本日のテーマは、こちら。
人生に感情の波を!無味乾燥を打破する思考、
というわけで、本日はお便りをいただいております。
吠えパネーム、たかしさんからのお便りです。
こんにちは、いつも楽しく拝聴しています。
たかしです。
さて、今回初めてお便りを出しますが、
いつも吠えラジで取り上げているような、
社会的な問題ではなく、
極めてミクロな心の問題なのですが、
ずっとモヤモヤしていたので、
思い切ってしたためました。
僕は一時期、ヨガ教室に通っていました。
ある日、男性の先生に、
僕は天気にその時の気分がすごく左右されるんですよ。
晴天の日は気分最高。
雨の日はなんだかこの世の終わりみたいに感じる時もあります。
とお話ししました。
すると先生は、
それはあまり良くないですね。
晴れの日も雨の日も、
心を平常に保って、
ただあるがままに事実だけを受け止めてください。
ああ、雨が降ってるなあ、とか、
ああ、今日は天気がいいなあ、とか、
と言われ考え込みました。
ヨガの発祥の地は仏教と同じインド。
なので、ヨガは仏教の影響を強く受けていると思われますが、
自分の身の回りで起きている事象は単なる事象として、
心は常にニュートラル、
なんてとーっても不自然。
というか、人生が味気ないものになる。
少なくとも自分には無理、と思いました。
そして、今でも天候や周りの環境に多大な影響を受けています。
快不快、好き嫌いで生きております。
さて、ウルフタンはこの件に関してどう思いますか。
汚い意見をお聞きしたいです。
よろしくお願いします。
というわけで、
たかしさん、お便りありがとうございます。
初お便りゲットだぜ。
極めてミクロな心の問題、いいじゃないですか。
ミクロじゃないけどね。
そういうお便りも僕は嬉しい。
可能な限りね、
ホエパの皆様には心身ともに健やかであれ!
と、僕は心から本当に願ってホエラジオを発信しているので、
第三者にとっては、
たかしさんだけのさ、ミクロな心の問題っていう人とか、
そう感じる人がいるかもしれへんけどさ、
たかしさんにとってはそうじゃないじゃない。
だからね、全然そんななんかミクロな問題とか気にせんと、
全然話してくれてありがとうって思ってます。
お便りありがとうございます。
ほんでさ、そのヨガの先生さ、
すごくない!?
なんかね、結論から言うと、
シンプルにこのヨガの先生すごいなって思ったのよ。
別に褒めてるわけじゃなくって、
どっちかっていうと嫌味とか皮肉めいてすごいなっていう風に僕は感じたんですね。
だってさ、神様が絶対言わなさそうなことをさ、
ヨガの教え子に説いてるっていうのが分かりますでしょうか。
ヨガやってらっしゃる方たち分かりますでしょうか。
偉そうにそんなことを言ってる僕はヨガに通ったことがないので、
ヨガのルーツとか全然詳しくはないんやけど、
でも周りにヨガの先生っておるんですよ。
そのヨガの先生いわく煩悩を捨てるとか、
欲がなくなるとか色々言うんですよ。
僕の周りのヨガの先生って。
でもさ、それっておかしくない?
だってお釈迦様は長い座禅の末にこうおっしゃってますから。
悟れないことを悟った。
こんな風にお釈迦様はおっしゃってますから。
もっと言うとですね。
私たちの心は欲望にまみれ、人生は苦悩に満ちているが、
それを客観的に見つめる本来の自己は絶対症状なのだって言ってるんですよ。
これちょっとね、どういうこと?っていう風に皆さんなると思うんですけど、
僕も最初聞いた時はってと思ったんですけど、
これはね、欲望も苦悩もあって当たり前なんです。
それが人生なんです。
それを客観的に、あ、今僕の心は欲に支配されてるとか、
あ、今自分は小さなことに躓いて苦しんでる、悩んでるんだって客観的に見ること。
それこそが清らかで煩悩の穢れがない状態である、
薄汚い欲にまみれた心も苦悩も苛立ちもあっていいんですよ。
あって当たり前のことなんですよ。
だからさ、そのヨガの先生がおっしゃった、
それはあまり良くないですねっておっしゃった意味がよくわからないんですね。
自傷を自傷として受け止めてくださいっていうおっしゃったらしいけど、
じゃあ、たかしさんの心の中で起きた、
もうこの世の終わりみたいや、今日はもう雨でこの世の終わりみたいやーとかっていうのをさ、
自傷じゃないですか。
心の中で起きてる自傷じゃないですか。
