買いでございますので、倍から3倍ぐらいの値段で売り買いになっています。
その点で今このタイミングでM&Aで買っていいのかというのが一番のポイントですし、
買った以上はそれと同等の収益をちゃんと取り返しにいかなきゃいけないので、
一つは値段という問題、タイミングと値段という問題があるというふうにご理解ください。
その次にM&Aはただ単に買えば儲かるというものではございません。
買った後、マネジメントもしなきゃいけませんし、そこでもっと収益を上げないとなりません。
そういう意味合いで御社のT社様の色に染めれる事業なのか、従業員たちなんだろうか、社員たちなんだろうかということも考えないとなりません。
GEという世界的な企業はクレドというのを持って、
このクレドをその買収した企業の徹底的に締め込ましてGEグループに入れていくということをやっていらっしゃるそうです。
そのことによってGEらしい事業に変わり、そして買ったときよりも高収益に変わってくるということをやっていらっしゃいます。
そういう意味合いで御社T社様の方針であったりとか、ビジョンであったりとか、また経営理念というものがまずあるかどうかというのがM&Aにとっては大変重要だと思いますし、
その経営理念をちゃんと浸透させ、御社様が考えていると同様に、買った事業の方も社員さんたちが色に染まっていくというようなことをしなきゃいけないんじゃないかと思います。
M&Aは単に事業を買うのではなく、通常は社員を買うという部分が一番重要なんじゃないかなと思います。
ですので、社員の方々をどうマネジメントし御社風にしていくのかということが次に考えるべきポイントではないかなと思います。
ぜひ、こんなことを参考にM&Aを仕掛けていっていただければと思います。
全国のお聞きの皆さんもぜひM&Aの時代でございますので、今ではどんな企業様でも売ったり買ったりするという時代をやってまいりましたので、ぜひ御検討いただければなと思います。
私の方もぜひ相談に乗ってまいりたいと思っております。
本日の3分コンサルティングはここまで。
最後までお聞きいただきまして誠にありがとうございました。
本日のポトキャストはここまでになります。
また来週お楽しみに。