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もし、今ここにいるあなたが、四次元に存在する本体の影に過ぎないとしたら、そしてあなたの過去、現在、未来が、実はすべて同時に存在しているとしたら、どう思いますか?
今回お預かりした資料をもとに、そんな壮大な仮説を一緒に探っていきたいと思います。
私たちが三次元の影で本体は四次元にあるかもしれないという考え方です。
この視点を通して、時間や運命、そしてあなた自身の存在について、全く新しい角度から光を当ててみる。それが今回の探求の目的になります。
このテーマ本当に面白いですよね。一見するとSFの世界の話に聞こえるんですけど、資料にもあったように、これは物理学とか哲学の世界でもう大真面目に議論されていることなんです。
特にアインシュタインの相対性理論以降、時間と空間って切り離せない時空として捉えられるようになりましたから、今日の話はそうした科学の最先端の考え方と、実は血続きになっているんですよ。
なるほど。科学と哲学の交差点にあるような話なんですね。
では早速その確信に迫っていきたいんですが、正直に言って最初の私たちは四次元の存在の影だっていう時点で、もう頭がワッていっぱいなんです。これ一体どういう意味なんでしょうか。
その感覚すごくよくわかります。私たちの常識とはかけ離れていますからね。資料にあった手の影の例がこの概念をつかむ第一歩になると思います。
ああ、あれはハッとしました。壁に向かって手で影を作ると、壁に映るのは平面的な奥行きのない二次元の影ですよね。
そうですそうです。
でもその影を作っている僕の手は厚みも奥行きもある三次元の立体物。つまり影からすれば自分の本体はどんな立体でどんな厚みを持っているかなんて絶対に理解できない。
その通りです。二次元の影が見ているのは三次元の本体のほんの一つの断面にすぎないんです。
断面ですか。
ええ。この関係を一つ上の次元にスライドさせてみてください。つまり私たちが生きているこの三次元の世界が影で、その本体が四次元空間に存在する何かだとしたら、私たちはその本体の断面を生きているにすぎないのかもしれないというわけです。
僕らが壁の影と同じような存在だと。
そういうことです。
そう考えると僕らが認識しているこの世界が全てではないかもしれないって気がしてきますね。資料にはもう一つリンゴの輪切りの例もありました。
ええ。あれも秀逸な例ですね。リンゴを薄くスライスしていくとたくさんの輪切りができますよね。
はい、できますね。
私たちが認識している今という瞬間がその一枚の輪切りだと考えてみてください。
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ああ、なるほど。
私たちはその一枚の断面しか見ることができない。でも、四次元の存在はその重なった輪切り全体、つまりリンゴという果物そのものを一度に丸ごと認識しているというイメージです。
なるほど。僕らは輪切り一枚一枚を順番に体験しているだけと。そういえば、この次元の違いによる認識の限界を描いたフラットランドという古典小説がありましたね。
よくご存知で、19世紀の小説ですがまさにこの問題を描いています。
二次元の世界に棲む正方形がある日突然自分の世界を通り抜けていく三次元の球体と出会うんです。
ほう。
正方形にとって球体はただ大きくなったり小さくなったりする円にしか見えない。自分の常識を超えた存在をいかにして理解するか。これは三次元にいる私たちが四次元を考えようとするときの思考のヒントに満ちていますね。
いやあ、影とか輪切りとか、自分の存在がなんだか頼りなく感じてきますね。でもこの話の本当に頭が混乱してくるのはここからです。
資料を読んでいて一番衝撃だったのが、四次元の世界では時間は私たちが知っている流れではなく空間のようなものだという部分でした。
これどう考えればいいんでしょう。ここが核心部分ですね。この考え方を物理学の世界ではブロック宇宙論と呼んだりします。
ブロック宇宙論。はい。
文字通り、宇宙の始まりから終わりまでのすべての出来事が一つのブロックのように固まって、時間も空間もひっくるめてドンと存在しているという理論です。
ブロックですか?過去も未来も全部がひとまとめに?
