1. WERKSTATT Podcast a.k.a. 合唱指揮者のPodcast
  2. WERKSTATT Podcast #13 「合唱..

※レンダリングミスで最後の1分くらいが切れてなくなってしまいました。大意は変わらないのでそのままでご容赦くださいm(_ _)m。

録音したはずの残りの1分で、下記のゼミナールの告知をしました。

Podcastを聴いてピンときた方、恐れずに、リラックスした気持ちで合唱指導・指揮という立場から学びたい方、ぜひご応募ください。

柳嶋耕太・谷郁 合唱指揮ゼミナール2024

https://choruscompany.com/seminar/240616yanagishimatani/

3年弱ぶりの音声配信です。

合唱指導者を育成する、「知識や技術を共有する」ということを僕がなぜミッションと捉えて活動しているかについて、音声でお伝えしました。



This is a public episode. If you would like to discuss this with other subscribers or get access to bonus episodes, visit yanagi.substack.com

サマリー

合唱指揮者のKota Yanagishimaは合唱指導者の育成と合唱の重要性について話しています。 合唱指導者に関心がある人々に向けて、ゼミナールや識者ゼミが開講され、知識や技術を共有する機会が増えることで変化が生まれる可能性があると述べられています。

合唱指導者を育成する
こんにちは、合唱指揮者のKota Yanagishimaです。
ニュースレターWERKSTATTの中で行う音声配信、Podcast配信としては、これが初めてになります。
今回は、僕の合唱指揮者活動の中で一つの軸だと考えている、
合唱指導者を育成する合唱指導者と、僕の言い方だと、技術や知識をシェアしていくということについてお話ししたいと思っています。
まず、そもそも私が合唱式で留学しようと思った理由というのは、合唱式を勉強したいと思った。
合唱式にまつわる、あるいはそこにたどり着くまでの音楽について考えることも含めて、そういったものの総合的な知識とか、
自分の経験を得たいと思った時に、日本にその環境がなかった。2009年、2008年ぐらいの頃の話ですけれども。
なので、留学するしか結果的にないというのと、向こうに先輩方が、ごく少ない人数ですけれどもいらっしゃって、日本人の先輩が。
そういう方々のやっていることを見て、僕もそれを体験してみたいというところから留学が始まって、
帰ってきてもうすぐで7年になるので、留学していた時間と帰ってきてから活動している時間というのは、そろそろイコールになっていくというタイミングだなと思っています。
で、合掌式者をなぜ育成したいかというところをまず話したいんですけれども、つまり機会があまりにも少ないこの当地においてはということですよね。
いわゆる専門教育としての合掌式を学ぶ場所というのは、まだ確立したものとしては、2024年4月現在においても確立したものとしては、
あるとはまだ言い難い状況なのかな。一番近いものはおそらく日本合掌式者協会のJCDAアカデミーとか、
あとは音題の各種のサブの授業みたいなところで合掌指導とか合掌式法とかをやるところがちらほらあるぐらいの感じなんですけれども、
その合掌式という概念を一つの中心に置いた上で音楽について考えていくとか、そのために何が必要なのかということを組み上げていく。
あるいは自分がその場に立ったときに、このことを知っていた方がいいのではないかとか、いろいろなものを360度いろんなところから照らして考えていくみたいな機会がそもそも日本にはすごく少ないという中で、
私や留学してきた谷さんだったり、受けたものを伝えていくことができるのではないかというふうに考えています。
もう一つ大切な考えとしては合掌音楽をより良いものにしなきゃいけないということと、合掌文化を絶やしてはいけないということですよね。
前者の合掌音楽というふうなことで考えるときに、それをより良いクオリティにする。それは表面的なことだけではなくて、
音楽そのものが音楽そのものとして受け止められるような自由なものになるということと、
あとはその楽曲が楽曲として社会的な理由とか制限ではなく、その楽曲が楽曲として羽ばたいていけるような場を作るとか、
