00:06
じゃあ、早速始めたいと思います。
田中さん、こんばんは。ご無沙汰しております。
ご無沙汰してます。最近全然立ってませんね。
そうですね。変に私の仕事が忙しくなってしまいまして。
はいはい。
で、今日あれですね、昨日今日にかけて日本では結構レースが多くなってますね。
そうですね、はい。
日光あり、あとOMMあり、あとはレースとしていいのかわかんないですけど宣言が。
そうですね、イベントとして千里山100マイルですね。
ありましたね。田中さん、今回誰かのペーサーされたんですか?なんか走られてましたけど。
そうですね、この前ポッドゲストに出てもらったイソノラチエコさんのと、あとLDARCメンバーの渡辺さんの、なべさんのペーサーをしました。
鬼ペーサーっていうのはあれ田中さんのことだったんですか?
え?何?
なんかストラバで鬼ペーサーになんちゃらって書かれてましたけど。
誰が?
なべさんです。
あー見てねー。
本当ですか?
多分僕、僕なのかな、最後記録後ぐらいで4キロのロードを引っ張りました。
地獄じゃないですかそれ。
でもまぁ一応いけるって言って、いけるって言うんで。
素晴らしいですね、なべさんも。
やった感じですね、はい。
すごいですね、今回でもどいさんもいらっしゃいましたか宣言。
そうですそうです、どい君も遊びに来てましたね。
すごいですね。
もともとベップさん、九州のベップさんが出る予定で、ベップさんのペーサーがどい君の予定だったんですね。
なるほど。
はいはいはい。で、それで、ベップさんは来れなくなったんですけど、どいさんだけちょっと遊びに来たって感じですね。
遊びにということで。
コンプレスポースのイベントがOSJであるみたいだったんで、そのついでだったのかもしれないですけどね。
なんか黒田さんのツイッターとかでも見ましたけど。
ん?あ、そうなの?
オンの靴を買ったっていうの見ました。
あー、どいさんが?
はい。
あ、そうなんだ、へー。
そうですね。
はい。
じゃあ、今日まだあれなんですね、AKAはまだ決まってないんで。
え、あ、書いてなきゃいけない、ニューヨーカーって。
ニューヨーカーですよね。
はい。
じゃあ早速ゲスト、海外ゲストとお呼びしていいんですよね、これはもう。
そうでしょ。
そうですよね。
じゃあ、山田明、AKAニューヨーカーさんです。すいません、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まあ後々、田中さんとの出会いっていうのをお話しされるんですけども、田中さんとやっぱりワサッチが一番最初に。
そうですね、はい。
まあまあワサッチ、会うのはワサッチで、ワサッチ行く前にワサッチに関していろいろやり取りをさせていただきました。
あ、そうなんですね。
はい。
なるほど、じゃあその点も後々ちょっとお伺いさせていただきたいと思います。
で、冒頭もちょっと田中さんが入る前に山田さんとお話しさせていただいたんですけど、今ニューヨーカー日曜日の朝。
03:07
それに加えて東京はまあちょっと夜なんで、テンションの差がもしかしたらあるかもしれないねというのを先ほどお話しさせていただきまして。
一応徐々に山田さんもアジャストしていくってことだったので、ちょっとまずは控えめに。
いやでも大丈夫です。
大丈夫ですか。
はい、いろいろ聞いていただければそれに合わせて話していきます。
すいません、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
はい、じゃあまず山田さんなんですけども、すいませんちょっとですね、私も調べきれなかったところがあったんですけども、ご出身っていうのはどちらになるんですか。
えっとですね、生まれただけで言うと、名古屋で生まれてるんですよ。
あ、名古屋生まれなんですね。
はい、生まれてすぐ広島が、父が広島の人なんで広島に引っ越して。
はい。
広島で3歳ぐらいまで育って、で父の転勤で川崎の生田とか。
あら。
まさしく皆さんが走ってる生田緑地。
はいはいはい。
僕の地元なんですよ。
あ、そうなんですね。
はい。だから生田緑地はもう小学校の昆虫採集とか幼稚園の遠足とか。
へー。
家族もまだあのエリアに住んでますし。
あ、そうなんですね。
はい、もう本当に地元ですね。
あそこってあれですよね、日本民間園とかこう。
はい、日本民間園。
はい。
あと関東で。
記憶に覚えてる、そうですね。
記憶に覚えてる一番古い多分遠足、だから幼稚園の頃の遠足は増方山登ったり、民間園だと思いますよ。
今増方山であれですよね、田中さんたちがトレーニングをされてる。
そうだね、はい。
じゃあその頃はもうあれですよね、特に小さいんであんまりもう普通に遊び場が生田緑地だった?
えっとですね、ちょっと言うと生田だと結局小さい頃って行動範囲が狭められる。
もう少しどちらかというとよみいりランド遊園地に近い方が本当の地元になって。
生田ももちろん最寄りの駅なんですけど、よみいりランド前っていう打球線の。
ありますね。
各駅しか止まらないんですけど。
そっちの信仰住宅地が近いエリアが元地元って言ったらいいんじゃないですか。
あそこもでもあれですよね、よみいりランド行く前に結構登りますよね。
06:00
そうですね、だから山しかなかったですね、坂と山しか。
そうですよね。
坂と山と梨畑みたいな。
あの梨意外に美味しいんですよね。
そうですね、美味しいんですよ。だから梨はいつも美味しい梨を食べた気がしますね。
そこら中に梨、今だいぶ変わっちゃったみたいですけど、梨畑しかなかったですね。
今その流れなのか、多摩プラの方も川崎ちょっと近いじゃないですか。
そうですね。
あっちの方も結構梨がすごく取れるみたいで、たぶんその延長線上なのかなっていう話は来ましたけど。
そうかもしれないですね、あの辺行ったら梨畑しかなかったですね。
そうですよね。
じゃあ3歳から大人になるまではずっと川崎?
そうですね、大人になりきる前にアメリカに来ちゃったので。
そうなんですね。
22歳ぐらいまではそうですね。
そのエリアを地元に居ながら東京の学校に行ってみたいですね。
その中で学生時代っていうのは山田さんはどんなスポーツをされたんですか。
僕は小学校から野球をやってましたね。
野球って田中さんたぶんゲスト初めてじゃないですか。
そうだっけ?
たぶんそんな気がします。いつもサッカー、バスケ。
確かに。あれ誰かいなかったっけ?
誰かいなかったっけ?まあいないですからね。
野球はリトルリーグでしたっけ?小学校どこからと。
地域ごとに野球チームがあったような気がして、
僕の通ってた小学校の子たちが行ってるチームがあって、
近所のチームにそこに所属しましたね。
山田さんはあれですよね。私も川崎生まれなんですけど。
そうなんですね。
私は川崎市川崎区なんで。
じゃあサウスサイドですね。
僕は北部。
北部の方ですよね。お育ちがいい方ですよね。
いやいやそうじゃないですよ。僕は引っ越してきたから。
生まれは違いますからね。
そうですね。名古屋、広島、そうですね。
北部の新興住宅街の一角の辺にあるエリアですね。
僕が育ったのは。
そうですよね。この辺って結構、
多分山田さんの頃も再開発途中みたいな感じですよね。
そうですね。どんどん家が建ってる時です。
自分が小学校ぐらいの時は、
09:00
そのエリアもどんどんどんどん家が建ってる感じがあって、
最近は逆に僕ら世代がどっか出ちゃったから、
ちょっと仮想化じゃないけど、
自分たちの親世代しか残ってなくて、
寂しい街になっちゃってるよとか言われたような気もするんですけど、
多分逆にまたそれがひっくり返るような気もしないでもないですかね。
ちょっと私事でこの近辺に引っ越すことになってまして。
本当ですか。
ちょっと調べたんですけど、
山田さんがおっしゃるようにやっぱり、
自分たち世代ぐらいの若手の人たちが徐々に戻りつつあるんですよね。
そこでちょっとマイクロロースターじゃないですけど、
小さいコーヒー屋やったりですとか、
何ですかね、さっき山田さんが言ったように戻ってきて、
もう一回この街を厚くしようぜみたいな動きがありそうなんですよね。
本当ですか。
練習する場所きっといっぱいありますよ。
そうですね、確かに。
300段ぐらいある階段を毎日上り下りしてた気がするし、
それと同じぐらいの坂もあったし。
野球部時代ですか。
僕が住んでたところから学校に行くのに、
どう考えてもその階段を上り下りしないといけないんですよ。
だから小学校1年生から毎日その階段を上り下りしてましたね。
ランドセルを背負ってってことですね。
ランドセルを背負って。
あれだけでも多分足腰強くなる気がしますね。
なりますよね。
あの階段って例の階段ですか?
どこだろう。
それの反対側かもしれないですね。
よく皆さんが走ってるところの。
塔があるところですね。
その塔があるところの階段は昔なかったんですよ。
なかったんですか、そこは。
そこがなくて、僕らの方に、また今度お知らせしますけど、
違う階段があって、その階段を上り下りしてましたね。
やっぱりそれは野球には通じるものというか。
たぶん小学生の野球ってそんなに基礎体力というよりは、
持ち力でやってたような気がするんですよね。
だから練習もたぶん週1、2回だったし、
純粋に小学生の野球チームみたいなところに所属してる感じでしたね。
中学校もそのまま野球部に?
中学校の野球部がそんなに強くなくて、
僕は小学校の時のキャプテンと、僕は副キャプテンだから、
12:03
その彼と2人でクラブチームに入ったんですよ。
中学校になると高級のクラブチームとかありますよね?
そうですね、でも僕は男子級のクラブチームに入りました。
ポジションはどちらですか?
僕は左利きなので、ピッチャーとファーストとガイアをやってましたね。
ただピッチャーはなかなかコントロールがうまくいかなかったのか、
そんなにレバーはなかったような気がします。
言われてみれば確かに、
左利きのセカンド、サード、ショートって聞いたことないですね。
そうなんですよ、いないんですよ。
いないんですよね、ほんとだ。
基本的に左は守る場所は限られちゃうんですね。
そうなんですね。
そうなんですよ、知らなかった?
知らない、今初めて知りました。
そうだよね、ガイアかファーストかピッチャーだね。
田中さんはそれご存知だったんですね?
知ってたよ、うちの兄貴は左利きで野球をやってたんで。
山田さんは川崎で好きな球団はもちろんロッテオリオンズですか?
川崎ですか?僕は阪神がその時は好きでしたね。
阪神もロッテに負けないぐらいちょっと氷の時期というか。
僕が小学校で一番野球見てた時って阪神めちゃくちゃ強かったんですよ。
1985年ぐらいの時ですか?
はい。
加計府岡田バース。
その時は阪神強かったんで。
父親が広島市なんで、積極的なカープファンなんですよね。
だから自分では阪神いいなと思っててもあまり表に出さない感じでしたけど。
一応家庭内ちょっと孫宅じゃないけどあれがあるんですね。
もうなんか熱量がカープファンは多分今は分からないですけど
その頃の父親はちょっと狂ってましたからね。
いやでも今も市民球団ですけど当時の方がまだ市民球団感が強い頃ですよね。広島が。
広島の人みんなカープ好きみたいな感じでしたけど。
ですよね。今はちょっと俺もどうか分からないですけど。
ただ地元っていうかそのヨミランドの辺はやっぱりジャイアンツの球場もあるしジャイアンツの合宿場もあるんで。
はいはいはいはい。
ジャイアンツの人よく見かけましたよ。近所で。
15:00
あれですよね。その頃もあれだったんですか。何でしたっけ。ビクトリーロードでしたっけ。
何ですかそれは。
なんかあのすごい急勾配な坂があってそこの上にジャイアンツ球場があるんですよね。
それあれですね後ろのなんかあの京王線側の方から上がって。
そうですそうですはい。
そこは走り屋がなんかよく走ってたとこで昔なんか。
そうなんですね。
みなさん攻めてた。
攻めて。
膝をすりながらバイクで。みたいなところで有名な坂ですね。
今はそれほどあんまり聞かなくなりました。やっぱりどちらかというと今は多分ランナーとかロードバイクの方が乗ってるっていうのよく聞きますよね。
僕が学生時代は放送属と走り屋とドリフトする人たちの坂でした。
そうなんですね。時代は変わるもんですね。
だいぶ違うんじゃないですか。
だいぶ違いますね。
あとは小学校後半ぐらいからヨミリベルディの本拠地にもなったから。
はいはいはいはいはい。
サッカーの人たちも多分そこに集まるファンとかも集まりましたし。
ありますね。
はいしてたんじゃないですかね。
ベルディの確かユースの練習場とかまだあったはずなんで。
もありますね。
ありますよね。
はい。
中学校はクラブチームで野球をやられてそのまま高校も高校球児として。
これがまたちょっといろいろあって悪いことではないんですけど。
中学校2年生の時に僕らのチーム全国大会に行ったんですよ。
中2ではいはいはいはい。
先輩の3年生で僕ら2年生の時に。
はい。
そこ横浜スタジアムで全国大会があって運よく僕ら全国3位になったんです。
全国3位。
すごいですねそれは。
すごいですね。
その年の合宿の前に僕ら練習過剰時期をしてたんですけど。
友人が川で溺れて死んでしまったんですよその時。
それが一番仲のいい友達だったので。
はいはいはい。
中2の繊細なところはそこで折れてしまって野球が一切できなくなっちゃったんですよ。
なるほど。
それで本当に気分が落ち込んでる時に学校の友達で仲良かった子たちがみんなバスケ部だったんですよ。
はいはいはいはい。
18:01
でなんかそんなにこう元気なく家でしてるんだったらバスケ部入らないって中学校2年生の周りぐらいに誘ってくれて。
はい。
それからバスケ部に入ったんですよ。
それはまあまあそうですね今なかなか野球をし続けるっていうのは結構厳しいですよね。
その中学校2年生で友人の死を目の前にしちゃうと。
そうなんですよ。だったのでちょっと重い話をしてしまって申し訳ないですけど。
いやいやいやいや。
でまあなんかもちろんその野球のチームの友達ももう一回やろうよっていう形で誘っていただいたんですけど。
はい。
なんかその時のやっぱ自分の中でなんか多分やっぱ重かったんだと思うんですよね。
それでそれまでは本当に野球選手になるのが夢だったんですけど。
はい。
なんかそれもガツッと終わられたような感じになっちゃって。
はい。
でその時にバスケットに誘ってくれてバスケ部の子たちで練習し始めた感じですかね。
そしたらなんかまあ運動神経はいい方だったので。
はい。
バスケットもできちゃったんですよねそれで。
山田さんその頃からあれですか結構身長が高い方だったんですか。
えっとですね中学校入ると小学校まではすごい体が大きかったんですけど。
中学校1、2年生1年生ぐらいまでちっちゃかったの気がする。
中ぐらいでした。
で身長止まっちゃったのかなと思った時ぐらいにバスケットに転校してバスケ部に入ってたら
中3の時には20センチぐらい伸びてたような気がしますね。
よくあるパターンがあるんですよね多分それ。
はい。
160センチぐらいだったのが気づいたら172、3になってたような気がするから。
それで高校入ったら83ぐらいまで伸びてたから。
すげえなあ。
それよく自分が弓に描いてたやつですね。
本当ですか。
ただ自分は中1の162センチがピークであとはそこから3センチしか伸びなかったという悲しい過去があるんですけど。
僕も中1の時161、1、2だったような気がしますね。
山田さんそこからいいですね。羨ましいですね20センチいくのは。
20センチ伸びましたね。
そのまま高校時代もバスケ部で。
そうですね。高校入ってもバスケしてて。
高校も2年生ぐらいの時に先生と喧嘩してやめましたねバスケ部は。
21:02
ただ運動は大好きだったので。