そうです。資料にあった映画のフィルムの例えが分かりやすいかもしれません。私たちは今スクリーンに映し出されているたった1コマ、つまり現在しか見ることができません。だから時間が流れているように感じる。
でも映写室にいる映写技師、つまり四次元の存在はその映画のフィルム全体を手に持っている。
あなたが赤ん坊だった頃のコマも、まだ見ていない人生の最後のコマも、そのフィルムの上には物理的に同時に存在しているんです。
うわぁ。つまり僕が来週迎える大事なプレゼンも、子供の頃に転んで泣いた記憶も、この理論で言えば優劣なく等しくそこにあるだけということですか?
そう考えると未来への不安が少しだけ客観的に見えてくるような気もします。
まさにその感覚です。本の例えも同じですね。私たちは物語を1ページずつ順番に読み進めるから時間の流れを感じる。
はい。
でも本そのものには最初から結末までの全ページが同時に存在しています。あなたの人生も壮大な一冊の本なのかもしれない。
はぁ。
アインシュタインが友人の死に際して送った手紙に、過去現在未来の区別は単なる収容な幻想に過ぎないという一節がありますが、これは詩的な表現ではなく物理学的な世界観に基づいた言葉なんですよ。
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未来がフィルムや本のようにもうそこにある。
うん。
そうなると当然一つの巨大な疑問が湧いてきます。僕たちが何かを選んだり努力することに一体どんな意味があるんでしょうか。
どうせ結末は決まっているわけですよね。これは昔から続く決定論と自由意志の大きな問題につながりますね。
ええ。避けては通れない問いです。この四次元理論の立場に立つと、私たちの選択や行動はすべてフィルムに焼き付けられていて、それをなぞって体験しているだけだという、まあある種の決定論的な考え方に行き着きます。
そうですよね。でも、映画の登場人物は意識を持っていないじゃないですか。僕たちは自分で選んでいるという強烈な感覚を持っています。その感覚そのものが壮大な勘違いだと言われると、なんだか少し不須なしくなりませんか。
素晴らしい指摘です。そこがこの問題の最も深い部分ですね。確かに不なしいと感じるかもしれません。でも、視点を変えてみましょう。
三次元にいる影であるあなたにとっては、その自分で選び、悩み、決断しているという体験そのものが紛れもない本物なんです。
体験そのものが本物。
そうです。結末が決まっている映画だとしても、その中で登場人物が感じる喜びや苦しみ、葛藤はそのキャラクターにとって100%リアルですよね。
はい、まあそうですね。
4次元の存在がフィルム全体を俯瞰しているとしても、実際にその一コマ一コマを生きているのは、三次元のあなただけなんです。
もしかしたら、人生の意味とは、結末を変えることではなく、その物語をいかみ深く味わい体験し尽くすか、という点にあるのかもしれません。
なるほど。結果ではなく、プロセスそのものに価値があると。ただ、それでもまだ引っかかる部分があります。その考え方って少し危険な気もするんです。
どうせ決まっているなら努力しても無駄だとか、悪いことをしてもそうプログラムされてたんだから仕方ない、みたいに考えてしまう人も出てきませんか?
それも非常に重要な問いですね。責任の所在が曖昧になるという懸念は当然です。
しかし、こうも考えられませんか?
