地味?原沢さんの?
地味でしたね。
原沢さんに二郎さんと紗友子さんは優等生って言われたんですけど、僕は劣等生って言われて。
お前は本当に何もやらねえなって、いつも言われてるんで。
私は唯一言うことを聞いた人って。
言ってました。
本当お前は人に言うこと聞かねえって自分も言われてるんで、ちょっとその話も後ほど聞いていただければと思います。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まずは走る前にいろいろとゲストの方を深掘りさせていただきたいなと思うんですけども、紗友子さんご出身はどちらになるんですか?
神奈川県の藤沢市です。
じゃあ元々が今近辺が地元ということなんですね。
近辺。隣の。今は隣の隣の市区ですね。今は寿司市なんで。
藤沢市って言うとやっぱり小さい頃からもう海とかそこら辺にはかなり。
それが私が住んでたところはほんのちょっと内陸で、海は逆に憧れ。
そんな憧れって変ですけど、そっちに住んでみたかったなみたいな感じでした。
藤沢もじゃあ大船みたいにちょっと山側もあれば。
そうそう、もちろんもちろん。山側っていうか平坦な入り口になってる感じですけど。
そうなんですね。藤沢って言うとコンビニに行くといつもゴミ袋がすげえ高いなっていう印象が思って。
有料ゴミ袋ね。あれでも家の前まで全部回収しに来てくれるから。
そうなんですか。
そうですよ。一軒一軒取りに来てくれる。
へー素晴らしい。
すごいんです。
田中さん川崎は今わかんないですけど毎日ゴミ捨てに来ましたよね。
今でも行くよ。
そうなんですか、やっぱり。
あれ、あっちゃん今川崎じゃないのだって。
自分川崎マンションなんで自分はボンボン捨ててるだけなんだけど。
いや、ちゃんと歩いて50メートルぐらいかな。歩いてゴミは捨てる。
ちょっとそこ想像しにくいところもありますけど。
あの素材ゴミは唯一金払ってるんで。
はいはいはい。
家の前に置いとくと。ただなんか予約しなきゃいけないんでめんどくさいんだけどね。
めんどくさいですね。
それは自分も引っ越しの時につくづく思いました。
ちなみに小さい頃っていうのは何か、どんなスポーツをされていらっしゃったんですか。
小さい頃は小学生とか。
そうですね、小学校。
小学生の時に、えー確かちょっとバスケやったり、マット運動とかが好きだったんですよね。
機械体操ではなくマット運動。
機械体操的なのがあって。
小学校5年生の時にちょっと大阪の方、大阪じゃないや兵庫県の方に引っ越したんですよ。
その時に体操部があったから体操部に入った。
あれ?あってますよね。あってるあってる。
ちょっと待って、違ったかも。忘れちゃった。中学からだったかも。
でもなんかそんな感じで、機械体操をやってました。
ってことは鉄棒とか。
えーとね、平均台とか。
はいはいはい。
長刃?飛び箱みたいなやつ。
はいはいはいはい。
床、床運動。あったじゃないですか、バク転みたいな。
ありますね、はいはいはい。
ああいうのやってました。
あれですよね、でも小さい頃に機械体操すると後々すごく運動神経良くなるとかっていうのは聞いたことありますけど。
それがものすごく運動神経が悪くって。
そうなんですか。
めちゃめちゃ体が硬くて。
はいはい。
体操部の中でも一番体が硬くて。
へー。
先輩がこう上に乗ってまた割りとかするんですけど、毎日毎日なんて。
死にたくない。
みたいな感じでしたね。
それで柔らかくなるんですか。
一応ベタっとはくっつくように。
そこまでしないとならないのかな。
柔らかい子はそんなことしなくても大丈夫だけど、私は硬すぎるから毎日上に乗られでしたね。拷問でしたね。
僕も全然ダメですね。
ダメですね。どのくらいで慣れるんですか、ベタっと。どのくらいでつくもんなんですか。
どのくらいかかったんだろう、でも半年とか私はかかってたと思いますよ。
半年。
ちっちゃい頃だからたぶんみんな本来だったら簡単にベタっとくっつくんだと思うんですけど、私はそれがなかったから大変だった。
きついっすね、半年乗られるのは。
で、中学の時にまた中2、中2だったかな、の時にまたこっち帰ってきたんですよ。
そしたら体操がなくて。
で、ちょっと小学校の時にバスケもかじってたから、バスケも入ってみようかなと思って入ったら、まあ使えなくて。
バスケやってるうちに体が硬くなり、もう全然、解脚とかもまた元に戻り、ガッチガチの体になりました。
体の硬さが戻ってしまうんですか、やらなくなると。
やらないと、私の場合は完全に戻りました。
原沢さんにも、さえこさんは無理、硬いのはもう治らないみたいな。
治らないんだ。
前屈で手が届かないんですよ、床に。
僕も全然届かないですよ。
え、本当?
