『パーフェクト・デイズ』の評価
おはようございます。
2025年1月15日水曜日、ささきるです。 水曜回帰ファイル始めていきたいと思います。
正月から胃腸風邪で寝込んで、治ったと思ったら風邪をひいて、都合10日ぐらいなんか具合が悪くて寝込んでました。
お酒も飲まず、というか飲めないですしね、運動もできず、ただね、ゴロンと横になって寝てて、
ちょっと体力が回復して元気だなっていう時には本読んだり、あとは映像作品まとめて見るのにいい時間だったんで、
映画とかドラマとかアニメとか、なんかそんなのを見て過ごしてました。 今日ぐらいから元気なんで
また撮ろうかなと思うんですけども、いやーなんか計らずも、てか久々に病気になりましたね。 病気になって
結果として寝正月っていうか、もうたっぷり体力回復するような寝正月になりました。
ニュースっていうほどのこともないんですけども、 今日その見聞きしたものの中で
覚えているものをちょっとお話しようかなと思います。 風邪ひいている間に最初に見たのがですね、
ビム・ベンダーズ監督のパーフェクト・デイズでした。主演役所工事というやつね。 これ私の友人の間でも
本当にひどい作品だっていうのと、本当に最高だっていうので、評価が分かれているっていうとこまでは、なんかSNSで観測をしてたんで、
これどういう映画なんだろうなというのが気になったんですけども、 僕はどちらかというと気に入らない側で、
なんか変なものを見せられたなっていう感じでしたね。 これ
すでに配信で見られるようになっていて、 去年話題にもなったんで、
見たことある人いるかもしれません。 主人公が、一人暮らししている主人公がね、
植物育てたり、カセットテープで音楽を愛聴していたり、 しながら仕事としては公衆トイレの清掃の
仕事をしているみたいな、 その繰り返しの日常を描くみたいな
やつなんですけども、 なんだろうね。
見方によってはというか、 孤独のグルメみたいな中年男性の
ルーティンというか独り言、まあ主人公は無口なんで独り言も言わないんですけども、 ほとんど言わないんですけど、
なんかそういうスモールグッドシングを めでるみたいな
ところで、いいなと、その風景、東京の風景を含めていいなと思う人もいるのかもしれないんですけども。
僕が何を気に入らなかったかというと、細かいことを除いて言うと、大元のとこで、
年取って自分の好みとしてはっきりしてきたんですけども、 政治的な問題を無視して、
責任ある大人が、ですよ、なんかその
いといしげさと的立場と言いましょうか。 スモールグッドシングに端的するみたいなものって
あんまり好まないっていうかね、 好まないなってか、まあ自分はそういうふうにはしないだろうし、
現実問題自分がどう行動できるかっていうこともあるけども、 何かこう作品を見て自分が受け取りたいものって
何かそういう、 勇気とか背中を押してくれる人とかね、存在とかそういうものを求めたくなるような
感じがあるんですけども。 もともとは、なんていうんだろうな、ハイクラスな出身で、なんか事情があって
足立区じゃないや、台東区のアパートで聞き取り暮らしして、トイレ清掃の仕事を10年近くやってるみたいな設定なんですけども、
なんかやむを得ずその仕事をしてるんじゃなくて、もともとは食いに困らない 海藻の人が何かの事情によって今そういう仕事をして、
コミュニケーション断絶させて植物育てたり、日々の仕事に没頭したり、食後に銭湯と居酒屋で食事するのが
好きです、みたいな、そういう人なんですけども。 もちろん本人がそれで本当に充足しているかどうかっていうと、そうでもないという描写も出てくるので、
話もそれが全部100%いいんだっていうメッセージにも受け取れないようにはギリギリになっているんですけども、
ただ映画の作りとしては、こんな風に暮らせたならってキャッチコピーが示しているように、なんかそういうスモール・グッド・シングを
社会の問題から目を背けて端撃していくっていうような メッセージになっていると思うので、やっぱりそれは気に入らないなっていう
気に入らないなと思いますね。
これ、僕がよく知っているもので例えると山下達郎的というかね、自分は職人で音楽だけやってればいいと、
世の中のことにあれこれ意見して、なんか間違ったことを言うこともあるだろうし、なんか闘争になることもある、