辞めてるのにあいつ練習に来てるとか合宿に来てゲームしてたりしてたような気がしますね。
体力が余ってたんですよね。
そこで先生もあえて止めなかったんですね。
先生は多分感情的になって言ってきたけど自分の悪いところもきっとあると思ってたんじゃないですか。
ある意味理解のある先生というか。
別にどっちでもよかったような気もするし、戻ってきてもらえればみんな戻ってきてもらった方がいいみたいな。
結構大量に辞めちゃったんですよね。
山田さんの辞典ってことですか。
正式に戻りたい子たちは先生に謝罪を入れて戻ったり。
ただ僕は別に謝罪を入れるつもりもなかったので。
勝手に練習に参加してたみたいな。
ちなみにどんな揉め事をしたんですか。
別にタバコを吸うとかそういうんじゃないんですけど、
先生の考え方と合わない。
じゃあ僕ら辞めますみたいな。
そんな感じだったような気がしますね。
すごく大人な感じですよね。
チームの半分ぐらい辞めたような気がします。
ただみんなやっぱり高校生だし、
クラブ運動してる人たちにちゃんと戻って試合とか出たいっていうのはもちろんあるから。
多分半分ぐらいは戻って、半分ぐらいは僕みたいに辞めちゃって、
もっと完全に試合にも何も来なくなっちゃう子もたくさんいたし。
それと結構競合校だったんですか、その高校時代というのは。
どうだろう。でも公立の学校なんでそんなに強いかっていうと、
多分一番最初高2の大会の時ぐらいで神奈川県結構学校が多いじゃないですか。
ありますね。
今は多分だいぶ減っちゃったと思うんですけど、
意外にベスト16ぐらいまでいけたんじゃないかなと思ったんですよね、最初。
でも中で結局先生との揉め事があって、主要選手とかも抜けちゃったし、
チームとしての結束もね、なんでお前残ってるんだみたいな話にもなったりとか、
その辺でいざこざがあったら、うまくいってればなんかもっといけたような気もしましたね。
神奈川の公立でバスケがある程度強いっていうと、自分なんとなく絞られてはくるんですけど。
でもそんなに強くなかったですよ。
結構本当に才能あふれるじゃないですけど、一丸となれば結構いけるところまでは。
24:03
なんかいったような気がします。
いったかそうなんですね。
いいメンバー揃ってたような気がするんですよね。真面目だったし。
ただやっぱり先生の指導力がなかったような気がします、今思うと。
いやー。
ちなみに僕が入れてもらった中学のバスケットボールは、
僕らが卒業して何年後かに全国大会に出てるんですよね。
あ、それすごいですね。公立の中学ですね。
公立の中学校なんですよ。
びっくりするくらい同じ先生で。
へー。
だからあの先生は指導力があったのかなって今はなると思いますけど。
あーすごいなー。
チームプレーはやっぱりコーチによって全く変わりますよね。
いい選手がいてもやっぱり結局それをうまく使えないと。
確かに。
名選手が名コンチになると限らないっていうのもよくプロスポーツ界で聞く話ですけど。
そうですね。
あれですよね、LBだとゴールデンステイトウォーリアーズのスティーブカーダーって
別に選手自体はそこまで。
まあまあブルーズの3ポイントシューターではいましたけど。
彼はいい不思議な感じがしますね。
いい選手でしたけど。
でも監督でメキメキな才能が出た感じがありますよね。
ちょっと昔だとフィル・ジャクソンだって別にそこまで名選手はなかったって言いますからね。
ブルーズで3連覇。
そうですね、フィル・ジャクソン。
昔アトランタフォークスにいた監督は名選手で名コンチっていう。
名前ちょっと度忘れちゃったんですけど。
パットライリーとかもそうですよね、レイカーズの。
レイカーズのですね。
ニューヨークニックスとかのスター。
結局選手じゃなくてもアメリカフットボールとかのコンチだって大体そういう感じの人。
選手じゃなくても結局チームをどうやって勝利に導くかっていうことですもんね。
確かにそうですね。
じゃあ結構あれですね。
山田さんは学生時代からでもやっぱり自分の考えはちゃんと持たれて行動されていたっていう感じの学生だったんですか、昔から。
どうなんですかね。
みんなが社会に対して不満があるのと一緒で、なんか嫌なことは嫌だっていう感じで生きてたんじゃないですかね。
結局辞めてその後から中高、後半はずっとアルバイトしながら生活してましたよ。
27:04
運動からもちょっと遠のいていったような感じなんですよ。
洋服がすごい、ファッションがすごい好きになって。
ファッションに一番興味を持つようになっていったような気がしますけどね。
はい。
お話聞くとやっぱり普通の高校、高校、バスケ部を辞めてからは一般的に洋服に興味を持ったり、いろんなカルチャーに興味を持ったりして。
そうですね。
洋服、音楽ですね。音楽、洋服。
アートはもうちょっと後でやっていきたいと思います。
そうですね。そういう感じの生活を送ってました。
その頃とか特に走ったりってやっぱりあんまりされてなかったんですか?部活で一応走るようなことはあるかと思うんですけども。
部活をやってたときは走ってたような気がしますね。
でも野球をやってたときのほうが走り込んでたような気がするかな。
どのくらい走るんですか?走り込みって野球の場合と。
ずっとみんなが練習するとこの周りをぐるぐる回るみたいな感じですかね。
本当に一時期の桑田がずっと野球場を回ってたみたいな感じですか?
そんな感じですよ。走り込みって。
特に早くもなくゆっくりずっとって感じなんですね。
そうですね。特にピッチャーをやってる人は走り込まされましたね。
よく言いますよね。足腰がピッチャーは大事だみたいなことは。
そうですよね。
そうするとじゃあ山本さんもしかしたらループは得意かもしれないってことですよね。
なんですかね。でもそんなに気持ち的にはループが好きかどうかっていうと多分嫌いなほうに入ると思うんですけどね。
新しい景色を見たいみたいな。
でも多分その練習の時はループを走らされますよね。今思えば。
まあそうですよね。だいたい外周とかですよね。学校の校庭。
そうですね。バスケ部でもなんでも練習の前に外周走ってこいみたいな感じになりましたね。
抜操のイメージしか自分もなかったですからね。本当に学生時代の走りっていうのは。
そうですね。ただ長距離は練習しなくても早かったんですよね。その時はまだ。体も軽かったし。
短距離はそんなに得意っていう気持ちはなかったんですけど、長距離は別にずっと走ってられる感じが昔はしてましたね。
30:02
でも今も長距離は得意だと思うんですけど。
そうなんですかね。今はこの年齢としては頑張ってる。
で、高校は部活を辞められて、アルバイトの生活を送られて。これあれですか、進学されたの?
専門学校とか。
僕は洋服のデザインの学校に行ったんです。
それは何年生の2年生ですか?
3年生です。
3年生なんですね。
結構本気で洋服をデザイン作る課に行って、学校に行ってるうちは一生懸命やって。
元はスタイリストって洋服をスタイリングするお仕事に興味があって、そういうものを目指すときにどういう勉強が必要なのかなと思って最初に始めたら、
スタイリストを目指すにしても洋服を作れる技術があると全然違うっていう風に学校の方に言われて、洋服をデザインする方に行ったらそっちに興味を最終的には持ってましたね。
山田さんの頃、例えばメンズノーノとかあるじゃないですか、男性ファッション史で活躍されてた方達って誰になるんですか?
モデルとして出てる子たち。
でもいいですし、自分だと野口さんとか。
野口さんだったり、スケザレさんだったり。
スケザレさん、はいはいはい。
鈴木拓司さんっていうスタイリストの方がその時の、今はデザイナーなんですけど。
その頃だとチェックメイトとか、メンズノーノとかですかね。
あとメンズクラブも人気があったし、
ファッション史ではスタイリストとしては
もちろん第一線で皆さんやってる方たちがこういう仕事があるんだっていうのを認識し始めたのはその頃だったような気がしますね。
そうすると野口千代さんすごいですね、あの人ね。
野口さんはもちろんすごい方だと思います。
中田秀俊の一時期、スタイリストをしてた話聞いたことありますけど。
今でもやられてるんじゃないですか。
やられてるんですかね。
わからないですけど、僕もそこまで認識がないので。
皆さんいろんな仕事を未だにさせていただいてますね。
で3年間、副職の専門学校行かれて。
33:05
これはあれですか、特にその間に何かどこか留学されるとかなく、一応3年間ちゃんと修了というんですかね、卒業されて。
そうですね、ほとんど学校も休まず遅刻もせず行ってましたよ。
すごいですね。
よく今思ったらそんなことしてたなと思って。
卒業ってのはいつになるんですか。何年度卒業になるんですか。
98年の多分3月とかじゃないですか。
でもただあれですよね。山田さんがニューヨークに行かれたのって98年。
98年の9月に僕来ました。
それは洋服関係で最初はニューヨークに渡られたってことなんですか。
一番最初はもうその時にはファッション、中でもファッションデザイナーになり、自分で洋服を作ってデザインしてみたいという気持ちがあって。
90年代の頭で、GUCCIは分かりますよね。
GUCCIのクリエイティブディレクターに今のトム・フォードっていう、自分のブランドをやられてるトム・フォードっていう方が、
その時僕らの中ではすごい新しい格的な名前のポジションであったクリエイティブディレクターっていうポジションでデザイナーじゃなくて入ってたんですね。
それがイタリアのブランドのGUCCIのはずなのに、ニューヨークにオフィスがあって、
ものすごいかっこいいコレクションを繰り広げたわけです。
こんなような仕事を目指して行ってみたいと思って、
パリとニューヨークと思った時に、外国にも行きたいと思ってたので、
普通だったらファッションだったらパリじゃないっていう感じだった時代だったんですけど、
ニューヨークに行ってみたいと思って、ニューヨークに行く手段を考えたのが、
たぶん2年生ぐらいの時に考え始めたんですよね。
最初はファッションの仕事に就きたくて、ニューヨークに向かいましたね。
ただ全く英語もしゃべれないし、ステータスもなかったので、
一番最初に描いてたようなようには進んではいかないんですけど、
何も考えていない20歳そこそこの、僕だった頃逆に来れちゃったような気もしますけどね。
36:00
まあ言い方は悪いですけど、ノリと勢いでどうにかなるんじゃないかみたいな感じだったんですかね。
勢いでどうにかなるんじゃないかっていう、たぶん浅はかな感覚だったと思いますよ。
じゃないと逆に来れないですよね。
そうですよね。
なんかもう本当にいろいろ大変でしたね。
考えちゃいますよね。
どうですか田中さんここまでの人生、十何年ですけど、なかなか濃密な感じですよね。
ちなみにお仕事は決まっていったんですか、それとも特に仕事を決めずにいきなりニューヨークに行ったんですか。
仕事はまず決まりようがないじゃないですか。
高校卒業してそのまま専門学校、ファッション学校に行って、卒業したところで完全な何も経験のない素人ですからね。
だからそれでニューヨークに来てもそんな仕事があるわけじゃないから、自分の夢としてはそういうものがあったけど。
だから一番最初は本当に語学学校の留学生です。
最初はかっこいいことは言ってても、語学学校でどうなるかわかんないけど、長く入れても数ヶ月かなとかいう感じの本音はありましたけどね。
やっぱりどういうふうにしていいか全くわからなくなるんじゃないかっていうのもあったし。
じゃあまずは語学留学でニューヨークに行ったっていう。
そうですね。
そこから語学学校に通いながら仕事を見つけたってことですかね。
そうですね。
端的に言うと生活する術を見つけていくってことですよね。
まず一番最初は英語が全く喋れないので、赤ちゃんと一緒なので、まず言葉を喋るところからどうにかするけど、
最初はみんな3ヶ月ぐらいで喋れるよみたいなことを言ってたような気がするけど、全く3ヶ月経とうが喋れる感じでもないし、耳にも英語が入ってこない。
これはなかなかそんな数ヶ月で言葉をマスターできるような世界じゃないなっていう。
そう考えるとどれだけ長く最初はいられるかっていうふうにすると、どういうふうに生活していくかっていうふうに切り替わっていったわけですよね、最初は。
学校に行かないと僕らはとりあえず学生ビザっていう、ビザが限られているので。
そうですよね。
それをどうやってキープするかみたいな感じですかね。
多分もう20年も経ってるんで、時効的なこともあるんで。
39:02
言っても別に、最初はもちろんアルバイトだからって本当はしちゃいけないわけだから。
それでどうにか繋いでいくっていう感じですかね。
もう何年間ぐらいそのような生活というのもあれなんですけど。
これでも別に多分言ってもいいとは思うんですけど、
学生ビザをどうにかキープしながら生活費を稼がなきゃいけなかったので、
最初のうちはニューヨークのデザイナーのアシスタントとか、
できる仕事を何でもしてたんですけど、
ファッションって限定するとものすごく仕事が短髪的なものだったので、
そんなにかっこいいことばっか言ってられないっていうので、
お金をもらえる仕事だったら、僕の生活でももらえるんだったら何でもやろうと思って、
でも一番安定してさせてもらったのがレストラン。レストランで働いてましたね。
でも一番最初働いた頃はあれですよね、先ほど山田さんもおっしゃったように英語も喋れないし、
その頃はちょっと喋ったり聞き取ることもできてからバイトをしたんですけど、
それでももう全然わからない状態だったんですか。
全然わからない状態だとやっぱり、
厳しいですよね。
働けないんですよね。
どうしてもそうなってもお皿洗いだとか、
だからある程度読むのはもう日本人の方たち皆さん6年、長い方9年とか英語を勉強してるからできるはずなんです。
何ができないか聞き取りと喋ること、一番多分喋ることだと思うんですけど、
でもそういうのは大概数ヶ月、半年くらいすると少しずつ慣れてくるという感じですかね。
周りが英語、語学学校の影響は多いんですか、
それとも周りがみんな英語しか話してないからだんだんそれに耳が慣れていくというか。
特に最初はハングリー精神があったので、
今もわからないとは思わないけど、
極力日本人の人といないようにしてたような気もします。
日本食屋でバイトして白米を食べた時には久しぶりに食べたなと思ったから、
なるべく耳を慣らすためにテレビとかニュースとかはいつも聞いてたし、
42:02
ただ全く最初は耳にも入ってこないです。
それでなんとかなって、アルバイトはなんとかできるレベルまで持っていったような気がする。
まあ、結構張ったりとかもきっとあると思いますけど。
6月にニューヨークに留学されてから、バイトするまでも結構…
結構ありましたよ。1年ぐらいは。
そうですよね。
お金をもらえないインターンっていう仕事がアメリカは多いので、
そういうニューヨークのデザイナーの方のインターンに入って、
大学を卒業したりとか、
大学を卒業したりとか、
大学を卒業したりとか、
大学を卒業したりとか、
大学を卒業したりとか、
デザイナーの方のインターンに入って、
別に喋るというよりは、
その人たちのお手伝いっていうか、
お金ももらえないんですけど、
お手伝いみたいなことをしてたのが最初の頃でしたね。
すごいなあ。
そのような生活で、
徐々に軌道という言い方も変なんですけど、
何年ぐらい経ってからニューヨークの生活に慣れてきて、
ちょっとずつ山田さん自身が描いていった夢に近づくような感じになるまで、
だいたいどのくらいかかったんですかね、それは。
まだその時点で今やってる仕事に全く近づいてなくて。
そうですよね。
合計でいうと1年半ぐらいはレストランでアルバイトというか、
