1. 酒の道〜日本酒の聖地から〜
  2. #19-3: 異例?!19歳で旧醸造試..
2025-10-15 21:09

#19-3: 異例?!19歳で旧醸造試験所へ研修に!|ゲスト五十嵐酒造株式会社 五十嵐正則さん

■内容

トークテーマ: 異例?!19歳で旧醸造試験所へ研修に!

コーナー:さきの今日のひとこと


ゲスト:五十嵐正則さん

埼玉県飯能市にある「五十嵐酒造株式会社」5代目蔵元代表取締役社長五十嵐正則さんです。

中学生の頃から「早く働きたい」と考えていたという五十嵐さんは、高校を卒業するとすぐに大阪の酒類販売専門学校へ。そこで学ばれたのち酒販店に勤め、さらに東京都北区にある旧醸造試験所で酒造りを徹底的に学ばれました。当時は未成年で、「飲まない」という誓約書を書いて勉強を始めたというエピソードも。

広島に移転した研究所でも修行を重ねられ、杜氏との出会いをきっかけに実家の蔵に戻られます。

2014年からは蔵を率いる立場に。伝統を守りつつも、新しい酒造りへの挑戦を続けていらっしゃいます。

――――――

Xの番組アカウントにて情報を随時更新中▼

https://x.com/sake_no_michi 



▼しぶさわくんFM公式サイト

⁠⁠https://shibusawakun.fm/⁠⁠

▼しぶさわくんFM公式X

⁠⁠https://x.com/shibusawakunfm⁠⁠

▼しぶさわくんFM公式Instagram

⁠⁠https://www.instagram.com/shibusawakunfm⁠⁠

▼X →@sake_no_michi

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/sake_no_michi⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

サマリー

五十嵐正則さんは、19歳で旧醸造試験所に研修生として参加した経緯やその経験について語ります。彼は醸造研究所で微生物学に基づく酒造りの研究を行い、日本酒業界の変遷と新しい技術に取り組んでいます。また、酒造りの現場の厳しさや酒の歴史、製造工程の変化についても触れています。

