この愛犬ご家族の死に対しての後悔の念って、もうどうしようもないような気持ちになりますよね。
私の話をさせていただけたらと思うんですが、私は両親が、どちらも義理の両親、両親として入ったので義理の両親だったんですね。
年代が私の同年代の人たちの、例えばおじいちゃん、おばあちゃんぐらいの年代の両親だったんですね。
だから同年代の子よりも一足早く介護であったりとか、両親の死に向き合うという機会をいただきました。
その時に先に母が亡くなったんですけど、父が最後は家で一人で死の方たちやおばたちの助けをいただきながらお家にいたいということで、お家で過ごしていたんですね。
最後、父が亡くなる日の前日まで、たまたま私もその時から海外行き来していたような生活だったんですけど、父と一緒に自宅で過ごしていたんですね。
でも次の日には北海道に仕事で行かなきゃいけないということで、北海道に行く前に父の部屋にテレビを少し置いてあげようかなと思って、
リビングもあったけど、リビングまで歩くのも大変になっていた時だったので、寝室にテレビを設置するために電気屋さんに予約をしたんですね。
明日の朝の9時にお願いしますと来てくださいと。
私は旅立ったわけなんですけど、北海道に朝早く。
そしたらその日のお昼前ぐらいに、おばから連絡が入って、父がほぼ天に行っていたというか、体から魂が離れている状態で病院に運ばれたということを聞いて、すぐ北海道から向かったわけなんですけど、
帰りの電車も飛行機も後悔というか悲しみでいっぱいですよね。
あと一日一緒にいれたらとか、すごくいろいろ考えたんですね。
でもなぜ父がその朝に救急車に乗れたかという話をおばから聞いたんです。
そしたらですね、おそらく父は朝は普通に起きて、例えばお手洗いとかに行ったと思うんですよね。
多分その途中で倒れてしまったっていう、玄関の前で倒れてたんです。
そしたらちょうどその9時に私が予約していた電気屋さんがちょうど来たんですね。
ピンポンを押しても出てこないから、ちょっと心配になって扉を失礼しますと開けてくださったらしいんです。
そしたら父が目の前に倒れていたので、すぐ救急車を呼んでくださったんです。
同時にですね、市の職員の方、いろいろ助けていただいてた方も、最近の父の様子がちょっと心配だったので、
ちょうどその9時にですね、いらしてくださって、
なんとおばもですね、おばは結構直感が鋭かったので、ちょっと胸騒ぎがしてって言って、
同じみんなタイミングで実家に来たんですよね。
だからもう父が倒れてすぐ救急車に乗ることができて、おばもすぐ付き添うことができたので、
結局は父は一人ではなかったんですけど、ただ本当にそのことにありがたさと感謝はもちろんあったんだけど、
結構その後も自分を責めるっていうかね、後悔のね、これはちょっとふと気が緩むとあるっていうことがあったので、
本当にお気持ちは共感できるなというふうに思うんですね。
ただですね、この父に対して私がそういうふうに思ったときに、ふと感じたことがあって、
父は自分のこの地球とのお別れの仕方をちゃんと選んできていて、
それを尊重することこそが父への敬意であり愛だなって思ったんですよ。
病院でずっと入院してたら、必ずお医者さんとか看護師さんが来てくださるから、
絶対一人にはならないんだけど、でも大好きなお家で誰にも気兼ねせず好きなように過ごしたい。
でもおそらくですね、これも私が受け取った感じたことなんですけど、
最後は一番ね、私が悲しむから娘にね、この姿を見せたくないっていう、
この命が離れる瞬間っていうのは娘には見せたくないっていう思いとか、
あとけれども、やっぱり私も心配するから、このおばたちがなるべくそばにいている状態で生きたいみたいな、
なんかね、父の思いが一つ一つ感じられてきた瞬間があったんですよね。
その時に、後悔するのは私の勝手なんだけど、でも何のために後悔して、自責してるかって考えたら、