仕事をさせていただいて、
過ごしているうちに、
セプテンバイ11もあったし、
セプテンバイ11の時はもう他のこと何も全部ストップしちゃってたので、
そうですよね。
ラッキーだったのはそこでの仕事がキープできたっていう、
低収入が何とか入ってたから、生活は何とかギリギリできてたっていうところですかね。
それでそれが少し落ち着いてきたぐらいの時に、
そのレストランのグループの、
副社長さんの奥さんが、
そのグループ内のお花の投げ込みっていうのを、
45:02
お花を飾ってたんですね、その女性の方が。
毎週1、2回来られてて。
ある日来た時に、あなた暇だったら朝手伝わないっていう話をされて、
僕はレストランでウェイターの仕事をするところから出たかったので、
何かしろクリエイティブな仕事に就きたかったし、
2つ返事で行きますって言って、
その彼女と一緒に10店舗ぐらいのレストランを毎週1、2回、
お花の投げ込みっていうのかな、
お店のレストランとかにあるじゃないですか。
ああいうのを買える仕事を彼女の手伝いで最初入ってて、
週1、2回、
フラワーマーケットがニューヨークにあるんですけど、
そこに顔を出すようになったら、
定期的にマーケットに行くと、
彼女は趣味みたいな、自分のレストランのお花を買えてるけど、
本気でそのお花の仕事をやってる方たち、本気っていうのは変ですけど、
なりばいとされてる方たちが、
花屋の方ももちろん来られるけど、
ニューヨークってやっぱりパーティーがものすごく多い街なので、
大規模な結婚式だったり、チャリティーパーティーだったり、
本当にパーティーがそこら中で行われてるんですけど、
それのデコレーションする方たち、パーティーデコレーターの方たちっていうのは、
お花もするんですけど、会場のデコレーションもするみたいな。
花屋っていうと、お花屋さんっていうイメージが日本ではあるんですけど、
ニューヨークでいうフローリストっていう仕事は、
フローラルデザイナーっていうと、パーティーデコレーションの仕事なんですよね。
そういう人たちによって、パーティーデコレーションの仕事をしてるんですけど、
パーティーデコレーションの仕事なんですよね。
そういう人たちが花屋に買い付けに来るんですよ、お花屋さん。
顔を見知りになって話し始めたら、こういうことやってるって言ったら、
じゃあ今度うちに来なよみたいな話になって、
誘ってもらったら2つ返事でやるって言って、
そこに参加して、その人たちがどんなことをしてるのかとか、
彼らのニーズに合った動きを見せて、
いいねっていう感じになって、次もまた来なよみたいな感じになって、
そこからネットワークが広くて、
花屋の人たちというか、フローリストの人たちと一緒にいっぱい仕事するようになるんですよね。
48:07
やっぱあれですか、それはデザイナーの時に培ったものっていうのは、
なんだかんだ生かされたって感じですかね。
結構評判は良かったんですよね、また来てよみたいな感じになるってことは。
多分、若いしやる気が、めちゃくちゃやる気が、
水を得た魚じゃん、やる気で溢れてたから、
多分動きも良かったんじゃないですかね。
あと体も動いてたし、結構女性と、
芸の方たちの多い仕事の職種なんですよね。
そこに男手が入ってくると、荷物もガンガン運んじゃうし、
多分使う側の人としても使いやすかったじゃないですかね、最初。
その頃山田さんが、いつの頃ですかそれは。
25とか24とかじゃないかな。
卒業されて。
1、2年後ぐらい。
ってことですよね。
うん。
その時には、それをし始めた時、
セプテン・バイ・レブン後ぐらいで、ファッションだけしか頭なかった自分が、
結構いろいろ頭切り替わってた時期だったような気もするんですよね。
価値観とか考え方とか。
アメリカに行って、別のエンターテイメントを垣間見ることで、
こういうこともあるし、こんなこともあるんだみたいなのを体感することによって、
ファッションだけじゃないなみたいな。
そういうふうに考えた時に、
そういうお花の仕事に就くことがあって。
しかもなんか、自分が今まで想像してたようなレベルじゃないお花の規模。
何百人っていう人たちが一斉に働いてたりしてたから、
なんか面白かったですよ。
しかもちょっと経験も良かったのかな。
2000年の頭ぐらいで。
まだリーマンが崩れる前ですもんね。
そうですね。
だからパーティーもすごいたくさんあったし、面白かったですよ。
いいですね。いいですねっていうのも、先ほどの野球の時のお話もそうじゃないですけど、
ちょっとやっぱり悲しい出来事があって、
9.11に関しても、我々は日本のテレビで見てて、
51:01
本当にこれが映画なのか、映画が起きてるんじゃないかって実は実際だった。
それも目の前で見たらすごく悲しい出来事であると思うんですけど、
それがやっぱり人生においてのターニングポイントになるっていうのが、
よく聞く話ではあったんですけど、
やっぱり実際に現地にいると考え方とか、山田さんもおっしゃられてますけど、
やっぱり180度近く変わっちゃうもんなんですよね、多分そういうのが。
目の前でやるとやっぱり。
ちょうどレストランでのアルバイトみたいなのに、
少し何やってるんだろうみたいな。
疑問が出てきたところなんですね。
なんとか生活はできてたような時にそれが起こって、
セプター11の起こる前ぐらいから次のことをやりたいと思って、
バーテンダーになろうかなと思って、
とりあえず生活費を稼ぐためという意味なんですけど、
バーテンダースクールみたいなのに通ったりとかして、
それを卒業して、ちょうどセプター11に入って、
ファイナンシャルディストリックとか、ちょうどあのビルのエリアにあるバーに
面接に行く予定だったんですよ、初めて。
ツインターのところってことですか?
はい、あの辺にある。
で、その日も面接が夕方の4時ぐらいにあって、
もしそこを受かったら面白いなとか思いながら、
新しいバーテンダースクールに入って、
あれが起こったので、もちろんそのバーもなくなっちゃったし、
多分なかったらバーテンダー一瞬になってたような気もしますね。
また生活も全然違ったと思いますね。
そういうのね。
それ、田中さん9.11の時は、
どんな感じでしたか?
そういうのね、
ちなみに田中さん9.11の時は、
社会人で働かれてましたか?
社会人だったよ。あれ?
2001年?
2001年で仕事してたよ。
その時、田中さんとおいくつの時ですか?
いくつだろう。
2001年?
何年前ですか?20年前ですか?
20年前か。
27じゃん。
じゃあ、ちょっと日本の会社の仕事にも慣れてきた?
全然慣れてもあれですか?
何を持って慣れるかっていうのはわかんないけど、
仕事は3年とか。
そうですよね。
ニューヨークってすごいですね。
やりたいと思った専門学校とかがすぐあるんですもんね。
そのバーの学校もそうですけど。
ニューヨークで一番いいなと思ったのは、
54:02
その人がこれをやりたいと思ったら、周りの人が応援してくれるんですよ。
僕とかは洋服のことを勉強して、
日本にもしそのままいたら洋服関連の仕事をして、
そのままやってたと思うんですけど、
なんか疑問があって、
違うことに寄り道しても、
その後次にステップをするときに、
周りの人たちが今これをやろうとしてるんだ、
じゃあ頑張りなよって、
その人が頑張ろうとしてたら応援してくれる感じはすごくあったような気がしますね。
それやったらこうじゃないとダメだよみたいなことを言う人は
周りに一人もいなかったような気がします。
アメリカらしいって感じですね。
だから、そこに次に移動していくプロセスの中で、
障害はあまりなかったような気がします。
お花に向かって、お花をそこから7年半くらいお花の仕事をするんですよ。
そんなにフローリスト、そんなにやられるんですか。
そうすると30前半くらいまで、
お花の仕事をするんですか。
そうですね。最終的に切り替わるのが30歳手前くらいまで、
自分のクライアントがギリギリまでいたような気がします。
最初はいろんな方のところで働いて、
多分手先が僕は企業だと思うんですよ。
そうですね。
で、実際に働くときに、
実際の中で学ぶことがすごくあって、
いろんな人のところで仕事していく上で、
お花の扱い方から全て学んでいったんですけど、
もちろん自分でも勉強してるんですけど、
第一世の方たちが本当に目の前でやってて、
学んでいったときに、
今度は自分で次のステップで自分のクライアントをゲットしていくみたいな。
で、そのクライアントを少しずつ増やして、
今まで人の元で働いたのを、
今度は自分が受けた仕事を自分でプロデュースしていくみたいな仕事に入っていってましたね。
最後の方。
しかもまだニューヨークであれば、
そういうのって目が込めた人がすごく多そうじゃないですか。
そうですね。
その中でクライアントを勝ち取るって、
考えただけでもすげえ大変な気がするんですけどね。
だから今でも花谷寿さんって思ってる人もいるかもしれないし、
そのときはいつの間にかお花だけで食べてましたね。
わーすごい。どうですか田中さん。
すごいっすね。
ねえ。
ちなみに、
就労ビザを取るタイミングってどの辺だったんですかね。
これはもうアメリカで一番大変なことです。
57:00
まあそうですよね。
僕も時効なんでいろいろ言えるとか言ってもあれですけど、
別に犯罪なのか、人を殺してるわけでもないし、
ステータスはすごく重要で、最初は学生ビザなので、
学生は学生しかないんですけど、
だけど仕事をしないと生活ができないということで、
少しずつプロセスがあるんですけど、
最初はアンダーテーブルって言って現金でもらえるような仕事しかつけれないんですけど、
なんて言うんだろう、
アンダーテーブルで働いている人が多いんですけど、
アンダーテーブルで働いている人が多いんですけど、
何て言うんだろう、
自分の働いていたお花の何個かある会社のうちの一人の人、
今でもものすごくお世話になっているんですけど、
その方が自分のビザのスポンサーになってくれる、
僕が頼んだんですけど、スポンサーになってくれるということで、
その方にいろいろスポンサーをしてもらうような形で、
自分は就労ビザをアプライしたんですね。
スポンサーみたいなのが必要なんですね、就労ビザを取るには。
そうですね、その会社がいろんなパターンがあるんですけど、
アーティストビザといってアーティストとしての実績がある方たちは
そういうアーティストビザというのを申請できるし、
ジャーナリストの方は日本なのかアメリカなのか、
どこかのパブリケーションだから出版社とかがスポンサーになって、
この人はここで働くためにここにいますっていう
ジャーナリストビザがおりたりとか、
あとグリーンカードっていう永住券、それを申請する形もあって、
僕は僕のステータスから働けるビザを申請できるには、
グリーンカードを申請するっていうやり方しかないって
ロイヤーの方に言われて、
その人はスポンサーになってくれる会社が必要で、
長年やっていて実績があるデザインの会社はないですかって言われたときに、
僕が今でもお世話になっている会社があって、
お世話になっている会社というか方がいて、
アメリカのお父さんみたいな方がいるんですけど、
その方がスポンサーになってくれて、
グリーンカードを申請するんですよ。
そこから結局7年、8年かかりましたけど、
ステータスが下りるまで。
そんなかかるんですね、グリーンカードって。
そう簡単には、
1:00:00
まず働いていいっていう条件をまずもらえるっていうことが
すごく大変ですね、アメリカでは。
特に日本の駐在だったり、
日本の会社から派遣されてくる方たちは、
最初から就労ビザを持って入ってこないと入れないじゃないですか。
その代わりその会社から辞めたら、
その人たちどこでも働けないし、
日本に帰るか、不法でいるかっていう形しかなくなっちゃうし、
あとは実績のある日本でアーティストの方たちが
アーティストビザを取ってこっちに来る方もいられるし、
会社を企業としてビザを下ろす方もいるんじゃないか。
どちらにせよステータスがないと仕事はできないですね、基本は。
もちろんできないっていうことはないですけど、
ちゃんとした形で生活していくっていうことは難しいです。
厳しいっすね、長田アメリカでの生活は。
そうだよね。
だから最初から仕事の権利をもらって生活できる日本の方がもちろん楽で、
ほぼほとんど初期にいたお友達なんか、
日本に帰っちゃってますからね。
もちろんステータスがないから泣く泣く帰っていく人たちもいるし、
もっと全然いい仕事に就いたから日本に帰るっていう人たちもいるし、
ほとんど帰られましたね。
すげー。
全然ランニングの話にまだまだ到達してない。
長くなりますよ、これ。
人となりがこの番組の必要なところですからね。
そうですね。
フローリスト、そこから今のお仕事、フォトグラファーさんとして。
なっていくってことですね。
ってことですよね。そこもちょっと色々とうよ曲折が。
ありますね。
ありそうな感じがするんですけども。
30前半でお花屋さん、フローリストとして、
ある程度軌道に乗ってきたってところですよね。
今のお話部分で言いますと。
20代後半ですね。
そうですよね。後半から30前半ぐらいまで。
30前半の時にはもしかしたらほとんどやめ始めたような気もします。
7年半と考えると。
お花の仕事をしていく上で、結局次のステップを考え始めたんですよ。
これってどういうふうに。
本当にトップフローリストの人たちのところで、
僕フリーランスフローリストとして働いてたんで。
1:03:02
そうなんですね。
もう500人とか1000人単位のパーティーをやる人たちの下で働いてたから。
そうすると次のステップはこの人みたいになるって思うと、
その人はいつもスーツ着て、別にお花とか触らないんですよ。
監督みたいな感じなんですかね。
監督みたいなんですよ。
何をしてるかというとクライアントといつもミーティングして、
新しい仕事のプレゼンテーションをするみたいな。
それが自分やりたいことじゃないなって思い始めた時から。
なんかちょっと違うふうに思い始めた時に、
自分は自分なりのクライアントを増やした方が面白いなと思って、
それをするには結局自分が作った作品とかを形に整えないと
人に見せれないと思って。
身を踏み上げて写真で作ったものとか、
自分で小さいながらもやったパーティーの仕事とかの写真を撮り始めたんですよ。
ポートレート集みたいな感じで作ったってことですか?
仕事の作品集みたいな。
作品というか、次の仕事に行かせるような。
こういう結婚式のブーケ作れました、こういう飾り付けしましたみたいな。
そういうのをしていく上で、お花の写真ってすごく難しくて。
しかもまだデジタルカメラが少し出てきた時で、
主流がフィルムのカメラだったので、
昔からあるフィルムのカメラを借りたりとかして撮ると、
室内で撮る色と外と違う。
光って温度があるんですけど、
ケルビンですよね。
その温度のこととか全く知らないから、
フィルムを普通に撮ってたら、
なんでこの仕上がり、色が違うんだって、
建造長のおじさんに言うと、
フィルムって色があるんだよとか、
光の温度知ってるかって言われて、
はーっと分からないから、何それみたいな話をしたら、
フォトグラファーの友達がたくさんいたから、
そういう友達に色々話を聞いたら、
写真ってすごい面白いなと思い始めて、
興味を持ち始めたんですよね。
興味を持つと、
好奇心が元々どんどん旺盛だったので、
なんか面白くなってきて、
お花の仕事って朝早朝3時から始まって、
昼ぐらいに終わっちゃうんですよ。
午後空いた時間に、
クラスを取り始めたんですね。
写真、フォトグラファーになるための。
1:06:02
写真の現像、最初は現像だったんですけど、
テクニックのスキルですか?