全然、はい。
あ、そうなんだ。
私も届かないですね。
え、本当?
はい。
でもなんかその、デッドリフトとかをやってれば、いつかはつくって言われ続け、途中で、もういい、頑張んないでいいみたいに。
二度とさえこさんはつかないから。
言われた。
え、でも体の硬さ、お話聞いてると先天的ではないけど。
いや私たぶん、側腕があるから、たぶんそれのせいもあって、先天的にひまがってるから無理っていう。
先天的なのかな、後天的なのかわからないけど、ひまがってっちゃってるからもう無理。
でもあれですか、体操のときは爆点とかもできてはいたんですか?
できてはいました。爆点爆中。
回ってる間ってどうなんですか?
ちょっと突拍子もない質問かもしれないんですけど。
覚えてないよ。
回ってるときは特に考えて、手つけるかなくらいしか考えてないから、世界が回ってるとかそういうのはないですよ。
はいはいはいはい。
たかが一回転だから。
いやー、ちょっと怖くて無理ですね。
最初はね、だから支えてもらって、パンツの後ろ側、腰のあたりをギュッと掴んでもらって、ひっくり返す感じでやるんですよ。
で、体がだんだん覚えていって、いつか先輩が手を離す。
まずじゃあ爆点から一応、導入は爆点からってことなんですよね、やっぱり。
導入は側天からかな。
側天のなんかあれですよね、ロンダートとかなんかありますよね、最後に体をひねるみたいな。
そうそう、ロンダートやって、で爆点。
で、最終的に爆中ということで。
そうです。
すごいな。
でもこれ子供の時の話だから。
いやいやいやいや。でも確かにクラスでうちいましたよ、爆点に憧れてた男子は。
ね、男の子はね。
よく体育館のマットを敷いて、ただ頭打って救急車呼ばれたりしてもいましたけど。
これちょっと面白いから言いたいんですけど、なんで田中さん黙ってるんですか。
こういう話してる時に半笑いで黙ってられると、ちょっと喋りにくいなみたいな気分になる。
いや、あっちゃん詳しいなと思いながら。
そうね、いろいろね。
友達がいないからこういうのが詳しくなっちゃったんですよ。
どうですか田中さん、なんかありますか体操の思い出。
いやー、測点はできるけど爆点はできないかな。
俺も爆点は憧れたけど。
そうなんですか。
飛び箱は得意だったかな。
いやなんか体操はね、星野富裕さんとかも、確か体育の授業で怪我されて動けなくなっちゃったっていう話を聞いたことあるんで、
いろいろと多分危険なスポーツだなっていうのを、小学校でやられてた斎藤さんが僕はすげえなと思いますけど。
でもその後バスケに行ったら全然使えなくて、試合に戻させてもらえず、どんどん運動が嫌いになり。
もう高校入ったら、あれですよ、バンドやって帰宅部ですよ。
そうなんですね。高校じゃないですか、軽音楽部とかだったんですか?
軽音楽部にも入らず、部活なんかやんないみたいな感じで、外の学校の人とバンド組んだりとか。
もうダメな感じに、夜大好きみたいな感じになっていって。
この頃がバンドブームの頃ですか?
バンドブームだったとは思いますよ。女の子はみんなプリプリとかレベッカとか好きみたいな感じ。
でも私は全然変なノイズバンドとかやってて。
ちなみにどんなのを聴いてたんですか?