言い争いになることもあるみたいな。そういうものっていうのは自分のハピネスに関係ないんだっていう立場。これが山下達郎ですよね。
で、その山下達郎が知的オッチョコチョイだっていう風に、ちょっとまあ、バカにしてっていうよりかはもうちょっとマイルドな表現だな。
友人坂本隆一、坂本隆一すごく仲良いんで、仲良い人に対してだから言うんだと思うんですけども、坂本のことを知的オッチョコチョイだって言うんですよね。
なんかいろんな問題に堅いでして、時に間違ったことを言ったり、時に争いに反面したりして、
そういうことをやる必要がないんだっていうのを山下達郎の立場で。坂本隆一はあれだけ音楽家として体制しながらも、
もうデビューから一貫して、自分が何かそういう作品を作るっていうのは、何かその問題意識があって、それを表面化させて、
それをちゃんと伝える形にする、残す、そういうもののためにアート、自分はそのアートって音楽の制作が得意だからっていうか、
授かったものだから、そのためにこそその能力を使いたいっていうことを一貫して言ってるんですよね。
だからことは逆で、坂本隆一の場合、そういう政治参加みたいなものが、
音楽、アートの邪魔をしている価値を厳じているんじゃなくて、むしろそうやって社会に参加することの方法にアートを使ってるんですよね。
すごく抗対性な人物ですよね。同時代の友人同士で、でもアートと政治に関する態度が本当に真逆。
僕はやっぱり坂本隆一の方が大人として、いいなと思う態度なんで、それで言うとパーフェクトデイズっていうのは山下達郎的で
だっせえなって、なんか嫌だなって、はっきりと思うような作品でしたね。
まあもちろん、それも十分分かっておいて楽しいっていう人もいるのかもしれないですけど。
だからまあ後はね、細かい話は脱足になっちゃうと思うんですけども、
あれをね丁寧な暮らしだとみなす、丁寧な暮らし?
スモールグッドシンクをめでるみたいなね、植物育てて、トイレ掃除っていう労働にちゃんと毎日向き合ってみたいな、
すごく丁寧なっていう風に、描写されてる気もするし受け取る気もすると思うんですけども、
そういう暮らしをする人が、毎朝砂糖たっぷりの缶コーヒーを欠かさないとか、
3食全部外食であるとか、なんか不可解ですよね。
いや僕は不可解だな。料理から立ち上げるんじゃないですかね、生活って。
なんかそういう丁寧にやってる人が、居酒屋でプレーンハイボールと濃い味付けのおかずを毎晩食べるのを楽しみにし、
起きたら即ボスの缶コーヒーを飲むっていう。
これってただ単に言ってしまえばサントリーの、スポンサーサントリーの都合であるとか、
ビームベンダースが浅草駅の南蛮地下通用口っていうのかな、
すごいユニークな地下街がありますけど、あれが撮りたくてそうしたとか、
そういう都合によってそうなったのは分かるんですけども、そういう都合を覗いてみると、
なんとも変な人物ですよね。
気に入らない。気に入らないなと思いました。
『庭の話』の内容
もう一個、これは宇野恒博の庭の話っていう本ですね。
宇野恒博は、遅いインターネットで何年か前、7年ぐらい前かな、に出してる気がするんですけども、
今回のこの庭の話っていうのは、新たなる自分の主張、主な著作、メインとなるようなテーマを使った本だってことで、
その気合が入った、ご本人の宣伝としても気合の入った内容だったんですけども、
それを読みましたとか、今読んでいる途中です。
でですね、これはなかなか面白いです。
なかなかなんていう含めた言い方をしてしまいましたが、
僕基本的にはこの宇野恒博さんの物の見方と、とても近しい世の中の物の見方をしているので、
違和感なく、特に序盤かな、アジェンダセッティングの部分なんかは、現状認識の部分は本当にスルスルと、その通りだなと読めました。
すんごく簡単にどういう本かというと、庭の話っていうから、何の話書いてるのかな、ガーデニングの話かなって思っちゃうと思うんですけども、
基本的には批評とかね、現代社会の社会学っぽい話なんですけども、
つまり今がどういう世の中かというと、情報技術、特にソーシャルメディア、SNS、そこで交わされる承認欲求の相互充足、相互に満たしていく承認欲求、
そういうシステムとかルールとかカルチャーがすっかりと世を覆ってしまった世界、それが今ですよね。
それにおいて、より良く生きるためにはどんな方法があるのか、みたいなものを提案している本なんですね。