最初はどちらかというとスキルがないから、
カメラの使い方だったり、ライティングの使い方だったり、
一番最初はフィルムの現像のクラスから取って、
そういう風にやっていくと、
次のクラスこれだ、みたいな風になっていって、
学び始めると写真が面白くなってきて、
そしたら、
アシスタントの仕事とか、
アシスタント、ただだったらやっとってくれるとか、
結構あったので、
写真の仕事、休みの日とかに、
アシスタントのアシスタントとか、
少しずつ移行していったんですね。
だから生活費を稼ぐには、
自分のクライアントが何個かあったから、
そのクライアントを毎週こなして、
全部お花飾り付けして、
ただ、もう本当に昼には仕事が終わるから、
だから終わった後、
空いた時間を全部写真の勉強と、
写真のアシスタントと、
あと自分で写真を撮るっていう風に思ってたんですね。
だから、
20後半ぐらいから、
多分30歳ぐらいまでは、
二重生活を、
というか、
お花屋さんしながら、
写真は、
どちらかというと、
まだ他になってなかったけど。
アシスタントをされていたってことなんですね。
アシスタントのアシスタントです。
セカンドとかサードアシスタントというか、
それもチャンスがあれば、
できる限り、
いろんな人のアシスタントをして、
日本の方はほとんどいなかった、
ほとんど一人もいなかったんですけど、
それも、
一番最初は旅をするフォトグラファーの方たちで、
料理を撮る方もよくしたし、
あと建築とか、
ポートレートを撮る方もいたし、
最終的には、
ハイファッションという、
90年代、
一番元気があった、
モデルを立てて、
ファッションを撮るという方の下で、
最後は1年ぐらいはやったのかな、
アシスタントを。
その時も、
フローリストとしてもやられて、
えっとですね、
お花屋さん、
最終的に、
特にファッションの方のときは、
ファッションの方が、
ファッションの方が、
本当に毎日のように撮影があったので、
最終的には、
主要の、
ギリギリのラインの、
アシスタント、
お花の仕事、
生活をギリギリキープできるところの、
お花の仕事はキープしつつ、
週1、2回の、
日常ある仕事はキープしつつ、
あとは全部、
1:09:00
写真に持っていったり、
写真を撮ったり、
写真を撮ったり、
ちょっとずつアシスタントでも、
お金もらえるようになって、
こっちのフォトアシスタントって、
ちゃんとお金が出るんですよ。
そうなんですね。
仕事として成り立ってて、
弟子とかじゃないんで。
都定制ではないんですね、
こっちの方は。
じゃないんですよ。
だから、そういう場合は、
インターンっていって、
ノーペイのお金を払わない、
マイクロフォーマーで、
っていって、
ノーペイのお金を払わない、
仕事なんですけど、
基本のアシスタントは、
それだけで食べてる人が、
何十年もいるし、
ちゃんとした仕事をして、
成り立ってるんですね。
だから、アシスタントのアシスタントでも、
ちゃんとお金がもらえるし、
なので、
少しずつそれを、
元の、
お花の仕事と、
写真でどうにか食べたいけど、
どうしたらいいんだろう、
みたいなことを考えながら、
その時一番、
暑いフォトグラファーの人に、
働かしてほしいって、
手紙書いたりとか。
やっぱり、
売り込みじゃないですけど、
そういうのがあるんですね、
やっぱり。
っていうのは、
みんなものすごく、
自分たちのチームで動くから、
知らない人入れたくないんですよね。
ものすごく、
閉鎖してる中で、
本当のトップの人たちは仕事してて、
周りの人たちから見えないような感じで、
撮影してるから、
そこの隙間に入っていくには、
すごく難しくて、
でも、
その辺を垣間見たような感じに、
最終的にはなってたので、
それはやっぱり、
ニューヨークならではの、
出来事だったような気がしますね。
うん。
すごいですね、
それは。
まあ、
それを何とかしつつ、
それをしてると、
結局実践でまた、
お花の時と同じように、
写真のことも学んで、
どんどんこう、
フィルムが剃れて、
デジタルに移行していく時だったから、
はい。
リタッチングだったり、
いろんなデジタルプロセスのことを、
実践で結構、
見ながら学んでいったような気がしますね。
うーん。
じゃあ、
その転換点に関しては、
特に学校とか行くとかではなく、
本当に、
習うより慣れろみたいな感じで、
ただ、
細かい技術は、
やっぱり、
ICUっていう、
インターナショナル、
なんだ、
音センターみたいなのがあって、
はい。
学校があるんですよ、
1:12:01
写真の。
そこぞデジタル部門みたいなところで、
はい。
最初はライティングのクラスを取ったんですけど、
はい。
そこで先生と、
生きとおうというか、
先生に話して、
学びたいんだけど、
そんなにいっぱい、
事業料にお金が払えないっていう話をしたら、
ティーチャーアシスタントって、
先生のアシスタントしたら、
事業料払わなくていいよって言われて、
その先生にいろいろ紹介してもらって、
はい。
自分が受けたいクラスの先生の、
アシスタント、
ティーチャーみたいなのをしてました。
それで、
講義を、
アシスタントしながら講義を聞いて、
学びましたね。
学んだってことなんですね。
はい。
フォトショップとかリタッチングは、
それですごい学んだことが多かったですね。
へー。
はい。
へー。
ちょっと、
すごいとしか言えないですね。
ちなみに、
カメラで食べられるようになったのは、
何年ぐらいかかりましたか?
うーんとですね、
僕は、
29歳の時に、
妻と結婚をしたんですけど、
はい。
グリーンカードがようやく降りて、
うーん。
そこから正式に仕事はして、
ただ、
ステータスはあるけど、
仕事がすぐ前に来るかというと、
また話は別で、
まあ、
それぐらいの時から、
写真の仕事をちょこちょこ、
小さい仕事、
本当に小さい仕事です。
物撮りだったり、
クライアントに頼まれたもの、
これも撮ってきて、
30歳多分、
次の年に、
どちらかというと、
自分の写真というよりは、
アシスタントでアルバイト代を稼ぎつつ、
お花の仕事もして、
なんかこう、
何個も陰を持ちしながら、
どうにかやってきた感じでしたよね。
うーん。
その時は、
遠景脱毛症できてましたね。
ははは。
いろんなことを考え過ぎて。
考え過ぎてってことですか。
はい。
でも、何とかそれで少しずつ、
やっていく上で、
多分、
何とか独立したのは、
30歳の時に、
長女が生まれるんですけど、
はい。
その時にアシスタントを辞めたんですよね。
というのは、
アシスタントをしていると、
フォトグラファーの時間で、
ずっとこう、
自分でコントロールできない時間を
持っていたのが多かったので、
それだと、
育てをしながら生活するのは、
難しいなっていうのは、
現実的にあったので、
1:15:01
はい。
多分、自分だけの、
かっこいいファッションフォトだけっていうのは、
難しいと思うけど、
なんかコマーシャルな、
いろんな違う仕事をやれば、
何とか、
お花の仕事もキープしながらやったら、
できるのかなと思って、
30歳の時から、
約15年前に、
独立した気がしますね。
独立というか、
勝手に一人で始めたっていうか。
だから、
そこから多分、
それでも5年ぐらいは、
安定したっていうのは、
今でもなかなか、
しているのかどうかわからないから、
うん。
でも、
生活ができているっていう、
ギリギリですかね、
どの、
どういうことを安定しているっていうか、
本当に、
始めからずっとフリーランスなので、
はいはいはい。
もちろん波が、
フリーランスなので、
給料制ではないから、
大きな仕事があれば、
ちゃんとあるけど、
ずっとあるかっていうと、
なかなかなかったり、
波は常々あるような気もしますけど、
その波も、
落ち着いたような感じなのは、
いつぐらいだろうな。
でも、
5年ぐらいしたら少し、
3年ぐらいしたら、
少し定着してきたような気もしますけどね、
写真をやっているっていう。
それはちなみに、
お花屋さんも、
続けながらって感じなんですか?
最初の、
だから安定するまでは、
お花の仕事は辞めなかったですよ。
じゃあ、
安定して、
辞めていったっていう。
安定し始めて、
手が回らなくなってきたから、
お花の仕事は、
自分の信頼できるお友達に、
託したって感じですね。
今でも多分、
やってるのかどうなんだろう、
その方にお願いしますって、
渡した感じだったような気がする。
はいはいはいはい。
すごいですね。
今のところ、
特に、
走るとかなんて、
絶対できる時間ないじゃないですか。
はい。生きることに成長しています。
ってことですよね。
しかも子供もできて。
そうですよね。
ご結婚もされ、子供も生まれて。
全く何にも、
自分のことを考えるというよりは、
どうやって生きていくかっていうのが、
すごかった気がする。
そうですよね。
でも学ぶこともたくさんあったし、
出会いもたくさんあったし、
悩むこともたくさんあったけど、
勉強することがたくさん、
いろんなことであったな。
いろんなことがありすぎた。
そうですよね。
でも面白かったですよ。
それはそれで。
1:18:01
なんかあれですね、
今までの田中さん、
日本とはちょっと違いますね。
違いますねっていうのも、
あれかもしれないでしょうけど、
やっぱこう、
なんですかね、
ハングリーさっていうんですかね、
わかんないですけど。
まああれだよね、
日本での日本人の生き方ではないよね、全然。
ではないですよね。
やっぱこう。
あと多分さっきもほら、
僕伝えた感じましたけど、
おそらくそのお花、
僕お花も大したことやったこと、
もともとないのにお花に入ってたし、
はいはいはい。
写真も大学で勉強したこともないし、
はい。
だけどその時止める人はいなかったんですよね。
うーん、
今そう言ってましたね、はいはいはい。
それを評価する人は多分、
これが良い悪いでたくさんいられたと思うんですけど、
ただそれをやるかやらないかのところでは、
なんか止められなかったんですよね。
うーん。
やるんだったら応援するよ。
だけど別にそれができるか、
いいかどうかは別だけどみたいな。
あー。
なんかそこが入ってきやすかったんじゃないかなと、
自分で思うんですけど。
止めないけど後は自分次第だよねみたいな感じですよね、多分。
うーん。
まあそうですよ。
そういうことですよね。
だから全てあなたの責任っていうところですよね。
おおー、アメリカらしい考えというか。
うーん。
すげーなー。
それが今35歳ぐらいでちょっと安定というお話が出てたと思うんですけど。
いやでも安定って言うと語弊が。
語弊があるというか何となっていったんですかね。
もういつでも悩んでますよ。
いつでも悩んでる気が。
今でもやっぱり方向性とかいろいろ悩んだりもするし、
だけどそれはもうフリーランスとしてやっていく上ではしょうがないっていうか、
そういうものだと悩まないと逆にいけないんじゃないかと思うし。
そうですよねー。
どの段階ぐらいからちょっとずつ走り始めようかなっていう感じになっていったんですか。
えっとですね、それはもう純粋に3、何歳だ。
結構後なんですけど、長女が2006年に生まれて、
次女が2012年に生まれるんですけど、
次女が生まれた年か。
10年前ですかね。
9年ぐらい前ですか。
ぐらいから少し運動しようかなと思ってちょっとしたとこもあったけど、
それじゃないな。
次女が、女の子って4歳ぐらいになると一気に手が離れるんですよ。
1:21:02
そういうものなんですね。
これは僕の経験だけかもしれないですけど。
本当ですか、娘さん。
いや、わかんない。
結構子育て参加がとなったので、2010、そうなんですよ。
急に女の子みたいな感じなんですかね、やっぱり。
お母さんの仕事手伝うみたいな。
自分のことは自分でするっていう。
はいはいはい、なんかわかりますね。
それまでいろいろやってあげなきゃいけなかったのが、
いきなり結構4歳ぐらいの作家に手が離れた。
それが2016年ぐらいだったんですよね、次女が。
なるほど。
手が離れるのが。
はいはいはい。
その頃には体がボロボロで、
僕も自分のことをあんま考えてなかったから、
体重もすごい増えてたし、もちろん運動してないからなんですけど、
仕事学ぶことだらけで毎日サバイブしなきゃいけないし、
子育てもしなきゃいけないし、
一人が二人になったら二重で大変だったし、
だからどんどんどんどん知らないうちに体に負荷がかかってたみたいで、
その2015年ぐらいの冬がすごい寒い冬だった気がするんですけど、
写真で撮るのが1、2割だとしたら、
後の8割って用意と後のポストプロダクションって、
ポストプロダクションって後処理が時間かかって、
デスクワークみたいなのが多いんですよね、リサーチしたり。
だから結構座ってることも多かったから、
その冬に足の左の指に痺れを感じ始めたんですよね。
痛みとかだったら痛いとかでわかるんですけど、
痺れっていうのは初めてだったんですよ、その時。
気持ち悪かったから、人に聞いたり調べたりすると痺れはすごく良くないっていう、
痺れっていうことが出てきたときに、
ちゃんと見なさいって病院に行って精密検査したんですけど、
全く西洋医学の中で何も表情が出てないって言われて、
いろいろ心電図みたいなのとか、CCTスキャンみたいなのいろいろやったんですけど、
でも何も症状ないから大丈夫だよみたいなこと言われて、
いや、そんなことなくてすごい痺れてるんだよねみたいな話しても全然ダメだったんで、
1:24:00
ちょうどその後に日本に行く予定があって、
日本でお友達のランナーの友達が行ってる整骨院に連れてってもらって、
先生に見てもらったら、山田さん、極度に血の巡りが悪いですって言われて、
東洋医学へアプローチですね、それは。
運動とかしてますかって言われて、
いや全くできてないです、どうにかしようと思ってるんですけどねみたいな話をしたら、
多分走るのは大変だと思うけど、最初歩くことからしてみませんかみたいな話をいただいて、
そこから歩き始めた感じですかね、最初は。
それがだいたい2015年とか。
15年の年末ぐらいだったような気がする。
やったかな。
なるほど。
運動をするきっかけ。
きっかけというか、そろそろしないとまずいかなという感じでしたね。
その上に考えた時に、ニューヨークマラソンが当たったんですよ。
ニューヨークシティマラソンの2016年のニューヨークマラソンの出場権が、
毎年何か送ってたんですけど、当たって、これはすごいと思って、すごいことなんですよ。
東京マラソンばりにすごいってことですよね。
いやもう本当すごいですよ、こんなの当たっちゃったんだみたいになって、
じゃあ練習しないとっていう風になり始めて、
少しずつ、最初は1、2キロ走って息が上がって、
こんなに運動できなかったかなみたいな、
自分の廊下みたいなのを感じつつ、
本当に走れないし歩けもしなかったような感じだったのを、
少しずつ1キロ、2キロ走れるようになって、
3キロ、今度5キロになってみたいな感じで練習していったんですよね。
その練習をしてた時に、もともと山とか好きだったから、
マラソンの前にレースとか出て、
レースってどんなのかな、試してみようかなと思って、
どうやらトレランっていう山を走るレースがあるらしいみたいなのを色々調べたら出てきて、
それで、今はなくなっちゃったんですけど、
North Faceが主催してたEndurance Runっていう、
50Kとか50マイルとかをやるレースが、
1:27:04
全米を通してやってたんですけど、それのニューヨークのレースが、
Bear Mountainってアップステイト、ニューヨーク1時間くらい北に行ったところで開催されてて、
それが4月か5月くらいにあって、これ出てみようと思って、
それの50Kに参加したんです。
急にですよね。
急にですね。
ニューヨークマラソンを走るために。
そう、ニューヨークマラソンを。
ただマラソンより長い距離をいきなり走られたってことですよね、50キロ。
そうですね。何でか分からないんですけど、走っちゃいましたね。
でも田中さん、タイムは6時間57分なんですよ。
早いですね。
早いですよね、50キロで。
どうなんですかね。
累積がどれくらいあったんですかね。
累積が2700みたいです、これ、累積標高で。
早いですよね、2700あって、サーフェイスにもよると思いますけども、早いと思いますよ。
結構最後の方がガレてたんですよね、多分山田さんのこの。
読んだんですね。
ネペンデスの。
めちゃくちゃガレてましたね。
ニューヨークらしいって言ったらあれなんですけど、
走れないようなコースでしたね、最後のコース。
ガレてガレて。
あとはトレイルの走り方ってこと自体は全く知識がないから。
どんどんカモシカのようなランナーに抜かれていくわけですよ。
なんでこの人たちこんなに軽やかに山を走るのかなみたいな。
そういうのを痛感させられたような気がしますけど。
でも自然の中で走るっていうことがすごい気持ちよかったのは一番の印象でしたからね。
空気もいいし景色もいいし。
自分を取り巻く環境が最高だなと思いながら走ったけど完全に息も足も上がってるみたいな感じですかね。
でも50キロで6時間57分。
ちょっとブログの方を見ても、
早めに駐車場に入って仮眠してスタートに準備をされてるっていうのは、
初めてのレースなのにちゃんと用意ができてるっていうのはあれなんですかね。
3時に起床、4時半に駐車場に到着して車で仮眠とって6時にスタート。
結構山のテントワークとかテントに。
なるほど。
日が明ける前まで一瞬車の後ろで寝袋入って仮眠してから登り始めるとか。
そういう感覚だったんじゃないかなと思う。
なるほど。
1:30:00
あと初めてしてきてどうしていいかわからないっていうか。
なるほど。
これが4月どうも30だったんですよね。
それぐらいですね。
先ほど山さんがおっしゃってたニューヨークシティマラソンっていうのが11月の7日。
そうですね。毎年それぐらいの時に。
田中さんこれタイムどのくらいだと思いますか。
おおよそで。
3時間45分。
惜しいですね。3時間49分。
すごいですねそれはやっぱり。
3時間45分を完全に狙ってたんですよ実は。
山田さんが。はいはいはい。
それもレース経験がない自分の中での問題が発生したんですけど。
マラソンの多分中盤でトイレに行きたくなって。
トイレに行って多分時間を5分から10分ロフトしてるんですよね。
そんなにトイレは混んでたんですか。
トイレで人が混んでて。
どうしてもトイレ入りたくて。
多分5分は少なくてもそこでロフトした気がしますね。
じゃあそれがなかったら目標達成できた。
いったような気がするんですよね。
はいはいはい。
山田さんこの時靴どうも2回履き替えてるみたいですよ。
はい。
これも何分かロスがありそうな。
走ってる時じゃないですよね。
履く靴を2回替えたって書いてますね。
っていうのは足に合う合わないの靴が全く分からなくて。
最初自分は良いと思って買ったナイキの薄いレース用の靴が
そこまで体がなってないのにそれを履いてしまったことで
すねが痛くなったりふくらはぎが痛くなったりしたから
もう少し足に合った靴に変えようと思って。
なるほど。
2回替えたら1回替えた気がしますね。
最終的にはホカのランニングシューズに変えてそれが合いましたね。
トレイルの一番最初のレースの時もホカだったんですよ。
あれホカじゃないですか。
どっちかというと厚底身の方がその頃は好きだったんですよ。
これともゆりかご的な感じが?
