「言語化」の落とし穴|ままならジオ(ままなラジオ)#7
「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。
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言語化、って言葉ってなんかモヤモヤしません?今日は「言語化の罠」のお話しです。ままならジオ。『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。言語化。言語化言語化言語化。いま、世の中に言語化っちゅう言葉が溢れてますよね。僕は、その流れがちょっとだけいやなんですよね。僕はビジネス分野の書籍編集者を10年以上やってきたんで、その分敏感になってもうてんのかもしれませんね。ちゅうんも、「言語化すればうまくいく」みたいなビジネス書がこの数年でめちゃくちゃ増えとるんです。もちろん言語化は大事です。とくにビジネスの現場において、自分の思ったことをスムーズに言葉にできる人が有利なんは間違いない。でも、言葉にするのに時間がかかる人もいれば、自分が話すより相手の話を聴くことのほうが得意な人もおるわけです。実際働いてたらわかるけど、ほんまに大事なのは相手の言っていることを聴く技術のほうなんですよね。ただ、これだけ言語化言語化って言われたらたくさんの人が「もっと早くもっと正確に言葉にしないと!」って焦ってるはずなんですよね。それって、『弱さ考』でも書いた「ビジネスの論理が暮らしにまで侵食してる」典型的な例やなって思います。ちょっと一回、遠回りして、言葉ってなんなんかについて考えてみたいと思います。僕たちは日々いろんなものを視覚や触覚や聴覚など、身体全体を通じて感じとるわけです。その中で言語に落とし込めるのはごくわずかな領域、ほんの一部にすぎへん。言語には、どこまでいっても限界がある。星の王子さまで、キツネが王子さまに向けて「かんじんなものは目に見えないんだよ」って伝える場面がありますよね。あれと一緒で、かんじんなものは言葉にできへんのです。完全にはね。キツネはこうも言います。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ」「かんじんなものって何か」っていうと、心が動くもののことなんですよね。もう一冊、僕が編集を担当させてもらった安宅和人さんの『シン・ニホン』という本にも似たことが書いてあるんですよね。補足すると、安宅さんはめちゃくちゃ頭がいい人で、たぶんロジカルシンキング日本選手権みたいなもんがあったら優勝してまうような人です。でも、一方でとても文学的な感性をもった、論理性と文学性を兼ね備えた稀有な人でもあります。『シン・ニホン』のP196にはこう書いてあるんですよね。知覚っていう言葉が出てくるんですけど、安宅さんは知覚こそ知性だって主張してるんで、知性って置き換えてくれていいです。さて。引用です。「知覚を鍛えるために必要なもう1つのマインドセットは、言葉、数値になっていない世界が大半であることを受け入れることだ」「世の中の大半は数字にも言葉にもなっていない」「自分では数値化・言語化できていない部分にほとんどの情報があると受け入れられない人は、知覚できることも限定的になってしまう」引用終わり。めちゃくちゃきっちり論理を積み上げる安宅さんの文章のなかに、ふとこういう文章がはいっとる。自分が編集してて初めてこの文章を読んだとき、そのギャップが印象深く残ってますね。星の王子さまにある目に見えへん「かんじんなもの」、あるいは安宅さんのいう「数字にも言葉にもなっていない」ことって、僕は一言でいうとやっぱり心が動くことやと思うんですよね。夕日や、海の波を眺める、綺麗やと思う、そのときの心の動きは言語化されてへんし、別に言語化してもええけど、せんままに味わってもええわけですよ。でも、あんまり言語化、言語化って言われると、忘れてまうでしょ? 世界って言語化できへんものにあふれとるっちゅうことを。そしたら安宅さんのいうようにめっちゃ「限定的」にしか世界を受け取れんくなるんですよね。言語化があまりに手放しでええものとされる世界の怖いところは2つで、一つはすぐに自分の考えを言葉にできへん人のことを、あるいは自分のことを、貶めてまうこと。もうひとつは、世界のほとんどを占める言語化できない部分に対する感受性を鈍くしてまうことです。最後に僕の実体験からひとつお話しします。僕は鬱になって、なにがいちばん辛かったかっていうととにかく1日が長いことやったんよ。意識はあるのに、脳が動かへんというかブレーキをかけてくるから何一つできることがない。一時間がとにかく長い。そんなときはぼーっとするしかないんですよ。脳がつかれとるから。それは何も鬱の人にかぎらんくて。ぼーっとするって大事やなってみんななんとなくはわかっとるんですよ。でも、現代人はこれができへん。なんでかっていうと、みんなぼーっとする、何もせんっていうと文字通り何も行為しない、完全なフリーズを思い描くんやけど、完全に脳に入ってくる情報をシャットアウトするなんてできへんのよ。何もしてへんつもりでも目が開いてるかぎり何かはみとるわけで。やから、せいぜいできるのは、ぼーっと何かを見る。ぼーっと音を聴く。ふだん言語が走り回って疲れきっとる脳を休めるためには、別の視覚や聴覚の使い方をすることでしか、脳の言葉を司る部分が静かに休まることはないんですよ。でも、何もせーへんっていうのは物理的に不可能やってことがみそで。結局、他の疲れへん行為をするしかない。それがぼーっとするってことなんやってことに気づくまで僕はだいぶ長いこと辛い思いをしました。ぼーっとするぞって力んでイライラしてしまったりね。言語化っていってもそれぞれのペースとやり方があるし、言語にあふれて疲れた脳を休ませるには、なんもせんのじゃなくて使っている知覚を切り替えるしかない。ぼーっとして、何を見て、何を感じて、それは言語化せずにただ味わうだけでもええ。ビジネスにおいて言語化が大事になってきている時代なんは間違い無いけど、それをプライベートにまで取り入れすぎんでええと、僕は思います。今日はそんなお話しでした。それでは、今日のままならジオはここまで。この番組は一緒に考える、をやりたいんで、質問・感想もフォームから募集してます。僕が主催している、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」オンライン読書プログラム「問い読」と一緒に、詳細を概要欄に置いておきます。井上慎平でした。ほんじゃあ、また。
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