あとはその活動として合掌で歌うということを共にしている人も含めて、その場にいる人たちがやりたいことをやっているという実感の中でそれを実現できるかどうかとか、
合唱の価値と合唱の向上
いろいろな視点があると思うんですけど、そういうことの最大値を合掌のより良いものというふうに考えたときには、
どうしてもその場の性質上、合掌指導者という立場の人がそこに存在するのであれば、その人が大体ほぼ確実にある合掌という場のボトルネックになってしまうという構造上の問題があります。
これはもちろん僕が例えば合掌団に教えているとか関わっている合掌団の前に立つときにも同じことが言えるわけですよね。
なので、結局この合掌指導者の人たちが木に合わせて状態をよく見ることができて、木に合わせてやることを方向を動かしていったり、提案をしたり、あるいは傾聴したりするということがすごく適切にできることが、
もしより良くできるのであれば、それが合掌の場に対して、あるいはそこにいる受け手の、一期的な受け手ですね、歌い手、その後表現するので一期的でしかありませんが、
人たちに対してより良い影響を与えるし、ということはそこを良くすることが全体を底上げすることにつながるし、結果的にはより多くの人が間接的な恩恵を得るのではないかなと思うということですよね。
今言ったように、合掌がより良い合掌であるかどうかというのは、すごく複合的な視点が作られているので、今その中の一つとして言いましたけど、その場にいる人たちが満足しているかどうかというのも多分とても大きな視点なわけです。
そこが満足しているのであれば、例えば四季奉がどうとか、とてもラジカルな例で言えば、曲に書いてあることを無視して演奏してもその場の人が満足していれば、
それはそれで、その人たちの相対主義的な立場においては、その人たちがやりたいことをやっているのでいいのではないかと思うんですけど、同時にその場だけで留まらない、つまり刑事的なものとか地域を超えるものとか、あるいはもしかすると国を超えるかもしれませんが、
そういうような関わりの中で合唱をより良くするということを考えたときには、基本的にはそれってどうなんだろうということを改めて客観視して、
もっとこういうふうにした方がいいんじゃないかとか、そういうことを常に柔軟に考えられる素地が必要だし、それに気づくための知識なり技術なりがどうしても必要だということです。
そういったものを得ることで、合唱指導者としての自分の身を助けるのではないか。つまり、より音楽の理解ができれば、こういうふうにしたいというところの設計図も自分の中でより明らかになってくるし、
それを実行する手段としてこういうやり方があるということが分かる。それが指揮者という一人の人間として自分を助けるというのが一つ。もう一つは、もう二つか、そしてもう一つはその曲をちゃんと読み取ることができて、
その音楽、楽曲を作る側の人たち、過去、未来、いろいろありますけれども、そことも自分の中でリンクができてくる。そして最後に一番大事ですけど、今ここにいる人たち、
今自分が関わっている合唱団という場に対してアプローチができるし、きっと帰ってくるものもある。そういうところで、その三者の関係性の中で助かることがあると。
もし考える方がいるのであれば、そういった方々に対して手伝いとなるようなことをしたい。私は特にその合唱指導者として育成される教育を受けるということをやってきたので、そのまるまるコピーをするつもりは全くないんですけど、
そういうプロセスの中で、僕が逆に言うと受け手として考えてきたこと、受け止められたこと、逆に批判的に捉えていることとかももちろんあるんですけれども、そういったものを考えながら、皆さんと興味を持ってくださる皆さんとそれをシェアしたいと思っているというところなんですよね。
もう一つ、これは非常に話が大きくなってしまうんですけれども、おそらく日本の経済状況とか社会状況というのは、これ以上、仮処分所得が大幅に増して、時間の余裕が大幅に増えるような、いわゆる社会的な情勢の変化というのは起きないだろうと思っていて、
少し前と比べても結構自利品になっているし、いわゆる中間層30代40代という人たちが合唱活動できないっていうのは、都市部、地方変わらず多分大きな問題にはなっているわけですよね。
でもそれでもやっぱり頑張っている人とか辞めないでいる人っていうのは、今はいる状況だと思うんですよ。
ということは、そういう人たちというのはとても少ない貴重な人生のリソースを合唱に捧げているということですよね。
ここの時間にいい音楽ができなくてどうするのっていうことがあるわけです。