それをありがまま受け止めろっていうふうにお釈迦様は説いてると僕は思うんですよ。
心に起きてる異変を抑え込めとはお釈迦様おっしゃってないはずなんですよね。
で、ここまで言ったら、あ、なるほどねって皆さん思ってくださったと思うんですけど、
僕はさらに言うと、このヨガの先生にツッコみたいなのは、
じゃあさ、お前の家族、子供とか親兄弟が殺された時さ、腹立たないって聞きたいんですね。
あ、子供が殺されてしまった。親兄弟が殺されてしまった。
でもこれも事実だからありのまま受け止めればならない仕方ないなーって思えるの?って話なんよ。
僕が仮によ、僕の大切な人が何者かによって殺されたりとかしたら、
絶対に許さへん。絶対復讐する。
極刑になるまで裁判で戦ってやるとかって思うもんね。
でもこれを思うのは良くないって先生はおっしゃってるんですよ。
もうその感情をふさぎ込めとおっしゃるんでしょうね。
ちょっと例が極端やけどさ、同じことやと僕は思うんでしょう。
天気の話なんていわば氷山の一角みたいなものでさ、
もっと広くもっと大きな視野でその話を捉えれば、
先ほど申し上げた自分の家族が何者かに殺された、その殺した相手を復讐したい。
自分の大切な人間をこの世から奪った相手のことが憎いって思うのは、
僕は当然やと思うんですけど、そう思うなっておっしゃってるのと、
ほぼ同じことやと僕は思うんでしょうね。
スケールの代償はあるけれども、同じことをたかしさんに回答として先生がおっしゃってるから、
僕はその先生すごいなというふうに思ったんですよ。直感的に。
例えばさ、それでたかしさんが雨の日にこの世の終わりなんやみたいなふうに感じちゃって、
辞書行為とかしちゃいます、立派とかしちゃいますっていうふうに言うのであれば、
それは良くないかもねって僕も言うと思います。
こんな薄汚い世の中、終わっていく世の中なんて滅んでしまえみたいな、
終末論みたいなことを唱え始めたらさすがにやばいなって思うし、
それが結果通り魔みたいなことをしてはったら、
それはやめよう、犯罪やからさすがに良くないよっていうふうに言います。
さすがにそれは良くない。でもそこまでしてないでしょ。
自分の中でちょっと気持ちが浮いたり沈んだりすることがあるっていうだけじゃないですか。
その原因がお天気やっていうだけじゃないですか。
それ以上でもそれ以下でもなくって、
それの結果、他人に迷惑をかけたり自分を傷つけたりしてなかったら、
全然良くないって思うんですよ。
大切なのはその振り回されたことによって誰かを傷つけたり、
自分を傷つけたりしてないっていうことなんじゃないかなっていうふうに僕は思うんですよね。
晴れの日は晴れの日にしか見えない景色があるし、
曇りや雨の日には曇りや雨の日にしか見えない景色があるっていうことだと思うんです。
晴天の日は気分最高でさ、
雨の日はこの世の終わりみたいっていうふうに感じる日があるっていうのはさ、
それだけ身の回りの環境とか自然を感じてるって証じゃないのっていうふうに僕は思うんですよね。
ヨガって悟りをなんか心を開いてどうのこうの自然と一体化してどうのこうのとか言ってそうなさ、
まあ嫌な言い方しますよ。あえて嫌な言い方しますけど、
現代版オシャレヒッピーみたいなイメージが僕の中で偏ったイメージがあるんですよ。
バカにしてるわけじゃなくてめちゃくちゃメンズヨガとか行きたいと思ってるんで、
フラットにヨガのことを何も知らない人の世間のイメージってこんな感じじゃうかなって僕は思ってるんですよ。
現代版オシャレヒッピーあるいは意識高い系ヒッピーみたいなね。
それがね、もしね、表現の仕方がちょっと不適切かもしれないですけれど、
大体のイメージがそういうものであっているのであれば、
たかしさんが天気によって気分が作用されてしまうっていうのは、
よっぽどこう自然と一体化してるというか、
ヨガの心の開き方とかってそういうことじゃないのって自然と一体化するみたいな、
自分はこう自然の一部だと感じるみたいなものだったらさ、
雨の日はちょっと気分が落ち込むとかさ、
晴れの日は天気がいいとすごい気分が上がるとかっていうのはさ、
むしろそっちの方がよりヨガの心を得てるんじゃないかしらっていうふうに僕は思うんですね。
素人の考えなんでわかんないですけど、
なんか先生の話を聞いてるとヨガの目的はもう何も感じなくなることなんですか?
