映画の独特な雰囲気
はい、よろしくお願いします。この映画、一度見ると、なんとも言えない、独特の雰囲気に引き込まれつつも、やっぱり多くの疑問が残る作品ですよね。
本当にそうですね。
あなたもきっと、混乱と魅力の正体を知りたいと、そういう感じでいらっしゃるのかなと、資料からもその熱意が伝わってきました。
ええ、何度見ても新しい発見があるというか、深みにハマっていくような感覚がありますからね、この映画は。
そうなんですよね。この作品に関する議論で、特に面白いなと思うのは、見れば見るほどむしろわからなくなる、なんて言われたりするところで。
ああ、はいはい。
まるで迷宮ですけど、手元の資料を頼りに、その確信にちょっと迫っていきたいなと。
まず、資料全体でやっぱり強調されているなと感じたのが、この映画が大きく二つのパート、つまり夢と現実から成り立っているというその構造ですね。
そうですね。そこが議論の出発点になることが多いですね。
前半の、ベティとリタが出てくるパート、なんかこう、どこか非現実的で、ちょっと甘味な雰囲気すらありますよね。
ええ、ありますね。で、まあ、あなたが注目されていた資料の一つにもありましたけど、この前半部分を、そのダイアンの理想化された願望、彼女が見たかったであろうハリウッドの姿を描いているんじゃないかと。
ああ、なるほど。願望の投影。
そういう見方ですね。で、あの青い箱、あれが開かれることで、まあ夢が崩壊して、後半のより厳しい現実パートに移っていくんだと。
なるほど、なるほど。私の手元のメモにも、まさにその二つのパートの対比、希望に満ちた、まあそう見える世界と、もう一方は嫉妬とか失敗とか、もっと言うと殺意とか、そういうものが渦巻く世界。この対比が鍵だって書かれてました。
へー、前半のあのある種の純粋さが、後半の現実の苦さとか、ドロドロした部分をより際立たせるんですよね。
うーん、確かに。その落差が観客に与える影響をすごく強くしてるんでしょうね。
そう思います。
それでですね、次に多くの資料が取り上げていたのが、やっぱりあのクラブシレンシオのシーン。
ああ、シレンシオ。
舞台上の人が、これは全部録音だって、スペイン語でしたけど言ってるのに、登場人物も、そして私たち観客も、心を揺さぶられてしまう。これ一体どういうことなんだろうって、資料の中でもいろいろな意見が。
ええ、ありましたね。ある分析なんかだと、これを感情っていうのは必ずしも論理とか、その客観的な真実だけで動くわけじゃないんだっていう、人間の心のありを示してるんじゃないかと。
なるほど、真実じゃなくても感情は動くと。
そういうことですね。一方で別の視点、あなたが特に線を引かれてたところですが、これをリンチ監督からハリウッド、つまりエンタメ産業そのものへのある種の批判的な目線、皮肉なんじゃないかと。
ああ、ハリウッドへの批判?
ええ、虚構とか作り物で人を感動させる、その構造自体をこう見せているんじゃないかと。
作り物だってわかってるのに、それでも感動してしまうっていうのは、なんだか映画体験そのものをメタ的に描いているようにも感じますよね。
まさにそうともとれますね。
それからカウボーイとか、ウィンキーズの裏庭に出てくるあのちょっと怖い怪物とか。
はいはい、あの人。
あと謎めいた殺し屋とか、そういう断片的な要素、これらについては資料の中でも結構解釈が分かれてましたね。
そうですね。無理に一つのストーリーラインに綺麗に組み込もうとするんじゃなくて、夢の中に出てくる不条理な断片として捉えるのが自然じゃないかっていう意見が多かったように思います。
夢の中の断片?
ある分析ではこれらをダイアンの潜在意識にある恐怖とか罪悪感、あるいは彼女が感じているハリウッドの権力構造みたいなものの象徴として見てましたけど、
でも別の論考だと、いやこれらはそもそも意味を探すためのものじゃなくて、夢が持つ脈絡のなさとか非伝続性、それをそのまま提示しているだけなんだという主張もありましたね。
なるほど。意味づけを拒否しているというか。
そういう見方もできますね。あなたご自身はこれらの要素どういう印象でした?