でもいろいろ聞いてたんですけど、言ってもわかんないんだよな。
海外とかで言ったら、CureとかEcho and the Bunnymenとか、わかんないかな。
Cureは知ってますよ。
どういう感じなんですか、田中さん、音楽の系統として。
難しいな。なんて言うんだろうな。
なんて言うんですか、言うの。
とりあえずボーカルが化粧してるんだよ。
ビジュアル的な感じなんですか、そういうわけでもないんですか、まだ。
そういうのじゃない。
音楽は違う、ビジュアル系っていうわけではないんだけど。
Cureとか、何聴いてたかな。
日本はインディーズのバンドばっかり聴いてて、
当時トランスレコードっていうのがあったんですよ。
知らないですよね。
初めて聞きましたね。
ググったら出てくるかな、みたいな。
そこのレーベルの人たちの音楽がすごい好きで、
それのライブに行ったりしてましたね。
実はこの辺、女王とかもちょっとかぶってて、
唯一大人になってそういう話を知ったら、話が通じたって。
さすがの田中さんもトランスレコードは。
知らない。
日本のレーベルはあんま知らないんだよな。
ちなみにサイコさん、楽器は何にやられてたんですか。
楽器は一番最初にベースを買ったんです。
地味だから目立たないなと思って、
ギターをやってみたり。
子供の頃にエレクトーンを習ってたんですよね。
なるほど。
鍵盤は弾けたので、キーボードもやってみたり、
頼まれたらドラムもやってみたり、みたいな。
結構万能ですね。
万能というか広く浅く。
なかなかドラムとか手と足が一緒になっちゃうので、
難しくてできないなと思ってましたけど。
今はできないですよ。当時よくやってた。
でも全部カバーバンドだったんで、
これ耳コピしてきてみたいに言われて、はいはいってやって。
耳コピまでできたんですね。
耳コピしないと楽譜なかったです。
私がやってるような音楽は。
そういうことか。
そうでした。
スコアがないような感じだったんですね。
どんなバンドをコピーしたんですか?
先ほどの言ってたバンドみたいな。
ノイズもやってたし、
でも女の子系だとゼルダとか知ってます?
ゼルダ知ってます、はい。聞いたことあります。
ゼルダとかやってましたね。
あれは唯一女の子ばっかりでやってました。
頼まれたのはU2とかもやりましたよ。
それはドラムをやってました。
かっこいいですね。
U2渋いですね。
高校生でU2って言えばなかなか渋い感じですよね。
そうなのかな。
どんな曲やってたんですか、U2の。
ジョシュア・トゥリー。
ですよね。
ジョシュア・トゥリーの。
なんだっけ。
自分で今叩きながら曲を思い出して。
曲名忘れちゃった。
有名なのはいくつかありますよね。
サンデー、サンデーブラッディーサンデーとか。
それはジョシュア・トゥリーに入ってないですけどね。
今思い出したのが。
僕も大好きですね。
じゃあ結構この高校3年間っていうのは、
音楽に関してはかなり濃密な時間を過ごされてたんですね。
いろんな仲間といろいろバンドだったりとか。
濃密だったのかダメだったのか。
学校は楽しくは行ってましたけど。
そうですね。
学問は、なんて言うんでしょうね。
学問に勤しむ感じではなかったけど。
でも、かろうじて推薦は取って大学に行けるくらいは、
みたいな感じのノリで学校に通ってましたね。
洋楽聴いてたってことは、
ちょっと高校時でも英語とかには興味は。
全然ないです。
全くと言っていいほどなかったですね。
洋楽聴いてたというよりかは、
洋楽を聴いてる友達にこれを聴けと言われたから聴いてたくらい。
歌詞の意味を理解したりとかは全然してなかった。
もう本当にサウンドだけを楽しんでいたって感じだったんですね。
だいたい聴いてたトランスレコードなんていうのは歌詞すらない。
音ノイズだから叫んでたり。
インストゥルメンタルとかそういう感じじゃなかったですね。
一応ボーカルというかボイス的なものはあるけど、
歌詞としては成り立ってないようなものがほとんどでした。
ちょっと空耳アワーに流れそうな感じの。
いや、なかなか畑さん面白いですね。
途中で向いてないっていうか、あんまり興味ないことに気づくというか。
就職する前で良かったですよね。
そうですね。
そうですね。代理店研修生になっちゃってたらもう鬱になってましたよね、きっとね。
まあそうですよね。
はい。
で、結果、紗友子さんが好きな方向のファッション。
入られて当初っていうのはどういうことをされてたんですか。
販売ですね。
あ。