っていうふうに聞きたいんですよね。
うーん、なんかヨガってそういうもんなの?みたいな。
無の境地に行き着くっていうか何も感じなくなることがヨガなの?っていうふうな感じがするんですよ。
だから僕はどっちかって言うとたかしさんの意見に賛成派というか、
人生っていくつもいくつも浮き沈みがあっていいと思うんですよ。
てか、あるべきなんですよ。いくつもいくつも浮き沈みがあるべきなんですよ。
それはね、自称としてもそう。
嫌なことをされた、言われた、ついてないことがあった、逆に嬉しいことがあった、励まされた、前に進もうと思えた。
そういうたくさんの良いことも悪いこともいっぱい自分の中で受け止めて受け止めて、
自分の中に取り込んでようやくいっぱい自分の内側から感情が沸き上がってきて、
それを表に出したり、自分の中で必要に応じて押し殺したり、状況や相手によってそれも変わって、
そうやって少しずつ少しずつ自分っていうものが形成されていくんや、というふうに僕は考えてるんですね。
それが生きるということなんじゃないんでしょうか。
何事に対してもただ自称として受け止めることを強要するっていうのはね、ある意味楽な生き方かもしれへんよね。
解釈をつけないということですから。虚無でしょう。何も感じてないわけでしょう。
それってめちゃくちゃ省エネな生き方ではあるよね。
やっぱヒッピーっぽいなって僕は思うんですよ。
でも全員が全員100%そんな生き方が仮にできるのであれば、
とっくの昔にこの世界から争いはなくなってるでしょうし、宗教なんて滅んでるでしょう。
ここまでいろんな文明や技術も進歩することはなかったと思うのよ。
不便を感じる人がいたり、不安があるからこそ宗教が生まれたりだとか、便利を追求して今の技術発展があったりだとか、
病気を恐れたり死を恐れる人がいたから医療が発展した。
そういったことを先生はすべて否定なさってると思うんですよ僕はね。
先生のおっしゃってることはそれと同義だと思うんですよ。
不便なことをただ不便だと思え、そこからもっと便利な生活を送りたいとかっていう風に望むな。
病気や死が目前に訪れていても、今俺は病気で死にかけている病気なんだという風に受け入れろということなんですよ。
もっと生きたいとか思うなということなんですよ。
先生が高瀬さんにおっしゃったことのムカつき具合から言うと、
もうほんまに大切な人を奪われても心をニュートラルにしてたらお前のその発言も認めたるわって言いたかったんですけど、
なんかそれは言ったらあかんような気がして心がとがみました。
でもほんまにそのくらいのことができて初めて高瀬さんの心の在り方を否定するに足る存在になり得るんじゃないでしょうか。
それは仏教の教えを説いた釈迦にすらできなかったことなのでね。
まあ凡人である我々には到底できるわけがないんですよ。
その先生は多分そのヨガの心得みたいなのをわかった気になってるだけじゃないのって、
ほんまに自分の中でしっかり噛み砕いて噛み砕いていろいろ考えてその結論に至ったのというふうに僕は聞きたいですね。
その先生は仏をも超えるような発言をなさってるってご自身で気づいてないんですよね。
そこまでの浅いところでヨガっていうものを多分取り組んでらっしゃるんちゃうかなというふうに僕は思うんですよね。
まあね長々と宗教とか悟りとか仏教とか僕の浅い知識で見た僕の考えおよびその先生への文句、イチャモンっていうのがここまでです。
お前がしっかりほんまに何事にも対して万物の何事にも対してニュートラルになったことを証明できるようになってから、
てめえの価値観を人様に押し付けてくださいっていうふうに思いました。
でここからはね僕が個人的にたかしさんに伝えたいことというかたかしさんに語りかけたいことになるので、
一方的な気に入らなければ独り言だと思って聞き流していただいて結構なんですけど、
たかしさんの感覚僕は間違ってないと思いますということを僕は伝えたい。
自称と解釈の話っていうのはホエラチシーズン2 No.16の自分らしさを守る方法でもちらっとお話ししてるんですけど、
そことも近いかなっていう気がするんですね。
自分の身の回りで起きている自称は単なる自称として心は常にニュートラルなんてとっても不自然というか人生が味気ないものになるってたかしさんがお便りに書いてらっしゃったんですけど、
まさしくそういうことだと僕も思います。
僕からしてみればそのニュートラルな状態を貫くっていうのは逃げでしかないです。
弱い人間の逃げ方です。
僕そういうのでっきない。
あのね、逃げるのが悪いとは思わないですよ。
自分が耐えられへんぐらい辛い出来事とかであればじゃんじゃん逃げたらいいと思う。