あなたの人生が一冊の本だとして、その物語はあなたの性格、経験、価値観といった無数の要素が絡み合って必然的に積もがれていくものです。
ある場面であなたが下す決断は、たとえ決まっていたとしても、それはあなたというキャラクターにとって最も自然で論理的な選択なんです。
4次元の存在は、その結末を知っているだけでなく、なぜこの人物がこの場面でこのような選択をしたのかという、その因果関係のすべてを理解しているのかもしれません。
つまり、あなたの選択は、決まっているからこそあなたという人間の証明そのものになる、という見方です。
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僕の選択が僕自身を証明する。
そうか、無意味なのではなくて、むしろそれこそが僕の物語の核心だと、少し見え方が変わってきました。
そうなると次に気になるのは、その僕たちの人生というフィルムを映し出したり、本を書いたりしている4次元の本体とは、一体何者なんだ、という点です。
資料にもいくつか面白い仮説が載っていました。
ええ、ここからは一気に創作の領域が広がりますね。
まず一番シンプルなのが、高次元に存在するもう一人の自分という説、3次元の僕が影で4次元の僕が本体だという考え方、それからもっと宗教的なすべてを観察する神や創造主のような存在という説もありました。
SF的なものだと、遥か未来で超進化した未来の人類が過去のシミュレーションとして私たちを観察しているという説もありますね。
ああ。
イーロン・マスク氏の発言で有名になった、私たちが高度なコンピューターシミュレーションの中の登場人物で、4次元の存在はその管理者やプログラマーだというシミュレーション仮説もこのバリエーションと言えるでしょう。
さらに壮大な話になると、宇宙全体が一個の巨大な意識を持っていて、僕らはその宇宙意識が自分自身を体験するためのいわば目や手足のようなものだという考え方までありましたね。
ただ資料ではもう少しゾッとするような可能性も示唆されていました。
と言いますと?
例えば、私たちは4次元の存在にとって、水槽の中の熱帯魚を眺めるような、飼育されている観察対象に過ぎないのかもしれない、という可能性です。
うわあ、それはかなり不気味ですね。僕たちの人生のドラマが、彼らにとってはただのエンターテイメントや研究対象だとしたら。
あるいは、壮大な芸術作品や実験である可能性も否定できません。私たちの喜びも苦しみも、すべてが干渉されるために用意された演出だとしたら。
うーん、もちろんこれらはすべて仮説の域を出ません。影である私たちには、本体の正体を完全に理解することは、原理的に不可能だと言えるでしょうね。
その不気味な水槽のイメージは一旦脇に置いておいて、この四次元理論をもう少しポジティブな現象と結びつけて考えてみたいです。
資料では、天才と呼ばれる人々の存在に触れていて、この部分が非常に興味深かったんです。
彼らは、もしかしたら無意識に四次元の世界にアクセスしていたのかもしれない、と。
ええ、非常に示唆に富む視点ですね。
例えば、作曲家のモーツァルト。彼は、曲は完成した状態で、一瞬にして頭の中に鳴り響いた、と語ったそうです。
部分的に作っていくんじゃなくて、最初から最後までオーケストラの全パートの音が同時に聞こえて、それをただ楽譜に書き写すだけだった、と。
うーん、これって、まさに映画のフィルム全体を一度に見るという感覚に近いですよね。
おっしゃる通りです。インドの天才数学者ラマニュジャンも面白い例です。
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彼は、複雑な数学の公式を、証明のプロセスをスキップして次々と発見しました。
へぇー。
本人曰く、夢の中で神様がやってきて、自他に数式を書きつけてくれる、と。
常人には理解不可能な方法で、彼は宇宙の真理に触れていたんです。
画家のピカソが言い残した、「私は探さない、見つけるのだ。」という言葉も、この文脈で捉え直すと、すごく意味が深まりますね。
ええ。
ゼロから新しいものを創造するんじゃなくて、どこかに既に存在している完成形を発見して、この三次元の世界に持ってくるだけだ、と。
そうなんです。これらの逸話を総合すると、天才たちのインスピレーションとは、
四次元空間に普遍的に存在する音楽や数式、芸術といったイデアのようなものを、三次元にダウンロードする作業だった、と解釈できます。
ダウンロードですか?
ええ。彼らは受信感度の高いアンテナを持った、優れた翻訳家だったのかもしれません。
なるほど。じゃあ、僕がシャワーを浴びているときに、「今日の夕飯どうしよう。」ってひらめくのも、四次元からのダウンロードだと思ってもいいですかね?ちょっと壮大すぎますか?