販売。それも、よく入ってから考えたら、販売っていうか接客。
人と話すのとかすっごい苦手で、なんでこの職業選んじゃったんだろうって思いながら。
でも好きなファッションのためなら我慢するみたいな感じでやってましたね。
だからいろいろこう、当時の私の年代的にはパワハラ、セクハラ当たり前の時代だったんで、
まあいろいろと自信を砕かれるみたいな感じでしたね。
なかなか厳しい。
厳しい。
一応半分外資だったんで、そういう面ではいいところもいっぱいあったけど、
時代が時代だったんで、なんかね、言葉の暴力に晒されてましたね、ずっと。
へえ。今ではもう完全にアウトみたいなことも、結構言われ続けて。
言われたし、自分もしたのみたいな。
言えない。
それはじゃあ、上司でなく後輩に向かってるんですか、上司に向かってるんですか。
自分が後輩に向かって、自分がされたことをなるべくしないようにはしてたけど、されたようなことをしちゃってたりしました。
すげえ時代だ。
時代だったなあって。
いやでも多分、田中さんどうなんですか、一番最初勤めた頃ってやっぱり、そういうことありきな感じだったんですか。
俺、ないよ。
田中さんだからないとかじゃないんですか。
田中さんだからでしょ。
俺だからないなとか。
田中さんがしてる派でしょ。
でもあるんじゃないですか、だって。
あんまり記憶ないかなあ。
先輩とかみんな優しかった。
それ田中さんにだからね。
唯一すげえ心に残ったのが、つらいって意味で。
仕事にインドに行ってて、3週間休みなく働いて、今はほぼアウトだけどさ。
アウトですね。
3週間休みなくて、土曜日の夜にメンバーと飲みに行きたくて、早く帰らせてくださいって言ったんだけど、仕事が残ったんですよ。
で、これが終わらなかったら、日本で何百人って人が待ってるんだよって。
上司に言われて、マジこうやってぶっ殺してやろうかなっていうふうに。
お前3週間休んでなくて、今ここでそういうこと言うのかと思って、分かりましたって、結局仕事して帰ったけどね。
偉い。
でもその後もちゃんと飲みに行ける時間帯には帰れたかな、ギリギリ。
目が殺意にあふれてたんでしょうね、多分もうそれは。
それが心に残る一言はな。
あとはそんなに。
いやでもファッション業界もでもそんなもんなんじゃないですか、多分休みなくというか。
いや、販売はむしろちゃんと取らないとダメで、休みはちゃんと週休2日あったし、でもサービス残業がすごかったです。
まあそうですよね、やっぱり。
でも好きでやってた部分もあるかな、なんか。
お客さん対応とかもね、私も今現にコールセンターなんで、いろいろと本当にびっくりするようなこと言われることはありますけど。
それが嫌で辞めたようなところもありますね。
まあそうですよね。
だんだん10年先週になってくると、役職ついてきちゃうんで、そうするとそういう対応しなきゃいけなくなる立場になって、
まだ当時法務部とかもちゃんとできたばっかりとか、そんなくらいの感じで、
対応の仕方のマニュアルもなく、謝れば謝るほどどんどんドツボにはまっていくみたいな感じになっていき、
これってもう金銭要求されてるよね、みたいな。
それで誰も助けてくれないんだ、みたいな、その会社の人が。
ってなって、結果最終的にはこれはまずいって言って本当に本社が出てきてくれたから良かったんですけど、
それまで当時の店長とかも一切、本当に困ったら出てくるからみたいな感じで、
いやもうマジで本当困ってるって言ってるのに出てきてくれないみたいな。
まあそうですよね。
でもそのお客さんの家の場所も名前も顔もはっきり覚えてて、
深いですね。
道端であったら危険みたいな。
深いな。
くらいのことありましたね。
そうですよね。
それがじゃあ一番結構忘れられない強烈な。
そうかな。
強烈でしたね、あれは。
もうお肌もボロボロになるし。
それ一回だけじゃなくて、しつこくなのか。
それはもうね、1年以上にわたる嫌がらせですよ。
今はもう完全アウトですよね、行き妨害とかそういう感じのもので。
それがわりと社会的に立場のある方だったりしたんですよね。
何してもいいと思ってらっしゃったのか、当時だから。
いやー大変でした。
確かに。
自分も1回クレームで、自分の話するのもあれなんですけど、
すごいクレームで1時間くらい出ましたんですけど、
あんたどこ生まれって言われたんですよ。
川崎ですって言った瞬間に、大変だったね、じゃあねって言って、
あんた川崎なのによくそこまで頑張って育ったねってすごく同情されて、
どういうこと?