旧醸造試験所での修行
酒の道 日本酒の聖地から
こんにちは、パーソナリティの平田勝です。この番組は、お酒にまつわるゲストをお招きし、お酒の道を歩むストーリー、お酒のあれこれを深掘りしていく番組です。
アシスタントの佐紀さんと共にお送りします。佐紀です。よろしくお願いします。今回のゲストも、五十嵐酒造株式会社代表取締役社長
五十嵐正則さんにお越しいただいております。どうぞよろしくお願いいたします。よろしくお願いします。
前回は五十嵐さんの幼少期について、また専門学校時代についていろいろとお伺いしてまいりました。
今回はいよいよ旧醸造試験所での修行してきた時代についてお伺いしたいんですけれども、約30年くらい前ですか?
そうですね。その種類の専門学校に行かれて大阪まで。
3点のお仕事もして、その後試験場にいらしたということなんですよね。
その当時やった検証の内容とかちょっとお話しいただいてもよろしいですかね。
はい。 醸造研究所には第1研究所から第7研究所まであったんですね。
僕は第2研究所です。僕は工房の研究をしてました。第3研究所とかはワインとかですね。
一応味噌とかもあったんですよ。醸造だからね。味噌醤油はなかったんですか。基本はアルコール類ですね。
工房って言うと今ある教会まるまる工房みたいな南郷みたいなやつですか?
そうですね。
それを培養したりとか?
そうですね。僕はそこにですねちょっと工房にダメージを与えてですね。ちょっと変異をさせてどういう風なお酒にまた変わるかっていうのをやってたりとか。
結構大変なんですよ。
ダメージってどうやって与えるんですか?
これちょっと薬品を与えるとですね。
人間で言うとちょっと傷つけたりとかするとかさぶたになるじゃないですか。そんなような感じでね。ダメージ与えます。
ただ工房なんかも一緒でかさぶたも何日かね1ヶ月とか経つと治るじゃないですか。工房も治っちゃう場合もあるんですね。
あまりストレス与えすぎると今度死んじゃうし。
難しいですね。
そんなのやってましたよ。
なるほど。
そうやって突然変異を起こさせてより良い工房に変異したらラッキーみたいな。
そうですね。
運ですよね結構ね。
運です。
運ですよね。
現場見てないからどうやってやってるのかがもう本当に。
僕も超文系なんですけれども、日本収の話をすればするほどもう生物学、微生物学じゃないですか。
はい。
もう全然頭が追いつかなくてですね。あれ高校時代理系だったりとか?
一応理系で。
学校に行ってました。
理系には行ってお酒の売買の勉強をして、じゃあ作り方ってなったわけですね。
そうですね。
旧醸造試験場に研修に行かれた経緯とかってお伺いしてもいいですか?
はい。醸造試験場はですね、小さい仕込みは結構できるんですけど、大きい仕込みってなるとなかなかできないっていうので。
うちは埼玉県なんで、近かったから先生が来て、うちで大きい試験を、大きい研究というか実験をするわけなんですね。
もともと。
もともと。
お父さんの代から。
そうですね。
それでその先生が、もうじきここなくなっちゃうから、息子さんいるんなら最後の講習生として私が入れてあげるから、来ちゃいなよ。
へー。
言う来ちゃいなよみたいな感じで、僕急遽ですね、呼ばれて。
じゃあ大阪の専門校も辞められてみたいな?
そうなんです。酒屋さんの方で研修というか修行してたんですけど、急遽本当に1ヶ月くらい前にもう、お前こっち戻ってこいっていうことで。
ごめんなさいって言いながら。
そうですね。
大阪の酒屋さんで辞められて。
はい。それで戻ってきて、ここ行ってこいっていうことで行ったのがきっかけなんですね。
へー。
その頃から規模もどんどん縮小していって、十数年前に本格的に全部西条ですもんね。広島に移っちゃってますもんね。
そうですね。はい。
へー。
この旧醸造試験所の研修生の仕組みとかってどういった感じなんですか?内部全然私分からなくて。
はい。基本的には会社から派遣になるんですね。
中には講習生というのと研修生というのがあるんですけど。
講習生というのは本当にお酒の基礎から製造なんかも含めて教えていただくことがあるんですけど。
大体11月から入って2月ぐらいまでの期間だけです。
それが何ヶ月か前に。安倍さんとか多分そうじゃない?何ヶ月か前に。
そうですね。
3ヶ月だけいたって言って。
そうですね。はい。
その後に残りたい人は研修生と言って、その先生の下について助手をするわけですね。
僕はその残って工房専門にしてた先生の下について研究を一緒にお手伝いしてたということになります。
それ引っ張ってくれた先生ですよね?
はい。
なるほど。
引っ張ってくれた先生はね。
別なんだ。
別なんだ。
そうなんですね。
旧浄土試験所さんに入った時にまだ未成年だったっていうことで、1話目のプロフィールの方にも飲まないっていう制約書を書いたっていうのもありましたけど、
それって結構イレギュラーなんですか?
かなりイレギュラーだったっていう話ですね。
今までがもう本当に大卒の方メインみたいな、倉本の息子娘は無条件で入れるっていうのがあったんですね。
私も息子娘の方の条件で入ったんですけど、年齢に関してはね、特に今まで当たり前のように20歳以上のものが入ってくるっていうことだったんで、そういうのなかったらしいんですよね。
で、僕裏口入学みたいな感じで引っ張られて入ってきてるから、急遽ね、あれ、なんか19歳だぞこいつみたいな。