走り始めて間もないし体もできてないし。
あと体も僕基本的に大きかったので
体をプロテクトしてくれるというか
体の体重もある程度あるし筋肉量も多分今よりも多かった気がするから
1:33:02
多分おそらく耐えきれないというか薄底だと。
最初は薄底の靴を履いたらこうやっぱり
怪我じゃないけど疲労怪我が出てきたので怪我みたいな。
ホカにしたら落ち着いたので。
確かに当時の写真を見ると結構ガッチリ。
そうですね。今でもある程度はガッチリはしてると思うんですけど
線の細さが違いますね。
この前のワサッチの写真も今見て見比べてるんですけど。
そうですね。
この2016年1ヶ月後ぐらいに
今度はクマの行動をトレイルランディングレースに。
これ疲労はなかったんですか?
取材関係というかお仕事で?
まずおそらくニューヨークマラソンを完走して
9時ぐらいに日本に行く仕事があって
日本に戻って
それが分かってたから
別の日本の友人と一緒にクマのレースに出ようとした感じですかね。
これが2016年12月クマの行動トレイルランディングレース
50キロの累積3000、約3000プラス。
タイムが8時間49分1秒。
総合108位。
全然僕はもうダメですよ。
もう必死でしたからね。
一番最初に出たノースフェイスエンディランスランとは
全然サーフェイスというか、全然違う感じでしたか?
全然違いましたね。
日本の山っていうのがギザギザですよね。縦に。
アメリカってトレイルというか
アップダウンはあるけど走れるみたいな感じなのかな。
こんもりした丸かギザギザなんですかね。
おっしゃってることはよく分かりますが。
アップダウンは激しく。
短い距離の間に上に下りがあるみたいな。
だから走るというよりは登るみたいな。
そういうのですごいやられた。
結局今はある程度小刻みで走ったりするとか
テクニックみたいなものを真似て
少しずつ学んできたけど
その時は分からないから
下りは走っちゃって、登る時はゼーゼー言って
いい感じで走ったと思ったらいきなりまた登るから
ゼーゼーしてみたいな
1:36:01
すごいエネルギーを消費する走り方をしてた気がしますね。
今と比べると。
今はどちらかと言うと省エネルギーで走る方向に行ってるけど。
田中さんは熊野古道は出られたことはあるんですか?
ないですね。
熊野古道。
かぶらぎさんがよくオープン参加してる。
そうですよ。かぶらぎさんに追い抜かれて。
かぶらぎさん最後からスタートして。
そうです。みんな抜いてく。
みんな抜いてくっていう。
一番いやらしいやつです。
今度は抜かれないように頑張りたいです。
おそらく僕が多分日本のレースに出るのは
おそらく日本に行った時に少し観光要素みたいなのを入れてみた。
やっぱり外国に来て日本での生活がほとんどなかったから
行ってみたいところがたくさんあったから
特に熊野なんていうのはすごい魅力的な場所だった。
そういう風にしてレースを少しずつピックしていった気がします。
世界遺産ですからね。熊野古道としては。
その延長線上なんですかね。
次2017年の大雪山ウルトラトレイル。
大雪山っていうのは北海道にお友達がたくさん増えて
北海道に行く機会が仕事でも増えて
仕事仲間であるトレーラー仲間であるお友達の方たちが
いいレースがあるから参加しませんって誘ってくれたのが大雪山だった。
そうですよね。こういう時が当時最長の80キロ。
80キロでしたね。
でもタイム13時間11分14秒。
死にそうでしたね。
確かにそんな感じのことがブログに書かれてましたね。
ベンティスの方には。
でも景色見る限り相当綺麗そうな景色ですね。
大雪山のレースはすごくいいレースなので
もしチャンスがあれば皆さんに参加してもらいたいというか
最初80キロに出てたんですけどそこからあとは40キロ。
1回はDNFしちゃってるんですけど
3回出場してるんですよ僕日本に行くたびに毎年夏で。
でも40キロのコースは本当に山を堪能できるので
80キロは出たかったら出ていいと思うんですけど
40キロのレースは本当にいいので
ぜひチャンスがある方がいたら参加してもらえると面白いと思いますけど。
2019年度からちょっと名前変わったんですよね。
大雪山トレイルジャーニーっていう名前に変わられて
1:39:02
多分40キロが後半のちょっと美味しいところだけいいとこ取りのとこみたいですね。
そうなんですよね。
ちょっとまた後で出てくるんですけど。
これ80キロっていうのもなんかあれですね
ちょっと霧株にぶつけた右足の親指が
だんだんおかしくなりみたいなことが書かれてましたけど。
結構つらかったですね。
ロングレースっていうのに出たこともなかったし
ミトルレースだと思うんですけど
自分の中で少しずつ距離を伸ばしていた気もしますね。
これ山田さんのネペンテスル見ると
これもちょっとおかしいですね。
これもちょっとおかしいですね。
これ山田さんのネペンテスル見ると
山岳パートに入るまでが
ロートと林道で60キロなんですよね。
そうなんですよ。
何度も心折られそうになりながらと書いてましたけど
そう折られますよねこれ。
なんか田んぼ道みたいなとこずっと走らされて
こんなの走るんだみたいになるとやっぱり嫌ですよね。
山を走りに来たはずの人に
距離伸ばしのためにって言って
その次のときもそれで嫌になって
そこから40キロでいいやみたいになっちゃったんですよ。
ただ山の部分に行くと鉱山植物がいろいろ咲き乱れて
湧き水があちこちに咲いたり
そうなんです。山自体はすごく綺麗だし
すごい良い山なんですけども
その林道パートはやっぱり好みがあるじゃないですか。
僕はロードとかを走るんだったら
ロードレースでいいんじゃないかなと思っちゃったりもするし
やっぱりせっかくトレイルだったら山を走りたいなっていう
そうですね。
そこで僕は心が折れましたね。
山田さん的には40キロがオススメですよと。
そのレースは確実に40キロがオススメですね。
僕の中では。
もし出るなら高さ40キロが一番気持ち良さそうですね。
大切なんだよね。昔なんか
1日と2日目みたいなそんな感じでやってたような
そうなんですか。
そうなんですね。
40キロ。
そのレースも川倉木さんが一番最初に行った時
走って追い抜いてきました。
川倉木さんには縁があるんだなと思ってます。
1:42:02
ちなみに最近小原君とかは走ってなかったっけ?
小原さんは走ってました。
見かけました。
2回目に僕が参加した時に小原さんが走ってました。
小原君も出身が北海道なんで多分それで出てたのかな。
そうだね。
長い方はあまり面白くないってことでしょ。
ちょっと話聞いてると60キロのロードと林道じゃ次はんになりますよね。
長いですよ。
でもその20キロの中に凝縮されてていいところが入ってるから
だったら40キロを楽しんだ方が僕はいいと思います。
翌年にSTY92キロ
調べてたんですけどSTYさん2018年度のリザルトが載ってないんですよね。
そうなんですか?
そうなんですよ。
一応ブログ拝見すると制限時間20時間にギリギリだったっていうのが書かれてたんで。
結局与道士で走ったりするようなレースに参加するのが多分初めてだったんですよね。
自分のレースの仕方とかも分かってないし
全然練習量とかもおそらく足りてなかったのかなって今思えば思うし
そんなもんじゃないですか。ギリギリで。
いやでも見てると結構あれですね。ちょっと山田さんのブログのところを見てて気になったのが
STYぐらいでこのUTMFに出てるトップランナーの選手の走りを見て
100マイルを意識するようになったのかなって読んでて思ったんですけど。
間違いないですね。
トップランナーがかっこよかったですね。
多分STYの時が速い選手どんどん抜いていくじゃないですか。
今は多分一緒に走ってない。今は無くなっちゃったからですけど。
僕の時はちょうどパウパペルとジュリアン・ボーマンがトップ争いだったのかな。
僕らが走っている時に天地三界で走っている時に
トップ集団が来たよみたいな感じでみんなが後ろの方から言い始めて
パッて見たらもうトップ集団が来てて、2人がトップでバーッと来るわけですよね。
1:45:05
その時にこの人たちちょっと全然レベルが違いすぎるっていうのを見た時に
実際にトップ集団が来てたんですよ。
その時にこの人たちちょっと全然レベルが違いすぎるっていうのを見た時に
すごいなと思ったらその後天地三界を僕が降りるぐらいの時に
日本のトップ集団、今思うとそこに奥野宮さんと鬼塚さんとかいた。
僕の知っている中でですよ。もっと多分いたと思うんですけど。
その人たちの下りの凄まじさがあって、なんでこんなところでこの人たち競争してるんだろうみたいな。
競争してるんですよ、もう本当に。
もうなんか下りをすごい要素で下ってるっていうか。
もう本当にこんな状況であと100キロ以上走れるのかなみたいな。
多分走れなかったでしょうね。
ですよね、多分2人ともダメになっちゃったような気がしたから、その時は。
2人とも抜きましたね、僕は。
きっと田中さんとかにもいろいろすぐどっかに抜かれたと思うんですけど。
普通に自分が進んでいく上で上司のトップの。
コートニー・ドリバーですね。
そう、コートニーがどこだったかな。
モトスコぐらいのところで思ったら、後ろから走ってきてニコニコしながら、
僕が下手って半分歩きぐらいのスピードで動いてたら、
頑張ってって言って日本語でさーっと抜いていった感じがあって、
この人たちはちょっと違う世界だなっていうのをすごく感じましたね。
みんな早い人たち、ケアしてくれるんですよね。
弱ってる僕らに対して大丈夫みたいな。
頑張ってとか。
その辺がこの人たち強いなっていうのを感じながら、
それがずっとトップ選手が終わった後もみんな同じような感じだったんですよね。
90キロぐらいを走ってる僕らがへこたれてるところに
100マイルたちはペースが変わらずに同じような感じで、
すごい速いんじゃないけどステディーなスピードで、
この人たちかっこいいなっていうか、
それを感じましたよ。
締めくくりが早くなくても強いランナーっていうのが
このブログの締めくくりに置かれてて、
やっぱり確かにトップ選手はかっこいいですよね。
1:48:03
でも一番のところはその通りで、
強いランナーがかっこよく見えましたね。
人のことをケアしてあげて、
この人たちは速くないけど強いなみたいな。
そうですね。
そういう人たちがたくさんいたような気がする。
それを一番ただの肌身で感じたのは多分UTMFの
2018年の大会の僕が出たSTYのときに
100マイルの人たちにそれを感じた気がしますね。
そこで18年7月に
これが悪天候で山に入れなくなっちゃったので
結果がDNFになっちゃったってことですよね。
一番の醍醐味である山に入れないってことですよね。
やっぱりモチベーションがグッと下がって
そういうことはいけないんだろうけど、
もう大雨で。
しかも一番最初に大量コースロストで
それこそ小原さんとかも戦闘を走ってたから
多分戦闘を走ってた人が一番最初にコースロストしちゃったから
戦闘の人たちが一番時間をロストした感じがした。
でもあの時に彼が結局一番になって戻ってった
っていう話を聞いたときにやっぱりすごいなって思いました。
すげえな小原さん。
多分40分か45分ぐらいロストしてるんじゃないですかね。
へえ。
すごいな。
はい。
で、翌年に2019年これも日本に帰ってこられて
今度はアソラウンドトレイル2019年5月14日に
アソラウンドトレイルで
これも日本に帰ってこられて
今度はアソラウンドトレイル2019年5月14日
これが山田さんの中で初めての100軽超え
そうですね。121キロでしたね。
で、一応累積が6834
で、タイムが28時間42分26秒
結構これは厚さが
前半はめちゃくちゃ厚かったですね。
みたいですね。これちょっとブログの方にも書かれてましたけど。
もうなんか日射病になる手前ぐらいの厚さがあったような気がしますね。
はい。
それでやっぱり結構やられちゃった感じですか。
なんかその後は結局
その1個前2個前のレースとかも一緒なんですけど
レース自体をどうやってやったらいいかとか
そういうことをあんまり自分が分かってなくて
最終的な後半にやっぱり
1:51:05
気持ちの折れっていうか
前半のフィジカルで引っ張ってたところが折れて
後半気持ちが折れたことによって
足が進まなくなってしまったみたいな
それが多分今後も同じように
自分の中での課題になっていくような気がするんですけど。
なるほど。ただちょっとあれですよね。
最後の方に途中知り合った名前も知らない方と
2人で最後の2区間を並走するっていうのが
トレイルランらしいというか。
特にロングレースはそうなんだなっていうのが
同じペースでずっと時間を共有し始めるじゃないですか。
多分でも彼ら2人いなかったら
もしかしたらもっと遅かったかもしれないし
途中で辞めちゃってたかもしれないし
全く名前をお互い言ってないけど
ペース同じぐらいで
一緒に最後引っ張ってもらって
ゴールしたって感じでしたね。最後3人で。
ちょっとあれですよね。
辛そうながらも楽しそうな感じっていうのは
ロングレースらしい感じのフィニッシュ感が
楽しかったですよ。
阿蘇はすごくいいレースだと思うので
いつかまたちゃんと出たいですね。
これ阿蘇のコースマップ見ると
阿蘇の外輪というか
あれを走られてる感じで。
これ田中さん走って100マイルになるんでしょ?