ここの人たちが今せっかくのこのリソースを投資して、こういう時間を過ごして、それは本当にいいことだったなって思えなくてどうするんだっていう、思える場にできなくてどうするんだっていうことがあって、
合唱指導の責任と機会の少なさ
これは少し厳しめの言い方になってしまうけれども、そういう場をその場に作るっていうのは、そこのリソースを投資して関わってくれる人たちへの指導者の責任の一つなのではないかなと思うわけですね。
これはモラル化すると話がすごくややこしくなるので、これは指導するという立場に立った人たちだけが心の中に持っているべきものであって、
これはごめんなさいね、あえて言いますけど、外の人がやいのやいの指導者に向かっていることでもないんですけど、でもそういう責任があると僕は思っています。
なので、そこをより良くするにはどうしたらいいかっていうような視点に立てた方がいるのであれば、もちろんその人の話もすごく聞いてみたいし、
例えばそのリハーサルをどういうふうに計画するかっていうことの考え方、あるいは指揮法を一つとっても、
リハーサルの初期段階ではこれぐらいの就職度なのでこういう振り方をします。
これぐらいになってくると顔が上がってくるので振り方はこういうふうに変わっていきますっていうのは、
突き詰めると戦略的戦術的に行うことが可能なわけですよね。
もちろん指揮法だけじゃ全然話が終わるわけじゃもちろんないけれども、指揮法一つとってもそういうことが言えるということがあるわけですよね。
そういうことについて目を見開いてみる人が増えてもいいのではないかなと思っています。
で、話が最初に戻っていくのですが、それにも関わらずやっぱりこの合唱指導っていうことをそうやって客観的に考えたり、
自分が今どれくらいのものなのかとか、今どういうものなのかとかいうことを感じ取ってみたいという人々に対して、
それを考えるとか、研鑽を積むとか、切磋琢磨するとか、交流するとか、
そういった機会があまりにも少ないのではないかなというふうに思っているのが私の現状の認識です。
合唱指導者への支援と変化の可能性
おそらくこの問題意識っていうのは、たぶんここ1,2年で日本の合唱式の第一線で活躍されている方々の中にもおそらく共有されていることではあると思っていて、
この2年でかなり合唱式を学ぼうという機運とか合唱式の講座とか、あるいはJCDA、日本合唱式社協会の通年のアカデミーとかそういうのも生まれてきているので、
きっとこの5年10年で、僕が全然関わらなくても色々変わってくることではあるのかなと思っていて、選択肢がすごく増えるのはとてもうれしいことだなと率直に思っています。
その上で僕や谷さんができることは何だろうというふうに考えているときにコーラスカンパニーさんからまたお声掛けいただきまして、
今年の6月スタートで来年の2月最終的に終了コンサートというところまでこぎつける式のゼミナルを開講します。
それが京都で基本的に行われるコースになります。
あと夏には、これはちょっともう締め切っちゃったんですけど、東京でゼミを開いていたり、識者ゼミ、識者だけが集まって話すと、交流する、演習する、色々議論する、そんなゼミをやったりしているんですけど、
そういう形で、識者という立場から色んなことを自己批判的でもあるし、自分のことをなるべく客観的に見て特性を見極めながらやりたいことをちゃんと実現するとか、
人のためになるように自分の力を使いたいと考えている人たちに何か貢献できたいなということと、そういう人たちが心理的な安全な状況で色々なものを試していただける機会、
東流門に登ってきた若者みたいなのは、僕のところでは多分やらなくても大丈夫そうだなと思っているので、あんまりチャチャが入りにくい場所でじっくり勉強するということと、
一人一人が、結局僕のやり方ってもちろん絶対あるんで、僕も初識者の現場の人なんであるから、僕のやり方とか僕が学んできたやり方とか、こういう風なものだと思っているやり方って絶対あるんだけれども、
なるべくそのことをもちろんこういう風なつもりでやっているよっていうのは伝えたいけど、でもそこも別に違っていいとさえ思っています。その人が本当にクリエイティブになれるのが。
でもそれを客観的に見るとどういう風になっているのかねっていうことを、まあその場ですよね。みんなが車座になって集まって一つの機会を。
16:23

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