わかんないんですけど、
あなたにこれ以上言ってもかわいそうだからもういい、切るわって言われて、
クレーマーが川崎生まれに同情して、諦めてくれたってことが1回だけあって。
それは忘れられない思い出ですね。
忘れられないですね、あれは。
なんかしなきゃ同情されて、
思っては本当にやらなきゃよかった。
僕の話はどうでしたか。
いやでもその手は多かった。
その手っていうか、
責任者出しなさいみたいなことがあって、
私が出てくると、こんな若い子が責任者なの?みたいな感じで逆に同情され、
いいお客さんになってくれて、
ご飯食べに連れて行ってくれるとか、
お家に呼んでくれるとか、
ご飯食べさせてくれるんですよ。
大変よねって。
なるほど。
たまによく接客で、
クレームは宝の山的ななんかあるじゃないですか。
もちろんそうだったんですよ。
ほとんどがそうだったんですけど、
やっぱりもう完全なクレームというより嫌がらせみたいなのとなってるんでしょうね。
本当に一握りしかいないけど、
お金持ちのわがままみたいな。
そういうのが嫌になっちゃったんですよね。
そうですよね。
他のいいことでもうカバーできないみたいな。
はいはいはい。
なんかわかりますすごく。
誰と言わないですけど、
本当にさっき彩子さんが言ったように、
社会的に名誉があるというか、
そういう方ほど自分の思いを通らないことに対して、
こういろいろ言ってくる方っていうのはやっぱり多いなっていうのは。
だからあれですよね。
世の中先生なんて名前つけんのがよくないんですよ本当はあれ。
もう本当に言いますよ。
か、そこの世界でものすごいその人が虐げられて。
そうなんですよね。
いつは虐げられているのか、
心病んでらっしゃるなみたいな。
そこの境地に行くともうちょっと何でも広く見えますよね。
この人たぶんそこで病んでるんだなっていう境地に行くと。
深い。
深いなこれ俺何より。
楽だっただけかもしれないけど、
でも今思うとあの人も病んでたなみたいな。
深いなこれ何よりの話を俺からしてみたいな。
こんな話してていいんですか。
いや全然OKですこれは。
こういう話すると思ってなかった。
いや素晴らしいです。
ありがとうございます。
で少しずつちょっと話をランの方に持っていこうかなと思うんですけども。
ちょっとですね私、
サイコさんのブログ拝見させていただいておりまして、
忘れられない一節があったんですよ。
ちょっと結局メモしたんですけど。
後で走り始めを伺うんですけども、
思い返せば私が走り始めた当初は5キロ走るのをやっとと。
友達についていけずいつも待たせてしまう。
それが辛くて家に帰って泣いてばかり。
だから頑張ってみんなと走りたいと練習するようになり、
そのうちレースも楽しみの一つになり、
友達の輪も広がり走る距離もどんどん伸びたっていうのが、
いやなんかすごいいい一節だなと思ってちょっとこれメモ帳にコピーしたったんですけど。
いやなんかここってでも多分今田中さん、
今回FDAも定員が満杯になって、RCも満杯になって、
やっぱなんかそこらへんで田中さんがやっぱり走る上で、
田中さんオンラインコーチされてる中で、
いろいろとやっぱこういうところの横の繋がりというか、
なんていうんですかこうレースだけでもなくて、
っていうところっていうのはやっぱり重要にされているところでもありますよね。
それがたぶん2008年か2009年に。
まだらおが最初だったのかな。まだらおか青梅だったか、その辺に出たことがある。
青梅かな。でも青梅は乾燥できなかったんですよね。しかも。
でもそのときみんなハセツネに出たりしてたんですよね。
はいはい、ほぼ同期ですもんね、ハセツネは。
いつかハセツネに私も出れんのかな、くらいにぼんやり考えながら。
でもなんか、私ちょっと前後しちゃいますけど、
葉山にビーチっていうアウトドアフィットネスクラブがあるんですけど知っていらないですかね。
ちょっとずつだけですけど、はい。
それがオープンする前の前身的な店があったんですね。
そこでパンケーキ食べたり集まったりしてたんですけど。
で、その葉山のビーチができて、一応ご衆議会員的に1年目会員になったんですよ。
そこに石川ひろきさんがトレールランニングを教えに来てたんです。