研修生の制度と挑戦
でもその講習中にはですね、20歳になるんですけど、まだ19じゃんっていうことでね。
2月生まれでしたっけ?
2月です。
仲良い岡山の上志社長、もう多分似たように研修生に残られてて、娘さんが3人いて、もう3女には匂いだけ、ひねた酒といい酒の匂いだけをしたらすごく大人になってから嗅覚良くなっちゃってみたいな。
そういうの重要なんですよね。
匂いで見分けられる人ってキギ酒コンテストってあるんですけど、だいたい優勝者はもう飲まないですから。
匂いだけで当てていく人の方が優勝する可能性高いですよ。
やっぱちょっと飲んじゃうともう舌がバカになっちゃうというか。
そうですよね。
ちょっと私も今から香り、鼻を鍛えようかなと思います。
無理らしいよ。
20歳過ぎちゃう。
小学生のうち、10代のうちに嗅がせてそれを脳に覚え込ませるっていう。
今からトレーニングして伸びることはあるんだけど、来年ぜひ200種類ぐらいお酒をテイスティングできる講習会あるから、ぜひ行ってみてください。
頑張ります。
さてその後に広島に移転をした研究所の方でも熱心に研究をされていたというふうにお伺いしたんですけれども、帰宅で研究されていたものとはまた違うものを研究されていたんですか?
そうですね。やっぱりこの引っ越しっていうのがあるんで、僕先発の引っ越し組として広島の方に行ってるんですね。
先発。
引っ越しは東京にちょっと残って、荷物は向こうに送って棚とかにちゃんときれいに並べろよっていうのを言われて行ってるんですけど、引っ越し業者の方が指示出すと全部やってくれたからね、僕暇で暇でずっと遊んでました。
ほんと第一弾の第一陣で行ったわけですね。向こうに新しい建物ができて。
段階的に20年くらいかけて引っ越していったってわけですね。
もうね、2年くらいですね。
一気に研究所の部分はいって、研修生の部分だけこっちに残したんだ。それで建物壊して公園にしてたんだ。
半々くらいですね。
ですよね。
全部なくなってから壊して公園になってますね。
どうですか?施設の機能的な違いとかってあったりはするんですか?
今まで機能的には確実に良い方向に行ってます。
やっぱり東京にみんな国の機関が集中しちゃってるっていうことも当時から言われててですね、たぶん1番目か2番目に飛ばされてるんですよ。
だから予算結構ついちゃってるんで、結構いいんですよ。
しかもバブル期の予算ですよね、たぶん。計画が。
計画バブル期って90年代真ん中だから計画はその10年くらい前からあるわけじゃないですか。
良い景気の中で計画してるから当然良いものが。
そう言ったことないんですよね、東広島。
山ん中なんですよ。
そうなんですか。
その東広島市っていうところがですね、広島大学もちょうど移転してきてるんですよ。
ジャイカっていうのも移転してきてるんですよ。
その頃誘致してたんですね、市長とかが。
いきなり街がですね、結構人数が増えちゃって、パンク状態になってます。街が。
あの頃は。
安い居酒屋さんとかもですね、予約しないと入れないんですよ。
そうなんですか。
そんぐらい。飲み屋さんとか飲食店がもう全然追いつかないぐらい。人口が一気に増えちゃったんで。
じゃあ逆にその街はちょっとバブルだったんですか。
バブルです。お通し1500円とか当たり前ですからね。
高くねえみたいな。
高いですね。
ちょっと1話目でも少し聞いたかもしれないんですけど、
いがらしさんが広島の方に拠点を移されて、その時って日本酒業界ってどんな感じだったんですか。
日本酒業界は結構まだ、今と比べればまだまだね、頑張ってた。
2000円ぐらい以上あったはずなので、今1100、1200って言ってるから。
4、50年前は、我々生まれた頃は4000円ぐらいあったって言われてて、
2000円ぐらいに2000円まで減って、今1000円だからもう半分半分になっちゃってる。
けどまあ2000円ぐらいあったからまだ元気ですよね。
味的にもですね、今って結構いろんなのはお酒とか味合いがね、
低いアルコールだったり酸が高かったりとかいろいろあるんですけど、
オーソドックスで綺麗なお酒が多かった。
YK35とか流行りだした頃。
そうですね。
やっぱ研究とかもそういうのをメインにしてたとかですか?
主流な日本酒について、酒質とか。
そうですね。お酒って結構波打っててですね。
甘口がいい時代もあれば辛口がいい時代があったりとか、
その時代に合わせてね、いろいろなお酒の作り方だったりしてると思うんで、
研究なんかはちょうど遺伝子なんか、僕そっちわかんないんですけど、
先生方は遺伝子なんかもね、ゲノム解析とかっていうのをやってたりとか。
そういうのが深く始まった頃ですよね。
はい、してるところですね。
その頃ぐらいまでは皆さん地方から季節労働者の方、
日本酒業界の変遷
当時軍団連れてきてもらって作ってた頃から、
だんだん急激にお酒が売れなく、日本酒が売れなくなり始めて、
だから倉本当時にならなきゃっていうところの
そのお蔵さんが増えた時代でもあるんじゃないかなと思っていまして、
努力しなきゃいけないとか。
ただ逆に、戦争に行った当時さんとかもまだいるような時代だから、
もう俺の背中を見て酒は作れみたいな人も多い時代ですもんね。
そうですね。出稼ぎの後継者さんってもういないくなるぞっていうのが分かってきてる時代で、
でもやっぱり俺の技術は簡単には教えないというかね。