はは、小規模なダウンロードかもしれませんね。でも、その感覚はバカにできないんですよ。
アイディアが天から降ってくる、とか、ふと思いつく、という経験は誰でもあるはずです。
まあ、ありますね。
そうした瞬間は、あなたと四次元の世界の接続が、ほんの一瞬強くなった証なのかもしれませんよ。
そう考えると、日常の小さなひらめきも、なんだか神秘的に思えてきますね。
さて、天災の話から、今度はもっと根源的な、僕ら全員に関わりテーマに移りたいと思います。
この理論を突き詰めていくと、一番気になるのが、「じゃあ、死んだらどうなるの?」という疑問です。
フィルムが終わったら、それで本当に終わりなんでしょうか?
この理論が、私たちの姿勢感に与える影響は非常に大きいものがあります。
結論から言うと、「死は終わりではないかもしれない。」ということになります。
終わりじゃない?
ええ。再び映画のフィルムの例えに戻りましょう。
死は人生という映画のラストシーンではありますが、フィルム自体が消えてなくなるわけではありませんよね。
ああ、そうか。
四次元の視点から見れば、あなたが生まれた瞬間のコマも、生きている間のコマも、そして死ぬ瞬間のコマも、すべてが等しく、そして永遠に存在し続けているんです。
つまり、四次元の本体のレベルでは、生と死の区別すらないのかもしれない、ということですか?
そういうことになります。資料の推移と行為のアナロジーが、この感覚を捉えるのに役に立ちます。
はい。生きている状態が推移で、死んだ状態が行為だとします。
見た目や性質、つまり三次元だの状態は全く異なりますが、その本質はどちらも同じH2Oです。
なるほど。
それと同じように、生きているあなたも死んだあなたも、その本質は四次元の本体として変わらず存在し続けており、
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ただ、三次元における現れ方が変化したに過ぎない、と考えることができるんです。
形が変わるだけで消滅するわけではない。その考え方は、死への恐怖を少し和らげてくれるかもしれない。
三次元の身体としての終わりは訪れるけれど、僕という物語、僕の存在そのものがなくなるわけではないと。
もちろん、三次元を生きる私たちにとって、愛する人との物理的な別れが悲しいことに変わりはありません。その体験は本物です。
ええ。
しかし、この四次元の視点を持つことで、その悲しみに一つのレイヤーを加えることができる。
この三次元の世界ではもう会えないけれど、その人の存在、その人の人生という物語は永遠に失われてはいない、と。
この二つの視点を同時に持つことで、死というものへの向き合い方が少し変わってくるかもしれません。
いやあ、今回は本当に自分の常識が揺さぶられるような話の連続でした。
僕たちは、高次元の存在の影も知れず、人生は過去から未来まで一本の映画のように既に存在しているのかもしれない。
そして、天才のひらめきや死という概念さえも、この視点から取り直すことができると。本当に壮大な思考実験でした。
ええ、頭を使う探求でしたね。
この考え方を信じるかどうかはもちろんあなた次第ですが、ですが、たとえ一つの物語としてでも、
この視点を持ってみることで、あなた自身の人生や過去の後悔、未来への不安、そして時間というものの見え方がほんの少し変わってみえるかもしれない。
最後にあなたに一つ策の種を投げかけて終わりたいと思います。
もし、あなたの人生というフィルム全体を、ただその物語を理解するためだけに見ることができるとしたら、
あなたはどの場面を最初に見てみたいですか?
あなたがまだ何も知らなかった赤ちゃんの頃の自分でしょうか?
あるいは、まだ見ぬ未来の年老いた自分でしょうか?
それとも、人生で最も輝いていたあの瞬間でしょうか?
この問いの答えに、あなたが人生で本当に何を大切にしているかが写し出されるかもしれません。