一応私にトレールランニングの何たるかをレクチャーしてくれたのは石川ひろきさん。
超豪華じゃないですか。
そうそう、豪華だったんです。
その頃ひろきさんはもう超スーパースターってことですよね。
だったんですけど、私は存じ上げなかったので。
かわいい男の子くらい呼んでて、ひろきくーんみたいな。
当時別の男性と結婚してたんですけど、元夫に、「ひろきさんでー!」みたいな感じで言われて。
なに有名人なのって言ったら、もうトレールランニングの日本の第一人者だみたいに言われて。
でももうタメ口聞いちゃったからいいんじゃないみたいに。
でもそれから一応敬語を使うようにして。
すごいな。何たるかを石川ひろきさんから学ぶっていうのは。
でもそういう人多かったんじゃないかな、当時。
ハッピートレールとかいうのに出てる人たちとかもいただろうし。
私はそっちは行ってないんですけど。
せおさんとかは石川ひろきのおかげでハッピートレールに。
そうですよ。
のりさんがかぶら木さんみたいなものってことですよね。
のぶかさんにとってはね。
そこから、サイコさんがちょっといろいろブログ見る中で、2010年にCCCとか新越出られてるじゃないですか。
そこに至るまでっていうのはかなり大きくなるじゃないですか、振りが。
だから石川ひろきさんのレースにマダラオ50Kとかいうのに出て、トレールラン楽しいじゃんくらい思ってたんですよ。
福岡のところ走れて。
で、2009年に激走モンブラン見たんですよ。
あんなすごいコースなのに私の中ではフワフワトレールに映ってたんですよ。
ガッシャガッシャですね。
もう分かってないから。
だからじゃあUTMBは無理だけどCCCの距離なら頑張ればいけるかもみたいな。
ぐらいに思ってエントリーするっていうノリです。
素晴らしい。
だからほんと近所の鎌倉とか阿波山の里山走って、たまに箱根の外林山行くくらいの練習をしてたらCCC完走できるって思ってたんです。
思い込んじゃってた。
大事ですよ、そういうのはやっぱり。
だから大して練習もしないで行っちゃったんですよ。
すごいですね。
怖いもの知らずってすごいなっていう。
知らないことって多分重要ですよね、田中さん。
知らないこと?
まあそうだろうね。
結果は71キロ地点で中止になってしまったんですよね。
悪天候で中止。
悪天候で中止になってしまったみたいですね。
2010、あ、違うか。
2010年。
10年だね。
10年かな。
あれ、2010年で中止でもう1回走れたんじゃない?あれ、違ったっけ?
それはUTMBの人がCCCのコースを走り直せたのかな。
で、何だよそれって言って、私にももう1回やらせろとかって言って。
文句言ったけど絶対無理だったよねみたいな。
そういう感じの気持ちが後々のトルデジアンに繋がるんですね。
その時もだからまだ勘違いしてるんですよね。
トルデジアンに出ようって思った時も。
CCCは中止になったから完走できなかったくらいにしか思ってないんですよ。
でもよくよく考えたらあれ多分中止にならなかったらカーモンアウトで
多分完走できてないと思うんです。
あの時点で70キロ地点だと。
でも自分の中ではCCCの完走ベストももらっちゃってるし、
ちょっとじゃあ初めてのトルデジアンは、ほろ苦いというかほろ苦すぎ。
ほろ苦すぎましたね。
ちなみにトルデジアンに出てみようって思ったのは。
そうですね。
それはCCCに一緒に行ったお友達たちが、トルデジアンっていうのがあるんだよねって言って、説明会があるんだけど行かないって言って見に行って、
その時にお名前忘れちゃったんですけど、TJRとかにも出られてトルデジアン感想されてる方がいたんです。
私その時TJRも知らないし、その人がすっごい優しそうな細い男性だったんですよ。
体力がそんなになさそうに見える。その人が全歩きで感想できます。
全歩きで感想できるし、ライフベースがあって、しっかり毎回8時間くらい寝れますみたいなことを言ったんで、
楽しそう!って思って。
しかもすごい安かったんですよね、当時。300ユーロとか。そんな感じのエントリー費。
で、ご飯もついてくるし、至れり尽くせりっていう感じで。そんなにまだ出てる人もいないし、
これはいいんじゃないの?ってどうせお金使うんだったらみたいな感じで言っちゃったら、歩きき通せるのはTJRの人だったっていう。