もちろん、こういう世の中って生き苦しいと思う人多くて、それの一つの現れが、木村ハンナさんの例か、テラスハウスで亡くなられた、
宇野杉博さんがリアリティショーがすごく好きなんで、その例に出してましたけれども、
そういうSNS、ソーシャルメディアの被害者となった事件を挙げることもできるし、
あとはトランプ大統領の誕生、ブレグジットみたいなものは、2016年から17年にかけてのことですけれども、
僕として言えば、兵庫県知事選の話とか、立場の高志氏の話とか、この8年とか、ずっと続いているような政治への深刻な影響みたいなものとかもありますよね。
そういうのを全部全部挙げていった時に、情報技術、ソーシャルメディアが世界を覆つくしたことに対する問題点を挙げる人が多くて、
それに対する処方箋とか提案っていっぱいあるわけですよね。
主なものとして、宇野恒博が批判するとか、それじゃダメなんじゃないのっていうのは、
共同体への回帰、古い社会、古い社会への回帰みたいなものっていうのは言う人多いですよね。
昔の人間関係に戻ろうとか、古い商店街の人間関係が人をSNSへの承認地獄から救うんだみたいな話もよくあるし。
僕なんか地域系の事業をやってることもあるから、そういうことを言う人ともよく会うし話すんですけども、
それって退化してるっていうのもそうだし、結局そういうローカルな人間関係による遅延・欠延みたいなところで、
その相互承認ゲームを代替していくっていうのは、なんかかえってその生きづらい人を生み出していくよね、と。
つまり、小魅力のある人が生きやすい世の中を言ってるだけであって、そうじゃない人よりも救える社会にそれがなってるから、
いや、決してそんなことないよねっていう話なんですけど、それは僕もすごく本当によく頷くところで、
これね、なかなか普段理解されないというか、どうしても地域プロジェクトみたいなことをやってると、
古い地域共同体、コミュニティみたいなものが素晴らしくて、
現代テクノロジーが問題をそれによって解決するんだって思っている一派だと思われることが多いというか、
言わなくてもそうでしょって思われること多いと思うんですけど、僕全然そんなこと思ってなくてですね。
それとこれとは話が別だろっていうふうに思ってるんですね。
で、宇野恒博もそういうふうに思ってるみたいな。
庭の重要性
なので、いちいち現状認識とか、それに対する提案に対する違和感とか、みたいなものってしっくりくるんで、
もうスルスルスルって、特に反対意見ございませんという感じで読んじゃうんですね。
読むんです。それがなんで庭の話かっていうと、
そういうプラットフォームですね、情報技術みたいなものに対抗する手段として、
そのプラットフォームっていうのは、人間だけがいて、人間だけが総合勝利のゲームをさせられてるって状況だとするならば、
それを解きほぐす方法っていうのは、人間以外の存在がいる場所としての庭。
庭があればいいんだって話なんです。だから庭の話なんですけども、その庭って何かっていうと、人間以外の存在がいる。
例えば本物の庭だったら動物がいるとか虫がいるとかってことですけども、
このプラットフォームに対抗するカギカッコつきの庭にも何かそういう人間以外の存在がいる必要があると。
そしてその人間以外の存在っていうのは、人間も引きつけるし、人間以外のものも引きつける。
これちょっとややこしいんですけど、例えとしては花をイメージしてほしいんですけども、
花っていうのは人間が見ても綺麗だなと思うし、虫を寄せつけて花粉を運んでいく。
虫も引きつける。人間も虫も両方引きつけるものとしての花。花が必要だと。庭には花が必要だと。
そうやって一つ一つ庭というものへの求められるものとか定義とかってだんだん本の途中でやっていくんですけども、
途中僕も本当にそう思うなと思ったのは、人間を孤独にすること、これが最も重要な庭の条件だってのが出てきて、
庭っていうとなんか人が集まってバーベキューやるみたいな、そういうふうにも使えますが、
そういう意味でのコミュニティ回帰のための庭を言ってるんじゃなくて、人間以外の存在が5つ、人間も寄せつけつつ、
しかしお互いに孤独で荒れることっていう、そういうことを庭の条件として、そういったもの、鍵かっこつきの庭っていうものが