父への愛情なんですよね。
じゃあ父への愛情、愛するってどういうことって、自分に問うた時に、
やっぱり父の全てを、選択や状態やその全てをですね、
自分の良い悪いで判断せずに、本当に自分でしっかり選んでね、決めておられた。
最後いろんな配慮を、心の配慮をしながら旅立ったっていう、この何か愛に気づいて、そこに感謝していく。
そしてこれまでの愛に対して感謝し、恩返しをするつもりで、残りの人生を生きていく。
これが私にできること、なすべきことだなというふうに感じました。
そこからはね、本当に父や母のことを思う時は、罪悪感とかは一切なくですね、
それで思うっていうことだと、なかなかつながれなかったんですけど、
でも本当にただただ感謝と愛だけで、2人思うとですね、
今まで以上にというか、すごく身近に、いつも思うとすぐポンとくるみたいな、この身近な感じになったんですね。
なので、この話もね、ちょっと何かしら、少し心が癒される、1ミリでも癒される話になったらいいかなと思ってさせていただきました。
ちょっと今日長くなって申し訳ないんだけど、なぜそうなのかっていう話ももうちょっとしたくて、
じゃないとね、なかなかそれは分かってるけどできないよねっていう話になるから。
で、この罪悪感の繋がりっていうので一つ、これも体験談を話した方が分かりやすいかなと思うんだけど、
さっき私養子だって言ったと思うんですけど、
産みの母もいるわけですね。
私の場合は、生まれてすぐそれぞれの道を行ったので、
産みの母の存在は最初はもちろん知らなくて、
ほんと大人になってから知ってみたいな状態だったんですね。
ただ、会ったことももちろんないし、誰かも分からないし、
コンタクトしたこともないんだけど、思われている感覚がすごく伝わってくるわけですよ。
もちろんそれは、産んでくださった母の私への愛っていう形もあるんだけど、
なんかそれよりも強くこの罪悪感みたいな、
いろんな原因や理由があって、
多分私自身も産みの母と育ての親は別で生きていくっていうのを決めてこの世に来ているから、
全然そこに対しての批判とか悲しみとかは本当にないんですけど、
でもそれでもやっぱり産みの母からしたら、
ちょっと手放してしまって本当に申し訳なかったっていうのもあるかもしれないし、
手放してしまうっていうことがなかなか受け入れまだられないっていう、
そりゃそうですよね、自分の子供だから。
そういう状態があるわけですね。
そういう罪悪感みたいなのがやっぱりすごい伝わってくるんですよね。
こういう感じで罪悪感っていうか、誰かが誰かを思うっていうエネルギーが
つながって伝わってくるんだっていうのをすごく感じたことがあったんですね。
ただ私としては、やっぱりその罪悪感っていうもので、
夜行会っていうもの、あとは心配とかそういうのだけでつながると、
自分自身も誰かに対してそういう思いでつながろうとすると、
その存在とうまくつながることができないみたいな感覚になったんですね。
共感するっていうのが私は結構得意というか、
そういう体質もあるかもしれないんですけど、
そういうつながるっていう、実際にいない存在とつながって
その人が何を感じているのかとか、その人を思うみたいなのが
結構自分の中で日常的にすごくあったので、
どちらかというとそういうのが得意で自然にできる方なんだけど、
でも自分自身が罪悪感を持っていたり、相手が何かしらの心配とかね、
そういう自分の思いを持っていると、
ラジオがジリジリジリってなるみたいに、うまくつながれないみたいな状態ができたんですね。
とした時に、これは本当に亡くなった両親に対してもそうだったので、
他のことに対してもそうだったので、
人が誰かを思う時に、愛で思う時に、そこに罪悪感とか後悔とか、
自分の思いが強すぎるとつながれないということがあるんだということが分かったんですね。
今回、愛犬のワンちゃんが地球上の生物ではなくて、