そのうちそういう計画があるとは聞くけどね。
まだじゃない。
その節にはぜひ山田さんも
参加してみたいですね。
ぜひバックルを作っていただいて
そんな折には。
そしたらバックル好きの方たちが
田中さんも含めて。
この年が1個大雪さんの
先ほど話されていた40Kを挟んで
2019年の最大のメインレースと言っていいんでしょう。
サッチフロント100。
結果から言うと69マイル
111キロ地点で
残念ながらDNFという形にはなってしまったんですけども
これでも前半一回右足をひねって
また後半女性のお尻を見て
足をひねるっていうものを見ましたけども。
それは大きかった。
精神的なことも大きかったし
やっぱり足をひねったのも大きかったからですね。
1:54:04
そういう意味で
足をひねったのも大きかったからですね。
どちらにせよ
まだ力不足だったような気もするし
あとやっぱり
70マイル以降の自分をまだ全然見れてないから
その後半にどういうふうに対処していくかということを
まだ向き合ってなかったような気がしますね。
いまだにそこは課題でありますけども
ロングレースはやっぱり
最初の70マイルぐらいは
いつの間にかそこにたどり着けてるような気がするんですよね。
今の僕3つぐらいしか出てないんですけど
まあ4つか
そこからが勝負な気がしますけど
田中さんもそうですよね
70マイル以降ですけどね
70、80マイル以降はやっぱり
100マイルはそこからがレースになるとよくおっしゃってますよね。
東さんから聞いたのは70マイルまで頭を使って
30マイルから気持ちで走れっていうそんな感じだよね。
ワサッチでもこれあれですね
ポールも折れちゃったところを
エイドの優しい人がダクトテープで修理してくれたり
いろいろとワサッチの
ソロで出る人に関してはかなり
ホスピタリティが高いみたいなことが分かると思いましたけども
結局多分アメリカのレース全体的にきっとそうだと思うんですけど
僕も一番最初はアメリカだったけど
その後ずっと日本のレースに出てたじゃないですか
そんなに感じてなかったんですけど
アメリカのレースのホスピタリティって
ちょっとびっくりするくらい高いんですよね
高いですよね本当に
高いですよ
それを痛感させられたというか
僕一人で今回はワサッチ
田中さんとナミネムさんともう一人の田中さん
田中圭介さんが
田中圭介さんと4人で参加できたけど
その前一人で行ってた
お友達もいないし
だから全然全くゼロで進んでいったところに
なんかそれを感じさせないというか
いる人たちみんながケアしてくれるっていうか
もちろん水とかを入れてもらったりするとかは
もちろん何かやってくださったりするんですけど
食べ物のことだったり
1:57:01
ここから日が強いから日焼けが危ないから
日焼け止め塗ってやるっていう
反強制的に日焼け止めで全身塗られたりとか
氷が必要だから氷をいっぱい持ってけって
氷をくれたりとか
なんかちょっとこう
なんていうんですかね
その優しさがあふれてるっていうか
多分自分の経験もある上での彼らの行動だとは思うんですけど
なんかいいレース環境の中で進めてたんですけど
やっぱり時間制限がしっかり私たちにはあって
制限時間にやっぱりギリギリ間に合わなかったですよね
その一番最初の大会の時は
そうですね
これもあれなんですけど
やっぱり一番最初の100マイルを走る人が走るようなレースではきっとないんですよ
今はもちろん分かってるんですけど
その時は半分分かってる分かってない感じでやってたんですけど
でも僕の知ってる100マイルはここだったので
とりあえずこれを制覇するみたいな感じで挑戦はしてたんですけど
ちなみに何でワサッチを見つけてワサッチに出ようと思ったんですかね
なんかいろいろ見てたんですけど
この山を走りたいっていう純粋な
しかもワンウェイで走ってみたいっていう心があったんですよ
それで調べていったら
このワサッチはずっと山の上だし
ワンウェイで上から下まで行けるっていうのは
あんまりそんなにそんなレースがなかったんですよね
多分その挑戦心みたいな自分の中にある挑戦魂みたいなのがこれだと思ったんじゃないですかねきっと
はいはいはい
だから全然知らないまた結局危ない奴ですよ
知らない奴がこんな大変な奴に参加してしまったみたいな
危ない状況を自分で作ってしまった
でも結構指折りですよね多分ワサッチってアメリカの中でも
そうですよね
僕出て思いましたけど
基本ずっと2000m以上の標高って書いてましたもんね
そうですね
そうだね
またこれゴールできなかった時に
Today is Mountain's Day and next time will be yours
2:00:01
これ一体どういう意味なんですか
直訳すると今日は山の日だけど次回はあなたの日だよみたいなことなんですかこれって
これは何かそれこそバークレーマラソンの人たちが今回バークレー買ったけど
なるほどはいはいはいはい
一緒なんです使い方の違いで
なるほど
今日は山があなたに買ったけど
次はあなた絶対やれるはずだ
かっこいいですね
悔しさよりも戻ってこいと再確認ということですね
なるほど面白くなりますね
20年はコロナの影響でレースがいろいろキャンセルになってしまったのでレースあまり出てないと
出れないんですよね
出れなかったですね
そうですね
バーチャルウエスタンステイツは走ったけど
そうですよねバーチャル系がはいはいはい
実際のレースは翌年の2021年でこれはファーストステイトトレイル50系っていうのに6月に1回走られてる
結局レースずっと出てなかったし
ワサッチは幸運なことに2020年の時に当たってたんですよ
見えねえ
はいはいはい
で何か
ファーストステイトトレイル50系で
ファーストステイトトレイル50系で
ファーストステイトトレイル50系で
ファーストステイトトレイル50系で
見えねえ
はいはいはい
出走権はあったけどキャンセルになって
ギリギリまで5月6月ぐらいまでは走る気ままで練習してたんですけど
もうコロナの状況がひどくなったのでしょうがない
それはもう切り替えるつもりで
その次の翌年21年に上げて
頭を切り替えて
普通に淡々と練習をしてたんですけど
レースが再開し始めたので
じゃあ再開したから何か参加したいと思って
近郊でレースを探したら
デラウェアっていうステートである50キロのレース
これちょうどいいなと思って参加したんですね
これ面白いのがあれなんですね
ウルトラサインアップ上でレースのコース見ると
ワインバレーを栽培している
ラムジーンズファームさんで始まって
またそこで終わるっていう
あんまり累積もなさそうなコース
僕はこのレースはレースというよりは
純粋にトレーニングの一環として走りました
走るレースを練習で
2:03:00
50キロぐらいだったら練習にちょうどいいなと思って
ただでもすごいですねこれタイムが
5時間39分32秒
そうですね
少しだから走り方を学んだのと
ステリーに走れるようになってきたのかな
だからエンドゥランスレースの
ノースフェイスの時と比べたら
全然自分なりに走れたんじゃないですかね
ステリーペースを保って
次に2度目のワザってチャレンジされて
これは田中さんも行かれたやつ
田中さんと山田さんは
それ前までは色々とやり取りされてたって話は聞きましたけど
実際に現地で初めて対面としてはお会いされるという
そうですね
皆さんそうでしたよ
慶介さんもナミネムさんもそうだったんですね
本当にこの1年以上はほとんど
人と走ったりとか人とお会いすることもなかったので
なんか嬉しかったですよ
そういうランナーの方と出会い
そうですよね
しかも日本から来たっていう
僕もニューヨークから飛んでるんで
その土地のものじゃないですけど
すごく嬉しかったのを覚えてます
これもともとアレですか
エントリーリストが何か見て連絡取ったとか
そういうわけではなくてってことですか
共通の知り合い
岩垂さん
岩垂さんはなんか日本に帰ると
一緒に走ったりとか
送ってもらったり
あと岩垂さんの
MFのサポートもされてましたね
サポートを奥さんと一緒に
僕が知ったというか
一緒にぐるぐる回って手伝ってたんですけど
一番最初はお仕事で知り合ったんですけど
そういう縁があって
岩垂さんとお話をすると
僕の友達の方たちもみんな出るから
みたいな話をなさって
連絡を
ラミネームさんはトモヤさん
岩垂さん
トモヤさんがMFの練習方法
僕も結構ギリギリまでMFの練習方法で進めてたので
いろいろ相談に乗ってもらってて
2:06:00
トモヤさんはラミネームさんとすごく仲がいいので
ラミネームさんのこと紹介していただいて
前もって
あとはもうポッドキャストを
皆さんのこと聞いてました
走りのトモとしていろいろ聞いてました
なるほど
面白いですね
でもアメリカに行って
日本人が出会うって
そうですよ
面白いですよね
しかも初めてだけど
初めてじゃないですからね
そうですよね
確かにそれは面白いな
一気に幅がまた広がりそうな感じしますもんね
皆さん経験を複雑に学ぶことしかない
レース展開として
結果的に2度目も残念ながらだったんですけども
前回のクラフト2個前
2つ先のレードまで行けたので
次は完走するぞっていう感じですかね
ただブログのほうも見ると
ジェルも天然素材のものに近づけたりとか
あとカロリーが入ったエナジードリンクを
常時摂るようにしたり
後半もその影響で
あんまり胃がムカムカすることもないっていうのが
経験値というのが
いろんなところから学んだりされて
間違いなくいろんな
ホットキャストだったり
学ぶことはいっぱいありますよね
あとは学べてないのは結局経験値ですね
経験ですね
結局は経験がものを言うというか
特に後半とか何か問題が起きたときは
経験でカバーできるじゃないですかね
だからそれが僕には足りなかったというか
ただあれですね
これ見てると
やっぱり最初のほうは結構
高地純納というかやっぱり
高山病に2回目も少し苦しめられる展開になって
やっぱり
息が上がっちゃうっていうのは
あんだけ息が上がるっていうのは
普通の低山ではないことだったので
やっぱり高地純納完全にできてないってことですよね
それをカバーするほど
総力があるかっていうと僕にはないので
多分やっぱりそこがすごく
大きなネックになってるんじゃないかな
というところはありますね
だから次回の時はもう少しそこを賢く
2:09:02
対応しないといけないなって思ってますけど
はい
やっぱり田中さんに関してもやっぱり
あれですよね
高山結構富士山とか行かれてましたけど
やっぱりちょっと違ったような印象はあった
みたいなことをおっしゃってましたけど
まあ高地トレーニングと高地純納が違うからね
やっぱ違うんですかねやっぱり
純納はしきれてなかったんじゃないかなと思う
僕自身もね
山田さんライナー行くときどうします?
1週間前に入って純納するとかってやります?