超人にしてないとダメだって。
超人のスピードだったら歩きき通しても感想できるけど、私が歩いてたらまあ無理だよねっていう。
いやー。
知らないって幸せですね、でもね。
いやでも、いいですね。あんまり調べすぎるのは良くないですかね。
ちょっと前情報が先にたくさん来ると、変な恐怖感もいろいろ出てきちゃう。
でも私、結果3回も行っちゃったから、とんでもない金額を多分積み込んだと思うんですよね。
完走するまで。
途中から心を入れ替えていく中で、装備を揃えたり、パーソナルトリメイラーさんについていただいたりとか、そういうのもあったから、多分相当お金をかけたと思うんですよね。
確かに。
それが1回で済むんだったら1回で済んだ方がいいような気はしますけどね、情報があって。
健康のためにお金がかからないで始めたら。
おかしいなあ、みたいな。
車買えるぐらいにお金を出してしまったと。
そうそう。
多分あるあるじゃないかなと思いますけどね。
で、2013年。ここも多分トルデジアン等々に向けてになると思うんですけど、まず一発目がITJから始まって。
ITJ出てるんですね。
出てました。
11時間17分。早いですね。
まあまあ早かった?明るいうちに返ってきた気がする。
第1回ですよね、2013年。
第1回でした。まだちょっとリザルト見たんですけど、松崎旅行、修繕時間、山岳競争、ITJって書かれてましたからね。
イズトレイルジャーニーとかそういう感じじゃなかった。
最初からイズトレイルジャーニーって。
だったんですけど、リザルト上の種がこんな感じで書かれてたんで。
で、5月がトレニックワールドイン横瀬。
そう、これ初優勝。
そう。
優勝したんです。
すごいですね。
で、ブログ読んだんですけど、両手に抱えられないぐらいのお土産がもらえるのかなと思いきや、コンプレッションタイツ一足だったっていう。
サイコさんの夢は夢で終わったっていうブログがあって。
そう、お立ち台に立てると思って、すごい喜んだら、なんか滑り台かなんかの下に連れてかれて、ここで表彰します。
えーって。
夢と現実が出たっていう感じでした。
でも、1位は1位に変わりないから。
そうですね。
で、その2ヶ月後、モントレイル、黒姫。
これも3時間2分。
で、同月ですかね、御滝ウルトラにも出られて。
10時間44分と。
2ヶ月ぐらいおきぐらいにコンスタントにベースに出て。
出ましたね、当時。
これは頑張ってたんですよね。
トルデジアン観走したかったから。
すごい夏山とかもね、いっぱいちゃんと南アルプスとか北アルプスとか行ったり、富士山連とかもしたり、してました、ちゃんと。
それが2013年のトルデジアンに繋がるんですけど、結構しては残念ながら300キロ地点でDNFということで。
3マイル地点でね、転んで尾底骨をたぶん。
そうなんですよね。
ひびやったんですよ。
そうなんですよ。で、その前にちょっと、当初、一番最初ぐらいなんですかね。
で、2012年のちょっと反省を踏まえて、
タイコさん結構今回荷物たくさん持ってったじゃないですか、2013年。
シュラフだったり、シュラフカバーだったり、インナーシーツだったり。
で、そこら辺で前回の外で寝たところをクリアできるように。
で、今回も2013年も残念ながら外だったんですよね。
外だったんですけど、反省踏まえて解眠できたっていうのが。
まずここで、去年の反省を踏まえた大きいところだったと最後におっしゃった。
外じゃないとこももちろんありましたよ、ちゃんとしたところもね。だけど、ちゃんと寝れた。
ほぼ夜戦病院みたいな感じで。
でも寝すぎたかな。最初に寝すぎた気がします。
で、かなり解眠ができたようで、そのライフベースでかなりご飯もたくさん食べれて。
で、先ほどお話で出てたアルプスの重曹等の経験が効いて、常に先手の行動をどうも取られたみたいで。
寒くなる前に防寒衣着たりとか。
当たり前なんですけど。
いやいやいや。大事です。
で、その100マイルになる前までは、胃腸トラブルに関してもどうもすりおろしリンゴのゼリーを取ったりとか。
ちょっと気になったのが、その腹膜マッサージっていうので胃腸の回復も図られて。
結構その100マイル地点までは、かなりご自身の中でもちょっと望み通りのレース展開だったのではないかなと、ちょっとブログの方から。