見て覚えろみたいな感じの方が多かった印象があります。
だからそれをどうにか数値化して覚えようって
努力されたお蔵さんとかが今残っているんじゃないかなって個人的にはすごい思ってまして、
製造業大変ですもんね。
製造大変です。
本当に朝から晩までお休み、休む時間もないでしょうし、半年間だけだけどすごい重労働だし、
年の半分仕事ないしみたいな。
そうなんですよ。そこがやっぱり問題っていうか。
そこで果実酒作ったりとか皆さん工夫をなさっているところがたくさんあると思うんですけど。
この研修所での研修の後、家業の方に戻られたということですけれども、
現場に戻って入って感じた率直な感想ってどうでしたか?
そうですね。僕これ帰るつもりなかったんですよ。あと2年ぐらい。
そうなんですか。
急遽帰る。これも急遽なんですけど、帰ることになったっていうのが、
うちに新しい当事さんが入ってきて、その方が作った大銀庄が関東新越国税局の中で主席1番取ったっていうのもあって、
いい当事さん来たから、お前今度現場の方で直接習った方がいいっていうので、
これ急遽また戻されちゃうんですけど、そこからも実家の方に帰るんですけど、
その当時戻ってやったのはやっぱり朝早かったりとか、当然寒い冬の時期にやりますからね。
その中でやっぱりお米、だいたい30キロの袋に入ってるんですけど、それを何袋も持ったりとかですね。
重労働がすごいきつく、また水も冷たくて、米はむしろ暑いですし、本当に環境としては結構大変な現場だなっていうのはつくづく思っておりました。
ほぼ30年続けてはいらっしゃるんでしょうけど。
それがあるから我々おいしいお酒を楽しく飲ませていただいてると思ってるんですけれども。
昔はですね、やっぱり出稼ぎの方が来るっていうのは11月上旬から2月末ぐらいでまた戻って農家の支度をしてっていうのがずっと続いていくんですけど、
そうするとですね、やっぱり1年分を11月から2月で作らなくちゃいけないんで、ギュッとね濃縮してやるんで、
やっぱり全部に気を遣えないっていうかね、ちょっと雑になりやすいっていうのもあるんですね。
今の酒づくりっていうのは、うちで言うと10月から9月の中旬から始まるんですけど、始まってだいたい4月末ぐらいまで。
じゃあトータルで2、3ヶ月長くなってるわけですもんね。
昔は本当に2日で1本お酒を仕込んでいくっていうことをうちではやってたのが、今1週間のうち2本っていう感じにやってるんで、
1本1本に対するお酒に対する時間っていうのが手間暇もすごいかけやすくなったっていうのもお酒の変化に結構出ているのかなというふうに思います。
しかもその頃に給別変更もあったじゃないですか。
はい。
それまで特急酒、1級酒、2級酒から特定名所に変えたっていう、それもやっぱり帰った頃やっぱり大変でした。
慣れてなかったとか、商品の出荷だとか。
うちねちょっと特殊な蔵だったんで、もともとが普通酒とか三杯醸造とかね、ほとんど作ってない蔵だったんですよ。
本醸造、純米だけですか?
本醸、純米。
本醸以上ってことですね。
はい。本醸造がメインで作ってたんで、そんなには大変じゃなくてですね、皆さんがこう、残念ながらお酒の売上を落としてるとこ、うちは逆にちょっとずつ上がってきてるくらいになるんですね。
その前の時代ってのは常選以上か、農酒しか作ってなかったっていうイメージですもんね。
そうですね、はい。
お米がね、昔うち入ってこなかったんですよ。
みんな同じような安いお酒作ってても、うちでは数量が作れないし、当然価格でも負けちゃうしっていうのもあって。
高品質なもの?
ちょっと良いものっていうことで、昔から結構戦後はやってた感じですね。
だから、いがらしさんの酒ちょっと高いんだよねっていうのはね。
ずっと言われてる?
ずっと言われてます。
逆に今は逆にちょうどね、中間くらいになってるかと思います。
そうですね。
都心の商店とかでもね。
ありがとうございます。
いや、今回は旧醸造試験場や広島のできた醸造試験場の件、またその時代の90年代の激動の頃のいがらし主蔵さんについてお伺いしてきました。
酒造りとその変化
今度は今につながるいがらし主蔵さんの話を聞いていきたいと思います。
どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
さきのきょうのひとこと
このコーナーでは、さきが気になる酒に関するワーズをピックアップし、それについて簡単にトークするコーナーです。
きょうのひとことは?
旧醸造試験所
旧醸造試験所は通称赤レンガ酒造工場といいます。
北区滝野川にあり、ここでは日本酒や焼酎、ワインなどの研究がされていました。
酒造りに携わる方たちの研修施設としても使われていましたよ。
現在その機能は東広島市に移ってしまいましたが、2014年に国の文化財に指定された歴史的な建造物なんです。
詳しくは2024年4月に配信された酒の道第0話で語っていますので、ぜひそちらも聞いてみてくださいね。
さらにここでは特別ツアーが開催されたり、文化財ウィークでは無償で開放されていて、フルーティーな香りのカプロン酸エチルやサクサンイソアミレの香りを嗅ぐ体験などができます。
皆さんも北区にお越しの際はぜひ遊びに来てくださいね。
以上、さっきの今日の一言でした。
さて縁も竹縄ではございますが、本日もこの辺りをお開きといたしましょう。
それではさようなら、バイバーイ。
21:09

コメント

スクロール