逃げて逃げて逃げた先に自分の居場所を見つけることもあるから逃げたらいいんですよ。
でもさ、その逃げとこういう逃げっていうのはちょっとニュアンスが違うんですよ。
心が押しつぶされそうになってる人間の逃げとは全然違うんですよね。
この先生がおっしゃる心を常にニュートラルに保ちなさいっていうのは
自分がちょっと楽になるための逃げなんですよ。
その代償として人生という味のしないフルコースをひたすら食べてるみたいな感じなんですよね。
それって楽しいんかねって僕は思います。
別にそういう生き方を選んでる人たちに対して逃げるなとか
それって楽しいのとか
なんかこう僕の価値観を押し付けるつもりはないくって
もうお好きにしたらええんちゃうと思うんですけど
でも僕からしてみればただ
この人薄っぺらい人間やなっていうふうに思うんですよ。
感想ですねこれは。
別に押し付けとかじゃなくてただの僕の一個人の感想です。
薄っぺらい人間なんですね逃げるんですねって思うだけ。
小林寺でこうやって時々くだまいて文句言ってるのもさ
自分の中にあるフラストレーションやったりとかさ
今回やったらたかしさんのお便りを通して僕が感じた苛立ちとか
僕自身が自分が感じた気持ちを大切にして向き合ってるからできることなんよね。
それをニュートラルな状態で見てみぬ振りすることはできると思います。
でそれって楽なことやと思うんですよ。
正直ねだって感情の起伏がないからさ
エネルギー使わずに済むわけよ。
でもさたかしさんの言う通りさ
それの代償はすごく不自然で不健康で味気ない人生を手にするのよ。
僕はねそれがそんなに面白い人生になると思えないですね。
僕はさ世の中って甘くないなって思うんですよ。
世の中ってほんまにすごくすごく甘くないのよ。
すごくすごく厳しいのよ。
あのね僕嫌いな言葉があるんですけど
頑張ったら報われるっていうことはすごい嫌いなんです。
頑張ったからって報われるわけないのよ。
頑張ったら頑張った分だけ誰かが評価してくれるなんてこともこの世の中にはないんですよ。
それはポッドキャストにしてもそうだしキッチンカーにしてもそうなんよ。
僕は僕なりに一生懸命やってて
多分両方とももっと器用な人だったらもっとうまくやることもできるかもしれへんし
もっと頑張ることもできるかもしれへんけど
僕には僕の戦い方があって僕に与えられた武器で必死に逆境を生き抜こうと常に頑張ってきてるんですね。
その中でさ同じような悩みや苦しみにぶつかっている仲間がおったり
先を行く人を羨ましく思ったり
応援してくれる人がいるからまた頑張ろうと思えたり
そういうのがさ僕はたまらなく好きなんですよ。
だからねこのうまくいかないとか僕に対して全くもっと優しくないこの意地悪なこの世界が僕は好きなんです。
優しくないから人生って甘くないから
だからこそ何度でも這い上がって立ち上がって負けへんぞって思えんの
絶対負けるかって思うの
だからこそ自分の周りの人たちやキッチンカーで僕の料理を食べてくれた人
ホエラジオ聞いてくれるホエパンのみんなをできるだけ笑顔にできるように頑張ろうって思うの
みんながみんなニュートラルな状態で平和な世の中ならこんなこと考えへんよ
ホエラジオみたいにわわくだまいてみんなを笑顔にできるようになんて思わへんよ
だってニュートラルなやもんみんな別にそんなこと望んでないし
笑いもしなければ沈むこともない
別にこんなこと求められへんわけニュートラルの世界やったら
それって楽しい?
僕はねつまらんですわ
しんどい時とか辛いことを知ってるから
嬉しい時や楽しい時に幸せを感じるんじゃない?
苦労するから成長したり成功したりした時に
頑張ってよかったって涙したり笑ったりできるんじゃないの
偏見で物を言うたらあかんと思うねんけど
ニュートラルでおるっていうのはさ
そこまで頑張ってない人生なんやと思うよ
ほんまは自分の中でまだ頑張る力も楽しむ力もめちゃくちゃ残ってるのに
そういう全部を放り投げて楽な方に流される生き方を選んだっていうことやと思うんです
自分の中で自分の限界を決めてるっていうことやと思うんですよね
そういう人たちには100%出し切ってみてって思うんですよ
自分の中の100%を出し切ってみてって
僕は150%頑張って出し切るからって
ポッドキャストにしてもそうですよ
コロナになって声がカツカツのまま配信したこととかあるし
そのまま熱40度とか出とって
マジで震えるほどしんどい
震えるほど横になりたいって思いながら編集してたこととかもあるよ
それはさ今考えると聞き手のね
リスナーの皆さんにとっても聞き苦しい配信やったろうなと思うから