処方箋になるんじゃないかみたいなことを一個一個話していくっていうやつなんですね。
インターネットの再評価
だからここで言ってることっていうのは、なんか孤独っていうといかにも誰ともコミュニケーションしないとか社会に接続されてないっていう感じ覚えると思うんですけども、
そうじゃなくて、孤独でありながら社会に接続することってできるはずなんですよね。
つまり、それこそ昔だったら遅延・欠延がなければ社会基盤作れないみたいな時代だったら、
それこそ孤独でありながら社会参加することって難しいんだと思うんですけども、今っていろんな情報技術がある、情報交換があると、
その前提でさらに課題解決した次の新しい在り方ないかって話をしてるんで、
孤独でありながら社会参加してる、社会に接続されてるって、そういうことこそできるんじゃないのっていう話なんですよ。
僕、すんごいそれね、昔から思ってる、とっても強く思ってることの一つなんで、その辺は本当に考え方がしっくりきたんですね。
で、宇野さんが書いてて、そうそうと膝を打ったのがあって、今となっては思い出せないかもしれませんが、
インターネットっていうのは人とつながるための技術ではなかったところから始まってるんですっていう、確かそんな風に書いてあるとこがあって、
これどういうことかっていうと、今インターネットっていうとスマホ手に入れて、LINEとか、Xとか、TikTokとか、
なんかそういうつながりを作って、つながりから何かコンテンツをジュージューするみたいなサービスをイメージすると思うんですけども、
この宇野さんが言ってるっていうのは90年代とか2000年代頭とかのまでのWeb2.0みたいな頃の話なわけですけど、
掲示板とかブログとかですよね、その人間のつながりなしで物事に直接出会う、これ言われてみれば当たり前ですよね、
何かネットサーフィンしてて何かホームページに出会うとか、検索して何かブログである主張に出会うっていうことっていうのは、
人に会うことを飛ばして、いきなり物事、事物に出会ってますよね。そういう技術とかメディアとしてインターネットってかつてあって、
で、そうあれるじゃんと。で、そういうものの方向性ってまだあるじゃんみたいなね、話をしてて、僕本当に強くそう思って、
僕ずっとSNSが好きじゃないって言い続けてるんですけど、それは何も最近の2010年代半ばからとかの状況を言ってるんじゃなくて、
もうすでにミクシーが出てきて、ミクシーをみんなが使うようになった最初の時からSNSって嫌いだったんですよ。
もう何か休み時間になったら通知を気にして携帯を見なきゃいけないみたいなもの、つまりそれって物事、事物に出会うことが気になってインターネットに接続してるんじゃなくて、
他の人が待ってるかもしれない、他の人が何か言ってるかもしれない、何かそういうノティフィケーションで自分の注意力を持っていかれることっていうのはすごく嫌だったんで、
もうずっとSNSは使いはするんですけど、プル型でしか使わない。自分が見に行く時にしか見ない。
プッシュ通知やなりなんなりはもう一切切るみたいな、何かそういう使い方をしてるのは人と出会いたくないからなんですよね。
人と繋がって、例えば社会と接続したいんだけど、人のそういうもの、人の繋がりによって自分の関心をトリガーされたくないからなんですけど、
うのさんもそういう感覚を持っていて、だから遅いインターネットっていう活動をしたり本を書いたり。
僕は小説の中でカームネット、静かなインターネットみたいな世界を想像して小説を書いたりとかしてる。
それって遅いインターネットと静かなインターネット、ちょっと似てるとこあるなと僕常々思ったんですけど、
すごい感覚が似てて、いやそうそうと思いながらね、思いました。
だからね、できると思うんですよね。孤独でありながら社会に接続されてる、社会に参加してる。
できると思うっていうか、今僕がやってることって大体そういうことなんですけど、
それをね、庭の話っていう例えでいろいろ展開してる面白い本でした。
水曜日書き放題っていっつも喋る準備せずに喋り始めるから、あんまりうまく喋れなかったなっていう後悔とともにあるんですが、
これはなんかまたどっかで誰かと喋りたいな、この…
まだ、そうね、庭の話も読み終わってないんで、そうだ、読み終わらなきゃ。
はい、というわけでまた次回お会いしましょう。それでは良い一日を。