なんか今思ってるのは
1週間だとちょっと仕事とか無理みたいな
4,5日
まあまあそうですよね
なんかジェイソンクーポンやっぱり
72時間か
だから3,4日前ぐらいから
入った方が
入ればまあどうにかなるんじゃないかな
って気がしますよね
あとはついてすぐ走るかって言ってました
ジェイソンクーポン書かれてますね
高地に入ったことを忘れるぐらいの
みたいなこと書いてますよね
24時間以内でしょ
そうそうそう
って書いてあったからどっちかと思ったけど
まあどっちかって言ったら
多分前に持って行った方が
なんか自分はいいんじゃないかな
というか思います
なのであとは
後半慣れてくるところで
やっぱペーサーの人をちょっと頼んでみようかな
って今度は思ってますけどね
そうですね
野良ペーサーいるんで
アメリカらしいですね
ペーサーの方たちにちょっと引っ張ってもらって
特に夜間の
2個大きな山があるんですけど
その1回目の山のところで
慣れちゃったような気もするので
もうその時に幻覚と幻聴がすごくて
はいはい変わってますね
なんかその時にもう少し慣れずに動いていれば
問題なく関門はクリアできたんじゃないかなっていうか
そこでペーサーの人に入ってもらうっていうのが
次回できることの一つかなと思ってますね
はい
ちなみに僕の来年の
それもユータ集で
ウェアー100ってやつにもエントリーしちゃいました
すごい近いですよね
近いです近いです近いです
考えてるのはちょっと1週間前にぐらいに行くか
その時ちょうどあれなんですよね
日本が祭日が重なってて
休みが取りやすいっていうのがあるんで
それで行くかもしくは
ちょっと考えたのは日本で
2000メートルぐらいのホテルがあったりもするんで
そこに泊まって仕事をするかっていう
2:12:00
すごいなそれ
ワーケーションなんですよね
ワーケーションみたいな
菅平とか2000メートルぐらいありますよね
そうですね
ああいうところに泊まって
仕事をしようかなとかちょっと思ってはいますけどね
違う気がしますよね
そうですよね
だからそれはちょっと考えてます
来年岩垂さんロールオーバーで参加するって
今の時点でうまくいけばっていうことをおっしゃってたから
そしたら一緒に僕は当たれば走れるかなと思ってるんですけど
スピードが全然違うので
先に行っちゃうと思うんですけど
証拠にもなく3回目の挑戦
いやいやいいですね
しようと思ってますけど
ぜひ3回目はバックルを手にしていただきたいですね
頑張ります
ちょっと小耳に挟んだんですけど
山田さんは今田中さんのオンラインを
オンライン講座はしてないです
オンラインで何か
じゃなくて何だろう今回
僕言った方がいいですかね
はいどうぞ
僕が非常にレースの後一人で落ち込んで
なるほど
悔しすぎるみたいな話をしてて
このままじゃ今年は終われないなとかいう話をした時に
リオデラゴンの話が少し浮上してきた時に
参加しようかなって言って
こう言ってたら田中さんが
もし参加するんだったらプラン考えますよ
練習方法を変えた方がいいかもしれないみたいな
練習方法を
プランを考えていただいたんですよ
今回1ヶ月
リオデルラゴンまでのトレーニングプラン
練習乗ったことですか
そうなんですね
確かにワサッチ終わってから2ヶ月くらいですもんね
リオデルラゴンって
そうなんですよ
こんなんで走り切れますかねみたいな話をしたら
いけるんじゃないですかねって話をくださって
4週間の練習表みたいなのを作ってくださって
とりあえずそれをこなすみたいな
頭の中で自分の中で
最初体育会終わって気持ちも体も落ち込んで
少しリカバリしながら
少し体動き始めたぐらいの時に
2:15:02
少しずつ入っていった感じですかねその練習
その練習っていうのはあれですか田中さん
例えば田中さんの場合だと
私も練習させてもらってますけど
坂が多いとか上りの練習をするとかじゃないですか
リオデルラゴンってそこまで別に
確か累積がある感じのレースではないさそうですね
中見てると
3000だね
そのくらいですよね
今回は何をメインに山田さんにアドバイスというか
一つは坂の上り強化でトレッドビルのメニューを入れておいたのと
あとどちらかというと時間をある程度
走る時間をやっぱり長く取るっていうのをメインにしたかな
すごいポイント練習があるわけではないんだけど
ただ時間を長く走るっていう練習メニューにしてたかな
フィルアンス的な感じってことですか
それが1週間ごとに徐々に増えていくっていうそんな感じ
どうでした山田さん練習やってみて
最初1週目2週目どんどん3週目ぐらいに一番つらいところが来るんですけど
毎週土日が死にそうでした
さりげない感じでギリギリのところまで持っていかれるんですよね
結構体の疲労度は日曜日が一番ピークでしたね
最初はこまめに体を痛めつけていく感じなんですけど
水曜日にトレッドビルの練習があって
僕トレッドビルすごい嫌いなので
トレッドビルの上りの練習をして
それで次の日リカバリランみたいに来て
土日で結構長い距離を
土曜日は少しスピード上げたりする練習をしつつ
日曜日で長時間体を動かすみたいなのをすると
やっぱり結構疲労度大で月曜日を迎えるって感じでしたね
それが少しずつボリュームが上がっていく感じだったので
怪我をするギリギリぐらいのところまで
多分行ってたような気がしますね
これって続けた方がいいですかねって
何回も田中さんに聞いちゃった気がするから
だからしかも仕事も重なってたから
結構長時間を取るのが結構辛くて
これどうしたら時間作れるかなという風にして
朝走るのか夜走るのかっていうので
結構自分の中でどうにか時間を作って
2:18:02
とりあえずこの4週間はこのプランを貫こうと思って
無理にでもやってましたね
それでその1ヶ月の月間何百キロぐらい行かれたんですか
400キロ越えてたと思います
400キロ越えるって僕の中であんまりなかったから
でもその400キロというよりは時間
確かに田中さんは10時間取ってほしいみたいなことが
走行距離というよりはいつの間にか
走行距離は増えてたけど
僕の中では30分走って30分こうやって
30分このペースで走って
こうやるみたいな感じのやり方をしてたから
時間とペースで全部区切ってたから
最終的に走行距離が20キロ超えたり30キロ超えたり
してたような気がするけど
30キロはあんまりなかった
でもどちらかというと時間で動いてたような気がします
だからその時間をどうやって捻出するかっていうのが
一番大変だったから
僕の仕事は土日も仕事があったんですから
平日だからって
その時間を捻出するのが大変でしたね
でも何とかやりました
素晴らしいですねそれは
それで臨んだリオデルラゴ
タイムも素晴らしいですね
26時間48分30秒
今回リオデルラゴって
日本人の方って言った方がいいんですかね
結構参加された方が多かったじゃないですか
ナミネムさんと
中田真也さんってあの真也さんですか
オフトレール
そうです真也さんです
ナミネムさん真也さんで3番目が山田さん
そうですねタイム的に言えば
日本人の順位だと
これやっぱりですか
田中さんに1ヶ月練習組んでもらったっていうのが
効いたところっていうのは大いに感じられましたか
もちろんそれは
全然
何て言うんですかね
田中さんからのアドバイスは
マイペースっていう言葉だったので
マイペースっていうのを一番念頭にして
マイペースっていうのは多分自分が
落ち込まないペースっていうのを多分
結局最後の練習してる時も
体の疲労度は高かったんですけど
心拍が全然上がらなくなったんですよね
最初の練習始めの頃には
ヒーヒー言ってたスピードだったのは
後半は体の疲労があるけど
心拍が別に上がらなくなってたから
多分体が少し順応したんだろうなっていうのが
2:21:03
あったので
なんかそのギリギリのところまで持ってかなければ
なんかペースを刻んでいけば
走れるんじゃないかなっていう
感じはあったんじゃないですかね
そこも痛くなかったし
確かにインスタの投稿を見ても
何かが痛いっていう話が書かれてないんですね
そうなんですよ
だから自分の中でどこか故障とかがあれば
別に僕も大人なので
そんな無理してやるタイプでもないので
なんかこう
疲労が溜まってきて
これは続けた方がいいのかなっていう時に
相談しても別に休んでくださいっていう感じだったので
なんか自分の体を見て
自分のペースで
最後の方は少し体を休ませって望んだので
どこも故障もなく
スタートラインに立った気がしますけど
このリオデルラゴって面白いのはあれなんですね
最初ちょっとループさせるんですね
そうですね
ちょっと待ってください
お手洗いに行ってもいいですか
どうぞどうぞ
こんないいですか
大丈夫です
お話ししててくださいすみません
いいえ
これリオデルラゴの
これ何ですかねサイトが
ウルトラランニング.コムっていうサイトを見てるんですけど
それ見てると
この20マイルぐらい一回ループさせるんですよね
そこからまた戻らせるっていう
形でいうとインフィニティのマークみたいな感じになるんですけど
そんな綺麗な無限マークになるんですけど
これスタートとゴール一緒なのこれ
一緒みたいですねこれ
そうなんだ
で一回遠くに行かせてまた戻るっていうレース展開なんですよね
でどうもこれ現地のサイトを
ディープル翻訳ツールで調べると
結構アメリカのレースのいいとこ取りみたいですね
アメリカンリバー
アメリカンリバーと
どっかのレースのいいとこ取りにしたレースですね
リオテルラグは書かれてましたけど
ウェスタンステージで通ったコースとかも通るんじゃないの
そうなんですよ
アメリカンリバー50とウェイトゥクール50Kを組み合わせて
100マイルコースにした
初心者からベテランまで楽しめる
様々な地形が含まれているコース
制限時間30はなかなか厳しいよね
厳しいですよね
2:24:03
あとは結構地図見る限りだと
港沿いとか結構市街地通ってるんですよね
そうなんだ
市街地は住宅地って言うんですかね
住宅地
結構上空の地図見てると
明らかに人が住んでいる地域の横を通らせてるんですよね
そうなんだ
あとは
失礼しました
いえいえいえ
失礼しました
すみません
これ山沢のリオデルラグのレース時代
ちょっと今田中さんとも話したんですけども
アメリカンリバー50とウェイトゥクール50Kを
2つ合わせたような100マイルコース
そうなんですね
僕その2つを名前しか聞いたことがないんですけど
ウルトラサインアップで見てる
本当ですか
あとなんか湖沿い通ったりとか結構市街地
住宅地の横とか通らせてますよね
そうなんですよ
オルサムっていう街が
メインの街になるんですけど
サクラメントから20分くらい来るまで
右の北東に行ったエリアなんですけど
湖があって
そこを上流に行くと
アメリカンリバーがあって
アメリカンリバーを辿りながら
上の方に向かって
真下に向かっていくようなレースなんですけど
最初そこに向かう前に
スタートポイントのビールズポイント
っていうところがあって
そこから21マイルのところに
南に一周するんですけど
ワンループさせる感じですね
そこのスタート地点に
一回戻ってくる形なんですけど
その21マイルの距離が
結構ほとんどロードなんですよ
またこれ
僕も苦手な
でもそこが一番
僕の中で嫌だった
時間なんですけど
一番最初の日に
皆さんご存知だと思うんですけど
国さん
フォルサムっていう町は国さんの地元なので
そうなんですね
国さんからいろいろレクチャーというか
いろいろ話を聞いて
最初の21マイルは
みんな飛ばしすぎるから
ゆっくり行かないとダメだよ
みたいな話を皆さんになさってたから
肝に銘じて
僕の中にはそういう情報を入れて
スタートに臨む前の
一番最初の記念撮影した感じの時に
2:27:01
骨が見えるぐらいにならなきゃ
リタイアしたらダメだよっていう
ゴールでみんな会いましょうみたいな
そういうプレッシャーを与えられて
自分の中でどれくらいで100マイル走れるかとか
制限時間は30時間だったけど
自分では走り切れるのかっていう不安がすごいあったので
表情的には笑ってたけど
中では複雑な気持ちいっぱいでしたけどね
僕以外の方たちは何だかんだ言って
100マイル何度も走られて
感想もなさってる人たちだったし
だから不安なのは僕一人だったのかな
っていうところですけど
最初はナミネムさんとか早いので
サーッと消えてしまうのは分かったし
その他の方たちも一瞬で前の方に進んでいってしまったので
これはすごいハイペースだったんですよ最初は
ゆっくり走った方がいいっていうお言葉をくれた
クリさんがクリさんだと思ったら
ものすごいスピードで走ってきて
全然話が違うじゃんみたいな話になって
聞いてないよね
聞いてないよっていう
もうそこから僕の中では
田中さんマイペースって言ってたなっていうのを
それを頭にマイペースマイペースっていうのを
自分の心拍が130いかないぐらいで
僕はキープして走ってました最初は特に
それでも自分が考えてたよりも
21マイル終わった時のペースが
1時間から1時間半早かったんですよね
高揚感とかいろいろなあれが出るもんなんですね
やっぱりレースになると
多分労働だったから心拍が上がらなかったんじゃないですかね
自分が思ってる以上に
だから自分の中で130とか135ぐらいでキープしてたけど
意外にスピードが出てたっていう
これはちょっとダメだと思って
少しそこでも抑えた気がするから
でもそこからは1回21マイル走って戻ってきてからは
トレイルに入っていくんですよね
あとはまたスタートゴール地点に戻るまでは結構
トレイルが多いっちゃ多いですよねまた
基本的にはそうですね
労働区間っていうのは結構その
20マイルで終わった後はカーディアックっていうところは
2:30:00
1区間3マイルぐらいずっと上りなんですよね駅は
そこが舗装道路ですね
500メーターぐらいしか上らないんですけど
そこはずっと舗装道路を上っていく
峠層みたいな感じですね
峠層みたいなところですね
カーディアックっていうところからオーバールックっていうところに
行くところなんですけど
3マイルぐらいですね
3マイルずっと上りでしたね
でもあれじゃないですかそこら辺やっぱりトレミ
使って傾斜つけてやってるとやっぱり
耐性っていうのがあったり
今回に関してはもう上りに関しては
なんか今まで以上に全く息も切れないし
全然問題はなかったですね
逆にペースが早くなっちゃいそうだったので
抑えようと思って
登りは極力歩いてました早く早歩き
パワーオフが意外に自分が早いんだなと思って
隣の人走ってるけど自分は歩いてたから
だからこっちの方がいいやん
結局省エネ
歩く時の足の使い方も違うし
これは登りの時は極力歩こうと思って
っていうのはこのコース自体は
平地がずっと走らされるんです
だから走り続けなきゃいけないから
登り時は歩いて足を休ませようと思って
特に僕は後半が全然わからなかったので
80マイルぐらいまで同じやり方をしようと思って
続けてましたね
田中さんはリオデルラゴンに関しては
コースとかそこら辺のサーフェスを調査されて
山田さんにメニューを
サーフェスは調査はしてなかったかな
ただ累積が3000だから
イメージ的には音丈みたいな
累積感があったんで
そんなに登りをメインにやらなくてもいいかなって思ったし
ただ週1回必ず登りは入れとけばいいかなって
そんな感じだったかな
長い時間ともかく動き続ければ
多分ゴールはできるなと思って
やっぱり繰り返しになるけど
長い時間動くトレーニングっていう
そこがメインになるかなと思ってたね
そこがうまく合致したというか
2:33:02
そうですね
レース展開的にも
ただ100マイルなので
他にも絶対問題が出てくるじゃないですか
でも途中でやっぱり
いろんな映像でも見てた
ノーハンズブリッジが出てきたり
ウェスタンステイトで使われるコース
ドリガーが何個か出てくるので
やっぱり心躍りますよね
ノーハンズブリッジ見えてきた
これなんだっていう
やっぱりビデオ撮っちゃいますもんね
一番最初のビルスポイントから
次のラトルスネイクバーに行く途中までも
ずっと川沿い走るんですけど
本当に綺麗なんですよ
右の川の景色
トレイルも走りやすいし
どうしても走っちゃうというか
走らされる
クニさんがビルスポイントから
ラトルスネイクの間に
ミートグラインダーっていう
アップダウンの激しい道が続く
そこが結構厳しいから
そこがポイントだよみたいな話を
させてたんで
行きはそこは辛くなかったんですけど
やっぱり確かに別にテクニカルじゃないんですけど
アップダウンが続いていく
だから何て言うんだろう
また下がってまた上がって
続いていくみたいな
ギザギザに進んでいく
結局一見見た感じ
全体的に3000mのルーティンがあるように
見えないんですけど
だから小刻みに結構
アップダウンさせられるんですよね
そこで結構体力を取られるというか
まさにミートグラインダー
ミートグラインダー
肉を削がれる
面白いですね
そこを越えて一気に登り上げて
オーバールックっていう
ちょっと眺めのいいところまで行って
そこからノーハンズまで下り下がっていって
ノーハンズブリッジを渡ると
そこから僕はこのレースの一番の
素晴らしかったんですけど
ウェスタンステイトトレイルと
アメリカンリバートレイル