いけるって思ってましたね。今回はいけるって思って。
ただ、その100マイル後で先ほどお話ししたその未定骨でどうも血便までも出てしまったみたいで。
ここからやっぱりあれだと、結構その2013年のトルデジアンはちょっと様相が変わってしまった。
そうですね。そこから走れなくなっちゃったんですよ。痛くて。
とぼとぼ、とぼとぼ歩くみたいな。痛みをこらえてとぼとぼ歩く。
かなり痛かったですか。これもうひび入ってるぐらいですもんね。
かなり痛かったですね。かなり。
で、多分ブログに書いてあったんですけど、ロキソニンも導入されたけどもあまり治らず。
で、ここでまた一つ問題が発生するんですよ。
まさかの関門がっていうのがちょっとお話しした。
関門の位置と時間が違うみたいな。
そうそうそうそう。ありましたね。
なんか本当はこのメルジュっていうところが関門だったみたいなんですけど、スタッフの方が
ちょっとね、太鼓さんも聞き間違えたのかどうかは定かではないけど
サンデミボスが関門だよっていうのをスタッフの方から聞いて
本当にって思いながら進めてたんですよね。
そうそうそうです。
ゴールに向けて。
そうです。
ただ実はっていうところが。
そう、その先だったんですよね。だいぶ先ですけど。
でもここらへんはやっぱり全然気持ち折れることなく。
クリアできれば、その最後の関門さえクリアすれば
それこそ本当に歩いていけば絶対にゴールできる設定になってるんですよ。
なので、そこまで行けば大丈夫って思ってはいた。
そして毎年なんかその関門もめてたんですよね。
最後に3回目出た時もまだもめてたくらいなんで
もう一個下が関門だとかなんとかって。
毎年もめてるとこなんですよ。
もめるっていうのは関門の位置がずれるとかいうんじゃなくて
みんな把握してないですか。
情報が錯綜してると。
正確な情報がわからないっていう感じなんですね。関門の。
そうなんです。謎なんですけど。
単純にイタリア語がわからないからっていう感じではなさそうでしたよ。
みんながもめてる。
ブログの記事だと、ここに来る前に一番最初の方で水馬に襲われてしまって
防寒がおろそかなってちょっと低体温症になりかけて
透明な箱に捕獲されて毛布でぐるぐる巻きにされるっていうのを。
それが1回目のやつですよね。
手を広げて待ってたやつ。
これが1回目なんですか。
透明な箱っていうか小屋なんですよ。
そのレースのためにアオスタ州の人たちがヘリで釣って運んでくるんですよ。
その小屋を。スタッフ用に。そこにぐるぐる巻きにされて。
これが1回目でってことになっちゃったんですか。
そう。1回目です。あれ違った?1回目のはずです。
ただスイーパーの方たちもかなり優しくて
何時間かかっても構わないから一緒に車夜に行こうよっていうのを
皆さんいろいろ声かけていただいたみたいなんですけど
ただ最終的には感想に対する気持ちが足らなかったっていうのが
ブログの方で文末として書かれてて
残念ながらDNFということになってしまったんです。
最後はやっぱり気持ちいいですね。
気持ちがあっても時間間に合ってなかったけど
でも何時間かかってもいいよって言ってくれたんだから
時間間に合わなくても行こうと思えば行けたわけじゃないですか。
でもなんかいろいろ言い訳というか
帰ってみんなに迷惑かけるしとか
そういうのが余計なのが出てきちゃって
でも終わった後によく考えたら
行っていいよって言ってくれてるのに
悪いからって思った自分が悪いよねみたいな
ってことです。
どうですか田中さん。
僕も見習いたいですね、その気持ちを。
でもなんて言うんだろう。
トップ選手はそういうのやんなほうがいいんですよ。
トップ選手はもう次のレースとかもあるし
そんな無駄な体力使ってる場合じゃないんで
辞めるときは早速辞めちゃっていいと思うんですけど
私一般人っていうか
ドベの方にいるランナーなんで
そういう次のレースがとか
なんとかっていうのはないんで
っていうことです。
でも自分もただの一般市民のランナーなんで
そういうお話聞いてるとやっぱり最後は
気持ちなんだなっていうのはやっぱり。
気持ちですよね。
どこかねけど。
いや、どこかでゲストの方も前おっしゃってましたけど