私が特に印象に残ったのは、ベティーがオーディションで見せる驚くような表現ぶりですね。
ああ、あのオーディションシーン。
フガンの彼女からはちょっと想像もつかないような激しい演技をするじゃないですか。
え、すごかったですね。
資料には、あれこそがもしかしたら現実のダイアンが持っていたかもしれない才能、あるいはその現実では満たされなかった願望、みたいなものが夢の中でだけ爆発的に現れた姿なんじゃないかという考察がありました。
それは非常に面白い視点ですね。あのシーンは現実のダイアンの演技、つまりどこか自分をにせよって生きていた部分と対比させて読むこともできますし。
ああ、なるほど。
クラブシレンシオのシーン
さらに資料が指摘していた点ですけど、現実パートでダイアンがウェイトレスとして働いているダイナー、あそこのウェイトレスの名札がベティーじゃなくてダイアンになっている。
ああ、そうでしたね。
あれは夢の中でさえ彼女自身の自己評価の低さとか、そういうものが反映されているようで、なんとも痛ましいですよね。
うーん、確かにそういう細かいところに仕掛けがあるんですね。
ええ。
こういう解釈をいろいろ見ていくと、リンチ監督の手法がいかに独特かっていうのがよくわかりますね。
資料にもありましたけど、登場人物にさあこれは夢ですよって説明させるんじゃなくて。
そうなんです。
映画の構造とか雰囲気とか、全体で観客にあれ?これって夢なのかな?って感じさせる。
まさに明確な答えをポンと与えるんじゃなくて、観客を論理で理解させるんじゃなく、もっと感覚的な体験に誘い込むというか。
うーん。
だからこそ、観終わった後に、自分がすごく奇妙な夢から覚めたような割り切れない感覚だけが妙に強く残るんでしょうね。
ええ。あなたの資料にも、理解しようとすればするほど霧の中に迷い込むようだ、みたいな感想が書かれてましたけど。
ああ、ありましたね。
それってすごくこの映画の本質を捉えてる感じがします。
ええ、そうかもしれません。
それから影響関係についても、いくつかの資料で触れられてました。特にあのビリー・ワイルダーのサンセット通り。
はいはい、サンセット通り。
落ちぶれた大女優のその妄想とか現実逃避っていうテーマは確かに通じるものがありますよね。
ええ、ホリウッドの光と影、成功と転落、そして自己疑問といったテーマ性において強い共鳴関係が見られますね。
ええ。
アイデンティティの問い
それからもちろんリンチ監督自身のツインピークス、これとの関連も指摘されていました。
不可解な事件とか、二面性を持つ女性像、現実と非現実の境界が曖昧になっていく感じとか。
ああ、確かに。ツインピークスとも共通する雰囲気すごくありますね。
ええ、リンチ作品に共通する要素がこの映画にも色濃く反映されている。
資料を横断して読んでいくと、これらの作品群が共有しているアイデンティティの揺らぎみたいなテーマが浮かび上がってきますね。
なるほど、アイデンティティの揺らぎか。
つまりこの映画っていうのは、頭で理解しようとするパズルってよりは、もっと心とか体で感じるべき体験なんだということなんでしょうか。
うん、そう思いますね。
意味がよくわからないのに、なぜか泣けたり、怖いんだけど目が離せないみたいな、そういう混乱した感情自体が重要なんだと。
その通りだと思います。資料にあった、わかるためではなく沈むための映画っていう表現。
ああ、ありましたね。
あれはまさに的押しでいるなと感じます。論理的な整合性を無理に追い求めるんじゃなくて、映像とか音とか、そして感情の波に身を委ねてみる。
その混乱とか割り切れなさの中にこそ、この映画が提供してくれる独特の価値があるし、もしかしたら夢っていうものの本質に近い体験なのかもしれませんね。
というわけで、今回はあなたが集めてくださった資料をもとに、マルホロランドドライブの世界をかなり深く探求してきたわけですけども、
なかなか単純な答えが出る作品ではないですけど、その分豊かな問いを投げかけてくる、そんな作品の魅力の一端に少しは触れられたんじゃないでしょうか。
そうですね。なぜこれほどまでに多くの人々が、このある意味何回とも言える作品に引きつけられて語り続けるのか。
それはやっぱり、私たちの無意識の領域とか、あるいはハリウッドっていう夢を生み出す工場の光と影。
そして誰もがどこかで抱えている自己同一性の問題とか、現実認識とは何かみたいな普遍的な問いに非常に深く、そして何というか心をかき乱すような形で触れてくるからなんでしょうね。
心をかき乱す、まさにそんな感じですね。
最後に、じゃあこの探究を踏まえて、あなたにこんな問いを投げかけてみたいなと思うんですが。
深い問いですね。そしてもう一つ。
クラブ試練師用の体験が示すように、もし私たちの感情が客観的な真実だけじゃなくて、巧みに作られた物語によっても深く動かされるのだとしたら、私たちの感情とか、あるいは信じているこの現実っていうのは、一体どれほど確かなものだと言えるんでしょうかね。