あとオーバーアンレイクトレイルって
本当に綺麗なトレイルでしたよ
シングルトラックで
僕は夕方ぐらいですと
この辺に入っていったんですけど
石ひと通してないですからね
トレイルの中に
だから同じような道なんですけど
2:36:01
ずっと走れちゃうんですよ
綺麗すぎて
足元ちょっと薄暗くても
なんていうんですかね
トレイルがしっかり整備されてるから
ずっと走れちゃうんですよね
足にも優しいんですね
足は少し固め
砂漠地帯なのかな
でも固めなんですけど
アップダウンも
そんなにギザギザしてなくて
登りもそんなに急に登ったりしないから
ジェットコースターのアップダウン
アップダウンしてるような時って
あるじゃないですか
だからずっと走れちゃうんですよ
綺麗なトレイルなので
ぜひそこは皆さんで走っていただきたい
トレイルだと思います
そこで走りすぎたことによって
内臓を振ってしまったんだと思うんですけど
で
それが終わった
クールファイアーステーションぐらいで
気持ち悪くなっちゃってて
内臓がですね
ジェルとか何も食べる
受け付けない感じになってきちゃってて
これは問題だっていう感じにはなってたんですけど
そこのクールファイアーステーションから
ノーハンドブリッジまでが
マイルで言うと
68.99マイルぐらい
約70マイルぐらいのところで
やっぱり70マイルの
壁が
今まで僕内臓が弱って
気持ち悪くなったことはあんまなかった
そうですね見てた中でなかったですね
これはちょっときついと思って
足をたぶん歩きに変えると
たぶん内臓振れないから
揺られないから気持ち悪くならないんですけど
それを走るステップに変えると
一気に気持ち悪くなるんですよね
無理やりジェルは取るようにはしてたけど
前みたいに30分から45分とか
そういう感じでは取れなくなってて
違う食べ物を食べたいんだけど
口に入るものがあんまりなくて
結構これぐらいの時から
温度もグッと下がってきたので
どうしようどうしようって
頭の中で考えながら動いてましたね
ただ止まったら足が止まっちゃうから
座らないようにはしてましたね
あと立ち止まらないっていうか
遅くてもいいから歩くっていう風にはしてましたけど
やっぱりあれですよね
2:39:02
山田さん書いてますよ
寒くなって止まっちゃうと
やっぱり筋肉固まっちゃうから
そうなんですよね
田中さんやっぱりあれですかね
体揺れちゃって気持ち悪くなるって
よくあることですよね
トモさんとかもポッドキャストで言ってましたけど
そうだね
田中さんあんまりなくないですか
たまにあるよ
ありますか
あるよたまにね
あんまり聞いたことないですもんね
気持ち悪いって
そうだね
でも2019年のホルモサ台湾で
ホルモサの時はちょっと気持ち悪くなって
僕は生姜のキャンディー取って
一発で治ったんです
あれどうだったんですか
ナミネムさんとかもお勧めされてた
正常石でしたっけ
あれ聞きますよ
あれを本当にレースの中盤で持ってたら
全然走れてましたね
だからすごいある意味スピードはなかったですけど
レディペースでオーバーレイクトレイルぐらいまでは調子良くて
多分ゴール25時間以内で行けるんじゃないかなって
自分の中でペース的にもすごい配分的に悪くなかったので
オーバーレイク約60マイルぐらい
その時はなんか25時間切るぐらいで行けるんじゃないかな
っていうペースだったんですよ
全然足も終わってなかったし
別にペースも上げてないけど
ただ気持ち悪くなった瞬間から
やっぱり食べれなくなると足が動かなくなっちゃうっていう
普通に皆さんそうだと思うんですけど
やっぱ食べれないと走れないですね
それであれがどうにか途中会った人にタムズって言って
遺産を調整するやつをもらったんですけど
アメリカのちょっと醸剤みたいな
ラムネみたいなやつなんですけど
いくら食べても全然調子が戻らなくて
これは意味ないなと思いながらも
それはキャンディーみたいにして舐めてたんですけど
今思ったらやっぱりジンジャーキャンディーとか
ジンジャージュースがあったら
今回すごく思ったのはそういう
ジェルでいける場合はいいけれども
ジェルがダメだった時にどういうものが食べれるとか
引き出しをもっと自分の中で増やさないと
一個ダメだったら次ダメみたいになっちゃうと
もうそこで終わっちゃうなと思って
だからこれは食べれてこれはいけて
これも大丈夫だ
最悪これだったらいけるみたいな
2:42:00
でもそれも全て経験だと思うんですけど
そういう準備が必要だなって今回よりそう思いましたね
確かにそうですね
田中さんリオデルラゴンに関して何か山田さんに
リオデルラゴン
質問等というか
じゃああれだね
お便りもらった
そうですねお便りのやつを
お便りがあるんですか
そうなんですよお便りがあるんですよ今回
今回しんやさんから質問してくれっていうので
しんやさん
TwitterにDMで僕のところに来ました
しんやさんが聞きたいことは
ワサッチを2度DNFして挑んだ今回のリオデルラゴンの
レース前の心境ですね
レース前の心境と
家族とどういうやりとりがあったのかというのを知りたいらしいですね
山田さんがレース前に夕食した時にあまり口数が少なかったので
やっぱり不安だったのかなという感じだったらしいですね
それは間違いなく
やっぱり
結構DNF
時間切れでDNFを2回続けて100マイルでしてたじゃないですか
そこできっと多分
僕は100マイル完走できるのかなっていう
そこに完全に頭の中が行っちゃってたんですよね
それで来年待って
来年とか次回当たった時にワサッチを挑戦して3回目でゴールできるのか
それを待ってる間に
自分のモヤモヤした気持ちが晴れないの嫌だと思ったから
やっぱり挑戦したかったんですよ最後に
今年としてはね
だから完全に不安でいっぱいでしたよ
自分にはそういう走力があるのかとか
自分は100マイル耐えられるくらい精神的にレディなのかとか
そういうところがすごいあったので
ものすごく不安な状況だと思います
皆さんの中では多分一番僕が不安だったんじゃないですかね
一緒に参加した日本人の方たちの中では
家族とのことは
家族は1回目の時も
僕がゴールできなかった時も
僕の多分表情とか
対応を見ていればどんだけ落ち込んでるかっていうのは多分見れたと思うし
2回目の時はよりそれが強かっただろうから
それでもよく頑張ったとは言うけど
結局そんな頑張ったって言われたところで
2:45:00
自分が納得してないのは多分目に見えてただろうし
今回やるって言った時も最初はなんか
冗談で言ってるのかなと思ってたとは思うけど
もう最後止められないだろうなって思ってたんじゃないですか
行くっていう
でもギリギリまで家族にはこれ出るって言えなくて
なんかまたやるのっていう感じになっちゃうだろうし
でもちょっとこれをやらないと今年は終われないと思ったので
そういう気持ちでしたね
だからこれでできるかどうかも分かるし
あとはなんか
初めから最後までリタイアするつもりは全くなかったし
完走はできるっていう頭の中で走りながら
どれだけあとは挑戦できるかっていう感じでしたかね
田中さんにもこんなフェーバーをいただいて
トレーニングに挑んだし
そんな感じですかねレースに向かっては
しんやさん自体もACで1回DNFして
ハイスヌジンで挑んだらしいんで
その辺の心境っていうのは同じだったらしいですね
演習の時にね
2回続くと3回目があるんじゃないかと思っちゃうじゃないですか
そうですよね
でも自分は諦めないっていうのはある意味一つの
自分の強さでもあると思って生きてきてるので
だから絶対諦めないですよ
そこが諦めが悪かったのが今回は良かったのかなっていう
あとは本当にマイペースっていうのが
すごいシンプルで一番あれでしたけど
それを一番頭の中に
すごいいろんな人に抜かれたりスピードアップしてる人たちいっぱいいたけど
本当にマイペースで行こうっていうのを
ずっとキープしてたような気がしますね
だからここも今もう内臓がダメで動けないから
完全にストップしちゃわないで
マイペースで歩いていこうっていう風に
1区間だから最後の
オーバールックぐらいから
どれぐらいだろうな
80マイルからたぶん88ぐらいまでは
90ぐらいまで歩いたんじゃないかな
まあ早歩き
本当に気持ち悪かったですね
2:48:06
今回の目標は達成はできたかなって感じですもんね
そうですね
ただ次なる目標っていうか
最終的なところまでしっかり走るっていうのは
また新しく目標はできたけど
でも感想がまず一つの形でしたし
一番最初は26時間から27時間
最初は28時間ぐらいですかね
っていう話をしてたような気もするし
そう考えたら全然悪くなかったですね
山田さんにしたように
多分これからもっと経験を積めば
その辺がどんどん改善されてくるのかなと思いますね
まあでも今回はすごい
ちゃんと100マイル走る中での鉄則みたいなことをちゃんとやれて
失敗はしなかったのかなと思いますね
そうですね失敗はなかったですね
本当に自分のペースを乱さずに
エイドステーションでも座らずに
基本はもう本当の最後の方の時に
一瞬気持ちを整えたりする時に座ったりはしたけど
なんか暖かいところがあったら
そこには近づかないようにして
もうなんか用事ないんだったらすぐ出るみたいな
なんかもうそこが一番
もうそこで座っても別に何も復活しないから
もう良かったなって思います
そこで座っちゃったらみんな震えてるんですよね
これダメだと思って
だから別にトイレ行きたいならトイレ行って終わり
なんか食べれるんだったら食べて
座って何か入れ替えたりするんだったらそれをして
もう余分なことしないようにして
本当に極力エイドの時間をなくすようにして動いてましたね
田中さんエイド対エイドは短くみたいなアドバイスはされたんですか
いやしてないよ
話聞く限り田中さんに言われてること
そのまま山田さんに言われてるような気がしたんですけど今
本当ですか
いやなんか結局純粋に15個ぐらいエイドがあって
1個10分かけてたらすごい時間じゃないですか
そうですね
だからもう本当に純粋に水が必要だったら水だけ
なんかジェルが必要だったら減ってたらジェルだけ
みたいな感じにして動いてました
あれかちょっと田中イズムが知らない間に山田さんに入ってんじゃないですか
もうそこが一番なんていうんですか
総力が僕はすごい速いわけでもないから
なんか一番抜いていけるかなと思って
それ田中さんよくおっしゃってますよね
エイドワークが勝負だみたいな
2:51:01
そうだねだって一番練習しなくていいじゃん
そうですよね
そうですね間違いないです
用事がないのに痛がる人自分もそうだったし
なんかこう長いしちゃいがちだから
それは今回は絶対やめようと思って
とりあえずそこを一番肝に満ちてたかな
これ山田さん初めての100マイル
そうです
バックルを持った写真っていうのがインスタに上がって私見てるんですけど
どうでした初めてバックルをもらった時っていうのは
えっとですね嬉しかったですよやっぱり
最後のエイドから4マイルあるんですけど
グレイティンビーチっていうのかね
そうですグレイティンビーチ
グレイネイトビーチっていうんですか
そこのレイドも出るぐらいから歩けなくて
走れてなかったから3,4人ぐらいでグループになって歩いてたんですけど
なんか明け方から一気に温度が落ち込んだんですよね
変わってますね
多分湖の方からの放射冷却みたいな感じですけど
おそらく体幹でレイド近くぐらいまで落ちてたんじゃないかなって
寒くなってて自分の表も全部着てたんです
歩いてると寒いと思って
でもこれ体動かさないとダメだと思ったこと
初めてのゴールなのに
もうゴールはできると思ってたんですけど
歩いてゴールするのはやっぱりやだと思ったんです
なので気持ち悪いけど
とりあえず最後最悪吐けばいいし
走ろうと思ったんです
みんなゆっくり歩いてたから
僕は何もなく走り始めて
そこから走ってゴールしましたね
3マイルぐらい
そしたらあたり一面もやに包まれ始めた
太陽
朝日が上がってくるのともやが赤い
赤い太陽ともやが混ざって
なんだかよくわかんない
山津の川渡ってくるみたいな状態で
1個目の土手みたいなところを
500、600メートル走ったら
同じ土手がもう1回あるわけですよ
もやで何も見えてなくて
そこを走り合ったら
歓声が聞こえ始めて
もうあるのかなと思ったら
もう1回その土手があるわけです
ちょっと幻覚でも見てるんじゃないかなっていうときに
3個目の土手を走り切ったら
前に人が見えて
2:54:01
人がいると思って
少し下がったところに
もやがわっと晴れて
ゴールがバーンて
ゴールの
このサイン
デートですよね
デートが見えて
ゴールだと思って
もっと感動してゴールっていうよりは
最後はゴールだみたいな感じでしたけど
いつの間にかって感じだったんですよね
ゴールした瞬間に
ティーネイジャーの女の子たちが寄ってきて
バックロゴバーンて渡されて
感想賞のパーカーを渡されて
ちょっとぼーっとしてたら
レースディレクターの方が首に
メダルをかけてくださって
メダルをかけた時くらいに
ナミネムさんが
山田さんって笑って呼んでくださって
その時に撮ってもらった写真がそれ
これがインスタなんですね
写真でした
確かに一瞬
山田さん自身も終わったんだって感じなんですかね
歓喜に溢れてるわけではないですし
終わったんだって感じ
その時の写真なんですね
歓喜に溢れるつもりだったんですけど
やっぱり僕の中では
ワサッチをゴールしたいんですよね
最終的にボロボロ感が
77マイル走ったワサッチと全然違うんですよ
ワサッチはもっとボロボロなんですよ
100マイル走れてるんだけど
ボロボロ感が足りないっていうか
だからじゃないですかね
泣けてないですね
じゃあそれは来年にまで撮っておくぞと
まだまだ
そう思ってますけど
ナミネムさん以外の日本の方っていうのは
以前は面識ある方なんですか
クニさんとかシンヤさんもそうなんですけど
ツイッターで交流があるんですよ
初めてお会いするんだけど
みんな初めて会うような感じじゃなくて
しかもバンクーバーから参加されてる
ケリーさんに関しては本当初めてなんですけど
車に乗せていただいて
一緒のホテルを初日はシェアしていただいたりとか
泊まらせていただいたりとか
本当にお世話になって
でも初めてお会いするような感じじゃないんですよね
そういうのはやっぱり同じゴールを目指して
2:57:03
という感じのところで繋がってるものがあるのかなとは思ったんですけど
トモさんの言う人種トレイルランナーみたいなもんですよね
そんな感じですね
みんなここまでのプロセスは自分なりに
来てここまで来てるっていうのが
昨日走り始めましたっていう感じの人じゃ
誰もいないというか
一瞬にして打ち解けられる
そういう感覚はすごくありましたね
田中さん何か山田さんに質問等ございますか
大丈夫です
大丈夫ですか
はい
ちょっといつかこのリオデルラゴは出てみたいですね私も
クニさん次の日にクニさんの自宅
ゴールしたその日の夜にクニさんの家で
みんなでバーベキュー
やられてましたねはいはいはい
その時にいろいろ喋ってたけど
なんか皆さん来てくれてこの町の人は本当に
嬉しがってたよみたいな話をなさってくださって
日本の方たちが行っても
なんか泊まった施設もすごい綺麗で
睡眠もよく取れたし
初めて100マイル走る方たちにすごく優しいんじゃないですか
今回も140人ぐらい初めて100マイル
100マイル走る方たちがいたみたいですから
全員が多分ゴールできたかわからないですけど
日本からまた飛べして
走るのにもすごく
いいレースなんじゃないかなと僕は思いますけど
しかもウェスタースペースのコースも
そうですよね一部
一部走れたりとか
バックルは
ノーハンズブリッジですからね
そうなんですねこれ
そういった意味でも
すごいきついレースばっかり
100マイルを楽しんで完走したいっていうのは
すごく僕はいい
おすすめのレースだと思います
ありがとうございます
じゃあとりあえず八幡さんの来年の目標は
まずはウェスタースペースの出場クオリファーを今回
取ったんですよね
だから昨日一応ロッドリーに参加して
3:00:01
僕の数少ない投票数2個を
ロッドリーに参加したので
それがもし当たれば
もちろんウェスタースペースで走ってみたいと思いますけど
でもそれがあったとしても
八幡チームにはどっちにしても
応募しようとは思ってますね
やめられないですね
いやもう3回目で制覇するつもりですけど
ぜひその報告を待っております
すいません八幡さんの中を
そちらもう9時ですよね朝の
いや10時
ごめんなさい
すいません長い時間
こちらこそありがとうございました
最後に質問フィードバック等は
Twitterよりハッシュタグ
WeLoveTimerをつけて投稿お待ちしております
またPodcast1でドネーション募集しておりますので
こちらもションロードからお待ちしております
ということですいません3時間の長丁場となってしまいましたけど
長時間すいません
いやいやいや楽しかったです
ありがとうございます
こちらこそありがとうございました
じゃあ本日のゲストは山田明 aka ニューヨーカーさんでした
すいませんありがとうございました
ありがとうございました
皆さんもありがとうございました失礼いたします
失礼いたします